凍り付いた時間

彩霞

凍り付いた時間

 リタの夫であるハンスは、登山家だ。


 いや、正しくは。三十年ほど前、雪山を登っていたところ遭難そうなんして帰らぬ人となったからである。


 リタとハンスは仲睦なかむつまじい夫婦だった。


 ハンスは、山のこととなると夢中になり、山の話ばかりするし、登山家という職業上家庭をかえりみないようなところもあったが、「将来エベレストに挑戦する!」と夢を語る姿はきらきらしていて、リタは夢を追い掛ける少年のような彼を愛していたのである。


 しかし結婚から二年も経たないうちに、「滑落かつらくによる遭難」という悲劇が起きてしまった。


 ハンスと共に山に登った仲間たちが救助要請をし、ヘリコプターによる捜索を行ったが見つからなかったという。そして捜索をこれ以上続けるには、遭難者の家族に同意を取らなくてはならないと、リタに国際電話がかかって来たのだ。


 ヘリの稼働時間は、一日数時間。その単価は高く、負担をするのは遭難者の家族である。そのため捜索を十日も続ければ、高級車を一台購入するほどの金額を、遭難者の家族は支払わなければならなくなるのだ。


 当時リタは二十三歳で、大金を負担できる能力はなかった。


 しかし彼女は悩まなかった。愛する夫のため背に腹はかえられないと、両親や周りの人に少しずつ助けてもらい、ほかにも借りられるところから借金をする覚悟をして夫を捜してもらったのである。


 だが、ハンスは戻ってこなかった。


 夫が遭難者となったことで、リタの生活はガラリと変わり、周囲からも可哀かわいそうな未亡人と見られるようになった。


 一人で寂しさを乗り越えなくてはいけない日々は、胸の中に冷えた氷が溜まっていくかのように辛く、困難な道に思えた。


 しかしリタはめげなかった。

 それをなげいていても明日はくるし、夫を捜すために借りたお金を返さなければならない。そのためリタは涙をぬぐい、忙しさで寂しさをまぎらわすように懸命に働いた。


 そんな彼女には一つだけ希望があった。


 ハンスが遭難した雪山というのは有名なので、毎年何人もの登山家が挑戦する。

 そのため後に山を登った者が、遭難者の残したものを見つけることがあるのだ。


 彼らは、遭難者が残したものを自分たちの山登りに使うこともあるが、ときにしかるべきところに届けられ、遺族の手に戻ることもある。


 リタは、せめて夫が最後まで身に着けていたものが、この手に帰ってくることを願っていた。それだけで十分だからと。そう思い続け、一人で精一杯生きていた。

 

 それから十年経ったときのことである。彼女の元に小包こづつみが届いた。


 リタはその中身が何か分かっていた。ひと月前に、彼の遺品が見つかったことが手紙で知らされていたからである。


 雪山での遭難は少なくはないので、持ち主不明になる場合もあるが、リュックに入っていたパスポートが身元判明に繋がったようだった。


 リタは、はやる気持ちを押さえながら小包みを開ける。すると、そこには透明なビニール袋に入れられたパスポートと、あちこち痛んだ登山用のリュックが入っていた。


 リタはそれを見て涙が出そうになった。

 特にリュックは、ハンスが十年前に「行って来る」と言った際に、背負っていたものだったからだ。


「こんなにぼろぼろになって……。寒かったよね。冷たかったよね……」


 雪山で一人で眠る夫のことを思い、リタは涙を流した。


 ひとしきり静かに泣くと、彼女はパスポートをそっとテーブルの上に置く。そして今度はリュックを恐る恐る箱から出し中を開いた。中身はほとんどない。


 付いていた手紙には、「入っていた食料品は衛生面の観点から捨てさせてもらい、それ以外の消耗品や装備品につきましては、今回発見した登山家たちが使わせてもらいました」と書いてあった。


 遭難者が残したものは、後の登山家に使われることがあることをリタは知っていたので、荷物の少なさに納得する。それでも彼が最期まで手にしていたものがこの手に帰ってきたことが奇跡的で、何より嬉しかった。


「あ、これは……」


 リタははっとして、リュックの底にあった黒い四角いものを手に取った。


 折りたたみ式の財布である。長らく氷の世界に閉じ込められていたからだろうか。随分と固くなっている。


 その財布は、彼が誕生日のときにプレゼントしたものだった。日常的に使って欲しかったため、彼が欲しいと言ったものを買って渡したのである。

 そのため、雪山への挑戦のときにまで持って行ってくれたことが、リタには嬉しかった。


 彼女は革の感じを確かめながら、そっと財布を開く。


 そこにはォトスリーブがあり、ハンスはいつもリタの写真を入れていた。「いつも君が写っている写真を見ると元気が出るから」と彼は言って、この財布を選んだ――はずだった。


「この人は……誰?」


 フォトスリーブに入っていたのは、リタの写真ではなく、リタの知らない女性とハンスがキスをしている写真だったのである。


 リタはしばらく、写真を見たまま凍り付いたように微動だにしなかった。

 だが、夫のしていたことがだんだんと理解できるようになってくると、彼女はダイニングで気味の悪い声を出して笑った。


 つまり、リタがハンスのことを愛している間、彼は別の女性のことを愛していたということだろう。そして登山の苦しいときに、この写真を見て自分をなぐさめていたに違いない。


 一方のリタは、夫の浮気に気づかず彼を捜索するために借金をし、返済をするために十年間必死になって働いてきた。それが分かってくると、何と自分は馬鹿なのだろうと思った。


 だが、もっと馬鹿なのは夫である。


 もし、ここにリタとの写真を入れていてくれたら、彼女は彼のことを一生愛し続けていたであろう。

 リタは死者に生者の愛が届くとは思っていないが、少なくとも生きている人々の間で語られるハンスは、「妻を裏切った男」とは言われずに済んだはずである。


 もう彼女の目には涙はなかった。


「こんなことをしているから、遭難そうなんになんてうのよ」


 リタは冷ややかな声で言い放つと、財布をリュックの中に入れてそっと包みの中に戻した。後に友人たちに語るためだ。……つまり、私が今あなたにしている話は、リタから聞いた話ということである。


 彼女はハンスの話をするときに、いつも冗談でこんなことを言う。


「彼が遭難してくれてよかった。お陰で私は自分の手を汚さずに済んだもの」


 リタがその後どうしたかって?


 彼女は自力で借金を完済。

 再婚をして、今は夫と二人の子どもの四人で幸せに暮らしている。


(完)



*フォトスリーブ……「写真入れ」のこと。

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