15 月の翼
薄い陽気のただよう縁側には、つばさ園の広い庭であそぶ子供たちの声が響いている。食後、大上さんが布団に戻ったのを確認したわたしたちは、月港施設に戻ろうとしたのだが、所長が三人組に連れていかれてしまったので、やむなく断念したのだった。
「これはミドリハコベですね! エサにできますよ」
「ウサギさん、はいどうぞ」
所長は今、園の隅に生えた葉っぱを口に突っ込まれ、虚無の目で咀嚼している。
すると、どこかで襖が開く音がした。目を向けると、五メートルほど向こうに、ぬっ、と大きな影が見えた。その顔がわたしを見、徐々に全体が現れる。白髪交じりの短髪に、鋭い目をした、壮健な大男だった。
「挨拶が遅れまして」
大男がそう言った。そして襖を閉じ、
「わざわざ来てくださって……愚息が、たいへんお世話になっとります」
そう言って深々と礼をした。
「いえ、こちらこそいつもお世話になっております」
わたしは立ち上がり、言った。一九〇センチはあるだろうか。その体躯なのか、鋭い目つきなのか、この距離でも、すこし恐怖を感じるほどだった。
「医者からは、ウイルス性ではないと云われたらしいんですが」
「はい」
「よそ様に
「いえ、お気になさらず。むしろ、子供たちの方が……」
「あいつらは問題なかでしょう。なった方がえんです。ばい菌飲ませるくらいの方が」
なかなか、スパルタな考え方だ。
「古い人間やけん。許してつかあさい」
「いえ。動物を飼うと免疫力がつく、ともいいますし」
「おお、そげんですねえ……ああ、忘れとりました。吉岡、いいます」
この人が、あの親方さんらしい。やはりそうなのか、と思いつつ、わたしは驚いた。こんな大柄なひとが、ウサギに囲まれ、黙々と作業しているところは、想像するとどこか面白い。
「先日入所しました、丹羽です」
「はい、聞いとります。期待の新人さんやと」
「いえ……お怪我の方は大丈夫ですか」
「もう問題なかとです。このとおりですたい」
吉岡さんは右足をあげてみせた。それは義足だった。
🌙
あいつ――エイジは、先の戦争で親失くして、ひとりでおったんです。それで、家業をやっとったもんですから、それ手伝うかわりに、うちに来いゆうて。
最初は、なんも喋らん、飯も食わん、生きとるのかどうなのかわからんような状態でした。ばってん、時経つにつれ、野生の虎か思うほど、手がかかるようになった。いま思えば、あれはわたしらを試しとったんですね。
それで、ようやっと人間らしくなったころ、ひとり増えて、ふたり増えて、気づいたら所帯が大きくなっとりました。
最初のうちは、家内も、手を叩いて喜びました。いや、気持ちは急くんですが、身体が追いつかなくなるとですよ。もう歳でしたから、お互い。
時勢もあって、仕事はぼちぼちあったけれども、結局、役所から睨まれた。そうなったら終わりです。信用商売ですから。いろんな背丈の子供を両手に抱えて、どうにもならなくなった。
そんな折やったとです、所長が来たのは。ちっこいウサギが、妙にええ声で、こう言うたんです。ぜんぶ賄ってやるから、うちで働かんかと。最初は、ああ、おれも頭が変になったか、と思いました。爆弾が降って、息子が逝ってしまった日から、これはぜんぶ夢なんじゃないかとは思っとったけれども、もう夢でええ、夢に任せようと、はじめて思いました。夢の中で、月のウサギに拾われたとですよ。この夢が醒めるまで、あのひとには頭が上がらんとです。何人かは巣立ちました。戻ってきて、働いとるもんもおります。いま、ちびどもは、町の皆に、育てられとります。あの子らは、あの子らなりに幸せやと思いますよ。泣く日もありましょうが。
「――あなたは、親御さんはお元気ですか」
「はい」
「そうですか。色々ありましょうが、できる範囲で、大事におしなさい。いつなにがあるか、わからん世の中ですから」
「はい」
「できる範囲で、ええとですよ」
吉岡さんは、くしゃっと笑った。その目が、どことなく大上さんに似ている気がした。
月はチーズでできている ペチカ @pechka
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