14 大上くんに花束を 三
その家はしっかりした造りの日本家屋だった。長い縁側に沿ってだだ広い和室が襖で幾つも区切られていて、その等間隔に並べられた間仕切りをすべて取り外せば、ひとつの大広間になるだろうことが想像できた。大上さんはそのうちのひとつの部屋で、小さな寝息をたてて眠っている。
その隣の敷地には、同じくらいの大きさの洋風建築が建っていた。大上さんが目を覚ますまでの間、三人の子供たちはわたしの手を引き、その家の広い庭を案内してくれた。大きな玄関の柱には「つばさ園」と書かれた看板があった。子供が描いたようなカラフルな文字だった。どこからか昼下がりに遊ぶ子供たちの声が聞こえてきた。所長はその間ずっと、ユメカちゃんの腕のなかで借りてきたウサギのようになっていた。
時刻は正午をすこし過ぎていた。わたしたちが戻ってくると、ちょうど大上さんが布団から起き上がったところだった。枕元に置いていたポカリスエットは飲みきっている。おでこからは冷えピタが外れかけていて、顔色はすこし戻っているように見えた。「なにか食べられますか」「自分でやるからいい」そう言ってふらふら立ち上がろうとする大上さんを制し、わたしは台所へ向かった(大上さんが倒れたとき、子供たちに場所を聞いていた)。鍋に水をいれて火にかけ、冷蔵庫からお豆腐と、レンジで温めてすぐ食べられるお粥、そして例のプラパックを取り出した。いずれも狐崎さんの差し入れだった。そのフタにはラベンダー柄のマスキングテープが貼られていて、マジックで「レンジOK」と書かれている(その横にキツネの顔の絵が描かれていた。それは狐崎さんのよく描くサインのようなものだった)。
そうこうしていると、大上さんが三人組を引き連れて台所へ入ってきた。所長はまだユメカちゃんに抱かれていて、ぬいぐるみのようになっている。
「まだ寝ていた方が……」
「いや、だいぶ楽になった。飯にしよう。お前らも食ってけ」
「やったあ!」
「ユキオ、声落とせ……頭に響く」
大上さんがそう言うと、三人は互いに口に指をあて「しー」と囁きあった。大上さんはふらふらと食器棚へ近づいた。病人を動かすわけにはいかない。
「座っていてください」
わたしがそう言うと、大上さんはすこし逡巡してから、
「すまん。炊飯器に白飯があったと思う。あと、冷蔵庫から適当に出してくれ」
そう言って大人しくテーブルについた。わたしは鍋にお豆腐と冷蔵庫に入っていたわかめを投入し、出汁入り味噌を溶かした。三人組も慣れているのか、それぞれ椅子を出したりお皿を並べたり黙々とお手伝いしている。わたしは冷蔵室から納豆と明太子を、野菜室からレタスを取り出した。
「わたしサラダ作る!」
ユメカちゃんは両手を挙げてさけんだ。落ちた所長が「ぎゅ」と奇妙な声をあげて着地した。
「僕、ドレッシングつくります!」
「ぼく、たまご焼きつくりたい」
そして即席ランチが完成した。席に着き、おのおの手を合わせ食べはじめた。わたしはサラダから手を付けた。それは存外に複雑な味だった。既製品のドレッシングにはない、特異な深みを感じる。
「このサラダ、おいしいね」
「えっへん! 僕の手にかかればこんなものですよ」
「このドレッシング、ユキオくん考案なんだよ~。ね、ユキオくん」
「コウアンってなに?」
酢と醤油とコショウを基本としたドレッシングからは、ほのかにオレンジピールのような香りがする。この深みはマーマレードだろうか。訊こうとすると三人の視線がわたしの右隣に集まっていて、わたしは横を向いた。大上さんが神妙な面持ちで目の前のプラパックを開けもせずに眺めていた。
「どうかしましたか」
「いや……」
わたしが訊いても、大上さんはどこかうわの空だ。
「エイジ兄、フタを開けてもご飯は逃げませんよ?」
「た、食べないの? ぼく食べてもいい?」
「ユキオくん?」
「ご、ごめん、ユメカちゃん」
三人がそう言うと、大上さんは静かにプラパックのフタに手をかけた。自然と大上さんの指に視線があつまり、その一瞬の沈黙へと蒸気が漏れだした。
「揚げ物……?」
大上さんが戦慄した表情で呟いた。プラパックの中には、すらりと伸びたきつね色の先にちょこんと付いた真っ赤な尻尾が並んでいた。
「エビフライだ〜!」
ユメカちゃんが叫んだ。ユキオくんはもはや涎をふく余裕すらない、という表情でエビフライへと熱い視線を注いでいる。
「お見舞いに揚げ物かあ。荒療治だなあ、狐崎くんも」
大上さんはじっ、と無表情な目をエビフライに固定していたが、ふとその口角を柔らかくゆるませ、こう言った。
「みんなで食べよう」
「で、でも」
「こんな量、食べきれないしな」
「やった! ぼく2本!」
「わたしも!」
「ずるいですよ、僕も!」
「おまえら変わり身早過ぎだろ」
「わあ、美味ひい〜!」
「ほんとだ、美味しいですね! ちょっと衣がベタっとしてるけど」
「……これ、天然モノじゃない?」
ユキオくんが毒が入っていると気付いたような表情でそう言った。その目はかぶりついたエビフライの断面に一直線に注がれている。
「それって、海にいるやつのこと?」
「何言ってるんですかユキオくん、今どきそんなの流通してませんよ」
「嘘じゃないよ。小さい頃、お父ちゃんに食べさせてもらったのと同じ味だもん」
「ほんと?」
「まさかあ……」
三人が話しているのを見ていると、わたしの椅子を何かがかりかりとひっかいた。
「ねえ丹羽くん。レタスも良いけど、私、揚げ物が食べたいな」
わたしはサラダからキュウリを数枚取って、所長に渡した。
「これで我慢してください」
「私、揚げ物食べられるよ。病み上がりでもあるまいし……分かった。分かったからそんな目で見ないで。キュウリおいしいな」
「お姉さん、ウサギさんどうかしたの?」
「ううん。この子、キュウリ好きなの」
「ちぇ、世知辛いの……」
「わたしもあげたい!」
「食べてる途中に立つな」
「ちぇ、せちがらいの……」
「なんですか、ユメカちゃん?」
「なんでもな~い」
「あとこのお豆腐、ぼくの好きなメーカーのやつだ」
キュウリを齧る所長の耳がぴくりと動いた。
「豆腐なんてどれも一緒じゃない?」
「全然ちがうよ!」
ユメカちゃんの言葉に、ユキオくんは急に立ち上がり語りはじめた。
「これは二週間くらい前からスーパーに並ぶようになったメーカーのやつで、醤油がまとわりつくようなまったりとした食感が最高なんだ。ほかにもそういうお豆腐はあるけど、それだけじゃない。とにかく大豆の香りが濃厚で、いまぼくは豆腐を食べてる、って感動で胸がいっぱいになる……それでいて、喉にのこる後味が全然しつこくない」
ユキオくんはまるで人が変わったかのように捲し立てた。
「ユキオくんすご〜い!」
「さすがつばさ園の食レポ担当! ユキオくんはご飯のこととなると、語彙力が一〇倍くらいになるんですよ! 隣保の皆さんからは『歩く美味しんぼ』って呼ばれてます」
「えへへ、照れるなあ」
「丹羽くん。あれうちの新商品」
そのときわたしは大上さんが静かにエビフライにかぶりつくのを横目で見ていた。箸の先にはすこしだけ短くなったエビフライがぶら下がっている。大上さんはゆっくりと咀嚼しながら、息だけの声で「ふまい」と言った。
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