第8話 命を試して
私が居なくなっても、気に留める人は居ない。
判ってたけど、それが実際にそうなのだと確かめるのも怖い。
今年になってからあんまり学校に行けてもなかったし。
最近はもう、誰とも話していなかった。話したくなかった。話せなかった。
クラスメイトや担任はいつ頃、気付くのかな。
私が永遠に居なくなった、って。
そして多分、皆、こう言う。
「ああ、やっぱりね」って。
どうせ、他人から見た私は、そんな人間だもの。
私は、私が私であろうとする私に、気付いてしまった。
正直に言うとね。ちょっとくらいは悲しんでほしいかな。
そうすれば悲しむふりを装って、憐憫に酔う人たちを、私は許さずに済むから。
――――――――――――――
「―—せのん。ちょっと付き合え」
「っ……」
ふたりは少し陽が傾き始めた頃ねぐらに戻った。
千音は、買ってきたばかり衣料品を(普段の癖で)丁寧に分類して片付ていたが、それもすぐに終わり、ぼうっとしてるところに楠が顔を出し、少し怯んで。
たった今、滲んでいたものを見られないように目を伏せた。
「……なに?」
「ちょっとした用事だ。すぐに終わる」
曖昧に答える楠に僅かに苛立ちつつ、千音は立ち上がった。
プレハブ小屋を出ると、楠は工事現場跡を取り囲む山林へと、迷いなく進んでいく。千音を待って立ち止まる気遣いはさらさら無らしい。優しいのか冷たいのか。未だに読めない楠の腹の内に、そして翻弄されっぱなしの自分が情けなくも、千音は駆け足で、楠が消えた木立の狭間へ飛び込んだ。
藪を掻き分け、暫く進んでいくと、行き先から鼻につく臭いがしてきた。
何処かで嗅いだことがあるのに、思い出せない――。
――思い出す必要はなかった。その匂いは獣臭。
楠は、千音を、鉄檻の罠に掛かった猪の元へと連れて来たのだ。
捕らわれてから既に数日が経っているのだろうか、衰弱した若く小さな猪は、人間ふたりが現れても微かに首をもたげただけだった。
「ねえ、これって」
「少し放置しすぎたか。でも、これで丁度いい」
軍手を嵌めながら鉄檻に歩み寄った楠は、扉を開き、ぐったりとしている猪の足を掴んで引きずり出すと、周囲の木立に結ばれていたロープを手繰り出し、その四脚や頭部を括って固定した。
「……せのん。きみがやるんだ」
「え」
楠はナイフを――母を殺したナイフ――の柄を千音に向け、受け取るように促した。説明不足も甚だしいが、千音の手で、この憐れな命を断てと告げている。
千音は動かなかった。動けなかったのではなく、動かなかった。
そして、ナイフを差し出したままの楠を、鼻で嗤った。
「何がしたいの。私にどうしてほしいの?私を怖がらせたいのかな。私は、動揺して、怯えて泣いて震えればいいの?」「それとも躊躇なく受け取って、首に
「こういうの、やめてくれないかな。こんな風に人を試すような真似。自らの手で命を奪うことで、命の尊さとか、痛みとか、儚さとか、大切さを教えたいのなら」
千音自身、驚くほど流暢に言葉が口を衝いて出た。
楠は、千音にとって初めて『何を言っても揺るがない対象』だった。
千音の弱みも怨念も、全てを把握しているつもりなら、こちらもそのつもりで応えてやる。
そして、そんな本音の呪詛で責めることに、仄暗い恍惚すらも感じていた。
「…………」
楠は黙って、それを受け止めていた。赤い血を通わせる者を、自らの意思で手を下すとき、人はその本性を露わにし、独立する。
自分の力で獲物を仕留め、喰らう。本来の生物としての通過儀礼。それが戦場を生き延びる者の絶対的な論理。
「―—ああそっか。ただ、私がどうするかで、私との今後の接し方を確かめたいだけなんだ。ずるいやり方だね」
千音の言う通り。御凪千音という人間の本質を少しでも知る為の、楠なりの哲学と方法論からなる儀式だった。
「……せのん。お前はやっぱり……賢いよ」
楠は言葉を選びながら呟く。
「それだけの頭があるなら、この先、全部忘れることが出来たとき、お前はきっと幸せに暮ら――」
ぱっ。
千音が言葉を遮るように、楠の手からナイフを奪い取った。
そして身を翻すと、迷うことなく、猪の胸部へナイフを差し込んだ。
猪の身体がびくりと痙攣し、四脚に繋がった木立ががさがさと揺れた。
千音は二度、三度、ナイフの角度を変えて刺し直した。心臓近くの大動脈を断ったのだ。
傷からどろりと、大量の血が溢れ出した。
「……っ」
楠を更に怯ませたのは、その次の千音の行動。
千音は既に絶命している猪の後脚を結んでいたロープを解くと、その両脚を持ち上げて、太腿に当たる部分を足でぎゅうぎゅうと踏み始めた。その度に、胸から溢れる鮮血が、呼吸のように吹き散る。血抜きを早めるための工夫だ。
楠は束の間、ぞっとする。
――何処でそんなものを覚えた?
「……Youtubeでやり方を覚えたの」
その答えは俗であっさりしたもの。
ただ、何故そのような動画で学ぶに至ったのかは、自明だった。
楠が『間に合わなければ』、千音は母親をこうやって手に掛けていたのだろう。
「……どうだ?気分は」
「……別に。大したことないかな」
「そうか。楽しいものじゃない、と思ってほしかった」
「こういうの、持続エクスポージャー療法って言うんだっけ。自分の心の傷と向き合うやつ」
「……そうと言えばそうだ。大失敗もいいとこだったが、だいたいは。……それも動画で覚えた?」
「うん」
「自分で自分を保つために、自分を定義付ける知識を得たがる。……カウンセラー泣かせだな」
「だね。私もそう思う」
やがて、儀式を終えて。
憐れな獲物を背に下げた男と、傍らで並び歩く少女は、夕暮れに染まり始めた森を戻り、ねぐらへ帰っていく。
「で、何か判った?私のこと」
「余計に判らなくなったよ」
――――――――――――――――
勿論、夕食は猪を使う。
プレハブ事務所の外に即席の解体場を設けた楠が、慣れた手つきで猪を捌いていく。時々は千音に手伝わせながら、しかしやはり初心者には難しいので、大半は見学させながら。
陽が沈んで辺りが暗くなっていく間、千音はキャンプチェアにちょこんと座り、楠が獲物の内臓を掻き出し、皮を剥ぎ、骨を断ち、肉を削いでいく姿を、ただ端然と眺めていた。
「ねえ」
「うん?」
「まさか、ここで、そうやって人を……」
「んな訳ねーだろ!!」
「冗談だよ」
「真顔で言うこっちゃない……」
千音がくすくすと笑い、楠は溜息をついて、そして真顔になった。
「そういう冗談はよせ」
「じゃあ、どんな冗談ならいい?」
「……どんな冗談も要らないよ」
「でも、何か面白いことを考えたりもするでしょ?楠さん、時々、笑ってくれるし」
「昔は、何でも笑い飛ばしてやれたんだけどな」
「昔って、傭兵やってた頃?」
「それよりもずっと前さ」
「ふうん……」
千音は、楠の話の続きを待った。そう言えば、楠の過去についてはまだ何も聞き出せていない。千音も楠の出自については興味がある。一体どんな生まれで、どんな暮らしをして、そして――千音の母親を殺しに現れたのか。やはり納得しておきたかった。
しかし、楠は、肉を捌く手を止め、手元の一点を見つめたまま、立ち尽くしていた。
「……楠さん?」
千音は目を丸くして。
「楠さん、楠さーん。おーい」
そして、その硬直が、且つての自分の、思いに
「……
思わず、名を呼んだ。
「―—ッ!!」
その途端、楠が激しく振り返る。その碧眼を大きく見開き、驚愕して――と、言うよりも、恐れているように――まるで千音の口から銃声が放たれたかのように、動揺していた。
「っと、しまった……」
その拍子に、木台の上から、捌いていた肉や包丁などがばらばらと落ち、我に返った楠が慌てて拾い集める。その
「ごめん、名前で呼ばれたくないんだね」
「……いや、いいよ。名で呼んでくれて良い」
「そっか。じゃあこれからはそうする」
「……エナ。面白い名前だね」
「千音こそ、洒落た名前だよ」
「私の父親がつけた名前なの。ミュージシャン崩れだったから音に関係する名前を付けたんだってさ。お母さんは反対だったみたいだけど……」
散らかった諸々を手早く片付け、再び『解体』に戻った楠の背中へ、千音は語り続けた。
「
「それでよく仲間からからかわれたよ。まあ……俺にもよく判らない。お袋はもう死んでいるし、確かめようもない」
「そうだったの。なんか……ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
「じゃあ、エナもお父さんのことは知らないんだ?」
「……知らない方が良かった、という感じかな」
そうする必要もないのに、楠はぶ厚い包丁を些か強く叩き付け、猪の骨を断った。
滲み出た憎悪の表れなのか、千音の追求を遮る態度なのか。
しかし千音は臆することもなく。その昏い陰が落ちた背中へ、薄ら笑った。
「……なんだ。エナも私と一緒じゃん。家庭環境に問題大アリ。シリアルキラーになるべくしてなったんだね」
「そう思うならそれでいいさ。今はな」
「今は?じゃあ……いつならいいの」
「俺がそうする必要があると思った時だ」
「……それならそれでいいよ。今はね」
楠の肩が、僅かに揺れた。
――――――――――――――――――――――――
買い込んできた野菜類を贅沢に使った牡丹鍋が出来上がるまでは、それなりの時間が必要だった。
程なくして、料理そのものは千音の方が得意だということが判った。
楠の味付けは、良く言っても大雑把。悪く言えば、雑。
具財を煮炊く間、ふたりはその事で軽い口論を交わした。
その様子は、まるで――。
少なくとも、母親を殺された娘と、その犯人の会話としては全く不適当なほどに、ただ、穏やかだった。
「―—そろそろ良さそうだね?もうお腹ぺこぺこ!」
辺りはすっかりと暗くなり、プレハブ小屋の脇に起こした火だけがぽつりと浮かぶ。
火にかけた鍋の様子をじっと観察していた千音が、うきうきした様子で牡丹をよそい。楠はずっと冷静に続いた。
出汁と合わせ味噌でじっくり煮込んだ肉は、見るからに柔らかそうだった。
「…………」
さっそく口へ放り込もうとした千音だったが。
煮立った鍋から昇る湯気の向こうで、俯いた楠が軽く眼を閉じ、何かをぶつぶつと唱えている様子が目に入った。
千音の偏った知識にはない、恐らくはキリスト教の祈りの所作だ。
「……いただきます」
千音は僅かに逡巡し、それから、静かに呟いた。
自らの手を下して奪った命は、とても柔らかくて、すごく美味しかった。
あはれ百夜は千の音、万ず星に彩られ Shiromfly @Shiromfly2
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