第7話 空が綺麗すぎるので

 目を開けた時、全てが夢だったと思いたかった。


 目覚めたあとも、千音せのんは暫くの間、目を閉じていた。


 目を開けて、まだ現実の続きを生きないといけないのが苦しかった。



 少しカビ臭いソファーが、微かに湿っている。

 眠っている間に、頬を伝った涙の跡。夢の残滓だと、気付いた。



―――――――――――――――


「そろそろ起きろよ。出かけるぞ」

「……」


 くすのきの声を何度か無視した時、千音は脇腹を棒らしきものでぐりぐりと突かれ、思わず身を捩り、ソファから転げ落ちそうになった。


「……っ!」

「ほらやっぱり起きてた」

「で……出かけるってどこへ」

「買い物だよ。もう少しまともな服がないと、色々と困るだろ。俺もお前も」

「それにしても、起こし方ってもんがあるんじゃないの……」

「とっくに起きてる癖にシカトしてるからだ」


 千音を突いた物差しをぽいっと放り投げてしれっと答えた楠は、もう片方の手に持っていた若草色のトレーナーを千音へ放り寄越した。千音は、頭に覆いかぶさったトレーナーを払い退け。「……!」私物のリュックを漁られたのだと気付く。


「嘘でしょ、それってっ……!」

「それって何だ。デリカシーがないってか。言っとくけどお前の私服、すげえダセえからな。貧乏臭すぎてむしろ目立つ」

「うう……。……え?」


 恥ずかしいやら怒りたいやら、赤面して唸っている千音をそのままに、楠は黒いジャケットを羽織り、外へ歩き去ろうとしていた。要するに、これから楠は千音の服を買いに行こうと言っているのだ。


「あなた何がしたいの」

「……さあな。お前のせいで俺もよく判らなくなってきた」


 

―――――――――――――――


 この上無い快晴。乾いた秋空の下に続いていく道。

 盆地に広がる田畑の中心を貫く県道を往く、一粒の灰影。

 

 結局、楠に言われるがまま連れ出された千音は助手席でぼうっと座って、流れていくガードレールを見つめていた。観光事業の一環だろうか、一部が緑色に塗られ、斜めから見ると松のイラストのように見えるようになっている――。


「―—その辺で朝飯でも食おうか」

「…………」

 千音は肯定とも否定ともとれる音で応えた。

「何がいい?カップ麺ばかりで飽きてるだろ」

「べつに、なんでも……あ。コンビニがあるよ。5km先だって」

「ええ?もうちょっと走ればもっとマシな店があるのに」

「大勢居る中で食べるの苦手なの」


 本当だった。他人の前で食事をすると焦りや嘔吐感が湧く、社会不安障害の一種、いわゆる会食恐怖症。

 知識の無い者にはなかなか伝わらないが、何かを口に含み、咀嚼し、呑み込むという一連の所作を他者に見られることが途轍もなく苦痛に感じてしまう。以前、なけなしの勇気を振り絞って友人たちに告白したときは、ウケ狙いの冗談だと決めつけられていた。


「そうか」

 ただ、楠は一言で納得した。



 やがてグレーの軽バンは、県道脇のコンビニに着く。平日の出勤時間を過ぎているにしては、それなりに多くの車が停まっていた。

 コンビニの正面に駐車した楠は、千音にも降りるように促すが。

「ううん、いい。お任せしちゃう」千音は首を振る。


 一人店内に入っていった楠を目で追っていると、すぐ隣に新しい車が停まり。

 千音は心臓が止まりそうな程にぎょっとした。

 県警のパトカーだった。


 怖気に身を竦め、思わず隠れようとする身体を必死に留めた。妙な動きをすれば絶対に怪しまれると思った。運転席の若い警官と目が合った。全身全霊で無表情を取り繕った。


 千音の動揺には気付かなかったようで、警官は助手席のもう一人の警官に語り掛け、何かのファイルを取り出して、何かを確かめている。恐らくは防犯パトロールの一環でこのコンビニに立ち寄ったのだろう――そうであってもらわなければ困る。


 千音はコンビニの店内へ目をやる。無表情でこちらを見ていた楠と目が合った。

  

 千音の胸に、ざわざわしたものが走る。

 今、この警官たちに助けを求めたらどうなるだろう。

 助けてほしいのか、隠れたいのか。全てを明らかにしたいのか。

 自分自身も罪に問われる覚悟は出来ていたつもりだった。

 

 しかし、千音は何もせずに居た。


 やがて警官ふたりはパトカーを降り、コンビニへと向かって。

 楠が、連れ立つ警官たちと堂々とすれ違った。


 運転席に戻った楠は何も言わなかった。

 朝食を詰めたビニール袋を半ば押し付けるように千音へ渡し。

 千音もそれをただ、受け取った。


―――――――――――――



「……私がさっきのお巡りさんに、助けて、って言ってたら、どうしてた?」

 流れていく景色。暫くの無言。先に口を開いていたのは千音。


「どうもこうもないよ。素直にお縄を頂戴してたさ」

 楠は平然と言って。

「……まさか、ナイフか何かで大立ち回りを演じるとでも?警官たちをはっ倒して、お前を置いて逃走して、大捕り物になるとか」

 その様を想像して、一人薄ら笑った。


「それもちょっと見てみたかったかな」

「映画みたいにはいかねえよ」

 お互いが冗談とも本気ともとれなかった。


「まあ、食べておけよ」

「うん……あっ」

 楠に促され、ビニール袋の中身を改めようとした千音が声を上げる。


 車は広い川を渡る鉄橋に差し掛かっていた。

 田畑が広がる平野を流れる川は、青々とした岸辺となだらかな土手に挟まれており、群れ茂ったススキや、秋草に彩られている。


「あそこで食べたい」

「でも――」

「この車、煙草臭いんだもん」

「ああ……」

 大したものではなくとも、狭苦しい車中よりは開放的な外で食べた方が良いだろう。あっさりと論負けした楠は、橋を渡り切ると左折し、車を土手道へと進めた。


 鉄橋から程々に離れたところに車を停めた二人は、川辺へ下る草地の中ほどに、朝食の場を決めた。


 千音はがさがさとビニール袋を漁る。

 サンドイッチ、サラダチキン、ヨーグルトに緑茶。それにバナナが数本。

 これといって変哲もない、朝食らしい朝食の数々だ。


 それでも、遠足かピクニックかという風情に、千音は少し心躍っていた。初めてという訳でもないが、こうやって隣同士で並んで同じものを食べるのは新鮮な気持ちだった。いつでも仲間外れだったし。


 黙々とサンドイッチをかじっていく間も、目の前の川は静かに流れていく。

 昇った太陽の光を受け、さざめく川面がときおり閃く。

 雲一つない空は、ただ青くある。地平を描く山々の緑は深く。秋の乾いた風は通り過ぎてススキを撫てて、広がる田畑へ音を運んでいく。


 いつの間にか千音はサンドイッチの欠片を手にしたまま、天を仰いでいた。

 

「どうした?」

「……空って、こんなに綺麗だったっけ」

 

 自分ひとりが何を思おうとも、世界は、社会は何も変わらずに続いていく。

 そのことが無性に寂しくもあり、少し嬉しくもあった。

 自分はこの世界とは無関係で、何の責任も、役割も果たさなくてもいいと思える。

 

「……人が遠くを見つめるときは」

 暫く横目で様子を伺っていた楠が、ぽつりと呟いた。

「遠くを見つめているようで、実は自分の心の奥を覗いている――誰の言葉だったかな」


「……よくわかんないや」

 千音は楠の言葉を巡らせるが、そう答えるしかなかった。

 そして楠が何も返さないので、サンドイッチの残りを片付けることにした。


 たぶん、もう、日常には戻れない。人の道を踏み外してしまった気がする。

 だけど、だからこそ、今まで気付けなかった空の広さと、風の優しさが判る。


 

―――――――――――


 朝食を終えたふたりは、市街地にほど近い、国道沿い衣料品チェーン店を訪れた。

 大きめの建物に複数の店舗がテナントとして入っている商業施設群の一角。しかし平日ということもあり人はまばらだ。


「それじゃあ……」

 施設の規模には不釣り合いなほどだだっ広い駐車場の片隅に車を停めた楠が、やおらポケットから輪ゴムで止めた札束を取り出したので、千音は目を丸くした。こんな風にお金を扱う人は、海外の映画でしか観たことない。それに、その束の厚みからして、少なくとも数十万円はあるだろう。それだけの金額を裸で持ち歩く感覚が理解できなかった。


「ほら。これで必要なものを。無駄使いするんじゃないぞ」

 そう言って、楠は札束から抜いて差し出したのは十万円だ。


「そ、そんなには要らないよ」

 思った以上の金額に何故か緊張してしまった千音は狼狽えて。

「いいから。服以外にもいろいろとあるだろ」

 楠は半ば強引に、千音の手を取って、金を握らせる。


「……ひとりで行かせてもいいの?」

 しかし、千音はそのまま動かなかった。

 楠はまだ、千音が『逃亡』する可能性を考えていないはずがない。

 だが、警戒しつつも、そうなってしまっても良いと考えている。

 楠自身、千音との距離感を量っているし、そして千音を試しているのだと思った。


「俺は俺で買うものがいくつもある。それに、ガキの下着選びに付き合ってられるか」

「が……っ」

 直球の子供扱いに、かっとなりかけた千音だったが。

「―—お金ありがとう、行ってきます!」

 千音自身は努めて理性的に礼を述べて、冷静に振る舞ったつもりで。


 ばたん!車のドアをかなり思いっ切り閉めていった。


「……面倒くせえやつ……」

 楠は、肩を怒らせてずんずん店舗へ向かっていく千音の後ろ姿を見送り、呆れたような、そして少し可笑しそうな顔をした。


―――――――――


 千音の服選びは堅実そのもの。

 鮮やかな薄青のワンピースだの、茶色のロングスカートだの、華やかなファッション類には目もくれず。安さと丈夫さのバランスを徹底して見抜く才覚があった。


 いくら可愛い服を買ったって、一週間以内には由香に汚される羽目になる。

 それに(由香の基準で)派手なものを買えば、由香の制裁が下る。

 千音にとって『いい服』とは、由香の介護で浴びる幾度とない汚濁と、洗濯に耐えうるものなのだ。


 『買い物』を終えて車に戻って、楠にそのことを話すと。曰く「それは軍服……野外戦闘服に要求されるものと一緒」だ、と少し笑っていた。


 千音は笑えなかった。言い得て妙な話だ。本物の戦争と比べるのはおこがましいかもしれないが、千音にとってこれまでの生活は、人としての尊厳を賭けた戦場そのものだったからだ。


「これ、お釣り」

「半分も使ってないじゃないか。まだもう少し――」

「うん。いい。洗濯すればいいだけだし」

「……それに、あとは」


 楠は、衣料品店の袋の間にモールに併設されているドラッグストアの袋を見て、口を噤んだ。

 必要なものはきっちり揃えているようだ。わざわざ言及するのは野暮だろう。


「それじゃ……行くか」

「うん」


 楠が呟き、千音が応えた。


 薄汚れたグレーの軽バンは、家族連れや老夫婦が行き交う駐車場を抜け、燦燦と秋の陽が注ぐ、果てのない道へ出て。

 どこまでも長閑で鮮やかな景色の中に潜む、一点の歪みに向けて、走っていく。

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