第6話 鎖の重さゆえの

 くすのきがねぐらとしている事務所に電気が通っていなかったのは、外に備え付けてある携帯式発電機の燃料が切れていたから。


 車から幾つかのポリタンクを降ろした楠が軽油を足し、起動すると、低く震えるエンジン音と共に、事務所内から弱々しい電灯の光が滲み出す。闇に閉ざされた山中の工事現場の真ん中で、唯一のともしびはまるで蛍の様に儚くとも、確かな拠り所だった。




「ほら、好きなのを選べ」

 千音にソファへ座る様に促した楠は、その目の前の長机へ、やたら大きいリュックをひっくり返して、これまたやたら大量のカップ麺を、どさどさとぶちまけた。


 その量とバリエーションに面食らった千音は、きょとんと楠を見上げる。

 楠は何も言わなかったが、千音の食事に関する好き嫌いまでは知らないのだ。何もかもお見通しの様に振る舞う楠に初めて優位に立ったような気がしたし、この期に及んでそんな細かいことまで気を遣う楠の、奇妙な紳士ぶりが可笑しくて、千音は笑いが込み上げてきた。


「じゃあ、これ――」


 千音はスタンダートなうどんを手に取るが、楠がそれをさっと奪い取る。

「あの……」

「いいから」


 千音は、楠がただ湯を注いで戻るまでを、呆然と眺めていた。誰かが自分の為だけに食事を用意してくれるのは、由香が病に伏せて以来のことで、懐かしいような、もどかしいような、不思議な感覚だった。たかがカップ麺ひとつなのに。


「いただきます」


 一日ぶりの温かい食事は、美味しかった。


 由香のペースに合わせて食べる癖がついている千音の、一口一口はだいぶゆっくりで。対面の椅子に座った楠は暫くその様子を伺っていたが、やがて口を開く。


「あと二、三日はここで過ごすことになる。何も無くて退屈するだろうけど、我慢してほしい。スマホは……」


 千音は首を振る。そんなもの、持ってくるはずがない。

 今までの自分は全部、あの部屋に置いてきたのだから。


「だよな。まあ、どうしてもって時は、俺のを貸すよ。例えば子猫がじゃれ合ってる動画とか見たくなったら」


 楠なりの冗談らしい。年頃の女子は皆そういうので喜ぶものだと思っているのか。

「……あと、私が通報して助けを呼びたい時とか?」

 千音は笑う代わりに、皮肉で返した。


「そうしたければ、そうすれば良いさ」

 楠の答えも、何処か投げやりで。そして本気だった。


「……ごめん、今のは冗談」

「……トイレは外。シャワールームはこの奥だ。ガスはある。食べ終わったら浴びて、着替えてからまた寝ろ」


 ぶっきらぼうな口調は、楠自身、千音に対しての距離感を計りかねているからでもある。遅かれ早かれ、千音とは離れ、彼女を日の当たる場所へと送り返さねばならない。それこそが楠の本来の目的だ。こうして会話を重ね、お互いに深入りすることが果たして正しいのか、それとも、不安定な状態の千音を守るために、そう追い込んでしまった楠の責任として寄り添うのか。


 千音は由香という鎖に縛られていたからこそ、千音としての自我を留めていた部分もある。その重さから解き放たれたことで揺らぎ、一度手を離してしまえばそこで、もう二度と戻ってこれなくなるのでは、と思わざるを得なかった。


「楠さんは、食べないの?」

「夜はな」

「太っちゃうから?」

「それもある」

「腹が減っては戦ができぬ、って言うじゃない」

「常に少しだけ飢えているぐらいが、丁度良いんだよ」


 質量のある応答を繰り返しながらの食事は久しぶりだった。

 やがて千音が「ごちそうさま」を言うなり、楠は「じゃあ、終わったら呼んでくれ」と言って立ち上がると、さっさと事務所の外へ出て行った。シャワーを浴びてこいということらしい。


 千音はもっと話したかったような。これ以上話さずにほっとしたような。


 簡素なプレハブ小屋の奥のスペースには、簡単な仕切りと床タイルで乱暴に設置されたシャワールームがあった。本来なら外付けのユニットを別途追加するはずのところを、無理矢理に収めている辺り、この事務所の元の主は相当な節約家ケチだったのだろう。


 その割に、部屋の中央にでんと置かれたソファは黒革張りの高級品。恐らくは社長が常に座っていたのかもしれない。備品や何やらは散々に出費を抑えようとする癖に、自分のモノだけは出費を惜しまない。典型的なワンマン社長だ。きっと部下への暴力も当たり前。そしてそんなブラックさに耐えかねた部下たちは次々と辞め、経営が行き詰ったことで倒産、この事務所からも夜逃げ同然で去った――。

 

 ―—というのは、千音の空想の話。

 

 千音には、由香との生活の間に、環境の中から人物の性格や感情を探ろうとする癖がついてしまっていた。何気ない置物一つでも、ネガティブな発想―—例えば、それが自分を傷付ける可能性を、常に考えてしまう。


 そんな思索を巡らせる間、千音は(他人から見れば)ただぼうっとしている様に見えるし、何を考えているか判らない』と言われがち。千音自身も何を考えているのかを説明できないし、例え説明したとしても『ある物を見た時、これで殴られたり投げられたりしたら痛そうだな。という感想が最初に浮かぶ』という様な感覚が理解されることは、少なくとも一度も無かった。


 千音は大きく息を吸い、いっときの雑念を払うと、まとわりつく余計な思考も、過去もまとめて流し落としてしまおうと決め、シャワールームへと向かった、 



――――――――――――――



 天辺へ昇ろうとする半月を見上げながら、事務所の入り口の石積みに腰掛け、煙草をふかしていた楠へ、やがて中から呼ぶ声がした。


「楠さん?終わったよ」

「ああ。使い方は判ったか?」

「馬鹿にしないでよね」


 頭からバスタオルを被った千音は臙脂色のジャージ姿。やや丈不足なのは、それが中学時代のものだからだろう。


「まさかとは思うけど、そんなもんしか持ってきてないとは言わないだろうな」

「え。ダメなの?」

「ダメってことはないが……」


 楠は何かを言いかけたが呑み込んで。

「まあ、それはいい。もう寝てしまってくれ。そのソファをそのまま使っていいから」

 

 とは言え、日没まで眠っていた千音がすぐ眠れるはずもないのだが。


「楠さんはどうするの」

 千音は事務所内を見回してみる。目につく限り、寝具として使えるのはいま千音が座る黒革のソファしかないように思えた。


「戦場帰りを舐めるなよ。兵士たるもの、岩だろうが沼だろうが、いつでもどこでもすぐ眠れるように鍛えてある」

「なあんだ。一緒に寝てくれると思ったのに」

「その冗談は笑えない」

「違うの?シャワーを浴びろっていうから、てっきり、私を抱くつもりなのかなって」

「そんなこと、するものか。そんなつもりはない。絶対に」

「人殺しのくせに、そんなこと気にするのって、変だね」


 千音の指摘は正しい。矛盾を突かれた楠は僅かに口籠り。


「……千音。きみは自暴自棄になってる。俺が言うのもおかしいが、君はもっと自分自身を大切にするべきだ」

「別にいいのに。私、処女でもないし」

「…………」

 

 千音は、眉をしかめた楠に、また優越感を得た。

 何もかも知った風に装い、気取ってすらも見える楠に新たな事実を伝えることは気分が良い。


 友人の中に溶け込むため、衣服や化粧品を買うため、小遣いなど無かった千音が資金を得るのに手っ取り早いのは、年上の男に身体を売ること。そもそも、その方法を唆したのも悪友たちではあるが、当時の千音にその是非を疑う分別も、余裕もなかった。


「私、色々してあげられるよ?色々教えてもらったから」

「千音。よせ」


 その経験は吐き気を催すほどに苦い思い出ではあるが、由香との生活に比べれば大した事ではないのだ。


 千音は深々とソファに仰け反ると、楠を煽るように脚を持ち上げ、ジャージのズボンに指を差し込んで、下着ごと、ゆっくりとずり降ろしていく。白い太腿が少しずつ露わになるように、そしてその奥に隠れるものを見せつけるように。


 ―—が、怒気に満ちた足音を立てて素早く歩み寄った楠の平手が、千音の頬を打った。

「二度と、そんな真似をするな!もしまたやったら、その時は……!」


 じわじわと広がる伴う熱に目を見開いた千音は、言い淀む楠に、尚も問い掛けた。

「その時はどうするの?やっぱり殺す?」


「その時は、悪いが、拘束させてもらう」

 対称的に、楠の声の温度は下がっていく。

「縛り上げて放置する。一日でお前は乾きを訴える。二日目からは飢えだ。人は飢餓には抗えない。どんなに屈強な男でも、最後は泣いて許しを乞う。俺はその為の方法を知っている」

 その口ぶりは落ち着いているが、確かな凄みがあった。実際にやった事があるのだろうし、いざとなれば本気で実行するという覚悟が伝わってきた。


「……判った」

 身仕舞して素直に引き下がったかに見える千音へ、楠は念押しする。


「そうやって試すのはやめろ。幼稚な駆け引きには付き合わない」


 何かしらの形で優位に立ちたいという千音の意図を、楠は見透かしていた。

 この特異な状況と関係で、千音が振るえる武器は、若い女ということだけなのだ。


 破滅的な振る舞いは先ず初めに、自らを壊していく。

 楠の大義は、千音が道を踏み外さないようにすることだったが、千音が既にもう暗闇の先で待つ崖へ歩み始めているということを改めて確信して。


 そしてそれは千音も充分に自覚していることだった。


「……やっぱり私、色んなことを間違ってる。色んなことをこれからもずっと間違っていく、そんな気がする」

「そんなことはないさ。人は誰だってそうだ。ただ、その受け止め方次第で未来はどうとでも変わる」

「…………」

「……せのん」


 楠は溜息をついて、また、千音の正面の椅子にゆっくりと座る。

「将来の夢を考えろ。今、ここで」

 口調は荒いが、その視線と物腰は優しい。


「……そんなの、急に言われたって思いつかないよ」

「何でも良いさ。好きなこと、嫌いなこと。未来という言葉で思い浮かぶこと。何でもいいから、とにかく話せ」


 小さく首を振った千音に向き合った楠は、いくらでも付き合う、と言わんとするように、姿勢を緩めた。


「……………………」

 だが、千音は黙ったまま。

 これまでの由香の介護に追われる中で鑑みたことはなかったことを、そう簡単にまとめあげることは出来なかった。

 過去も現在も未来も、今日までの千音の思索の中心には、常に由香との生活があった。それを突然取り払われて、自分のことだけを考える思考回路は、千音の中には全く培われてないのだ。


 ただ、その沈黙も答え。

「……まあ、そのうちに何か思いつくよ」 

 だいぶ長い時間、千音の様子を見守っていた楠が呟く。


「とりあえず今夜は、もう休め。俺はそこのデスクで作業をしているから」

「……うん」


 立ち上がった楠の言葉には有無を言わせない厳しさと優しさが交じっていたから。

 千音は、素直に従うことにした。

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