第5話 寄る辺なき夜の終わりに

 由香の『埋葬』を終えた『共犯』のふたりは再び車に乗り、深夜の県道の―—少なくとも千音にとっては全く行き先の見えない――暗闇の中を、また走り始めた。


 千音は深々と助手席に沈み、ヘッドライトが照らし出す道の先に何かを見出そうと、ずっと前を向き続けている。時刻は既に午前五時を回っていた。身体は疲れているし、眠気も酷い。眠ってしまえれば、今夜のことは全て悪夢だと思えるのかもしれないが、それは今までの現実の全ても否定することにもなる。


 御凪千音の意識は未だその狭間を漂い、時間が過ぎていくのを待っていた。


「……軽く眠っておけ。まだだいぶかかるから」

 あるいは由香と同様の、亡者じみた横顔をちらりと見たたちばなが呟く。


「いま、俺のねぐらに向かっている。とりあえず、きみに必要なのは、シャワーと着替え。そして暖かくして眠れる場所だ」

 そういう橘も、由香の埋葬で泥に汚れている。

 千音は横目だけを返して。

「なら、その辺のホテルにでも入れば」


 街が近づくにつれ、山沿いの県道の脇に点在する、紫とピンクのネオンで彩られた看板を掲げた、質素なホテルを幾つか通り過ぎていた。都会に比べて娯楽の少ない僻地においては数少ない、男女に必要なはけ口だ。


「駄目だ。どんな形でも足取りを残したくない。次の予定もある。午後までには戻らないと」

「……人殺しの?」

「違うよ。人に会うだけだ。君の行方不明が大事になったら困る。詳しくは言えないが、布石を打っておく必要がある」

「……」


 お前のせいで、と、咎められたような気がした千音は、黙った。

 自分の言動が、誰かへ迷惑をかけていると自覚したとき、こうして口を噤む癖がある。それ以上、その先には踏み込まないように。


 だが、橘はそんな千音の性格までも見透かしているように。

「きみが悪い訳じゃない。こんなことになっているのは俺のミス。本当はきみに気付かれることなく、終わるはずだった……今更だけど、巻き込んですまない」


 橘の低く通る、落ち着いた声は、心地よかった。


 千音は橘の身の上に興味が湧いた以上に、その声をもっと聞いていたい、という理由で、また問う。

「どうして、そんなに私のことに詳しいの?」

 それに、橘は、はぐらかさずに応えてくれるから。


「知り合いに名簿屋が何人か居る。そいつらが集めている資料を使って、俺自身が選んだ対象を更に詳しく調べる。そして、本当に後がない状況に追い詰められていると確信できたら……――」

「―—殺す。その人を縛っているひとを」

「……ああ」


 千音は何も言わなかったが、それが人としての道から外れた行為であることに、また葛藤する。どんな大義名分を掲げようとも、言い逃れのできない罪であるはずだと、今夜までずっと信じてきた。


「実際、きみは、一線を越えかけていた」

「……でも、他に方法があるはず。皆が、その方法を頑張って考えてるのに、何故、あなたは」

「それで解決するならそれでいい。だが、千音。きみが相談をした福祉団体はどうだ?とある宗教法人の下部組織。弱みと隙を見せたきみに群がって、救いを名目に勧誘を繰り返す毎日。そういう連中が、きみを助けられたか?」


 それは、千音の苦い経験の一つだった。ふとネットで広告を見かけた連絡先に電話して、簡単な経緯を話した結果、あからさまにその手の勧誘が増えた。その他にも、独善的な運営方針の実績作りに利用されかけたり、最も酷かったのは、担当していた窓口の男が、千音を助けるという口実で、性行為に結び付けようとしていたと判ったときだ。


「それに、そういう団体の一部には、利用者の情報を売り捌いている連中も混じっている。ただの小金稼ぎのためだけに。資産状況や年収、家族構成から生い立ち、境遇まで、あらゆる情報がカネに変えられる時代だ。まあ、おかげで俺も俺に必要な情報を容易く集められる訳だが」


「でも」


 以前の千音は『何か』を願っていた。世界や社会には曇りなき慈悲が溢れていて、いつかきっと自分や由香を受け止めて、認めてくれるのだと。


 しかし。


『不治の病に匙を投げて、あとは丸投げの医者』も

『なんだかんだ理由を付けて、額面通りの保険金を出し渋る保険屋』も

『上辺だけの同情で、当たり障りのことしか言えないカウンセラー』も

『弱みにつけこんで、信心と金を要求するエセ宗教』も

『成績が下がった生徒を切り捨てる教師』も

『事情を分かった上で、深入りしようとしない友達もどき』も


 全てから隔絶される方が、安全で、心が安らぐのだと気付いてからの千音は、世界に背を向けたのだ。それは世界に絶望した、などという大仰なものではない。

 ただ、無関心で、無関係でいる方が楽なだけに過ぎないのだ。



 千音の反論がない事を確かめた橘は、少し顔をしかめる。

「他に手段があれば、俺だってそちらを選びたい。だけど、俺にはこんな才能しかない」 


「才能……」殺人の?「殺し屋なの?」

「まさか」

 千音の口から飛び出た言葉を、橘は鼻で笑う。

「以前はPMCに所属していた」


「ぴーえむ……?」

「民間軍事会社だよ。とは言っても末端で、とっくに消滅しているけどね」

「つまり、傭兵?」

「ああ。中東からアフリカ、東欧まで色々な戦線に参加していた。辞めてなけりゃ今頃はウクライナだっただろう」

「それが、どうして日本でこんなことを」

「それは……」


 橘の言葉が詰まった。少なくとも千音には嘘をつかないと自身に定めたのだから、正直に話すつもりでは居るらしい。しかし。

「話すと長くなる。また今度な」


 何時の間にか、橘の横顔を見つめ、その声に聞き入っていた千音の小さな頭はうつらうつら揺らいで、眠気に抗うのも限界の様子で。それでもまだ、橘の声を聞こうと、また問いかけようとして。


 だが橘は軽く笑って。

「眠りたくないって言うなら、代わりに世界情勢の話でもしてやろうか。各国のイデオロギーと経済格差の相関関係の数式化を試みた学者の論文の脆弱性と矛盾点について、とか」

「すっごく、どうでもいい……」

「だろうな」


 そして今度は千音の方を向いて、初めて、少しだけ微笑んだ。

「おやすみ。千音」



 車は、隣県へ抜けるであろうバイパスに乗っていた。

 ひとつひとつ、規則的に通り過ぎていく街灯の、オレンジの流星が眠りへ誘う。

 空はうっすらと白み始め、彼方に見える山の稜線がくっきりと、浮かび始める。

 やがて昇る朝陽を確かることもなく、夜の終わりに、千音は眠りについた。



――――――――――――――――――――


 時折吹く風に、天辺からの木漏れ日が揺らぐ、山深くへ至る道。

 陽が高く昇った頃、車は、山間に広く開かれた草地に辿り着いた。


 もう何年も前に林業の拠点として開拓され、そして事業の頓挫により廃棄された跡。半端に造成されて砂利が敷かれた地面に、錆に覆われた朽ちかけの幾つかの重機と、その真ん中にぽつんと、工事の事務所として使われていたプレハブの小屋が建っている。


 砂利を踏みしめる音を立て、車はプレハブの脇に停まった。


「……さて」

 大きく息を吐いた橘は、黒いリュックを抱いたまま助手席のドアにもたれて眠る千音に声を掛けようとして、やはり思い留まった。

 いったん車を出て事務所の引き戸を開け、車に戻ると、助手席の千音の身体を軽く抱き抱え。そして奥の、何故か上等な、黒い革張りのソファーへと横たえて。あまり清潔とは言えない毛布を掛けて。それから


 ―—人に会うついでにねんりょうとしょくりょうをほきゅうしてくる。すぐにもどる。


 喋るのは得意でも書き文字は苦手。外国での生活が殆どだった橘の、精一杯の書置きを残して、事務所を出て行った。



―――――――――――――――――






 ――せのん……


 お母さんが、呼んでる。起きなくちゃ。行かなくちゃ。


 ―—せのん。せのんせのんせのん。せのん。せのん。せのん、せのん。


 ――せのん!!


「ッ!!」

 、自分の名を呼ぶ声で千音が跳ね起きたとき、既に周囲は暗くなっていた。束の間ぼうっとしていた千音は、薄暗い事務所を見渡して昨夜起きたことがやはり現実であったことを、改めて認識した。


 事務所は夜逃げをしたかのように荒れている。机や椅子が無造作に転がっていて、床には一面、埃に塗れた書類が散らばっている。片隅にはダンボール箱が山と積まれており、恐らくはこの事務所の長のものだろうか、一際立派なデスクの上だけがきっちりと整理され、書類やファイルが整然と並んでいた。


「……橘、さん?」

 窓から差し込むオレンジ色の光へ何度か声を掛けた千音は、自分のリュックに留めてあるメモに気付いて、確かめて、そして少し笑った。

「へたくそな字……」

 

 日没まではまだ多少かかるはず。だが、山間であるがゆえ、鮮やかな橙に染められた空や雲とは反比例して、山の姿影は異様に黒く、不気味に圧し掛かってきていた。


 やおら立ち上がった千音は事務所の入り口近くにある電灯のスイッチを点けようとしたが、反応はない。

「あれ……?」ブレーカー?

 何度か試したあと、外に出た千音は事務所の周りを一周するが、それらしき設備も見当たらず。そもそも電線が引き込まれている様子もない。

 そうこうしている内に辺りはすっかり闇に沈んでしまい、断念した千音は、事務所の入り口にちょこんと座ると、まだ辛うじて生きている空に、光を求めた。


 刻々と暗くなっていく廃墟でひとり。

「死ぬ時ってこんな感じなのかな」と独り言ち。


 やがて空に紫色が走り、それが瞬く間に空を塗りつぶした。

 それを待っていたかのように、秋の山の空気が、さあっ、と冷たくなる。


「…………」

 千音は、不意の恐怖に震え出した。


 たった一人、取り残された闇の中に座ったまま、遥か彼方で瞬く星に縋っている。

 それはまさに、今の自分が置かれた状況を表す比喩なのだと思った。


「死ぬって、やっぱり怖いんだ」

 母もこの様に逝ったのだろうか。

 せめて苦痛や恐怖が一瞬であったことを、星に祈った。


 千音はあらん限りの力で身体を抱き、畏れに曝されて、圧し潰されそうな心を、ひたすらに守る。


――――――――――――――


 程なくして、焦るようなエンジンの音が近付いて。

 そして闇を断つ光線が、座ったまま震える千音を照らす。


「千音!?すまない、すぐに帰れるはずだったんだが、思った以上に手間が掛かって――」


 車から飛び出した橘は、事務所の前で座り込む千音へ駆け寄った。


 顔を上げた千音は、ヘッドライトの逆光の翼を纏う橘を、まるで天使を観てしまったかのように、畏怖と恍惚が入り交じった表情で見上げて。


「…………」

 橘は僅かに躊躇してから、疑似的な死に圧倒されて悄然とする千音の小さな肩に、やさしく、手を置いた。母を殺した、まさにその手―—。


「……ッ!!」


 その感覚に、溢れかけていた千音の感情は一気に決壊する。

 その腕を頼りに、楠の身体にしがみ付き、泣き始めた。


 何もかもどうでも良かった。何もかもが判らなかった。

 ただ、深い海で溺れ、沈みかけた者が、何かへがむしゃらに縋るように。


 楠は狼狽えもせずに、その頭をそっと、撫ぜ返す。


 何もかも諦めていたと嘯いてきた千音は、剥き出しになった生への執着を嫌悪し、憎悪し、それでも、こうして誰かに全てを委ねてしまいたいという弱さからは逃れられなかった。


 たとえその相手の身が、血にまみれていたとしても。

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