第4話 とっくに間違っているから

「連れて行ってくれないなら」


 千音は、虚を突かれた様子の男が何かを応える前に、また口を開いた。

 自分でも面白いほどに、言葉が連なる。本当の本心を、感情の抑制もなく機械的に曝け出すことがこんなにも、楽だなんて。

 

「私、自首する。私がお母さんを殺したって。あなたのことなんて言わない。自分がやったって。あなたは私を救いに来たと言った。だから私が捕まって、刑務所に入るのもあなたにとっては駄目なことなんでしょ?」


「私のためを思っているのが本当なら、連れて行って。そして、お母さんを殺したあなたを、私が許せるかどうか確かめたい。証明してほしい。これでよかったんだ、って納得させてほしい」


「……どういう強迫だ」

 男は、フードの上から頭をばりばりと掻き、溜息をついて。

 そして、暫く由香の遺体を見下ろして。考え込んでいるようだった。


「で?俺についてきて具体的にどうするんだ?自分が何を言ってるか判ってるのか」

「そんなの判ってる訳ない。何にも判らないよ。何にも判らないから、答えを知りたい。自分で、答えを、出したい」


 千音の声が震え、男はそこで初めてフードを取り、千音の目を真正面からしっかりと見つめた。やや頬のこけた細い顔は多少彫りが深く、おざなりに整えただけのくしゃくしゃの黒髪。暗い室内では歳までは計り知れなかったが、暗闇の中でも鋭く光る、青い瞳が印象的な男だった。


「きみは……お前は、間違ってる」

「そうだね。もうとっくに、ずっと」


 可笑しそうに笑った千音を、男はじっと見つめた。



 背肩にかかる黒髪に艶はなく、痩せた顔には化粧っ気の欠片も――いや、かつてはあったのだろう。眉などには、彼女なりに努力したであろう痕跡が伺える。黒い瞳には生気もなく、瞼は今にも閉じて、そのまま開かないのではと思わせる、儚さと危うさがあった。

 

 千音のシャツには雑多な汚れがこびりついていた。夕食の席での騒ぎのあとであることを男は知らないにしても、何があったかを推し量るにかたくはない。そして、白く細い腕には、暗い部屋でもはっきりと判るほどの、夥しい量の生傷。由香の暴行から身を護った証。


 様々なことを『諦める』のに慣れ切ってしまった千音はもう、この先もずっと『諦めていく』。そう生きていくしかない人間に、既になってしまっているのだと、男は悟った。


「……判った」

 そして。

「しかし、そうするとお母さんの遺体をここに残しておけない。明日の昼にはまたヘルパーの食事介助が入ってるだろ。その時に彼女が発見されて、お前も行方不明、だと騒ぎに……いや、お前が疑われる」

「……」

「だから、お母さんは、一度、山に埋めさせてもらう。二人とも行方不明のままなら、発覚は遅くなる。その間に、きみがどうするのか……いいや、俺がどうすれば良いのかを考える時間がほしい」


「でも、約束する。いずれ捕まったら、俺はお母さんの眠る場所をきちんと自供する。そして、またちゃんと埋葬を――」

「うん、それでいいよ」

 男は男なりの理屈はあるようだが、千音にはさっぱり理解できない。ただ、男の言動に、嘘や欺瞞は露ほどもないと信じる事だけが、今の拠り所だ。


「……じゃあ、俺はお母さんを運ぶ用意をするから、きみは、その……出発の準備をしておいてくれ。着替えとか、日用品とか」

「手伝わなくていい?」

「いい。これは俺が俺の責任でやる。状況が変わった。殺害の痕跡も、今は消しておかなくちゃいけないから」

「……わかった。邪魔だよね」


 ぴしゃりと決言した男は、既に毛布を剥ぎ取り、器用に由香の遺体を反転させると、手際よく包み、巻き始めている。

 その丁寧さと速さは、介護には一日の長がある千音も舌を巻く程で、それは死体の処理ではなく、介護の経験によるものだ、と思える仕業だった。


 由香の『寝顔』がシーツに巻かれ、隠れたのを見届けて、千音は自室へ向かう。


 そして、クローゼットの奥から、何の可愛げもない黒いリュックを取り出しただけで、長らく過ごしてきた自室に何の感傷もなく、去った。


「準備できたよ」

「!?」

 異様に早く戻ってきた千音に、流石の男も仰天したかに見え。


 しかし、千音が肩掛けする、中身を既に詰めてあったのであろう黒いリュックを一瞥して、察したようだった。


「……表で待っててくれ。こちらもすぐ済むから」

「うん」



―――――――――――――――

 

 元々が華奢な由香の、病魔でやせ衰えた身体とは言え、人ひとりを軽々と肩に担いだ男は、アパートの裏手に停めてあった、薄汚れた暗めのグレーの軽バンの後部へ、シーツと毛布でくるんだ由香の遺体を寝かせた。


「改めて聞いておく。本当にこれで良いのか?」

 一息をついた男は、千音の覚悟と決意を確かめるが。


 答えの代わりに、千音は無言で、助手席へと乗り込んで行った。


「……聞くだけ野暮か」

 男は薄ら笑い、自身も軽バンに乗り込んで。 


 深夜の街外れ、或いは世界の果て。

 秋の夜に鳴く虫のささやきを掻き消す、軽いエンジン音が唸って。

 ふたりの、旅とも逃避行とも言えない、奇妙な道連れは始まった。

 


――――――――――――――



「……煙草、良いか?」


 出発してから小一時間、無言で運転を続けていた男が出し抜けに言って、千音は笑ってしまった。人ひとりを殺した者にしては、スケールの小さな気遣いだ。


「そんなこと気にするの?」

「一応だよ」

「どうぞ」


 最も深い夜の県道で、時折すれ違う対向車のヘッドライトを浴びる男の横顔は、やはり青い瞳が一際目立っている。それまでは背後で眠る由香との思い出に埋没していた千音だったが、今が、男に語り掛ける機会なのだ思った。


「ねえ、名前。なんていうの」

「……楠、英那(くすのき エナ)。……妙な名前だって言いたいんだろ。歳は二十七。親父はイギリス、母は日本人のハーフ。この目は親父譲りだ」


 視線が、自らの碧眼に向いているのは判っていた、と言わんばかりに、楠は千音の問いに先んじる。その口調に僅かの苛立ちと嫌悪を感じた千音は、少し気後れするも、しかし肝心の疑問を、問う。


「なんで、私のお母さんを殺しに来たの」

「言っただろ。御凪千音。俺はきみのために来た」

「じゃあ、なんで私なの?」

「別に、きみだけじゃない。家族のために身を捧げて追い詰められていく人を、救いたいってだけさ」

「それって、すごく、傲慢に聞こえる」

「そう思ってもらって構わない。正しいとも思っていない。いずれ捕まって、俺の役割は終わる」

「何故、そこまでしないといけないの」

「きみなら判っているはずだ。人は誰しも、身近じゃない問題には向き合わない。助けを求めない人間には振り向かない。御凪千音、きみは本当に心の底から、誰かへ救いを求めたことはない。それは母親を加害者に、悪者にしたくないから」


 千音は、また、背後に横たわる母親の遺体を、横目でちらりと振り返る。

「そして」楠の言葉に、何かが灯った。


「いずれ俺の行いは露見する。その時、社会はきっと動き出す。血が流れなければ、この国は動かない。それはこの国の長所でもあるが、最大の短所でもある」

「……そんなの……そんなの。……」

「テロリスト、だろ?」

 言い淀む千音に、楠は問い返した。


「…………」沈黙が答え。

「何も違わないさ。俺は許されないことをしている」


 会話は途切れ、また無言の間が続いた。

 車は県道を外れ、田畑の合間を抜ける農道を抜けていく。どうやら、予定通りに、山へ入るつもりのようだ。稜線が微かに浮かぶ黒い山そのものが、由香の仮初の墓標になるのだと、千音はぼんやりと想う。


 だが、山の麓の林道の入り口に差し掛かったところで、楠は車を一旦、停めた。

 ハイビームのヘッドライトを以てしても、鬱蒼とした杉林に吸い込まれていく山道は、何物も寄せ付けない暗闇に閉ざされている。


「御凪千音。怖くないのか?こんな場所で、初対面の殺人犯と二人きりだなんて」

「私も殺して埋めるとか?別にいいよ。痛くて苦しいのが一瞬なら、それでも」

「…………」

 心ここにあらず、投げやりに、無機質に応える千音へ、今度は楠が口籠る。  


「……きみを連れていかなきゃいけない理由が、一つ増えた。御凪千音。きみは、危ない。放っておいたら、何をするか判らない。自分だけではなく、周囲の人間も巻き込んで傷付けていく、そうなってしまった人間を何人も見てきた。今のきみも、そんな人たちと同じ目をしてる」

「だから、野放しにはしておけない?」

「……そうだな。そうならないように、暫くは、監視下に置く」


 車は、再び発進した。


 細く、曲がりくねった未舗装の道に揺られながら、更に走ること数十分。恐らくはもう十数年も前に人の往来が絶えた、林業用の脇道に入り、フロントガラスを打つ伸び放題の草木を掻き分けて進んだ先で、車は止まった。


「こんなところで済まない。だけど、昼間はとても綺麗な場所なんだ」

「ううん、大丈夫」

 近くで清流が流れる澄んだ音がする。楠の言う通りなのだろう。


 車を降りた楠は、後部荷台からシャベルを持ち出すと、樹々の間に、穴を掘り始めた。手伝おうにもシャベルは一つしかない。千音はヘッドライトの先で蠢く影を見つめ、もうすっかり冷たくなってしまった由香の身体に何度か触れて。楠が、『墓穴を掘る』のを待つ。


 そして、楠は手慣れた様子で、由香の遺体をまた軽く抱え上げると、やはり千音には手伝わせず、深く掘った長方形の穴の中へ、慎重に滑り込ませた。


「きみは、殺害にも死体遺棄にも、指一本関わっていない。だから万が一の事があっても、きみは潔白でいられる」

 そう楠は語るが、千音は正直、今更何が変わるのかと思った。事ここに至って、そんな拘りに意味はなく、ただ単純に――。

「それって、自分の罪悪感を和らげたいだけじゃないの?」

 

「…………」楠は答えなかった。


 

 穴の下に横たわる、白い繭のような由香の最期の姿を、千音は、不思議な感覚で見下ろしていた。今夜までの千音なら、動揺して、泣き崩れていただろう。しかし、今はもう違う。果たせなかった殺意は行き場所を失って、怒りも悲しみもまとめて連れていってしまった。そしてまた、一つのただ純然たる事実が、目の前から無くなっていく。


「……さよなら。御凪、由香」

 千音はぽつりと呟いて、そして『母親』への感傷に溢れた手向けを言い終えるのを待っていたらしい楠に振り返ると、あっさりと言い放った。


「もう、埋めちゃって」

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