第3話「私が、私になる夜」(3)

「……うッ……!」

 振り下ろせば、終わる。


 しかし千音はそのままの姿勢で固まって、それからよたよた後ずさり、壁に背もたれ、ずるずると崩れ落ちた。天井の闇からも眼を背ける様に硬く閉じて、たった今、自分が成そうとした行為が、自分自身を殺したような感覚に凍えた。


「ごめんなさい、許してください。許して」

 誰に、何に向けての言葉なのかも判らず、ひたすらに懺悔を繰り返す。

 包丁を握りしめたままの両手が、震える。

 心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅く、激しくなっていく。


 躊躇したのは、怖くなったからに過ぎない。

 家族をこの手で殺めようとしたことよりも、その先に怯えていた。

 

 殺してしまうのが怖かったんじゃない。まだ死にたくない、と思っただけだ。

 殺人者として裁かれることでの社会的な死。もしくは自ら命を断つ、痛みに塗れた死。そのどちらかでしか償えないものだからだ。


(だって)

(まだ、私は、私として生きてない。私の為に、生きてあげられてない)

(私は私のために生きたい……!!)


 そこから二度と立ち上がれないのではと思える程に打ちのめされた千音は、両膝を抱えた腕に顔を埋め、感情がそれ以上壊れないよう、耐える。吹き荒れる風が過ぎるのを、ただじっと待つ。


 そうしているうち、千音は自分でも不気味に思う程に早く、冷静さを取り戻していった。それはきっと心の何処かで、自分の正体がやっと明らかになったことが嬉しくもあったからだ。



―――――――――――――――



 落ち着いてみると、帰宅してから何も口にしていなかったのを思い出してきた。

 慎重に由香の寝室を去った千音は再びダイニングへと戻るが、そこで力尽きる。

 余った食事をレンジにかけるひと手間すら億劫で、包丁をテーブルにことん、と置くと、席について、そこで再び突っ伏し。


(……片付けは、明日にしよう。また遅刻しちゃうな)


 そのまま、意識が薄れていった。



 

 




 ―——かちゃり。


 ぎぃ。


 かさ。



 千音が完全に眠りに落ちる間際に、僅かな物音がした。



「……ッ!」


 素早く身を起こした千音の血の気が引く。


 ダイニングの入口に、見知らぬ男が立っていたのだ。



 背のかなり高い、黒いパーカーのフードを目深に被った男の顔は、鼻と口元しか観えず。千音がテーブルで眠っていることに、少し驚いたように、様子を伺って――と、言うよりもテーブルの上に無造作に置かれている包丁に注意が向いている。


「だれ!?」——強盗!?

 その視線を感じた千音は迷いなく包丁を手に取り、勢いよく立ち上がると、テーブルを遮蔽物とするように回り込み、震えながらも切っ先を向けた。出口は男の向こう側―—。



「―—御凪千音。大人しくしていれば君に危害は加えない」

「……え」

 逃走か闘争か。鋭く走らせた千音の目が、男の顔へ戻った。


「君の母親に用がある」

「どういうこと……」

 男が告げた言葉の意図は、全く理解できない。

 慄く千音の視線が、由香の眠る寝室の引き戸へちらりと向いたことを、男の目は見逃さなかった。


 そして。

「もう一度言っておく。君に怪我をさせたくはない。妙な真似はするな。すぐに済む」

 そう言うなり、男は千音を無視して、由香の寝室へと踏み入っていく。


 ――何が?どういう……通報……お母さん!!

 

 思考がまとまる前に身体が動いた千音も、男の後を追って、寝室へ飛び込む。



 ベッドに片膝を乗り上げた男は、由香の首筋に、ナイフを突きつけていた。

 

 その手のものに疎い千音でも知っている、大きく鋭利な軍用のものだ。


「やめて」

 叫びたかったが、千音の喉から出たのは、首絞められた様な掠れ声。

「何をするの。あなた、だれ」


「……」

 ぴくりと動きを止めた男が、肩越しに応える。

「見ての通りさ。俺は、君の母親を殺す」


「そして、君が君自身の人生を生きられるようにする」


 千音は、悪い夢を見ているのだと思った。

 あんなことを思ったから。あんなことをしたから。

 酷い夢を見ている――。


「―—。それで母親を殺そうとしてたんだろう」

 男は、自分に向けられている包丁を一瞥して、尚も続けた。

 

「御凪千音。十六……いや今日で十七歳か。誕生日おめでとう。市立黒羽多高校二年C組。身長162cm。いわゆるヤングケアラー。中学二年の時から心身に障害を負った母親の介護を続けているが、その生活環境は悪化する一方で、最近、特に思い詰めている」


「……!?」

 

「もっと早く来るべきだった。でも、手遅れにならずに済んで良かった。君自身が手を汚して、罪を犯す前に」

 低く澄んだ男の声は、千音を説得し、納得させようとしているようだった。

 

 ふたりの会話を間近にしながらも、睡眠導入剤で寝入る由香は、もう既に死んでいるかの様に、身じろぎ一つもしない。

 千音は、男の腰の向こうに垣間見える、母の穏やかな寝顔を見て。


「でも」訳が判らない。何で私の名前を?母のことを?それに、それに――。

「でも、だめ」


「……はっきりと言う。君はいつか、母親を見捨てる。そしてその事にまた苦しむ。それが長く続けば続くほど、傷は深まっていく。君なら判るだろ?だから理解してくれ。これが君にとっての最善だ。君は認めないだろうが、心の何処かでは感じているはずだ。君の母親は、君にとっての鎖だと」


 千音の胸が、ざわめく。真剣に語る男の理屈は、絶対に間違っている。頭ではそう考えているのに、心の何処かでは、それこそを望んでいたということを、今夜知ってしまったばかりだから。昨日という日は、全てを塗り替えてしまったから。


 ――昨日。

「……あなた、ニュースでやってる、老人を襲う連続殺人の、犯人?」

「たぶんね」

「教えて。何でそんな事をしてるの」

「言った通りさ。君みたいな、本当に苦しんでいる人に、未来を歩んでほしいだけだ」


 頭がくらくらした。

 男の口調は真剣そのもので、論理的であるにせよ、だからこそ、まともではない。

 そしてそのまじないに傾きそうになっている自分も、おかしい。


 千音の、包丁を構えていた腕から力が抜け、だらりと下がった。


「約束する。苦しませずに、やる。痛みはほんの一瞬のはずだ」

 ―—本当に?

「頸動脈を断つ。脳への血流が途絶え、数秒で意識を失う。それだけで終わる」


「……さあ、部屋を出るんだ。君は見たらいけない。そして俺が事を終えたら通報しろ」

 由香の首筋にナイフを押し当てたままの男の声が低くなる。ただ、その背中は、千音がこの場に留まる間は実行するつもりはない、という事も伝えていた。



「…………」



 互いの無言の間は長く。

 穏やかになっていく息遣いとは裏腹に、緊張が張り詰めていった。


 千音にはまだ知りたいことが山ほどあるが、男はその多くに答えないだろう。但し、その言葉に嘘があるとも思えずにいた。



 やがて。


「……私が、自分でやる」

 千音の口から、心が漏れた。


「…………」

 動かない男へ、今度は千音が語る。


「あなたの言う通りだと思う。今夜が過ぎても、いつかは、すると思う。だからせめて、自分で――」

「―—駄目だ」

 背後で一歩を踏み出す気配を察した男の、冷静だが、強く遮る低い声。


「君に十字架を背負わない為に、俺はここに居るんだ。千音」

 黒い影にしか見えないものから少し、感情が滲む。

「それに、君に人を殺す技術はない。母親に苦痛に悶えながら死んでほしいと思うなら、俺は止めない。だけどお前はそんな子じゃない事を俺は知っている。お前は優しいから。だからこうなるまで、頑張ってしまっただけだから」


 千音は、言葉に詰まる。

 同じような台詞は、様々な大人から嫌と言う程聞かされてきた。しかし何故この男の言葉だけが真なるものだと想えるのか。その理由を納得したかった。


 そして、それはもういくら考えても答えが出ない問いなのだとも悟った。



「……判った。でも、見届ける」

 千音は、それだけを答えた。


 その淡然とした千音の決意を探るかの様に、男がちらりと振り返る。

 丁度、外れの県道を走るトラックの、ハイビームが窓を走り。その横顔を照らして、そして、深い青眼を、僅かの間、映し出した。



 それからの一部始終を、千音は目に焼き付ける。


 男は力を込める様子もなかったが、鋭い刃は、易々と首筋の皮膚から肉へと差し込まれ。男の手首が刃先を一度だけ、軽く捻ると、由香の身体が軽く弾んだ。

 しかし、由香は目を開けることもなく、僅かに身じろいだだけで、すぐに動かなくなり、それっきりだった。


「終わった」

「…………」

 即死。呆気ない結末。千音の想像とは違い、驚くほど出血は少ない。確かに男は、人体の構造……というよりも、急所を熟知する者なのだと実感した。

 相変わらずただ眠っているかの様に見える由香を見つめて立ち尽くしたまま、千音は、男が由香に対して軽く頭を下げたことにも気付いた。



「今まで何人、殺してきたの」——そしてこれから、何人を。

 千音の問いの言外にある意図に気付いた男は、答える。

「捕まるまで」


 この男は、この先も千音の様な境遇の者の家族を始末していくつもりだ。

 そんな凶行に及ぶ動機を、千音は知りたくなってしまった。


 母親を殺したばかりの相手なのに。

 こんなのは、間違っているのに。


「……通報するんだ。そして『突然男が押し入り、母親を襲った』。これだけを伝えれば良い。この会話の事は言うなよ。俺は今から証拠を残していく。そうすればお前が疑われることはなくなる」


「暫くは警察の聴取やらで大変になるかもしれないが、被害者になったお前を助けてようと動く人も大勢現れるだろう。だからお前はもう――」


 語りながら、男はわざとカーペットを踏み荒らし始めた。ブーツの痕跡を残しているのだろう。証拠を残していくという言葉もまた、真実。

 

 男は、部屋を歩き回りながら、通報後の千音の振る舞いや展開について伝え続けるが――。


 しかし千音は出し抜けに。


「私を連れていって」

 そう呟いて。


 男の動きが止まった。


「……何だって?」

「私、あなたに着いていく」

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