第2話「私が、私になる夜」(2)

 狭いダイニングキッチンにしては、不自然なほど家具や物が少なく、小ざっぱりとしているのには幾つかの理由がある。


 主には自力での歩行がおぼつかない由香が、躓いたりぶつかったりしないようにするための動線確保。そしてもう一つは、逆上した由香が壊したり、千音に向けて投げつけることを防ぐためだ。


 今夜の由香は大人しくテレビを見つめていて、食事の用意を邪魔されずに済んだ。

 普段なら暴言の一つや二つは飛んで来るところである。その内容は日によって違い、千音の調理の手際を見咎めたり、髪形や服装についてだったり。時には想像もつかないような突飛で理不尽な理由で笑いそうになったこともあるが、それは我慢した。



「おまたせ。できたよー」

 

 首尾よく支度を終えた千音は、テレビに釘付けになってくれていた由香の前に、てきぱきと配膳していく。白飯や味噌汁はプラスチックの椀で、その他はラップで硬く包んだ紙皿で。

 陶器の食器やグラス類はもう、この家には無い。由香が放り投げて半分を割り尽くしたところで、残りの一切は千音自らが処分していた。


 特に気を付けないといけないのは、包丁の扱いだ。由香の手の届く場所に置いておけば、双方に危険がある。千音は料理に使った包丁だけを先に洗い、由香に見えない様に屈み込むと、シンクの下の収納スペースから簡素な番号式の錠付の黒い木箱を引き出し、中に詰めた綿に沈めるように、収めた。



 今夜の献立は、白飯と簡素な味噌汁、鶏団子、きんぴら、酢の物。手軽に惣菜で済ませれば負担も減るのに、わざわざ律儀に毎食を作るのは、由香の目の前で家事をしている姿を見せておく必要があるからだ。かつての由香がそうであったように、妥協しない。手を抜く素振りを僅かにでも感じれば、間違いなく激怒する。


 ただ、そのことだけは早くに理解した千音は、その怒りを巧妙に回避する立ち回りも覚えていた。四六時中、由香の全てを受け止め、生活を捧げていてはすぐに限界に達していただろう。由香の目の届かないところでは適度に手を抜き、誤魔化しているからこそ、今日まで耐えられた一つの理由であり。由香を制御することに仄暗い愉悦も感じてもいた。この生活をそういうゲームとして愉しんでると思い込めば、少しは気が晴れる。



「さ、食べよっか」

 テレビを消した千音は、自分の分の食事はおざなりにしたまま、由香の傍に、そっと座る。


「……ありがとう」

 肩が触れる程に近く。その時初めて、由香の目線が揺らいで、消え入りそうな声で囁いた。どんなに荒れていても、この瞬間だけは千音を娘として認識してくれる。

 千音にとっては、このやりとりが一番幸せだった。長い介護生活において、母が最も母らしく応えてくれるこの一瞬があるから、まだ頑張れると思えるから。



「自分で、食べる?」

 判り切っているのに、訊ねる。

 由香の答えはない。


 千音はプラスチックのスプーンで味噌汁をすくい、由香の口元へ近づける。

 すぐには反応しないが、粘り強く薦めていればやがては口に入れてくれる。千音と由香の間に流れる時間の感覚はもう、全くかけ離れている。もどかしくとも、その時間に寄り添っていく。


 一分、二分。まんじりともせずに三分が過ぎる頃、ようやく由香は口を開き、ひとさじを静かに啜った。


「美味しい?冷めてるのが嫌だったら言ってね。少し温めるから」


 ゆっくりと流れる無音の中に、時折、千音が語り掛ける声と、粗末な食器が擦れあう乾いた音、そして「あー」とか「うー」という呻きが交じる。嚥下に不安がある由香の食事は早くても三十分、時には一時間以上を費やすこともあり、その間は付きっきりだ。


「ねえ、今日の鶏団子は自身作だよ。良いお肉が特売で安かったんだ――」

 

 ともすれば無駄なのかもしれない『会話』に努める千音は、しかし口籠った。過去に一度「安物を喰わせるのか」という理由で激昂したのをふと、思い出したからだ。


 たが、由香は紙皿の群れを虚ろに見つめたまま―—よかった。今夜は機嫌が良いのかな――突然、わなわなと震え出し、身体を前後に大きく揺すり始めて。


「……あのクズの好物。好きだというから作ったのに。作っていたのに」

「クズのくせに。一口食べただけで好みじゃないって、じゃあ自分が作れ」


「お母さ――」


 千音が、あ、と思う間もなく、由香はテーブル上に拳を叩き付けると、まだ大半が残っている料理を渾身の力で薙ぎ払った。振り払った腕はそのまま千音の肩胸に当たり、衝撃に揺らいだ千音は、手作りの料理と共に床へ転げ落ちる。


「あ――――――――――――!!」

 悲鳴か絶叫か。由香はテーブルに残ったプラスチックのスプーンを掴むと、よろよろと立ち上がり。倒れたままの千音に襲い掛かった。


「あのクズ!私を裏切った、裏切った裏切った、私を捨てて!うう、他の女を選んだ!!」

「…………!」 


 千音は、防御創だらけの細腕で、顔を守る。


 由香が言う『クズ』とは、千音の父親。別れた元夫のことだ。

 千音が幼稚園で初めて『両親の絵』を描き上げたその日に、父親は消えた。


 幼い千音には理解できずにいたことで、由香が病に侵されてから初めて判ったことだが、由香は元夫のことを恨み、憎悪し、呪っていたのだ。


「クズ!!あんたはクズの子だ。あんたが、あんな最低のクズにならないようにしてたのに!なんで!なんで!?」


 病状が悪化にするにつれ、心の底に留めていた感情が剥き出しになってきたこと。

 そして、成長した千音に、父親の面影を感じるようになってきたこと。

 様々な想いが交じり合った爆発だった。


 これまで何度も作ってきた『鶏団子』が引き金を引くとは、流石の千音も予期していなかった。『昨日とはまるで違う今日』がある事は知っていたのに。日々何かが壊れていくことは判っていたのに。


 腕で顔を庇う千音に何度も振り下ろされたスプーンが、ぱきん、というか細い音を立てて、折れた。本当は立って歩くことすらおぼつかない由香の、感情に突き動かされた怪力も、長くは続かない。由香は、へなへなと脱力してその場にへたり込み、俯いて泣き始めた。


「……ごめんなさい、せのん。私ひどいことしてる。せのんは頑張ってくれてるのに、ごめんなさい、私、わたし」


「いいの、大丈夫。怪我はしてないし。お母さんの方こそずっと無理して頑張ってきたんだから、ちゃんと全部話して。私は――」


 ゆっくりと上身を起こした千音は、しこたま味噌汁を浴びた黒髪や制服もそのままに。震える由香へとにじりより、その頭を抱く。


「私は、裏切らないから。ずっと一緒に居るから」

「…………」

「……?」


 由香の震えがぴたりと止んだ。


「……嘘つき、嘘つき。嘘をついた。あのクズも全く同じことを言ってた。やっぱりあんたもか。あんたはあのゴミのガキ。同じ。同じだ。結局。失敗した。育ててやったのに」


「っ!」

 限りなく冷ややかな声にぞっとした千音は、蹲って俯いたまま呟き続ける由香から、ぱっ、と離れて、壁まで後退る。また、一つのことを理解する。


 愛情じゃなかった。愛情なんて無かった。


 由香が献身的に千音を育ててきたのは、狂う程に憎んだ元夫への復讐だ。

「お前みたいなゴミ最初から要らなかったんだ」

 その証明と、当てつけだ。

「ゴミ親の教育が間違ってたんだ。だからお前のガキは正しくしつけてやったのに」


 由香の呟きの一つ一つが、千音の胸を抉っていく。

 その口ぶりは、サーカスの獣への調教にも近しい、歪んだ支配欲の吐露。


 その程度のものが、由香の行動原理だった。



――――――――――――――


「……お、か。……」

 目の前で怨嗟を唱える女を、もう母親、とは呼べなくなった千音は、床にぶちまけられた料理の残骸の香りに混じる、嫌なにおいを嗅ぎ取った。

 

 由香は興奮のあまり、便失禁を起こしていた。

 もう暴れる力は残っていない様子を一瞥した千音は何も言わずに、その後始末に取り掛かる。


 いつにも増して衰弱した由香を浴室に連れていくには、体力以上に気力を振り絞らなければならなかった。衣類を脱がせ、汚れた紙おむつを外すと、から、尿でぐずぐずに溶けた液状の便がぼたぼたと零れ落ちる。昨日まではすっかり慣れきっていたなのに、今はひたすらに吐き気をもよおす。


 樹脂製の介護用椅子に座らせた由香の身体を、シャワーで丁寧に洗い、それから陰部の洗浄。こびりついた便を指でこそぎ落す。普段ならプラ手袋を着けて行っていることなんて、もう、どうでもいい。


 ぐるぐる回る感情に頭の中が揺れながらも、一連の手順を覚えている千音の身体は、勝手に動き続けた。



―――――――――――――――――


 何種類かの服用中の薬と、睡眠導入剤を呑ませた由香をベッドに寝かしつけた千音は、無惨に散らかったままのダイニングへと戻ってくる。頭では片付けなければならないと思っていても、疲れ切った身体をこれ以上動かせそうにはなかった。


 その代わりに、玄関ホールに溜まっていた郵便物の束を取って来ると、テーブルの上へと無造作に投げ広げる。


 やたら大量に投函されるタウン誌やチラシの隙間から、役所からの通知、病院やリハビリ施設、NPO法人からの案内。保険会社に関する書類、ダイレクトメール。求人案内など。必要なものだけを選り分けていく。対処しなければならない問題は文字通りに山積みだが、今夜中に確かめなければならない訳ではない。ただ、意味の有無に関わらず、とにかく何らかの文章を読み耽っていれば、今夜、ついさっき起きたことを、考えてなくて済むと思っただけだった。


 だが、靄に霞む思索は晴れず。

 何かがまだ、心の中で燻っている。


 ふと気付いたとき、時刻は既に十二時半を回ったところだった。

 顔を上げ、質素な白黒の壁掛け時計をしばらく見つめていた千音は、今日が、自分の誕生日だったことを、ようやく思い出す。


 すっ、と、涙が頬を伝う。


「……、……。……!……ッ!!…………っ!!」


 唐突に込み上げてきた感情をねじ伏せるように、テーブルに突っ伏した千音は、声もなく号泣した。睡眠導入剤を飲ませて寝た由香がそう簡単に起きるはずはないのに、拳だけを強く強く握り締めて、嗚咽を殺す。


 母がクズ呼ぶ男の娘で、父への憎悪をひた隠し、千音を欺いた母の娘。

 恐らく、父が去った日の母も、こうしてひとりで泣いたのだろう。

 やはり私は、母の子だ。こうして全部を抱え込んで、いつか同じになるんだ。


 これまで生きてきたことは全部無駄で、これからの末路も観えた気がした。


 そう悟ったとき、千音の血は冷たくなった。


 静かに立ち上がると、冷静にキッチンの前へ屈みこみ、収納室から黒い木箱を引きずり出す。


 三、九、七。錠を外して、綿に沈んだ包丁を取り上げる。

 そして、寝室へ。

 遠くの街灯の光が僅かに差し込み、由香の穏やかな寝顔を照らしている。


 傍に、立つ。

 千音は、包丁を振りかぶった。

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