あはれ百夜は千の音、万ず星に彩られ

Shiromfly

第1話「私が、私になる夜」(1)

 御凪千音(みなぎ せのん)の現状を一言で表すなら『まだ女子高生』だ。


 千音は最近になり、高校を辞めて働くことを真剣に検討し始めている。病に蝕まれる母親の介護を始めてからおよそ三年。頼れる親族もおらず、公立の高校に通いながらの介護生活はとっくに破綻しており、最低限の成績で辛うじて進級できているのは、ひとえに、千音の死物狂いの努力ゆえ。遅刻を繰り返しながら登校を続けているのも、その責任感の強さの表れだった。


 ヤングケアラーという言葉と概念は社会に広まりつつあるが、コロナウィルスの流行と蔓延による一連の混乱で、政府の施策や行政の動きが大きく鈍ったことで、本質や問題点の顕在化が大幅に遅れている実状は否めない。


「介護をしながら勉強も頑張って、偉いね」

 そんな言葉を何度掛けられただろうか。そしてそう言われる度に、そうでなければならないと自分を戒め、そうであるように演じてきただろうか。


 その一方で「自分の為に生きるべきだ」と諭されることが、どうして、ここまでも空虚に聞こえるのだろうか。


――――――――――――――――


 千音の母が原因不明の脳腫瘍に侵されていると判ったのは、中学一年生の夏休みの初日だった。


 女手一つで千音を育ててきた母親は、複数のパートを掛け持つ傍ら、出来得る限り千音に不自由な思いをさせないように努めてきた。千音が関わる学校行事の殆どに顔を出してくれたし、千音が興味を持った事なら何でにも援助を惜しまず、楽器やスポーツといった色んな習い事を経験させてくれた。仕事がどんなに忙しくても、例え深夜の帰宅であっても、食事や弁当の用意に手は抜かないし、宿題も手伝ってくれた。


 千音にとって、そんな母、由香こそが理想の女性像であり、憧れで、規範となる大切で完璧な家族で在り続けてくれた。


 病魔がその全てを壊すまでは。


――――――――――――――――――――


 蝉の声が煩わしい朝のこと。


 二人が暮らすのは、ある地方都市の郊外に広がる新興住宅地の、更に外れ。開発を諦められて無惨に削られかけたまま放置されている裏山の陰に建つ、古いアパート。


 最寄りの駅までも遠く、バスの路線も充分ではない都市の中の孤島とも言える、侘しい2DKの棲み処は、しかしその不便さなりの安い家賃で、母子の家計を大いに助けていた。


「お母さん?仕事の時間じゃないの?もう起きなよ」


 中学生活で初めての夏休みをさっそく堪能しようと、普段よりだいぶ遅く起き出してきた千音が、とっくに仕事へ出ているはずの母がまだ寝室から出て来ない事を不思議がり、覗き込んだ時、由香は布団で蠢きながら、獣染みた呻き声を上げていた。


 尋常ではない様子に青褪めた千音はすぐさま救急車を呼び、そして苦悶する由香に何度も、必死に声を掛ける。

「お母さん、どうしたの?苦しいの?ねえ――」


 蝉の声が、由香の掠れた呻きを掻き消して。


 程なく到着した救急隊員が、母に取りすがる千音を、半ば強引に引き剥がした。

 


 それからの多くが、千音の記憶から抜け落ちている。


 朧気に覚えているのは、市立病院の救急救命室へ運び込まれた母親の憔悴した姿と、その病状を千音に説明する老いた医者の無機質な説明だった。当初はくも膜下出血や脳梗塞の類かと思われた症状は、どうやら一般的なものとは異なるしく、参考となるケースがない以上、処置の施しようがないと告げられた。


 但し『幸いにも』命に関わるほどの危険はないと診断され、一日も欠かさずに見舞いに通い続けた夏休みが終わる頃、由香は退院できる事になった。発症当日は心配と恐れで一杯だった千音も、病室で普段通りに話し、笑う由香は、きっと治り、また今までの日常が戻るのだと確信していた。後遺症で身体のあちこちに残る麻痺も、これからのリハビリで、きっと。


 ――寝たきりにならずに済んで良かった。でも、大変なのはこれからだね。

 しかし、それが逆に、千音も、由香も苦しめることになる。


 由香がアパートに戻って次の日の夜。

 入院中、不慣れな家事の一切をこなしていた千音が夏休みの宿題を終えていなかったと知るなり、突然、口汚く罵り始めたのが切っ掛け。そしてその豹変は、僅か数日で直接的な暴力にエスカレートする。


 『手が出る』だけならまだ良い。下手に諭したり宥めすかせば更に逆上し、手が届く範囲の物を手当たり次第投げつけて来ることもあり、二学期の始まりが目前に迫ったある夜、中身の詰まった調味料入れを額に受けて傷を負った千音は、休み明けの登校を諦めなければいけなかった。大事にはしたくなかったから。


 それからというもの、何もかもが日々、目まぐるしく変わっていった。

 大切なひとが、少しずつ、確実に壊れていく。


 不自由になっていく身体もさることながら、状況をことさらに悪くしたのは、由香の激昂は決まって『千音と二人きり』の時に限って起きることだった。役所やメンタルクリニックへの相談など、当時の千音に考えつく限りのことは尽くした。ただ、他者の目がある所での由香は発症前と変わらず、穏やかで柔和な女性であり続けた。


 千音の進学先を決める三者面談の際も、見事に『障害があるにしてはまともな母』を演じきった事に千音は驚いたし、そう振る舞うことが出来るのであれば、やはりいつかは。平穏な生活が帰って来る可能性に縋らずには居られなかった。


 その一方で『誰かへの証明』の為に、由香の豹変を密かにスマホで撮影したり、録音したこともある。しかし、そこに映る母親の姿は獣に等しく、あまりに悍ましく。


 これを、他者へ暴露することは、由香に対する裏切りだと思った。 

 だって、お母さんは悪い人じゃない。悪いのは病気。


 聡明で、限りなく優しく、誠実で、強かったはずの、たった一人の家族を悪し様に扱いたくない、扱われたくないと思った千音が、事の次第を他人へ語らずにいようと決めたのは、この様な経緯による。

 

 


―――――――――――――――




 十月十二日。晴れ。

 ようやく残暑が和らぎ、心地いい涼風がそよいだ一日の暮れ。


「……ただいま」

 買い物をしこたま詰め込んだバッグをぶら下げて帰宅した千音が、薄暗いダイニング兼リビングで一人、ぼうっと座っている由香の後ろ姿を見て、身を竦めた。


 夕と夜の間の青掛かった部屋に浮かぶ、薄青のパジャマを着たその姿影は日本画で描かれる幽霊さながらで、そして普段のこの時間ならベッドで横になっているはずの母の違和を敏感に感じ取ったからだ。


 千音は経験から、母親の『豹変』が起こる前兆をある程度は察知できるようになっていた。ただ、その感情がいつ爆発するかはまでは未だ推し量れずにいる。どんな些細な切っ掛けが、由香の『スイッチ』を入れるのか。こればかりは慎重に、怯えながら探り続けるほか無かった。



「……」

 千音が何も告げずに灯りを点けると、薄茶色の壁を向く無言の後頭部が、微かに揺れた。


 千音は、失禁の類が無いことを確かめて、ひとまずほっとする。症状が酷い時には、所かまわず排泄を垂れ流す程に狂乱し、それを千音に浴びせかけてくることすらあった。朝、登校前に糞尿で汚れされたのは一度や二度ではない。その度に入念にシャワーを浴びる羽目になり。そして当然の様に遅刻する。その理由を正直に明かすのは千音にとっても由香にとっても、恥に他ならない。


 最初こそ深く傷付き、咽び泣いたものだが、そんな感傷もも、いつしか慣れて薄れていく。恒例行事の様なものだと諦め、受け入れていた千音が改めてその事実と向き合わなければならなくなったのは、クラスメイトたちの間で『あいつ、くさくない?』という噂が立っていると知った時だった。その時、千音は――。


「―—……晩御飯、作るね」

 

 束の間、溢れそうになった記憶と感情を抑え込んだ千音は、恐る恐る、出来る限りの明るい声を絞り出す。


 今日は作り置きが無く、千音が食事を用意する日だ。一応は介護事業者を通してヘルパーに入ってもらい、食事や入浴などを補ってもらってはいるが、それも毎日ではない。


 千音は、由香を刺激しないようにそっと歩み寄ると、テーブルの上のリモコンを取り、埃が纏わりついたテレビを点けた。内容はどうでもいい。こうしておけばとりあえずは由香の注意がテレビに向き、不測の行動を起こされにくくなる。特に調理中、包丁やガス、油を使う間に暴れられると危ない。被害を最小限にするためのおまじないの様なものだ。



 ―—こんばんは!エンジョイ☆イブニングのお時間です!皆さんは今日一日エンジョイしましたかぁ!?(エンジョーイ!)」


 底抜けに明るい音楽と共に、若い女性アナウンサーの溌溂としたタイトルコール。夕方のニュースショーが丁度始まったところだった。恐らくは由香の仕業だろう、目一杯に上げられていた音量はもはや怒号。一瞬怯んだ千音はリモコンを取り落としそうになるも、すぐに音を下げて、由香を振り返る。


 刺激されてまた何かしらをしでかしはしないか、と心配したが、平気だったようだ。ただ『何も無さすぎる』ことも、怒鳴られるのと同じくらいに千音の心を揺さ振った。


 テレビを見つめる隈がちな目はひどく虚ろで、半開きの口端からは『今日はまだ』涎が垂れていない事の方が寧ろ不自然なくらい。後ろ姿が幽霊なら、その表情は亡者。元が端正な顔立ちであるからこそ、些細な歪みが余計に際立つ。


 湧き上がってしまう嫌悪を抑え込んで目を逸らした千音の目に、まるで対照的な女性アナウンサーの姿が映った。


 流行りのメイク、髪形とファッションで華やかに着飾り、屈託の無い笑顔を振る舞う彼女を、千音はいっとき、無感情に傍観する。アレは、自分たちとは別種の生き物。愛嬌を供給する家畜だ。


 由香の介護が始まってから一年が経つ頃、いっときは、ああなりないと強く憧れたこともある。意識してよく笑ってみせて、冗談を飛ばし、友人たちの輪に溶け込もうと努力し、望んでもいない遊びに興じて、何かを変えようと足掻いてみたが、明らかに逆効果だった。

 反比例して苦しくなる由香との生活のギャップに苦しみ、塞ぎ込む千音はただ単純に裏表が激しく、空気を読めない『イタくて気持ちの悪い女』と影で囁かれ、嘲笑の餌食になるだけ。

 一応は県内有数の進学校とされる中学ではあったので、表だったにまでは至らなかったにせよ、一旦根付いた印象はもう覆ることはなく。生徒を成績でしか計らない担任の教師からも厄介者扱いされ。いつしか、千音は自らの全てが間違っていたのだと悟った。



 ――ひとりの人間として許せません。胸に手を当てて考えてほしいですね。そして一刻も早く謝罪と説明責任を果たすべきです。じゃないと国民の信用をまた失いますよ。


 ニュースショーは進行し、先程の女性アナが、ボードに記した様々な事件やトピックに対するコメントをつらつらと述べている。


 差別問題に関する国会議員の失言、外国の紛争、災害。老人を狙った殺人事件、交通事故、芸能人カップルの破局。あらゆるニュースが同じボード上で、段取りに沿った杓子定規の感想で処理されていく。


(私は、その文字列ですらない)


 また、昏く、淀んだ気持ちになりかけた千音は、しかし頭を軽く振って、想いを散らす。辛くて苦しいのは自分だけじゃない。この感情は、独り善がりの妬みに過ぎない。誰もが、それぞれ一人の人間として色んな問題と戦っている。正しく生きようとしている。


 そして誰より、由香は、正しく生きてきた。なのにこんな風になるなんて。絶対におかしい。

 頑張って、正しく生きてきた母にこそ、報いがあってほしい。あるべきだ。

 幸せを全うしてほしい。その助けになれるのは自分だけだ。


 千音はその一心で、大好きだった母に正しく報いようとだけ、願っている。

 それでいいはず。



 だからとりあえずは、お母さんに夕食を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る