後編 シリコンドールと白いマフラー

「――はぁぁ!? さっむ……!」


 タムロの国に降り立って、リナリカの第一声はそれだった。


 オートグライダーが不時着したのは、雪深い山の中にある、古びたヘリポートだった。一応は人の通行を想定した道が設けられているものの、天井はなく吹きさらしで、風がびゅうびゅうと吹き付けて体温を奪っていく。


「あの、機内にヒーターあるんで」


 スピーカーの向こうで、リナリカを案内してくれたオペレーターが言う。


「良かったら使ってください」

「……ああ。はい、ありがとうございます」


 リナリカは生返事をする。


 言われるまでもなく、分厚いダウンコートの下にヒーターを装備していた。さらに、機内にあったブランケットも勝手に持ち出して羽織っていた。それでも膝はがくがくと震えて、指先はしびれて麻痺していく。いつも適温の空間で生活しているだけに、温度変化にはとことん弱いのだ。


連絡港ポートまで、歩いて十五分くらいなんで」


 申し訳なさそうな声が言う。


「お客さん、申し訳ないですけど、今だけ我慢してください。なんかあったら、すぐ呼び出してくださいね」

「……はぁい」


 リナリカは不承不承頷いた。


 口元のチャックを引き上げて、雪の舞い散る通路を歩き出す。吹雪が激しくて、景色はほとんどホワイトアウトしていた。少し進むと半地下のように道が掘り下げられていて、風が身体に直撃することはなくなった。それでも、身体の芯まで蝕むような寒さは変わらない。骨髄がピシピシと音を立てて凍りついていくような感覚に、リナリカは歯を震わせながら早足で歩いた。


 びゅう、と木立を風が揺らした。


 かと思うと、枝に積もっていた雪が落ちてきて、リナリカの肩で弾け、水飛沫みたいに散った。襟の隙間に雪の欠片が入り込んで、ぴりっと刺すように冷たい。


「はぁ……」


 溜息を吐くと、真っ白に濁る。


 ああ、何やってるんだろう――という、虚脱感にも似た感覚がリナリカを襲った。こんな世界の果てみたいな場所で、とんでもない寒さに耐えてまで、特段ドラマチックでもないハグをしにいく。プレゼン資料なんて適当にでっち上げてしまえば良かったのに、どうしてサクタンの口車に乗ってしまったのか。


 じわ、と目尻に涙がにじんだ、そのときだった。


「――リナ?」


 スピーカーから暖かい声が流れ出して、リナリカははっと目を見張る。タムロの声だ。話しかけられたチャンネルがいつもと違い、応答する方法が分からずにあたふたしていると「大丈夫?」とさらに問いかけられた。


「えっと、通じてるのかな? グライダーが不時着したって聞いたんだけど――俺の声、聞こえてるかな」

「あ――このボタンか」


 操作マニュアルを参照して、ようやくリナリカはマイクをオンにする方法を見つけた。耳元のダイヤルを回して、収納されていたマイクを引っ張り出す。


「――タムロ?」

「あ、リナ……!」


 ようやく応答したリナリカに、彼がほっと安堵の息を吐いたのが、回線越しでも分かった。


「繋がって良かった。今、どうしてる?」

「えっと……なんか、歩いてる」

連絡港ポートまで?」

「多分そう」

「座標、俺に送ってもらっても良い?」

「なんで……? 良いけど」


 心配されているのか、いつも以上に優しい口調のタムロに、リナリカは短く答えた。自分は疲れているんだから――という甘えがあって、つい突き放すような語気になってしまう。


「あ――届いた」


 座標を送った数秒後、タムロが言う。


「ありがとうね、リナ」

「――うん」


 何か言いたいのをこらえて頷く。


 タムロの口調が穏やかなのが、逆にリナリカの苛立ちを募らせる。彼はいつも通り、快適な居住空間にいるのだろう。こんな過酷な環境でとぼとぼ歩いているリナリカの気持ちなんて、タムロには想像できるはずもない。


「リナ、そっちは寒い?」


 だから、そう問われたとき、リナリカはついに糸が切れて「当たり前じゃん」と叫んでしまった。自分の出した大声に自分で吃驚して、目尻から涙がぽろりとこぼれる。


「寒いに決まってるじゃん、吹雪だもん! 近いって聞いたのに全然着かないし、ヒーター、ぜんぜん効いてないしっ……」

「――リナ」

「もぅ……やだ」


 重たい足をそれ以上前に出せなくて、リナリカはその場で頭を垂れた。


「なんで、こんなこと……私、帰りたい」

「もうちょっとだけ、頑張って、リナ。もう、半分以上来てる。すぐ連絡港ポートに着くから」

「やだぁ……」

「リナ」


 宥めるような、困ったようなトーンでタムロが名前を呼ぶ。そのとき、ふと違和感に気がついて、リナリカは顔を上げた。


「……あれ?」


 今、タムロの声が、二重に聞こえた気がした。


 スピーカーの設定を確認するが、特に異常が発生しているわけでもない。リナリカが首を捻ると、応答がないことに心配したのか、タムロが「リナ?」と呼びかけてくる。その声も、ほんの少しのラグを伴って、二重に聞こえた。


「タムロ……」

「あ、良かった、リナ。平気?」

「あのさ――」


 どきどきと鳴る胸を抑えて、リナリカは問いかける。


「もしかして……タムロ、こっちに来てる?」

「……あー」


 はは、と吐き出すような笑い声。


「バレちゃった?」


 遠回しの肯定。


 やっぱりそうなんだ――とリナリカは目を見開く。電波に変換されたスピーカー越しの声と、空気をダイレクトに伝う音波の声が重なり合って、二重に聞こえているのだ。


「ごめんね」


 タムロが言う。


「何となく、リナを吃驚させようかなと思って、黙ってた」

「えっ、でもだって……今って」


 こちらの国では、今は昼間だ。


「仕事中だよね?」

「今日は早退してきた。だって、リナの緊急事態だから」


 何でもないことのようにタムロが言う。


 リナリカは呆然と立ち尽くしながら、緩やかに湾曲した通路の向こうに目を凝らした。掘り下げられた通路に吹雪が叩きつけて、白い煙幕のようになっている。


 その向こうから、動く影がやってくる。


 それはリナリカの方に走ってきたかと思うと、リナ――と叫んだ。あっという間に距離が詰まり、灰色の分厚いコートに覆われた腕がこちらに伸びる。


 正常に認識できたのはそこまでだった。


 驚きで頭が麻痺してしまって、五感と思考がバラバラになる。ガチャン、という何かがぶつかり合う音。何かに埋もれる視界。ふわっと浮き上がる踵と、包み込むような力。気がつけばリナリカは、タムロの腕のなかにいた。


 予期しない展開に、リナリカは硬直する。


 リアルのタムロは「抱きしめても良い?」なんて尋ねなかった。ただ、それが当然の流れだとでも言うように、リナリカの身体を抱き寄せて受け止めた。分厚いコート越しなので、彼の体温はほとんど感じなくて、なのになぜか温かい。


「……リナリカ」


 ボイスチェンジャーを通していない、生の声がリナリカの名前を呼ぶ。リナリカはゆっくりと顔を上げて、タムロの顔を見た。髪の色はビビッドピンクじゃなくて、墨色に近い褐色だし、目の色も褐色で、派手なアイラインも引いてない。もちろんネコ耳も生えてない、モノクロ映画から飛び出してきたみたいな地味な男が、リナリカを見つめていた。


「タムロ……」


 でも、間違いなくリナリカの恋人だ。


 リナリカの非常時に、仕事を休んでまで駆けつけてくれる相手は、リアルにしてもヴァーチャルにしても、この人以外あり得ないのだから。


「……会えて良かった」


 リナリカがそれだけ絞り出すと、タムロが苦笑して自分の唇を指さし、緩やかに首を振った。彼がぱくぱくと口を動かしてみせる意味を、数秒考えてようやく察する。普段はボイスチェンジャーと併せて機械翻訳を使っているけれど、リナリカとタムロは母国語が違う。いつの間にか耳から外れていたスピーカーを付け直して、リナリカはもう一度「タムロ」と、回線越しに呼びかけた。


「リナ、さっき、何て言ったの?」


 タムロが機械翻訳を通じて訊いてくる。


 同じことをまた言うのは恥ずかしくて「別に」とリナリカは唇を尖らせる。


「アバターと全然違うなって」

「そりゃあね」


 タムロが、少し不揃いな歯を見せて笑いながら、リナリカの背後に腕を回した。


 首筋に、ふわりと布が掛かる。


 真っ白いマフラーを巻いてくれたタムロが「じゃあ」と言ってリナリカの腕を掴んだ。


連絡港ポートまで戻ろう。すぐだから」

「……うん」

「今日はゲスト用チャンバーに泊まるんだっけ」

「そのつもりだったけど……でも、やっぱ連絡港ポートで手続きして、今日帰ろうかな」

「え?」


 タムロが驚いた顔で振り返る。


「リナ、せっかく頑張って来たのに」

「でも目標は達成したから」


 リナリカが言うと、タムロは不思議そうに首を捻りつつも「リナがそれでいいなら」と頷いた。タムロが言ったとおり、連絡港ポートはすぐそこで、二人はスライドドアを抜けて地下に潜っていった。


 ***


 今回の出張の目標――リアルなハグの魅力を知ること。


「んで?」


 ヴァーチャル・オフィスで、サクタンのアバターがこちらを見た。その髪型はスパイラル・ヘアから、無数の針が立ったような髪型に変わっている。猫のような目がじろりとリナリカを睨んだ。


「予定より、ずいぶん早いお帰りですけど。プレゼン、期待しても良いわけ」

「――うん」


 リナリカは頷く。


「いいもんだわ、ハグって」

「ほーぉ。その心は?」

「何て言うのかなぁ……私、めちゃくちゃ面倒くさい手続きしてさ、途中で緊急事態もあってさ。それでようやくタムロに会えたわけじゃん」

「うんうん」

「控えめに言ってバカじゃん? お金と時間を費やして、得られたモンがそれだけっていうね。でも、そんなバカなことをしても、ってか、ハイコストだからこそ、それでも待っててくれる人がいて嬉しい。つまりハグって、そういう肯定の象徴だと思った」

「……ちょっとぉ。抽象的だな」


 サクタンが頬を膨らませる。


「プレゼンなんだから、ちゃんと言語化してくれないと。要するに、難易度の高いプロジェクトだからこそ、達成したら気持ちいいみたいな話ね――」

「うん、そんな感じかな」


 いかにも仕事人間らしい表現だなと思いながら「あと」とリナリカは補足を付け足す。


「何やっても受け止めてくれる人がいるって、有り難いみたいな話」

「はいはいはい……あれ?」


 頷きながらノートを取っていたサクタンの動きが、ぴたりと止まる。


「それってヴァーチャルで再現できな――」 

「うん、だからねサクタン……私、やっぱりプロジェクト降りても良い?」

「――っはぁ!?」

「だって」


 リナリカは、膝掛けにしている白いマフラーをぎゅっと握りしめる。あのときタムロに貸してもらって、そのまま返し忘れてしまったものだ。柔らかくて、ちょっと毛羽立ってちくちくした感触は、人肌シリコンドールなんかより何倍も、あの日のことをリナリカに思い出させてくれる。


「やっぱさぁ……ハグって、そんなインスタントなもんじゃないよ。ちゃんと、頑張って会いに行ったからこその、ご褒美っていうかさぁ……」

「ちょっと待て! こら! アタシはねぇ、リナ、そんな惚気を聞くために何千ドル出してやったわけじゃ」

「じゃあ……私が払うよ。それもハグに必要なコストだから」

「待て待て。リナ、あんたは今バカになっている。落ち着いて考え直して――」


 リナリカは音声を切った。


 無音のなかで騒ぎ続けるアバターの、銀河色をした髪の毛は、オートグライダーのなかで見た夢によく似ている。








 星の真裏の309K 了

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星の真裏の309K 織野 帆里 @hosato

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