中編 銀河の夜とオートグライダー

 タムロと会うことが決まってから、リナリカの日常は一気に忙しくなった。人間が物理的に移動する必要性は、特殊な職種を除き、現在となってはほとんどゼロに等しい。そのため、一介の民間人に過ぎないリナリカが国境を越えて移動するためには、無数の煩雑な手続きが待ち受けていた。


 月曜、ヴァーチャル・オフィスをログアウトした後、夜の自由時間にて。計二十三枚に及ぶ「国外訪問願」を書き上げて、サクタンを通じ会社にもサインをもらってから入国管理局に送信。


 火曜、ヴァーチャル・オフィスをログアウト、以下略。非接触式身体スキャナを利用して、身体の精密検査を受ける。そんなところまで数字にしなくて良いから――と口を出したくなるような詳細なデータを、恥を忍んで送り出す。


 水曜、届いたワクチンキットを使って注射を三本打つ。左腕が肩から上に上がらないほど腫れ上がり、その夜は何度も痛みで目が覚める。


 木曜、旅行仲介業者と半日に及ぶ打ち合わせ。タムロの国では個人用送迎車両の台数がまだ少ないため、道中で待ち時間が発生するかもと告げられる。


 金曜、またまた書類を書かされる。この間書いたばかりなのに――と思ったが、今度は訪問先の国で何が起きてもワタクシは文句を言いません、という意味合いの念書だった。こうなるといよいよ怖くなってきて、リナリカはウェブを駆使してタムロの国の評判を調べ始めた。


 出発前夜、夜更かしして午前二時。


 ひとまず、彼の国で危険な目に遭った――という類いの書き込みは出てこなくて、リナリカはほっと胸をなで下ろした。とはいっても、そもそも渡航者のサンプル自体が五人しか見つけられなかったのだが。


「はぁ~……」


 枕に顔を埋めて、リナリカは溜息を吐く。


 この一週間、とんでもなく忙しかった。タムロに愚痴の一つでもこぼしたいが、向こうの国は真っ昼間であり、彼は地球の裏側で仕事中だ。リナリカはワンルームの床をじっと見つめて、一万と二千キロの向こう側にいるタムロの背中を想像する。


 今頃はランチタイムだろうか。


「……遠いんだなぁ」


 唇を尖らせて、呟いてみる。


 半日だけ先の世界を生きているリナリカの恋人は、ゴーグルを付ければすぐ目の前に現れる。話すことも、顔を見ることも、このワンルームから一歩も出ないままできるのに、今までずっとそうだったのに――本当は、すごく遠かったのだと、リナリカは、その日初めて気がついた。


 翌朝、午前八時。


 リナリカの部屋の前にオートグライダーがやってきた。これは、一世紀ほど前に実用化された、完全無人飛行の小型航空機である。リナリカは二十五年ぶりに引っ張り出してきたトランクと、十五年ぶりにクローゼットから出したダウンコートを持って、オートグライダーに乗り込む。


 リナリカのワンルームは地下五百メートルにあり、場所としては、国が提供している一般居住チャンバーの一角である。チャンバーの間に張り巡らされた通路は、下を切り取られた楕円に似た断面をしている。リナリカが扉を閉めて認証を済ませると、オートグライダーがふわりと浮かび上がって、ベージュ色の通路を進み始めた。


 リナリカは固いシートにもたれて、流れていく外の景色を眺める。


 地下を出るのは、ずいぶん久しぶりだ。以前、チャンバーの安全装置が誤作動を起こしたとき、アラート音が鳴り響くなか地上に避難したけれど――あれも五年、いや六年前だろうか。必要な消耗品は注文したとおりに配達されるし、健康を保つための運動もすぐ隣の施設でできるので、リナリカの生活はせいぜい半径数十メートルで閉じている。


 その領域を出れば、何か感慨めいたものを抱くかと期待したけど。


 分厚い窓ガラスに額を当てて、リナリカは目を細める。無彩色ののっぺりした壁といい、似たような景色が繰り返すのといい、吃驚するほどつまらない。飽き果てたリナリカは荷物から出したゴーグルを付けて、ヴァーチャル空間にログインした。


 ピンク色の空と海が、リナリカを出迎えた。


 最新型の液晶が実現する、圧倒的に鮮やかな色空間のなかで、現実リアルよりリアリスティックな景色が描き出される。リナリカがコマンドを打ち込むと、景色は精細にモデリングされた月面に変わり、#000000の完全な黒色で描画された宇宙に、色調を青っぽく調整された地球が浮かび上がった。


 リナリカは銀河の煌めきに目を細める。


 五感で感じ取れる世界のうち、視覚と聴覚においては、今やヴァーチャルがリアルの上位互換になった。触覚や味覚については未だ開発途中であるものの、ゴーグルに取り付けることで擬似的に匂いや味を再現できる外付けモジュールが数年前に商品化されている。


 最後に残るは触覚。


 リナリカが関わっている人肌シリコンドールのプロジェクトは、大局的に見れば、人類が触覚を再現する試みの一端と言える。物理的に距離があっても、五感の全てをヴァーチャルで満たせるようになったら、そのとき人間は完全に移動のコストから解放される――のだろうか。


 タムロの国の首都まで十五時間。


 移動時間を潰すため、リナリカはオートグライダーの座席に寝転がり、宇宙空間を舞台にしたシューティングゲームをした。途中で二時間ほどうたた寝をして、目が覚めてから今度は映画を見た。古い戦争を題材にした、全体的に埃と硝煙の匂いが漂う(外付けモジュールを使えば実際に匂いを嗅げる)九十五分の映画だ。


 最初の小競り合いのような戦闘が終わり、場面は夜の要塞に移動する。


 翌日の本格的な戦闘に備え、兵士たちがお互いの闘志を確かめ合うシーンだが、どうにも動きが乏しいので退屈だ。リナリカは目を細めて、ウォッカ片手に語り合う兵士たちから、書き割りの星空に視線を移す。


 ふぁ、と欠伸をする。


 座席の柔らかいクッションも相まって、また眠たくなってきた。耳に入ってくる、役者たちの台詞をぼんやりと聞き流していると、だんだん、夢と現実の境目が曖昧になっていく。


 リアル。

 快適で狭い送迎車両のなか。


 ヴァーチャル。

 遠い昔の紛争地帯。


 濾過されたような静謐な夜、スパンコールを撒いた星空。草むらに寝っ転がる下級兵士のリナリカは、ふと、隣に誰かの気配を感じる。


「リナ」


 タムロだ。


 ビビッドピンクのポニーテールが、迷彩柄の軍帽からはみ出している。ネコ耳は折り畳まれて軍帽のなかにしまわれている。金銀の双眸がリナリカを見たかと思うと、眩しいものを見るように細められた。


「リナ、皆のところに行かないの?」

「……行かない」


 リナリカは首を振る。


 酔っ払っている仲間の兵士たちは、うるさい上に乱暴なので、うっかり目を付けられると面倒だ。それよりは星空を眺めているほうが良い。リナリカがそう言うと、タムロは「そっか」と穏やかな口調で言った。


「……リナリカ」


 リナリカの指先に、タムロがグローブ越しに触れた。固くて毛羽立った感触が、リナリカの指の、第二関節あたりの皮膚を擦る。それからタムロの指が、リナリカの指と指の間に入ってきて、ちょっと遠慮した握力でぎゅっと握りしめる。


 固い軍靴のなかで、足の指に力がこもった。


 戦場を模した夢のなかでも、二人は恋人だった。だけど国の威信を背負った兵士でもあるから、次に太陽が昇ってくれば二人は戦場に向かう。そして、もしかしたら、二度と帰ってこられないかもしれない。


 だから最後の夜は、心残りがないように過ごさないと。リナリカもタムロも、口にこそ出さないけど、それをよく心得ているのだ。


 寝転がっているリナリカの身体に、タムロが覆い被さる。耳に引っかかっていた髪の毛がひらりと垂れて、リナリカの頬をくすぐった。


「リナリカ、抱きしめても良い」


 顔が近づいて、耳元で囁く。


 リナリカはちょっとだけ勿体ぶってみせてから「良いよ」と答えて起き上がる。荒々しく伸びた草むらが、つないだ二人の手をちくちくと刺す。少し涼しい夏の夜だった。天球は藍色から濃い水色までのグラデーションに彩色されて、そこを横切る天の川が宝石のようで。


 バイオレットのレンズフレアが、世界を揺らがせる。星光りからこぼれる虹色のゴーストに導かれるように、リナリカは恋人の首に手を回して、ゆっくりと身体を近づけた。


 漸近。

 そして、距離がゼロになる。


 キラキラに彩られた銀河の真ん中で、二人のために美しく飾られた舞台で、映画のヒロインはヒーローと抱き合った。


 そんな、夢だった。


 リナリカはうたた寝から目覚める。映画はもうとっくにエンディングを迎えていて、ブラックアウトしたゴーグルの液晶画面がリナリカの入力を待っていた。変な姿勢で寝たせいかギシギシと軋む腰を伸ばしながら、リナリカは夢の内容を頭のなかで反芻した。


 まだ、少し胸がドキドキしている。


 それほどロマンチックなハグだった。映画で言うなら、きっとあれはクライマックス。美しい音楽や映像や、ハラハラする演出で観客の想像と期待を掻き立てて、頂点まで達した緊張を解き放つ瞬間――それが、あのハグだ。


 リナリカはゴーグルを外して目をこする。


 オートグライダーの窓は目隠しが降りていて、外の景色は一切見えなかった。事前の説明でも、機密保持のため、地上の景色は基本的に見られないと聞いていたので、そういうことだろう。はぁ、と溜息を吐いて、リナリカは狭い機内の天井を見上げた。


 退屈で地味なのが、現実リアルだ。


 それは別に、文句を付けるようなものではない。むしろ、リナリカの先祖たちが代々力を合わせて、地味なリアルを彩るべくヴァーチャルを発展させてきたのだから、リナリカたちは有り難くその成果を享受すべきなのだろう。


 ――でも。


 今からリナリカは、恋人とリアルでハグをしにいく。そのリアルのハグは、多分、夢で見たハグほどドラマチックではない。だって、あんな美しい景色は地上のどこを探してもないし、戦場に向かうような物語性も持っていないから。


 じゃあ。


 リアルのハグの価値って、何だろう?


 リナリカは考える。


 リアルを脚色したのがヴァーチャルだ。言い換えればリアルは、ヴァーチャルを構築するための下書きとか、叩き台みたいなものと言えるかもしれない。リアルにあるものを分析して、その長所をパラメータにして、より強調したものをヴァーチャルで再現する――そんな一連のフローのなかで、今リナリカに与えられているのは「リアルなハグの魅力とは、パラメータで表すなら何と何?」という問いなのだ。


 タムロとリアルで会うことで、その問いに答えが出れば良いのだが――どうにも前途多難な気がしてリナリカが額を抑えた、そのときだった。


 突然、ガタッという衝撃に襲われた。


「な……何々?」


 それまで微動だにせず飛行していたオートグライダーが揺れる。慌ててリナリカが座席にしがみついたのと前後して、壁に付けられたスピーカーから声が流れ出した。


「お客さん、すみません。こちら管制室です。ちょっと、天候荒れてまして――」


 曰く、天候不順のためにオートグライダーの飛行が困難になり、目的地より一キロほど手前で不時着する運びになったという。リナリカに事態を説明してみせるオペレーターの口調は淡々としていて、あまり焦っている様子はない。


「こういうこと、良くあるんですか?」


 リナリカが問うと、オペレーターは「そうですねぇ」と相槌を打った。


「冬場は、どうも多いですね。この季節、山肌に風が吹き付けたのが、ぐるぐるっと渦を巻いてね――軽いグライダーだと舵を取られちゃうんですわ」

「へぇ……」


 なんだか専門的な説明をされた気がするが、上澄みしか頭に入ってこなかったので、リナリカは理解できた部分を口に出す。


「今、冬なんですね」


 地下にいると、季節を自覚することは少ない。リナリカの返事に、オペレーターは面白そうに笑い声を立てながらも「最近の人は、みんなそうですね」とどこか寂しそうに答えた。

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