星の真裏の309K

織野 帆里

前編 夕陽のビーチとハムエッグ

 生まれて初めて、恋人に会いに行く。


 もちろん経費で――である、そうじゃないと無理だ。リナリカ名義の口座には常にギリギリの額しか入っていないし、仮にリナリカが世界を闊歩する大富豪だったとしても、リアルで他人に会いに行くのは、ヴァーチャル技術が発展した現代、よほどの物好きでもない限りしないことだ。


 そんな現代にて、何の因果だろうか、リナリカは一世一代の大旅行をしている。リアルなハグの魅力を知るという、ただそれだけの目的のために。

 

 ***


 ある日の午後五時半、ヴァーチャル・オフィスをログアウトしようとしたリナリカは、同僚のサクタンに誘われた。曰く、遠地のワインをわざわざ入手したから、自分が酔い潰れないよう見守っていて欲しいのだと。リナリカは「これから料理するんだけど」と言い、サクタンは「それでも良いから」と食い下がったので、リナリカはフルフェイス・ゴーグルを半透過モードに切り替えた。リアルの狭いワンルームと、ヴァーチャルの世界が半々で重なり合う。


 フライパンに油を敷く。


 じゅうっと湯気が上がり、ゴーグルの前面が白っぽく曇る。


 一方ヴァーチャルの世界では、サクタンが夕陽の綺麗なビーチを背景にワインを飲んでいる。だが、彼女のアバターは襟足を刈り上げたスパイラル・ヘアに、髪の色は「銀河色」とかいうサイケデリックな青紫で、おまけに顔にはピエロのような化粧をしているので、瀟洒なサンセットビーチにはあまり似合わない。どうにも絵面が情報過多だ。サクタンの顔に被せるようにハムエッグを焼きつつ、取るに足らない仕事の話をしていると「そういえば、さぁ」と彼女がこちらに水を向けた。


「プレゼン、来月でしょ」


 サクタンが油溜まりのなかからこちらを指さす。


「この間さぁ……データは詰めたけど、なんか心に訴えかけるモンが足りない、みたいな話してたじゃん」

「あー……」


 リナリカは天を仰ぐ。

 あまり気乗りのする話題ではなかった。


 リナリカの仕事は、シリコン樹脂を利用した商品のデザインである。特に最近、口コミで有名になった商品が、温熱コントローラをふんだんに仕込んだ樹脂を利用して作られた、等身大サイズかつ人肌にぬくいドールだ。人と人が直接会うことが稀になった昨今、物理的に緊密な太古のコミュニティを愛した老人たち(御年おんとし三世紀を越えた生きる化石)が、往時を偲ぶツールとしてそういうものを求めているのだ。


 リナリカたち若者には理解しがたい需要である。


 しかし、仕事なので。


 老人どもの郷愁を、明日の食事にするために。どうにか、人肌シリコンドールの需要を訴えなければならない。


 どう、とサクタンがこちらを見る。彼女はこう見えて仕事人間なので、今日ワインにかこつけて呼び出したのも、本当はこれが目的かもしれない。


「行けそう? リナ」

「いや」


 リナリカは首を振った。ちなみにフルフェイス・ゴーグルを着用しているので、そのモーションはリナリカのアバターの動きに変換されて、回線の向こうにいるサクタンにも見えている。


「なぁんも、分かんない」


 リナリカが素直に答えると、ぶはは、と噴き出すような笑い声がスピーカーから飛び出した。歯に衣着せない言い方がツボに入ったのか、サクタンはひぃ、ひぃと死にそうな呼吸をして笑っている。


「はーぁあ」


 リナリカは溜息を吐いて、焼き上がったハムエッグをプラスチックの皿に移す。


「いやぁ……自分が要らないものを売りこむって、きっつい」

「だからぁ――パッションよ、パッション! そもそもドールなんて娯楽品なんだからさぁ、あっコレちょっと欲しいかもなぁ、家にあったら楽しいなぁって思わせたら勝ちなんだって。リナの要る、要らんは別の話でしょうよ」


 アバターの手をぶんぶんと回して話すさまは、まさしくピエロのようだった――いや、実物を見たことはないが。


「パッションねぇ……」


 リナリカは呟く。


 アルコールがもう回ってきたのか、サクタンの弁舌は、理屈も発音もどうにも甘めだった。しかしながら納得できる部分もある。端から娯楽品なのだから、一発でかいハッタリをぶちかまして、相手の思考回路がバカになったところで「欲しいでしょう」と囁けば、まあ場の流れで「買った!」となる――ならないだろうか?


 ――ならないかな。


 世の中、そこまで甘くない。リナリカは自問自答した挙げ句、自分自身の悲観的な部分に打ちのめされて、リビングの低いテーブルに突っ伏した。


「あぁぁ……」

「まあ、頑張りなや」

「もう辞めたぁい……」


 ついに取り繕いきれなくなった弱音を吐き出すと、スピーカーの向こうからまたサクタンの爆笑が聞こえてきた。リナリカは溜息を吐いて起き上がり、少し焦げたハムエッグをフォークで切ってもそもそと頬張った。


 塩と油の、大雑把な味が広がる。


 そう、たとえば――食糧の代用品というのなら、まだイメージできるのだ。味とか香りとか栄養素とか、評価すべきパラメータがいくらでも思いつくから。でも人肌シリコンドールは違う。あれを老人たちは人肌の代用品というが、リナリカたちの世代はそもそも、なぜ老人たちが人間の体温を有り難がっているか、それが分からないのである。


「あぁぁ……何だよ人肌って、くそぉ」


 考えたら次第にイライラしてきて、リナリカがテーブルの天板に爪を立てていると、サクタンがゴーグルのなかで振り向いて「リナは」と心なしか真面目なトーンで言った。銀河色の髪に夕陽のフィルタが反映されて、なかなか煌びやかである。


「最後に誰かと接触したのって、いつ」

「んん? えっと……二十五年くらい前に、入国審査受けたときかな。あのころ、まだ非接触スキャナなかったしね――って言っても、グローブ越しだけど」

「あぁうん……やっぱ、誰しもそんなもんだよね」


 サクタンが頷く。


 スピーカーの向こうから、コツン、という硬い音が聞こえた。ワイングラスを置いた音だろうか――などと考えていると「よっし!」という掛け声とともに、沈む夕陽(のCG画像)を背負ったサクタンがリナリカを指さした。


「プロジェクトリーダーとして、リナに一週間のお休みをあげましょう」

「はぁ!?」


 完全に予想外な一言に、リナリカは口からハムの欠片をこぼした。休暇はもちろん嬉しいのだが、このサイケデリックなピエロが何の裏も無しにそんな提案をしてくるわけがない。


「その代わり」


 ほら来た。

 にや、とアバターの目元が歪む。


「経費出してあげるから、リナはその時間を使って、恋人に会いに行くこと」

「……はっ?」


 口から空気の塊が飛び出した。


「え、リアルで!?」

「もっちろん。そんでさぁ、人肌のなにが有り難いのかってのを、体感的に学んで来ちゃってくださいよ」

「いっ……いやいやいや、それはおかしいって」


 リナリカは冷や汗をかいて口を歪めた。


 そう、リナリカには恋人がいる。


 古いアニメーション映画の考察を語るスレッドで、偶然知り合った相手だ。タムロというハンドルネームの彼は、経済ニュースのライターというお堅い仕事をしているが、リナリカとよく趣味が合った。彼には理解できないだろう、シリコン樹脂系メーカーの愚痴も、ニコニコと笑って聞いてくれる。リナリカの日常で何か嫌なことがあっても、彼――タムロに話せば精神的には折半できる。彼の包容力というか、懐の深さがリナリカには有り難くて、まあ有り体に言えば大好きなのだった。


 ただ、この世代のニュー・スタンダード、いやリナリカたちにとってはそれが「スタンダード」なのだが、タムロとはヴァーチャルでしか会ったことがない。キスだのハグだのセックスだの、身体的接触で愛を確かめ合う時代は終わったのだ。翻訳ソフトを通じて聞こえる声と、ヴァーチャル世界に浮かぶアバター、そして交わし合う言葉がタムロという男の全てだった。


 直接会おうだなんて、考えたこともなかった。


 猛然と反抗したリナリカに、サクタンは「そぉ?」と首を傾げてみせる。


「わりと妥当な采配じゃん。知らないから、学んでこい。そう言ってんの。アタシは相手いないし、プレゼン担当はリナだし、ほらぁ適任」

「いや横暴だって、越権だって!」


 リナリカはぶんぶんと手を振り回したのだが、サクタンは「そんなに横暴かねぇ」とワイングラス片手に腕を組む。


「だって、プレゼン詰まってるんでしょ? じゃあ聞きますけど、リナちゃんは何もないところから、ズバッと来るような売り文句を捻り出せるんですかぁ」

「……うっ」


 からかうような口調で痛いところを突かれて、リナリカは肩を縮める。たしかにアイデアが煮詰まっていたのは事実だ。しかも経費持ちに休暇付き。リナリカ自身の懐は痛まないのだから、見かけ上は何も失っていないように見える。


 だけど。


「うぅん……」


 リナリカは足をじたばたと動かしながら、フローリングの床に倒れ込む。直接会うということ――アバターもボイスチェンジャーも機械翻訳も通さずに会うということが、タムロという男の印象を変えてしまうのではないか。


 幻滅……してしまうのでは、ないだろうか。


「どうよ?」

「……ちょっと考えさせて。また明日」


 サクタンの言葉に曖昧な回答で返して、リナリカはヴァーチャル・オフィスからログアウトした。切断する直前に「まだ話は終わってない」とサクタンがわめいていた気もするが、酔っ払いの妄言だと思って気にしないでおく。リナリカは食べ終わった皿をキッチンに戻し、そのままベッドに引き返してごろりと転がった。


「リアルで会いに、ねぇ」


 天井を見つめて呟く。

 無茶苦茶なことを言い出すものだ。


 タムロの住んでいる国は、ほぼ地球の裏側にある。その時差は実に十一時間。国と国との主要都市同士を行き来するだけでも丸一日かかるし、費用は片道でも千ドルを超える。サクタンは今回のプロジェクトにかなり熱を上げているようだが、それだけ時間と資金を費やしたところで、最悪の場合リナリカが恋人に幻滅しただけで終わるのだ。


「……はぁ」


 重々しい溜息。


 嫌な想像がいくつも浮かんで消えた。だが、どれだけ頭のなかでぐるぐるとシミュレートしたところで、リナリカの想像力には限りがある。リナリカはベッドから起き上がって、外していたゴーグルを付け直した。


 とりあえず、彼に相談してみよう。


 それでタムロの方から断ってくれば、それを口実としてサクタンに突きつければ良い。金で雇われているリナリカはともかく、タムロにはプロジェクトに協力する義務などないのだから。


 時計を見ると、午後七時半。


 いつもより三十分ほど早いが、タムロに連絡してみることにする。リナリカはゴーグルのスイッチを切り替えて、ヴァーチャル世界のメルヘンで牧歌的なダイニングにアクセスし、地球の裏側にいる恋人を呼び出した。


 二分後。


 木製の丸い窓の手前に、見慣れたアバターが現れる。ビビッドピンクの髪の毛をポニーテールにして、濃いアイラインで縁取られた目の色は金と銀のバイカラー。頭から生えている髪の毛と同じ色のネコ耳――サクタンに負けず劣らず派手なアバターが、半開きの目でこちらを見た。


「――リナ?」

「おっはよ、タムロ」


 リナリカは手を振ってみせる。


 おはよう、と応じるタムロの声はいつもながら眠たそうだった。彼は寝起きが悪いので、リナリカが毎日こうして起こしてやっている。タムロが無事に目覚めてからオフィスに出社するまでの一時間ほど、リナリカは彼が朝の支度をするのを見守りつつ、雑談やら愚痴やらを聞いてもらうのである。


 タムロは時計を見て「まだ早いよ?」とぼやいたが、特に文句を言わずに起き上がって朝の支度を始めた。顔を洗う三分間だけタムロがゴーグルを外すので、リナリカはその時間、足をぶらぶら動かしながら彼の帰りを待つ。


 ――どうしよう。


 リアルで会いに行くよう言われた、とタムロに伝えてみようか? そうしたら、彼は何と答えるだろう。経験上タムロは、場を円滑にするための嘘などはあまり吐かない。従って、会いたくないのであれば、多分ストレートに断ってくる。


『リアルでは会いたくないかな』


 そう言われるところを想像してみると、胃がひゅんと竦んだ。うわ、とリナリカは思わず口元に手を当てる。なんだか後ろに突き飛ばされたような気分だった。別にリナリカだって、リアルのタムロと会いたいわけではないけど。「会いたくない」とはっきり言葉に出して拒絶されたら、それはそれでかなりショッキングだ。


「うぅん……」

「お待たせ、リナ」

「ひゃ!?」


 考えあぐねているところに、突然タムロが戻ってきたので、リナリカは思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。タムロが金銀の目を細めて「どうしたの」と問いかけた。


「なんか今日、元気ないよね」

「いや――実はさぁ、うちの同僚に」

「うん?」


 優しい声音が続きを促す。


 そう、この声のトーンが好きなのだ――ボイスチェンジャー越しではあるけど、まろやかで相手を責めない丸っこい声音。だからこそリナリカはひとつ唾を飲み込んで、えへへ、と困ったような笑い声を作ってみせた。


「……プレゼン、早く作れって急かされてて」

「ああ……大変だね」


 トポポ、と珈琲を淹れる音とともに、タムロのアバターが眉を下げてみせる。ここで彼が「何のプレゼン?」とか聞いてこないのは、相手の仕事にはお互い干渉しない――というのが、二人の不文律になっているからだ。


 でも、今日は聞いて欲しかった。


 そうすれば、自然な話の流れで、リアルな身体的接触についてどう思う――と尋ねられるのに。リナリカは労働で疲れた頭を捻って、どうにか、彼の口から間接的に「会いたい」もしくは「会いたくない」を引き出せないか考えた。


「――タムロ」


 ぎゅっと胸元で手を握る。


「あのさ……私のリアルの顔って、見てみたいとか思う?」

「リアルのリナ?」


 ぱち、とタムロがひとつ瞬きをする。


「見てみたいってか、知ってるよ俺。リナんとこの会社の、公開データベースに画像があるじゃん」

「あ、あれ――古いし。入社のときに撮った、二十年前のやつ」

「そんなに変わんないでしょ?」

「そ……そうだけど」


 リナリカは言い淀む。


 聞きたかったのとは違う方に、話の流れが行ってしまっている。すると、ヴァーチャルなリビングで、タムロのアバターがこちらに手を伸ばした。リナリカが付けている簡易ゴーグルと違って、タムロのは全身の動きに対応しているから、そういうことができるのだ。


 アバターの指先が首を抱き寄せる。

 顔の近さに、思わず背中に力がこもる。


「……リナリカ」


 心なしか真剣なトーンになったタムロが、目の前で言った。


「なんかあったなら、ちゃんと教えて。なんか悩んでるのかなって思うけど、俺、察しはあんまり良くないから」

「……うぅ」


 頬がかぁっと熱くなった。


 タムロのまっすぐな言葉に、リナリカは弱い。結局、サクタンから命じられた出張の内容を、守秘義務に抵触する部分を除き、全てありのまま吐き出してしまった。


「なるほどね。それで、困ってたんだ」


 星の真裏にいる恋人は言う。


「俺は良いよ。リナに会ってみたい」

「えぇ!」


 思っていた以上にあっさりとした返答に、リナリカは目を剥いた。「良いの」と素早く問い返すと、タムロは頷いてみせる。


「だって、会ったことないよりは、会ってみたほうが、知らなかったことが知れそうだなぁって思うし」

「そ……そっかぁ、うん、まあ確かに……」

「でも、こっちまで来るの大変だと思うし、危ないこともあるかもだから……リナが不安なら、俺からも、その出張を取りやめてもらうように、なんとか同僚の人に言えないかなぁ……」


 タムロは真剣に考え込んでいて、リナリカは本当のことを告げるタイミングを逃してしまった。


 ――違う。


 お互いの距離の遠さとか、道中の危険とか、そういう理由でタムロに会うのを渋っているわけではない。もっと失礼な――タムロとリアルで会ったら幻滅するのでは、という理由なのだ。


 リナリカはゆっくりと背筋を伸ばした。


「……タムロ」

「うん?」


 やっぱり会ってみたいな。


 リナリカがそう言うと、タムロは喜ぶよりも先に「本当に大丈夫?」と不安そうに訊いてきた。そうだ、彼はこんなに優しい人なのだ。この優しさは、ヴァーチャルで作られたものではない――きっと、そう。だから、リアルで会っても平気なはず。

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