第12話 夏草の記憶

 連日のようにギラギラと照りつける太陽をよそに、風を切って進む自転車が一台。その自転車に跨る少年の影は、強い日差しが作り出した逃げ水を追いかけてどこまでも進む。

 小学校から西方向に5分ほど自転車を走らせ、間もなく見える寂れた小さな農場を過ぎると民家はほとんど見えなくなった。その道をさらに進むと、左手側に見えていた田んぼも姿を消し、代わりに雑木林が現れ始める。そして右手側一帯には水面が広がっていて、水面からは取水塔と思われる三角屋根が顔を出している。


 そこは貯水池だった。小学校からそれほど遠くない位置にあり、普段は地域住民の目もほとんどなく、見慣れない人工物が点在しているその場所は、小学生からすればロマンの溢れる場所だった。秘密基地というほど大層なものでもないが、少し大人の管理下から逃れて道草を食う、そういった子どもの好奇心というか反骨心のようなものを満たすのにはちょうどよかった。とはいえ、そこの存在は全ての児童が知っていたわけではなく、とりわけ頻繁に寄り道をして帰るような児童だけが知っているという隠れ家感も確かにあった。


 道を進んで行くと、やがて溜まった水を河川へ放流するための余水吐が見えてくる。そこから河川の管理道をさらに進むと、小さな監視塔が姿を現す。管理道の法面からせり出すように河川側に伸びた細い通路の先、ちょっとした柵で囲まれただけの簡潔なスペースに計器のようなものが設置された小さな小屋が建っている。小屋には鍵がかかっていて入ることはできないが、小屋の側面に取り付けられた梯子から、登ろうと思えば誰でも屋根上へ上がれるようになっている。


 私は自転車を降りてその梯子を登る。水の流れは穏やかにどこまでも続き、やがて地平線で空と交じる。対照的に、向こう岸の雑木林は青々と茂っていてほとんど先を見通せない。

 敢えて建物の上に登らずとも、見える景色にそこまで違いはないだろう。しかし、このたかだか数メートルは何百メートル以上も空に近づいたような錯覚を起こす。そんな感覚を幼心に抱いたことを思い出した。

 私は河川側の屋根の縁に腰掛け、足だけを下にぶらんと垂らす。



 高校が夏休みに入って二週間。二ツ谷高校で連日行われていた補習授業も、先週の金曜日を最後にしばらく予定されていない。

 そして私は、あの日から真綾には会っておらず連絡もとっていない。


 結局、私は真綾に対して、ルナの正体についての嘘を吐き通した。わざわざそれを明かす必要がないと思った。

 真綾はルナに対して一種の憧れのような感情を抱いている。ルナはもともと私の理想を詰め込んだキャラクターであったが、それは真綾の理想でもあった。そして、それと同時に、ルナは翠への罪悪感を払拭するキーパーソンでもあった。

 つまり、真綾にとってはルナの存在は嘘でない方が都合が良いのだ。ここでルナの正体を明かしたところで、私が少しだけすっきりする以上のメリットは見出せない。

 だから、真綾とルナとの交友も幻想と消えたわけではない。ただ、ルナとして初めて出会った楢崎でのイベントの日、あるいはその後で二ツ谷駅で再会した当初くらいの距離感に戻っただけだ。


 あの日、真綾は『翠と付き合っていたのがルナだったから諦めがつく』という旨の発言をしていた。それはそれで事実ではあるのだろうが、それが全てではないように思えた。

 真綾はきっと、ルナに負い目を感じてほしくはなかったからああいう風に言ったのだ。状況はまるで違うが、彼女がかつて翠に抱いたような罪悪感を、今度は自分が負わせる側になることが許せなかった。

 だから、あの日のことは真綾にとっての“清算の儀”だったのだ。ルナに対して、翠に対して、そして真綾自身に対しての。


 ルナとして一緒に過ごしていたときの真綾は、かつての記憶の中の彼女よりずっと大人だった。そのことが年月の経過をひしひしと感じさせる。

 彼女はもう中学までのように、近づくもの全てに噛み付くような生き方をしていないし、その必要もないのだろう。私も同様に、今はルナとしても翠としても特に大きな不満のない環境に身を置くことができている。

 それでも私たちはお互い、中学時代に取りこぼしてしまったなにかを取り戻そうともがいていた。この河に流された夏草のように、沈まぬように腐らぬように、行き着く先も見えぬまま。それがこの夏の、ルナと真綾が過ごした記憶だ。


 その結果として、私たちは目的のものを取り戻せたわけではない。ただ、それに執着する魂を解き放つことはできた。


 そうであるならば、私の気まぐれで始まった真綾とルナとの交友関係も、全くの無意味ではなかったのだと思いたい。

 


 私は座ったままひと伸びして空を仰ぐ。青一色のキャンバスに水で薄めた白い絵の具で雑に二、三度筆を往復させたような、そんな景色が視界を埋め尽くす。



 不意に背後で自転車のブレーキ音が鳴り響いた。こんなところに来る人間など、河川管理者か山菜採りの通りがかりか、そうでなければそれこそ下校中に道草を食った小学生くらいのものだ。今は山菜のシーズンではないから二つ目の可能性は低いし、夏休み中ということもあって三つ目の可能性も低い。

 音の方を振り向くも、ちょうど建物が死角となって今いる場所からは見えない。足音は梯子を登る音に変わり、金属音がリズミカルに反響する。


 間もなくして屋根上に降り立ったのは、切り揃えられた黒髪とそこから覗く大きな瞳が特徴的な少女だった。


「え……真綾……? なんでこんなところに……?」


 私は予想外の来訪者に思わず声を漏らす。


「なんでって、あたし気分転換にたまにここ来るの。あんたもそのクチじゃないの? ま、今日は珍しく先客がいたから、よっぽどやめて帰ろうかとも思ったけどね」


 真綾はそう言いながらこちらに歩いてくる。そして、すぐそばで立ち止まると一呼吸する。


「久しぶり……中学卒業して以来かな。あんたに顔合わせられるようになるまで、暫くかかっちゃった」


 彼女は風に吹かれる髪を耳にかけながら言う。その風は雑木林の葉を数枚巻き上げ、舞い上がった葉は昼下がりの陽光で銀色に煌めく波間に落ちる。


 暑さで少し蒸気する彼女の口が得意げに綻ぶ。それはいつの日か、一人で遊んでいた少年をごっこ遊びに誘ったときのようで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

放課後☆ルナティック〜居残り〜 茶渋 @cha_shibu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ