第2話 Hello Harbor Lights
機が上下に揺れていた。
目を覚ました私は、座席にあるモニターを地図表示に切り替えた。あと少しで赤道だった。もう一眠りしようと思ったがどうしても眠れず、目をつぶったまま揺れに身を任せていた。
逃げるようにして、日本を発ってきた。まずかったかな、と思う。写真家としての生命は、これで絶たれるかもしれない。しかし、これで良かったのだという、別の声も聞こえてくる。とにかく今は、答えを曖昧にしておきたかった。
赤道を越えて2時間くらいすると夜が明け始め、機内食が配られ始めた。乗客の大半は若いカップルだった。私だけが、どこか場違いな感じを受ける。なにも、ここだけに限った話ではない。日本にいても私は場違いだった。
完全に夜が明けきった頃、機はヌメア・トントゥータ国際空港に着陸した。タラップを降り、深呼吸する。ニューカレドニアの空気に、ジェットエンジンの排気ガスの匂いがからみつく。その香りを楽しみながら、ゆっくりとターミナルビルへ歩いていった。
預けていた荷物を受け取り、税関を抜けてレンタカー・オフィスへ向かう。予約しておいたはずなのに、どういうわけかまだ車が用意されていなかった。他の観光客たちは、ツアー会社が準備した観光バスに分乗して消えていった。私一人だけが、ガランとしたロビーに取り残された。
20分ぐらいして、ようやく車が用意された。ちょっと古めのプジョー205だった。少しエンジンをふかしてみる。アイドリングがやや不安定だが、問題は無さそうだ。スーツケースとカメラバッグを後部座席に放り込み、運転席に潜り込む。
ヌメア市内へ向かう1号線は、いつ走っても快適な道だ。私はプジョーの様子を見るため、時速100km程度で軽く流した。窓を全開にし、エンジン音や各部から発生する音に耳を傾ける。リアサスペンション付近から軋み音がするが、プジョーだとこんなもんだろう。
車の状態に満足した私は、速度を上げた。が、時速140kmぐらいで頭打ちとなり、それ以上加速しなくなった。滞在中はこの車と付き合わねばならないので、壊すとまずい。私は速度を100kmまで下げた。
しばらく走ると、観光バスに追いついた。私と同じ機で到着した観光客が乗っているバスだろう。前方に車がいないのを確かめて、左側から追い抜いた。すぐその後、同じく観光バスを追い抜いたシトロエンが、ついでに私も追い越していった。まったく、こちらは飛ばす連中が多い。
30分ほど走って市内に近づくと、料金所がある。まるでヌメア市内へ入るための関所みたいな感じだ。そこで150フラン支払い、ヌメア市中心部へと乗り入れる。ポート・モーゼルの駐車場まで走って車を止め、朝市のカフェで朝食をとることにした。
クロックマダムの朝食を終え、スタンドでカフェオレを飲んでいると、いきなり背中をどやされた。
「なんだ、知った顔の東洋人がいると思ったら、ロジャーか。久しぶりだな。こっちへ来てたのか?」
「アランか。たった今着いたところだ。バーのピアノ弾きが、こんな早い時間に何をうろついているんだ?」
「最近は昼間も働かないと食っていけないのさ。朝市でバイトしてる」
「どこも不景気なんだな」
「日本は景気いいんだろ?」
「沈没寸前だよ」
「へぇ、それは意外だ。日本人観光客を見てると、そうは思えないけどな。いいホテルに泊まって、金をたくさんばらまいていく。それで不景気だって言うんなら、いっそ日本に移住したいぐらいだ」
「隣の芝生は、青く見えるもんさ」
「あんたも、ここが青く見えるかい?」
「海も空も、日本よりずっと青いな」
「そう、それだけは俺も保証するぜ。ところでホテルは、またメリディアンか?」
「そうだ。だけど、あそこに泊まれるのも今回が最後かもしれない」
「ほう、日本流不景気ってやつだな」
「今も毎日メリディアンで弾いてるのか?」
「今は火曜と金曜だけさ。ニューカレドニア流不景気ってやつだよ。また聴きに来てくれるよな?」
「ああ、今夜行くよ」
仕事へ戻っていったアランの背中を見送り、私は朝市のカフェを出た。車に戻ったが、特に行くあてはない。そもそも、ニューカレドニアに何の用事もないのだ。なのに、こうして来てしまっている。シートを倒し、ぼんやりと日本でのことを考えた。
世話になった出版社からの依頼を断った。信じてもいないことを写真には撮れない。編集長から仕事の話を持ちかけられたとき、考える前にそう言ってしまっていた。
誰のおかげで、ここまでなれたと思っているんだ。写真業界で顔の利く編集長のその言葉は、重かった。確かに、恩はある。しかし、すでに返したと思っている。結局、私は首を縦に振らなかった。その仕事を受けたら、自分が自分でなくなってしまう。そんな気がした。
仕事を断った影響は、すぐに現れた。旅行雑誌の連載が打ち切られ、出版予定だった写真集が立ち消えになった。
無謀なことをしたもんだ、と写真家仲間から言われた。確かにそうかもしれない。しかし、心を写す写真家と言われている私が、心にもないものを撮ることは出来なかった。信念という、組織に属さない者が唯一拠り所とすべきもの。それだけは、失いたくなかった。愚直過ぎるのはわかっているが、元来、あまり器用な方ではない。
コンコンと、車の窓を叩く音がした。シートを起こしてみると、アランが立っていた。
「おいロジャー、まだこんなところにいたのか?」
「ぼんやりと、ヨットを見ていたんだ。仕事は終わったのか?」
「終わったよ。どうせメリディアンまで行くんだろ? だったら、乗せていってくれよ」
助手席のロックを解除してやった。アランが乗り込んでくる。そのとき、アランの左手が微かに震えた。おや?と思ったが、気にしないことにした。
「まだ昼飯を食ってないんだ。メリディアンの前に、どこか寄ってくれ」
「しようがないな。私はさっき食べたところなんだぞ」
「カフェオレぐらい奢るさ」
私は車を出した。海岸沿いに走らせる。アンスバタで車を止め、しばらく海を眺めた。アランが何か言ったが、私の耳には入らなかった。
なんでもない海だった。しかし海からの風がサッと吹いたとき、私の視界はぼやけ始めた。ここの海は、どうして私の心を震えさせるのだろう。海だけではない。アンスバタの海を渡ってくるこの風が、どうしようもなく私の心を揺らしてゆく。
アランの声が、ふいに私を現実に引き戻した。
「どうしたんだ、そんな目で海を眺めて? 目にゴミでも入ったのか?」
「いや、なんでもない。それより、Le FARE でいいか? 久しぶりに、あそこのカフェオレを飲んでみたい」
「ああ、いいよ」
私たちはテラスに席をとった。アランはチーズバーガーにエスプレッソ、私はカフェオレだった。また、アランの左手が震えるのに気づいた。じっと見ているのに気づいたのか、アランが左手を開いたり閉じたりしながら言った。。
「俺が、なんでメリディアンで弾くのが週2回になったかわかるか? この左手のせいなんだよ。こいつのせいで、うまく弾けねえんだ。それで、減らされたのさ」
「一体どうしたんだ?」
「医者に診せたら、神経の病気なんだそうだ。原因はわからないし、放っておくと使いものにならなくなる。ただ、手術すれば五分五分の確率で治るらしい」
「五分五分か。あとの半分は?」
「動かせるようにはなる。ただし、ピアノは弾けなくなる」
「放っておいても、手術に失敗しても、ピアノが弾けなくなるのか」
「そう。だから、手術をしてあとの半分に賭けてみるのさ」
「すると…」
「手術は明後日だ。だから、今夜のステージが終わると、しばらく休業さ」
アランと知り合ったのは3年前、撮影のため2度目にニュー-カレドニアに来たときだ。メリディアン・ホテルのロビーを歩いていたとき、バーの方から流れてきたピアノに、私は足を止めた。曲は「ハロー・トゥモロー」だった。メリディアンのロビーにあるバーは、どこか開けっぴろげで、落ち着けそうになかったので、それまで避けていた。しかし、その弾き方や間の取り方がどこか気になって、ふらりとバーへ入っていった。
弾き終わった後、私はひとり拍手をしていた。ピアノ弾きが私を見て微笑み、リクエストはないか、と聞いてきた。で、私はボズ・スキャッグスのハーバー・ライツと言った。
ピアノ弾きが奏でるハーバーライツのメロディに合わせ、心の中で歌詞を呟いていた。ハーバーライト、心地よい微風が、私を夢に引き戻す…私はふいにやりきれなくなり、そのままバーを出ていった。プールサイドを抜けてビーチに向かい、夜の海を眺めていると、ピアノ弾きがやってきて私に話しかけてきた。
「ここの海が好きか?」
「海だけでなく、風と空も」
「俺もここの海は好きだ。ところでさっきのピアノ、気に入らなかったのか?」
「いや、その反対さ。気に入ってしまったために、やりきれなくなるということもある」
「複雑だな。ところで、俺はアラン。ピアノで世界に羽ばたくことが、俺の夢なんだ」
「私はロジャー。夢なんか、とっくの昔に忘れてしまっている」
その後、私はアランのピアノが聞こえると、バーに入っていくようになった。私がリクエストした曲を弾き、そして私が気に入ったらギムレットを奢る。それが、二人だけの暗黙の取り決めになっていた。
アランに何杯のギムレットを奢っただろうか。そんなことを考えていると、ふいにアランが呟いた。
「夢を抱えながら生きていくのって、辛いもんだな。この歳になると、嫌と言うほど身にしみるよ」
アランの言葉が、自分のことのように重くのしかかってきた。夢。本当に自分は、忘れてしまったのか。夢を忘れるために、しばしばここに来ているのではないのか?
Le Fare出たあと、私はアランをメリディアン・ホテルまで送り、ついでにチェックインも済ませた。部屋は、いつものとおりアメデ島が見える海側。陽も暮れかかり、アメデ島の灯台が明滅し始めるのをバルコニーから眺める。以前、マリーDのキャプテン・ベルナールが言った「道標」と言う言葉が心をよぎる。アランは、夢という道標を決して忘れていない。それが羨ましく感じられ、しばし切ない思いに駆られた。私も、できれば夢を追いたい。しかし、それをやるにはもう遅すぎる。
ホテルのレストランで夕食を済ませ、バーを覗いてみた。アランが、今まさに弾き始めようとしていた。私が入っていくとアランは軽く手を挙げ、メジャーナンバーを何曲か弾いた。その合間に客のリクエスト曲をまじえる。
ステージの最後の方で、アランが私の方を向いて言った。
「リクエストはありますか、お客さん?」
「ボズ・スキャッグスのハーバー・ライツを」
「今夜に相応しい曲ですね。弾き語りをさせて貰いますが、よろしいですか?」
「ああ、やってくれ」
アランはしばらく目を閉じて、そして静かに歌い始めた。
…I was bound to wander from home
Stranger to whatever I'd awaken to
Spun the wheel took shut in the dark…
…Something about the harbor lights is calling me…
…Doesn't seem so far away
Keep the change, but I'll repay these memories…
アランは歌い終えると立ち上がり、一礼した。私は大きく拍手した。一人だった。しかし、徐々に周囲も加わり、そのうち全員が立ち上がって拍手し始めた。これがアランの最後のステージだということは、私しか知らないはずだ。しかし、他の客にも何かが伝わったのだろう。これまでで、最高のピアノだった。
頭を下げていたアランが顔をあげた。頬が濡れていた。
私は、アランにギムレットを奢ろうと思って、バーのカウンターへと歩いていった。すると、アランがピアノを離れて私に付いてきた。
「ギムレットを奢ろうと思ったんだが」
「ああ、ありがたくいただくよ。さっきの演奏は気に入ってくれたんだな」
「これまでで最高だった」
「そうか。それはよかった。ところで、あんたに一つ言っておこうと思ってな」
「なんだ?」
「夢があれば、それを追う。単純なことなんだよ。しかしその単純なことが、歳をとるとなぜか忘れちまう」
「それを、私に?」
「あんたは本来、夢に生きるべき人だ。俺はそう思う。忘れちゃいけないんだよ」
「そんなもんかな。しかしアラン、夢を抱えて生きていくのは辛い。あんた、さっきそう言ったぜ」
「ああ、だが辛いとは言ったが、忘れるとは言わなかった」
私は溜め息をついた。確かに、アランの言うとおりかもしれない。
「なあロジャー、あんただいぶ複雑な人生を抱えちまっているらしいな。お節介かもしれないが、いいことを教えてやろう。ウベアでもリフーでも、どこでもいい。離島へ行って来いよ」
「離島、か」
「そうだ。人生は単純だということを教えてくれる。ああいうところへ行くと、複雑な人生を送るのがばからしくなってくるんだ。俺も迷いが出ると、よく行ったもんだ。じゃ、俺はまだステージがあるから。ギムレット、ありがとうよ」
グラスを手に、アランはピアノへと戻っていった。
ホテルのバーを出たあと、部屋へは戻らず駐車場へ向かった。どこでもいい、とにかく走りたい気分だった。プジョー205に乗り込み、荒々しくクラッチをつないで発進させた。夜のヌメアは静かだ。ときどき、酔っぱらいがふらふらしており、猛スピードで走り抜けていく私に向かって拳をふりあげた。
ひとしきり走ったあと、私はポート・モーゼルの駐車場で車を止めた。車から降り、クルーザーが停泊しているところまで歩いていった。ヨットのマストが、風に揺れてカラカラという音をたてている。孤独な音だ、と思った。
夢を抱えて生きていくのは辛い。そして孤独だ。それでも、追いかけてみる。それが本当に単純なことなのか。
「リフー島へでも、行ってみるか…」
アランが言ったことを信用したわけではない。それでも声に出して言ってみると、本当にリフー島へ行こうという気になった。単純な人間になってみる。それが私には必要なのかも知れない。
「リフー島へでも、行ってみるか…」
もう一度、声に出して言ってみた。迷いはなかった。
風に混じって、カラカラというマストの音が聞こえてくる。
風が、暖かく感じる夜だった。
貿易風に吹かれて 江東蘭是 @ava
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