貿易風に吹かれて

江東蘭是

第1話 貿易風に吹かれて

 波しぶきを頭から被った。

 咄嗟にカメラをかばった私は、それでもその場所を動かなかった。ニューカレドニアの主要都市、ヌメア市の沖合に浮かぶアメデ島へ行くクルーザーの操舵室の脇。空と海、そして風を感じるには、そこが最高の場所だった。アンスバタ湾にある旧クラブ・メッド桟橋を出港した頃は人が多かったが、船が揺れ始めて度々波しぶきが襲ってくるようになると、皆キャビンへ引っ込んでいった。

 今この場所にいるのは、パリからバカンスに来たというフランス人の父娘と私だけだった。小学校高学年ぐらいの彼女は、心底から風を楽しんでいるようだった。

 南半球のニューカレドニアは、今が真冬ということになる。日射しは強いが、風は冷たい。ただ私は、全てを洗い流してしまいたい気持ちで、この冷たい貿易風を全身で受けていた。

 私が乗っているMary D princess号は、ディナークルーズ専用船である。アメデ島へは高速船のMary D dolphin号が就航しているが、整備の関係上、今日はprincessの出番となったのだ。全長は30mほどで、喫水が浅いのでちょっとした波でも揺れは大きい。コクピットにいるキャプテンのベルナールが、私の方を見てにやりと笑って言った。

「おいロジャー、これから少し揺れが激しくなるぜ。キャビンへ入った方がいいんじゃないか?」

「好きでここにいるんだ。放っておいてくれ。それよりも、ちゃんと前を見てろ。針路がずれてるぞ」

「あそこは環礁があるんだよ。このままでいいんだ」

 

 ホテルのプライベート・ビーチにある桟橋で釣りをしていたとき、そんな所では釣れないぜ、と茶化しにきたのが、ベルナールとの出会いだった。私は意地になり、なんでもいいから釣ろうとしたが、結局坊主だった。それでベルナールに、ビールを奢る羽目になったのだ。そのベルナールが、アメデ島に行くことを私に勧めた。俺はあそこの灯台が好きなんだ。そう言ったベルナールの言葉が妙に印象的で、そこへ行ってみてもいいという気分になった。

 ベルナールがアメデ島行きの船の船長だということを知ったのは、私がMary Dのオフィスへアメデ島行きを申し込みに行ったときだった。彼は、私の写真家という職業を非常に珍しがった。

「何を撮影する写真家なんだ?」

「自分の心さ」

「ニューカレドニアで自分の心を写しに来たか。そいつはいい」


 エスカパード島の脇を抜けたあたりから、船の揺れが変わった。これまで長い周期でローリングしていたのが、今度はゴトゴトと小刻みにピッチングとローリングを繰り返すようになった。潮流が変化したのか。大きな揺れがなくなったので、キャビンにいる乗客は安心したようだが、逆にベルナールの表情には緊張が走った。海には牙を隠している場合がある。水路を知り尽くした船乗りだけがその牙を捉え、対処する。船乗りと乗客とでは、同じ海でも全く違ったものを見ているのだ。

ベルナールは舵輪を右に左に切っている。ときどき船底を叩くような波が来る。私は海に放り出されないよう、しっかりと手すりを掴んだ。

 10分ぐらい経った頃、元の揺れに戻った。

「抜けたぜ、ロジャー」

「ああ、そのようだな」

目の前に、アメデ島の灯台が大きく見えてきた。真っ白な砂のビーチにエメラルドグリーン・ターキッシュブルーなど、複数の色合いの海。ヌメアから40分船に乗るだけで、こんな別天地があったのか。

 船が桟橋に着いた。乗客は下船を始め、皆思い思いにビーチに散っていく。

「ロジャー、どうだい、ここの海は?」

「ああ、まったく言葉が出ないぐらいだよ」

「しかし、俺がここを勧めたのは、この海を見せるためだけではないぜ。美しい海だけなら、ほかの離島へ行けばいくらでもある。それだけじゃないものが、ここにはあるんだ。おまえなら、それがわかるだろうと思ってな」

「じゃあ、宿題というわけだ。私がそれをわかるかどうか」

「そんなところだ。いつ、日本へ帰るんだ?」

「4~5日のうちに」

「今夜と明日の夜は、俺はディナークルーズで忙しい。明後日の夜、パームビーチのbilboquetで飲まないか?」

「いいだろう。19時でいいか?」

「じゃあ、俺はまだ仕事があるから、あんたはビーチでのんびりしてくれ」

 私は、ビーチの適当なところでデッキチェアにくつろいだ。真冬でもさすがに日射しは強い。少し海に入ってみる。冷たい。しかし私は我慢して海に入り、シュノーケリングを楽しんだ。学生の頃、水泳をやっていたので、泳ぎは得意である。少し沖合まで行 き、一気に潜ってみた。いろんな魚が寄ってくる。カワハギの派手な奴が、私を見ても逃げようともしないで漂っている。捕まえようと手を伸ばしたら、スーッと視界から消えていった。

 ビーチに戻る。風が吹くと震えるぐらい寒い。冷えた体を、南回帰線の強い太陽で温める。桟橋のほうでは、Mary D princessが出ていくところだった。リーフの先まで行って、鮫の餌付けなどを見せる30分ほどのクルーズに出発したのだ。

 結局、私は4回ほど海に入った。そのたびに風に震え、太陽で体を温める。単純なぐらい、海が美しい。単純なぐらい、空が青い。その単純さが、私には心地よかった。日本にいるときは気づかなかったが、綺麗な空と海、そして風、それがあれば、私には何も必要なかった。ベルナールは、このことを私に気づかせたかったのか? いや、そんなはずはないだろう。アメデ島まで来なくても、ヌメアにいるだけで十分に私はそのことに気づいていたのだ。

 私はTシャツをはおって、灯台の方へ歩いていった。1865年にナポレオンが作らせたというこの灯台は、今でも現役で使われていた。私が泊まっているホテルのバルコニーからも、この灯台の光が見えた。140年もの間、環礁と貿易風から船を守ってきた灯台なのだ。中に入ってみる。247段の螺旋階段を登りきると、いきなり眺望が開ける。上から見ると、ラグーンの様子がよくわかる。


 夕方、私は再びMary D princessの操舵室の脇にいた。

「ロジャー、アメデ島の休日は楽しめたかい?」

「ああ、ゆっくりできたよ。海はちょっと冷たかったけどな」

「帰りのクルーズは、行きよりも穏やかになるはずだ。海は朝と変わらないように見えるだろ?でも違うんだよ。それが、海さ」

「あんたはたいした船乗りだよ、ベルナール」

確かに揺れかたは朝より穏やかだった。

 桟橋に着いて船を降り、ベルナールに別れを告げる。船はさらに10分ほど走って、モーゼル湾まで行く。


 ビーチを歩いてホテルまで戻る。沖合では、フランス本国からバカンスに来た連中がカイトサーフィンに興じている。柵をまたいでホテルの敷地に入り、プールサイドを抜けて部屋へ戻った。軽くシャワーを浴びてバルコニーに出てみる。先ほどまでいた、アメデ島の灯台が霞んで見える。しばらくそれを眺めてから、ホテルのバーでギムレットを3杯飲り、タクシーでプチ・ラタンというレストランへ行った。ニューカレドニアに21年住んでいるという日本人のおばさんに教えてもらった店で、ここの白身魚のムニエルが、なかなかいけるのだ。

 ワインをしこたま飲み、店のオーナーにタクシーを呼んでもらう頃には、もう一度ホテルのバーで飲み直そうとは思わなくなっていた。乱暴な運転のタクシーでホテルに着いたあと、私は直接部屋には戻らず、しばらくビーチを歩いて酔いを醒ますことにした。

 満月だった。相変わらず貿易風が強い。私はビーチを歩きながら、今後の自分を考えた。ロジャー・上川という作家名の写真家として、そこそこ名が知れていた。なんでもない光景に散文を付ける。そういったスタイルの写真集が受けていた。しかし、どこか満たされなかった。もう一度全てをリセットして、やり直したかった。私の悪い癖だった。一つのことが軌道に乗り始めると、いろいろな疑念が頭をよぎり、ほかのことに目移りする。私のやりたいことは何なのか。今のまま、この仕事を続けていていいのか。

 いくら考えても、答えは出なかった。結局、未来をわからないままにしておきたいだけなのかもしれない。

 自分の未来など、どうでもいい。今はただ、この貿易風に吹かれていたかった。そして強い貿易風で砂の山が崩れるように、そのまま崩れてしまいたかった。

 部屋に戻り、シャワーの温度を思い切り熱くする。スチームバスにして、しばらく私はそのまま佇んでいた。薄紙を剥ぐように酔いが醒めていく。温度を下げてシャワーを浴びる。バスルームから出ると、ミニバーのバーボンでロックを作った。そしてバルコニーに出てそれをひっかけた。アメデ島の灯台の光を見つめる。10秒間隔で明滅する、船乗り達の道標。しかし、私の心まで照らしはしなかった。何かを探し求めるように、私は灯台の光をいつまでも見つめていた。


 次の日、私は車を借りてヌメアの街中へ行き、仕事をした。南半球の街角の写真。何かに憑かれたように私は夢中でシャッターを押し、それに付ける文章をメモしていった。貿易風にたわんだ椰子の木。成層圏を思わせるような空と街の建物。もう見慣れた光景になっていたが、それでも構わずシャッターを切った。

 夕方には撮影を終え、ホテルに戻った。街へ食事に出かける気力がなかったので、ホテルのレストランで夕食を済ませる。そのままバーに席を移し、グリーン・ラグーンという南国のカクテルを飲んだ。バー専属のピアノ弾きのアランが出てきて、私に声をかけた。

「やあロジャー。今日はなんとなく沈んでいるようだね」

「悪いけど、あっちへ行ってくれ。今、人と話したい気分ではない」

「おやおや、悲しいことを言うね。私はピアノだけを弾いていればいいってか。それじゃあ、リクエストだけでも聞いておこう   か?」

「なんでもいい。ただ、私の心をチクリとやらない曲を弾いてくれ」

「それじゃあ、ハーバーライトだけはやらない方がいいな。あれを弾いているとき、いつもあんたの顔は思い詰めたようになる」

 アランは私に気を使ってか、これまでリクエストしたことがないものばかりを弾いていた。ほとんど、私の知らない曲である。耳を傾けることなく、私は杯を重ねた。そして最後は、ギムレットだった。レイモンド・チャンドラーは「長いお別れ」のなかで、なぜマーロウにギムレットを飲ませたのだろうか。そんなことをふと思いながら、私は答えのない問いの中を漂い続けていた。


 朝早くに起きた私は、プールで体が重くなるまで泳いだ。どうしても体が動かなくなると、プールサイドのデッキチェアで休み、そして再び泳ぐ。水泳をやっていた頃に比べ、格段に体力が落ちていた。3回それを繰り返すと、もう泳ごうという気をなくした。 部屋へ戻ってシャワーを浴び、本を広げる。すると睡魔に抗いきれなくなり、しばらくまどろむ。そして目が覚めると再び本を開き、しばらく活字と格闘する。

 そろそろ日本に帰らなければならない。いくらこの地が気に入ったとはいえ、私の生活は日本にある。いつまでも、ここにいるわけにはいかない。日本での生活に疲れたときに逃げ込んでくる場所。私にとってニューカレドニアは、そういう所でなければならない。私はエア・カレドニア・インターナショナルのオフィスへ電話をかけ、明後日の日本行きの便を予約した。

 日が暮れてから私はホテルの部屋を出て、ベルナールと約束したbilboquetへと歩いていった。

 約束の時間までまだ間があるので、ホテルの近くにあるアンスバタビーチを散歩がてら歩いた。アメデ島の灯台が、いつものように明滅している。5分ぐらい眺めていただろうか。

「道標か」

 そう私はつぶやいていた。

 19時きっかりにbilboquetに着いた。ベルナールは既にテーブルについていた。

「おいロジャー、ビールでいいな? もう頼んじまったが」

「ああ、いいよ」

「今日はチキンがいけるらしいぜ。俺はそれにする」

「私は、舌平目のグリエにするよ。ところで明後日、日本に帰ることにした」

「そうか、ニューカレドニアはもう飽きたのか?」

「いや、ますます気に入ったよ。だからこそ帰るんだ。このまま、ここに居ついちまいそうだからな」

「帰る前に、もう一度賭をするか? あの桟橋で魚が釣れるかどうか」

「いや、やめておくよ。負けるのは目に見えている。海のことは、あんたのほうが詳しい」

「ロジャーも、船のエンジニアだったんだろ?」

「昔の話さ。それも悲しくなるぐらい短い間」

私たちはビールを飲みながら、しばらく馬鹿話をした。やがて料理が運ばれてくると、二人ともあまり喋らなくなった。

 私は舌平目を片づけると、ギムレットを飲み始めた。ベルナールは相変わらずビールだった。

「なあベルナール、アメデ島の灯台のことだが」

私は切り出した。

「おまえが言いたかったのは、道標、じゃないのか?」

ベルナールはしばらく私を見つめたあと、ニヤリと笑って言った。

「灯台ってやつは、船を導くだけではない。特にあの灯台の光はな。時として、人の心を導くこともある。だがそれは、あそこに行った奴にしかわからないのさ」

「でもみんながみんな、わかるわけではない。そうだろ?」

「そうかもしれないな」

 私たちは黙ってそれぞれの酒を飲んでいた。ベルナールが私のグラスを見て言った。

「その酒はなんだ?」

「ギムレット。フィリップ・マーロウが親友のために飲んだ酒だ」

「フィリップ・マーロウ? 誰だ、そりゃ?」

「アメリカの気取り屋だよ」

「気取り屋が親友のために飲む酒か。俺にぴったりだ。そのギムレットとかいうやつ、俺に奢ってくれないか?」

「いいだろう」

私はカウンターまで行って、ベルナールのためにギムレットを注文してやった。

「じゃあ、またな、ベルナール」

「おい、なんだ? 帰っちまうのか?」

「ああ、今日はもう十分飲んだ」

「まだギムレットがきてないぜ。一人で飲めというのか?」

「そいつは一人で飲む酒だ。特に、親友のために飲む場合はな」

そう言い残して私はベルナールの分まで勘定を払い、bilboquetを出た。


いつもより強めの貿易風が、椰子の木を揺らしていた。

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