一年後のとある晩



「ヴィヴィ! 第八条第三項の修正案はどうなったんだっけ?」



 議会の会期の二日前の深夜、アレクシスの執務室には二十人を超える文官とヴィヴィアンがすし詰めになっている。


 アレクシスとヴィヴィアンは机に向かい、何人かの文官はローテーブルを囲み、他の者は床に這いつくばるようにして書類に文字を書き込んだり、ソファで書類を読んだり。また、何人かは、アレクシスとヴィヴィアンの指示を求めて行列を成している。


「8-3は、スティーブンの案を採用よ。アレク、経過措置の質疑応答に目を通してくれた?」


「今、見てる。レオン、リスク分析の数値、もう一度試算し直して」



「殿下、二時間かかります!」

「手伝うから、こっちに回せ」

「お前は、予算案の再計算に集中しろ、ばか」


 誰かの一言にあちこちから怒号が飛び交う。

 皆、国の中枢を担う政策研究員や政策分析官、つまりエリート集団だ。それが深夜に執務室で這いつくばって仕事しながら、怒鳴り合う。


 皆、アレクシスの執務室のある離宮に泊まり込んで一週間となる。明け方にわずかに仮眠を取る他はそれぞれの執務室かアレクシスの執務室で膨大な資料の検証に追われている。



 それは、二日後に控えた貴族法の改正案の審議のためだ。



 ヴィヴィアンの悲願でもあるこの法改正は、貴族籍を実質的に名誉籍とするためのものだった。領地経営、これは地方自治と名を替え、地方議会と地方自治体により運営される。現在の貴族らは、経過措置期間の間に地方政治に携わる地方議会議員、自治体長、自治体の官吏に鞍替えするか、中央政権において貴族院議員、または中央の官吏となる。


 合わせて税制も改正案を出し、地方自治の在り方が根本から再構築される。

 つまり、職務を果たさぬものは、貴族を名乗るなということだ。議会では、保守派からの反発が見込まれるため、寝ずの対策が進行中である。






 時計が深夜二時を回った。


 ヴィヴィアンがパンパンと手を叩くと、一斉に皆が顔を上げる。


「皆さん、今日は終わりましょう。毎日、毎晩ありがとう。明日は八時より前に働き始めないこと。あと二日あるのだから、休みますよ」


 ヴィヴィアンの言葉を聞いた者たちの反応は、ほっとしたり、不服そうだったり様々だが、それぞれ、自分の周りの書類を片付け始める。


「書類は持ち帰らないで。未決の物はこの赤い箱へ入れて」

 ヴィヴィアンが赤い箱を持って、文官と書類の合間を縫うように歩いて周る。


「ヴィヴィアン様もお休みになってください」

「おーい、赤箱は空にするぞ。未決は明朝に出し直そう」

 誰かがそう言うと、赤い箱は一気に空になる。



 ヴィヴィアンが、口をぽかんと開けて立ち尽くしていると、アレクシスが後ろにやって来る。


「ヴィヴィもね、休むべきだ」

 アレクシスはヴィヴィアンの背中に手を回すと、部屋の扉に向かう。

「先に失礼するけど、戸締りは頼む。居残りはしないように」

 アレクシスが言うと、皆が頷く。




「ありがとう…」

 廊下に出ると、張っていた気が緩んで眠気に襲われる。あくびを噛み殺しながら、ヴィヴィアンが呟く。


「いや、こちらこそ。皆の士気が高いのは、ヴィヴィのリーダーシップのおかげ」

 

「そうかな… あと二日。間に合うか不安だけど、みんなのミスは増えているし、字が乱れて読めなくなってるし、効率が落ちてるから…」


「まあな。何とかなるさ。有力貴族の根回しは終わったし、まずまずだ」


 ヴィヴィアンの部屋の前でアレクシスが立ち止まる。


「ありがとう。…入る?」

「二日、湯浴みしてないから、その後で行く。眠かったら、先に寝ていて構わないから」


「うん。じゃあ、多分… おやすみ。この眠気じゃ、待てないと思う…」


 アレクシスは、ヴィヴィアンの額に口づけると、隣の部屋へと去って行った。





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 アレクシスがヴィヴィアンの部屋に繋がる内扉を開けると、部屋の灯りは落ちていた。


 ヴィヴィアンは、アレクシスが夜中にヴィヴィアンの寝顔を覗きに来るのを知っていて、普段から、月明かりが入るよう一つだけカーテンを開けたままにしている。

 アレクシスも寝顔を見た後、自分の部屋に戻るときに、ヴィヴィアンの部屋のカーテンを閉めてゆくようにしている。


 執務が重なると、丸一日顔を合わせない日もある。カーテンが開いていると、アレクシスはヴィヴィアンが待っていてくれたというメッセージだと受け取るし、翌朝カーテンが閉まっていると、アレクシスが顔を見にきたというメッセージだとヴィヴィアンもわかる。


 生活がすれ違っていても相手を思い遣っていることが伝えられるための、二人の小さな習慣だった。




 アレクシスは、ヴィヴィアンの寝台に腰掛けると、眠っているヴィヴィアンの頬に口づける。



 離宮で生活を始めて一年余り、健康的な食生活のおかげで少しふっくらしたが、ここ数ヶ月の寝不足続きでまた体重が落ちている。


 ブランケットから出ている腕を取ると、二人で学長室に行った帰りに口論になったことを思い出す。教室で泣きじゃくっていたエマの顔を覆っていた腕の細さは、二度と泣かせてはいけないと思わせた。


 なのに、その後も、きっとヴィヴィアンを泣かせている。馬車でアレクシスが怒りを表した時、アレクシスの目の前では泣かなかったが、泣いたに違いない。後にも、先にもアレクシスがあんな風に感情的になったのはあれきりだ。


 しかし、ヴィヴィアンを泣かせていないかと言うと、自信はない。不誠実なことはしていないつもりだが、王太子妃としての教育や、王族としての執務見習いで相当な負担を掛けている。




「ヴィヴィ、苦労させてすまない… 幸せにしたいと思ってる…」



 ヴィヴィアンは身じろぐと、寝ぼけているのかアレクシスの手を掴む。


「…起こした? ごめん…」


 謝らないことにも、ヴィヴィアンは怒っていた。王族は謝罪しない。そんな教育は受けない。しかし、ヴィヴィアンを怒らせると、謝らないわけにはいかない。ごめん、の一言がすんなりと口から出るようになるまで、時間が掛かった。



 ヴィヴィアンの手を解こうとするが、勿体ないようにも思う。


 今の法案が通れば、ヴィヴィアンの夢だった女伯爵も間違いない。法改正によって、領地は付いてこないが名誉と僅かな俸禄、貴族院議員の地位が得られる。どれも妃になれば得られるものではあるが、ヴィヴィアンにとっては自力で得ることが大事だ。



 また、それは彼女の実績の証となり、子爵家の生まれであることに難癖をつけられることもなくなるはずだ。


 そうなれば、予定通り半年後に、ヴィヴィアンは皆から祝福されて王太子妃となる。




 アレクシスは、ヴィヴィアンの手に指を絡ませながら、そっと指先に口づけた。

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エンタメ化した婚約破棄を撲滅しようとしたら、第三王子の罪滅ぼしが始まりました 細波ゆらり @yurarisazanami

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