38 最終章・ハンバーグと恋人たち
孝太郎の家に入り、孝太郎は玄関で春の頬を包み込むようにキスを繰り返す。
「春さん、好きです、好き……」
帰宅早々熱烈なキスを繰り返され、春は少し面食らっていた。
「どうしたんですか。なんだか……いつにも増して……」
ためらう春に孝太郎は言った。
「変なことしてきてませんよ。潔白です。ほんまに。疑わないで下さいね」
「そこは疑ってません。もし何かしてきてたら孝太郎くん、今ごろぼくと目合わせられないでしょう。触って、キスしてくれてるって事は大丈夫だったんだなって思いました。ね、シャワーしてきて下さい」
春はおずおず、と続けた。
「タバコの匂い、嫌です。いつもの孝太郎くんの匂いがいい……」
すみません、と急いでシャワーをして着替えた孝太郎が部屋に戻ると、春はぼうっとローテーブルの前のクッションに座っていた。
「すみません……なんか、気が抜けちゃって。あの人の方がぼくより付き合いも長いしもし孝太郎くんが揺れちゃったらどうしようってちょっと不安だったから……」
泣きそうな声で話す春の隣に来た孝太郎は、ごめんなさい、と謝った。
「春さんのこと悲しくさせてごめんなさい」
「いいです。ぼくが勝手にそうなってただけですから」
「それでも……嫌です。ごめんなさい」
気まずい空気が流れる中春は、ぽつりと呟いた。
「……ハンバーグ」
「え?」
春が顔を上げて、言った。
「ハンバーグが食べたいです。デミグラスソースの。中に、チーズも入れて。それでチャラにします」
孝太郎は、すぐにやります! と立ち上がった。孝太郎はまず炊飯器にご飯をセットする。その後エコバッグを持って家を出ようとした孝太郎を春が引き留める。
「ぼくも行きます」
「春さんも?」
孝太郎は少し驚いていたがすぐに、行きましょう、と答えた。靴を履いて、外に出る。外はもう暗く、ハイツの草むらから虫の音が聴こえる。誰もいない道で、春は孝太郎の手を握った。孝太郎は握り返し、人が前から歩いて来るまで繋いでいた。明るい駅前のスーパーについて、カゴを手に取った孝太郎が慣れた様子で粗挽き肉やパン粉、玉葱、デミグラス缶など足りない材料を次々かごに放り込んでいく。
「材料、覚えてるんですか」
「なんとなく。あ、ナツメグ買います」
レジでお会計を済ませてから孝太郎が言った。
「これは割り勘しませんので」
「……わかりました」
孝太郎のエコバッグに買った食材を全て詰めて、帰途につく。孝太郎が言った。
「一緒にスーパー行くの、初めてでしたね」
「買い物早すぎてびっくりしました」
「いつも行くスーパーだからですよ。どこに何があるかだいたい覚えてますし」
「昔なにか自炊しようとしてノープランでスーパーに行った時がありまして、ちんぷんかんぷんで立ち尽くし途方に暮れて何も買わずに帰ったことがあります」
「その春さん見つけたかったです」
そう言った孝太郎が、春の手を握った。
「いいですか? 人が来たら離しますから」
こくん、と春はうなずく。
「スーパーで途方に暮れてたのは、孝太郎くんが引っ越してくるより前のことですよ」
「そっか春さんおれより長く住んでるんですもんね」
繋いだ手の甲を指でさりげなく撫でた孝太郎に、春は言った。
「実はハンバーグ、ぼくの1番の好物なんです。ホルモンも好きなんですけど1番はハンバーグで……」
そう言った春に孝太郎は、え! と声を上げた。
「早く言ってくださいよ! 初耳です! てっきり和食が好きなのかと」
「和食も好きですよ。なんとなく、言いそびれました。だってハンバーグって時間も手間もかかりそうでリクエストするの申し訳なくて……でも、今日は……いいかなってリクエストしちゃいました」
ハイツについて外階段を上り、自分の家に入る。孝太郎は春に笑いかけた。
「いつでも言ってください。なんなら今度多めに作ってタネを冷凍しておいたら、ハンバーグカレーとかハンバーグドリアとかも作れます」
「え! すごい!」
瞳を輝かせた春に孝太郎は、少し待ってて下さいね、とキッチンに向かう。そのまま離れようとした孝太郎の服の裾を春は掴んで引き留め尋ねた。
「……キス、しないんですか。いつもは外から帰ってきた時には玄関ですぐにするのに」
「してもいいんですか。帰ってきたときは好きが溢れてしてしまったけど、今はしない方がいいのかなって……」
春が孝太郎の服から手を離し、不安げな顔をした。
「今は、好きが溢れてないんですか」
「溢れてますよ!! 毎日、24時間溢れてます。一緒に居るときもいない時も」
そう言って孝太郎は春を抱き寄せて口づける。春は孝太郎の腰に手を回し、そのまま何度も、何度もキスをした。キスを終えてから春が言った。
「ぼくのところに帰ってきてくれてありがとうございます。大好きです」
孝太郎が、うー、と呻いて春に抱きついた。
「そんなん帰ってくるに決まってるやないですか……おれも大好きです……」
ぎゅっと春を抱きしめていた孝太郎が力を緩めて顔を上げた。
「あの、先にハンバーグ作りますね。後でゆっくり続きしたいです」
春は少し笑って、はい、と答えた。手を洗った孝太郎は手早く、玉ねぎをみじん切りにして肉と卵、パン粉、牛乳、ナツメグを合わせて手際よくこねる。そしてあっという間に丸い形を1つ作った。
「わ! もうできた」
「混ぜて丸めるだけですからね。あ、チーズ忘れてました。すみません。手、ベタベタなので冷蔵庫からチーズ出してください」
そう言って孝太郎は春に冷蔵庫からチーズを取ってきてもらい、フィルムを剝いてもらう。それを少しちぎって、丸くしたタネの真ん中に入れた。同じ要領で次々と作っていく。
「してみてもいいですか?」
そう春が尋ねたので勿論です、と孝太郎は答える。春は孝太郎の真似をしてタネを丸くしようとしたが、手にやたらとくっつく上にボロボロ、とバラバラになってしまう。春が悪戦苦闘してようやく1つ完成させた時には孝太郎は他の分をすべて作り終わっていた。
「1つだけ噛みちぎられた後みたいになってすみません……あとチーズも忘れました」
「これ、おれに下さい。春さんの手作りハンバーグ」
「孝太郎くんがいいのなら……」
孝太郎がフライパンに油をひいてタネを並べていく。
「おれ将来、お金貯めたら家買って1階で飲食店したいです」
孝太郎の言葉に春は目を輝かせた。
「いいじゃないですか! 応援します。通いますね」
いえ、あの……とおそるおそる孝太郎は切り出した。
「その時は……2階に住んでて欲しいです。嫌じゃなければ……おれと同じ家に」
春は一呼吸置いてから、最高じゃないですか、と真面目な顔で言った。
「今も最高なのに階段降りるだけでいつでも孝太郎くんに会えて美味しいご飯食べられるの凄いですね……絶対幸せです」
孝太郎は春の答えにくしゃっとした笑顔を見せる。ちょうどよく焼き上がったハンバーグを次々に皿にあげていく。そしてフライパンに残った肉汁にデミグラス缶を開けて、ウスターソースやケチャップで味を整えつつ孝太郎はソースを作っていった。
「すごい……もうハンバーグができた……早い……」
「あ!付け合わせ忘れてました。何かあったかな……」
孝太郎は冷蔵庫に残っていたにんじんの皮を向いて適当に切り電子レンジでチンしてから、卵焼き用の小さなフライパンを使いバターで軽く炒めた。
「これハンバーグの横でよく見るやつですね!」
「にんじんのグラッセです。今度はなにか、春さんの好きなつけあわせにしましょうか」
孝太郎は皿にハンバーグを盛り、デミグラスソースをかけてにんじんのグラッセを添えた。
「春さん、白ごはんお願いします」
はい、と春はお茶碗に炊きたてのご飯をよそった。孝太郎がハンバーグを運び、春もお茶碗をローテーブルに並べたら完成だ。2人は、いただきます、と手を合わせる。わくわくした顔でできたてのハンバーグを一口頬張った春は、美味しい、と頬をほころばせる。
「お肉美味しいしチーズ美味しいしソース美味しいです〜!」
「よかった。春さんの好みのソースとかまた教えてくださいね。今日はデミグラスにしたけど和風とかもできますよ」
そう言ってにこにこと笑う孝太郎に春は、ふふ、と笑った。
「いつの間にか悲しいの、どこか行っちゃいました。孝太郎くんのお料理のおかげですね」
そう言って笑顔を見せた春に孝太郎が、よかった、と微笑みかける。ハンバーグを食べながら春が唐突に聞いた。
「ね、孝太郎くんはものづくりとか興味ありますか?」
「ものづくり?」
「陶芸とか」
「陶芸ですか? やったことないですが……」
「……たとえば2人でお揃いの、お茶碗とか作れます。あの、そういう体験があるみたいで」
春の誘いに気づいた孝太郎は、行きたいです! と目を輝かせる。春がはにかむように笑った。
「実は今日、ずっとそういうの調べてたんです。次自分が孝太郎くんとしたいデート」
自分が明といる時に春がそんな事を考えていたと知った孝太郎は、机の上で春の手を握って誓った。
「春さん……。おれ、もう春さんとしかデートしません」
春が、いえ、と慌てて断わった。
「それはいいです。だって孝太郎くん、お客さんとどこか行く時もあるでしょう? 仕事の邪魔にはなりたくないです」
「それはデートじゃないですよ! あ、なんなら春さんも来ていいですよ。おれがお客さんと一緒にどこか行く時には」
春が、ええ! と戸惑いの声を上げた。
「それは変じゃないですか?」
「でもみんな写真見せたら春さんの事おれと別タイプのイケメンって言ってたし会いたがられてるので呼んでもいいかと……」
そこまで言って孝太郎がハッとしたように、取り消します、と言った。
「……春さんが異性愛者だってうっかり忘れてました。おれのお客さんと仲良くしすぎるのはやめましょうか」
春が、はは、とおかしげに笑った。
「やめてて下さい。ぼく絶対緊張しちゃうんで。絵梨花さんの時も実は緊張してたんですよ」
「……何で緊張するんですか」
「そこは掘り下げないで下さい……」
バツ悪そうに目をそらした春に、もう、と孝太郎が唇を尖らせる。
「でも孝太郎くんのお店にはもう一度行きたいです。仕事中のかっこいい孝太郎くん、もう1回見たくて。料金は自分で払いますので」
「えーっと……でも……店にはその、明さんもいますよ?」
そう申し訳無さそうに言った孝太郎に春は、え、と声を上げた。
「聞いてないんですか? あの人お店来週から他に移るって言ってましたよ」
「え! そうなんですか!?」
「はい。今日の昼間にあの人の後輩って人が来て引っ越しの立会いしてたんですけど、その人が言ってました」
引っ越し、と聞いて孝太郎が素っ頓狂な声を上げる。
「引っ越したんですか!?」
「横もう、空室ですよ。聞いてなかったんですか」
ええ〜、と困惑した声を上げた孝太郎に春が言った。
「あの……ぼくに気にせず狐塚さんに電話してみてもいいですよ。さすがに気になるでしょう。昔からの友人が知らない間に引っ越しして店も変わってしまってたら……」
孝太郎は少し考えて、やめておきます、と答えた。
「たぶんこれ意趣返しやと思うんで。おれが大阪にいた時にあの人に何も言わんと飛んだから。自分も急に消えてびっくりさしたろみたいなこと考えたんでしょう。だから、いいんです。あの人そういう子供っぽいところありますから」
そうですか、と春はそれ以上狐塚の話をするのをやめた。
「そういえば……孝太郎くん最近前よりちょこちょこ大阪弁混ざるの増えましたね」
「気が抜けてます……あと、嬉しくて、取り繕う余裕もなくて。おれ春さんの前だともう犬で例えたら全力で尻尾振って飛び跳ねてる状態なんです。心の中では」
「ふふ。可愛くていいと思います」
ハンバーグを綺麗に平らげて片付けを終えてから、どちらともなく抱き合ってキスを繰り返す。キッチンからベッドになだれ込み、押し倒された春が言った。
「あの、少し前から思ってたんですけど……」
「なんですか?」
「ぼくたち敬語、そろそろやめませんか。こういうことしてるのにそれも変だなって……」
春に覆いかぶさっていた孝太郎は、ですね、と笑って言った。
「じゃあ、今からやめましょうか」
「それ敬語ですよ」
「春さんこそ……」
「うう……」
慣れへんな、と孝太郎は笑った。
「あかん。敬語やめたらすごい関西弁になりそう……『です・ます』は普通に言えるけど『だよ』とか『じゃん』は出ぇへん……」
「敬語だと方言出ないですもんね」
孝太郎が、あ、と声を上げて春にキスをした。
「今敬語使いましたよ」
「孝太郎くんも!」
そう言って春が孝太郎の頬を掴んで引き寄せ、キスをした。孝太郎が、は、と笑った。
「なんなん敬語喋ったらちゅーするルール」
「はは。大阪っぽいツッコミきましたね」
キスされてから困った顔で、早く慣れる、と春が言った。それに、うん、と孝太郎が頷く。孝太郎は満面の笑みで言った。
「春さん、めっちゃ大好き」
ぼくも大好き、と春は返した。
2人の、ハイツ沈丁花での日常はこれからも続いていく。二口しかないキッチン、狭すぎるバスタブ、少し隙間の空いている網戸。それでも互いがいて、美味しいごはんがあれば幸せだった。明日は一緒に何を食べようか、なんて話しながら、どこにでもいるありふれた恋人同士として慎ましやかに愛を育む。
END
ハイツ沈丁花の食卓 盆地パンチ @gurizuryyy
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