37 オレンジジュースと失恋男
薄暗く狭い個室に入ってから、明は文句を言った。
「おい、なんでカラオケやねん。あの流れどう考えてもホテルやろ。ホテル取れやホテル。おれホテル行く文脈作ったやろちゃんと」
その後ろで2人分のオレンジジュースの入ったグラスを持っている孝太郎は言った。
「おれ彼氏いるのにホテルなんか駄目に決まってるでしょ」
「も〜! なんもせんって〜」
「家で寝て帰れって言って襲ってきたん忘れてませんよ」
「あの時はなんもせんって言わんかった」
「言われてませんけど……」
部屋に入った孝太郎はドアを閉めて、明の向かい側に言った。明は言った。
「なんで横ちゃうねん」
「一応、密室ですし……」
孝太郎の答えに明は、はー、とため息をついた。
「もぉええわ。歌え」
「喋るんやないんですか」
「ええから、歌え」
そうせっつかれて孝太郎はデンモクを操作して少し迷ってから曲を1つ入れた。イントロが流れて、明は言った。
「なんでシャ乱Qなん。お前世代ちゃうやろ」
「カラオケは相手の世代に合わせろって教えたん明さんでしょ」
「あほ。おれもこれ世代ちゃうわもっと上じゃ」
孝太郎が歌うのを、明は最後までじっと聴いていた。曲が終わってから明は言った。
「相変わらず下手やな。テンポズレとんねん」
「おれが下手なん前から知ってるでしょ。知っててなんで歌わせたんですか」
「まぁ……声だけはそこそこええから久しぶりに聴いとこかと思っただけや。てか大阪の歌なんか歌いよって、ホームシックにさせて帰らそ思てんのか」
「これ明さんが好きやって言うてたから練習したんですよ。今日時間余ったら行こうと思って」
明が、なんやお前、と頭を抱えた。
「……お前さぁ、おれのことフりたいんか惚れ直させたいんかどっちやねん」
「フりますけど、前提として100万の価値あるデートしろって言うたん明さんやないですか」
明は、ムカつく奴、と両手で顔を覆ったまま黙り込んだ。気まずい空気の中、孝太郎が声をかけた。
「あの……オレンジュース飲みますか」
「いらんわ。ガキちゃうぞ。なんでオレンジやねん」
「だって……」
明が孝太郎を遮って言った。
「おれが好きなんは果汁100%のやし。こんな薄いニセモンちゃうわ。てかおれの好みいちいち覚えすぎやろキショいわ」
「キショないです」
ふー、と深くため息をついた明はまた黙り込む。そして、ぽつり、と言った。
「手ぇ握んのは、ええの」
孝太郎は少し考えて、はい、と答えて手を差し出す。
「横来いや。正面で手ぇ繋いだら握手やんけ」
「横はだめです」
「水商売のくせに身持ち固すぎやろ」
渋々、握手のように手を繋いでから明は尋ねた。
「お前さぁ、ホストなんかおったら売り掛け溜めて風俗行く女なんかようおるやろ。それ見かけるたんびにいちいちこんなんすんのか」
「……わかりません。でも、あまり慣れたくはないと思ってます。前の大阪の店はそういうのが偉い、みたいな風潮が嫌でした」
「ほな何でホストしてんねん。色恋できひんのやったら飲食やって飯だけ作っとけや」
孝太郎は、いずれは、と言った。
「いつかはしたいです」
「何ですぐやらんの」
「お金貯めてからやります」
「どっかでパーッと金借りてやれや。パトロン作るか」
孝太郎は、いえ、と眉をひそめた。
「借金は懲り懲りなんですよ。返済しなきゃと思ったら利益考えなきゃいけないでしょ……」
「それが商売の常識やろ」
なぁ、と明が孝太郎の手を強く握って、言った。
「1度しか言わんからよぉ聞けよ」
「なんですか」
「お前あいつと別れておれにしとけって。おれやったら飲食店の1軒くらいすぐ持たしたるわ。おれをパトロンにせぇ。お前ホスト向かんし夜上がっておれのもんなれや」
孝太郎が躊躇いがちにぽつり、と言った。
「……明さん、ほんまにおれのこと好きやったんですね」
「嫌か」
困ります、と答えた孝太郎は明から手を離す。
「店は、自分でお金貯めてやります」
「貯まらんやろ。売上低空飛行のくせに。お前後輩に売上抜かされて煙草買いにパシられてたやんけ。おれと付き合ぅたらホスト続けるにしても、客バンバン回したるで。売上も分けたるし。ナンバーツーにして誰にも偉そうにされん立場にしたるわ」
「いりません。おれは……現状で満足してます」
明は、はぁ? と呆れたような声を上げた。そしてGLOWをポケットから出して、吸い始めた。
「小箱のまん中の順位で、あんなボロい家住んで。何が満足や。おれの手ぇ取ったら新宿のええマンションに引っ越しさせたるし、車でも時計でもお前のワガママなんでも聞いたるで」
「いりません。それは……おれにとって幸せじゃないです。それは明さんにとっての幸せでしょ。おれは明さんと付き合っても幸せにはなれないです」
ふー、と煙を吐き出した明が言った。
「あの時の話してええ?」
「……はい」
「お前、上に乗ってるおれの事ひっくり返して押し倒してきてくれたやん。それ、おれ以外に襲われてたらしてへんやろ。お前潔癖やのに」
「……わかりません。でも……今はしませんよ。明さんの頭割ってでも逃げます」
おい、と明が突っ込む。
「お前100万のデート相手に頭割るとか言うなや」
「言いますよ。だって本音で話さないと意味ないでしょ。耳障りええことだけ言ったってしゃあないやないですか」
「しゃあなくないわ。余計なことは言わんでええねん。お前はおれを適当にチヤホヤあやして思わせぶりに楽しぃ気分で帰らせてツケチャラにさせて、自分の客に恩売ってシャンパンでもおろしてもらえばええねん」
そう言った明に孝太郎は、できません、と答えた。
「なんでや」
「そんなん、明さんに色恋営業するみたいなもんやないですか。好きって言ってくれてるお世話になった相手にそんなんするのは不誠実です」
「あっほやなぁ。みんな金払ってでも色恋かけられたいから払うんや。みんながみんな、心の底から騙されてるんやないわ。薄々わかってるけど騙された方が気持ちええから自分から騙されにいく奴いっぱいおるねん。だっておもしろない世の中やん。自分が好きな相手が自分のこと好きにならんって。嘘でも金目当てでも好きなフリされたら幸せやろ」
孝太郎はまた、わかりません、と繰り返す。
「おれはそんなん幸せやと思えません」
まぁな、と明は背もたれにもたれかかって天を仰いだ。
「お前ホスト向いてへんわ。早よ飲食やれ」
「早くはできませんよ。お金貯めてから物件買ってやりたいので」
「お前の給料で? 東京の物件を?」
「……貯金、します。それさえ買えばもう家賃いらないし、飲食だったら食費もかからないし……2階に寝るスペースでもあればおれはそれでいいんです。儲け無視で好きなようにやりたいから」
はー、と呆れたように明はため息をついた。
「お前それ年金生活の爺さんが老後の趣味でやるやつやんけ。もっとさぁ、店舗増やすとか自社ビル建てるとか夢ないんか」
「さっきのが夢です。おれはゲイやから絶対に子供持たんし、そしたら生きるだけでそんなに金かからんし。そんなもんでいいんです。それで……そんな生活でも一緒に楽しく生きてくれるのは……春さんなんです。あの人はそのままの地味なおれを受け入れてくれるから。おれの作る普通の料理を美味しいって笑ってくれるあの人と一緒にいたいんです。嫌になられるまで、離れたくない」
春の名前を出された明が、もぉ〜、と明が椅子の上で横になった。
「そんなズタズタにフらんでもええやんけ傷つくわ」
「明さんがおれを好きってまだ……実感ないんですけど」
「そもそも好きやから手ぇ出したんやって」
「ただの悪ノリの意地悪やと思ってました。明さんしてる途中もたまにふざけてたし」
それはごめん、と明は謝った。
「明さんごめんとか言えたんですね」
「言えるわ。あれ別にふざけてたんやなくて……襲っておいてアレやけど恥ずいやん。おれ普段偉そうやのに、好きなやつに突っ込まれてめちゃくちゃ感じてんの後輩に見られんのなんか気まずかったし」
「え……なんですかそれ。おれ、てっきり悪ノリでヤられただけやと思ってたんですけど」
さすがにそれはせんわ、と明は孝太郎の頭をチョップした。
「童貞って聞いてたし、お前おれのこと嫌ってはなさそうやったし、一緒におっておもろいし飯作ってくれるし……事後承諾狙った。ヤったらおれのこと好きになってくれるかもって思たから……」
はー、と孝太郎はため息をついた。
「普通ヤる前に告白が先やないんですか」
「あかんやろ。おれ自分がお前のタイプちゃうのわかってるし。お前あの彼氏みたいなんが好きやん。純粋っぽいやつ。おれそんなん……今さらなられへんもん。戻られへんわ。夜の世界に骨の髄まで染まりきってるし、計算高いし、金はかかるし、口は悪いしムカつくやつには意地悪してしまうし」
不貞腐れたように寝そべる明に孝太郎は言った。
「別に戻らんでええと思いますよ。それが明さんでしょ。売上よくて、口悪いけど面倒見ええし、身内には情に厚いし。賢いし、強いそのままの明さん好きな人女も男もミナミでいっぱいおったやないですか。おれはそんな明さんに特別可愛がってもらってるの……ちょっと自慢でした」
明が席を立ち、孝太郎に距離を詰めようとする。しかし孝太郎は立ち上がり、後ずさる。
「駄目ですって、触るのはだめです」
「お前なんやねん腹立つなー!」
明は座って、もうええわ、と言った。
「お前なんかこっちから捨てたるわ。いらん」
「その方がいいですよ。そもそもなんですけど、おれと明さん付き合うのは合ってへんと思いますよ。おれ地味やし、たぶん明さん満足できひんと思います。付き合ってもすぐ愛想尽かしてたと思いますよ」
明が、は、と笑った。
「愛想つかさんわ。一緒に豪遊しまくって、おれ好みの派手なイケメンに育ててる」
「育ちませんて。根が地味ですから」
「なんで見た目だけそんな派手やねん詐欺やんけ」
「明さんがこっちのが似合うって言うたんやないですか。性格辛気臭いから見た目くらい派手にしとけって」
そやったかなぁ、すっとぼけた明はつまらなそうに言った。
「……見た目だけ派手になっても、お前変わらんな。中身は、高校卒業したての時の芋臭いガキのまんまや。早よ夜に染めたろ思ってゲイバーからキャバクラからあちこち連れ回したけど全く染まらんかったな」
「ああ、行きましたね」
明がじっと、孝太郎を見つめる。その視線の熱さにようやく孝太郎は特別な好意を向けられていることを実感した。明が言った。
「お前、東京でやってけてんの。お前がいろいろ傷ついて東京の暮らしにほとほと参ったくらいのタイミングでこっち来たつもりやったんやけど……あてが外れたわ」
はは、と孝太郎は笑った。
「なんとかやってけてますよ。常連さんに優しくしてもらって、毎日スーパー行ってご飯作って普通に生活してます」
「……コタローはおれがおらなあかん奴や思ってたのに」
孝太郎は顔をしかめて、正直、と切り出す。
「大阪おった時は明さんに甘えすぎてたと思います。東京来てから困ったときに思い出すことありましたよ。あの人とおったときはこんなんちゃうかったなって。さりげなくお客さんの紹介回してもらえてたし、同じ卓でもたくさんフォローしてくれて代わりにお酒も飲んでくれて。ありがたみ感じました。でも……ありがたみ感じるほど離れたの正解やと確信しました。明さんとおったら楽すぎて思考停止して成長止まってしまうし。おれは……もっとかっこいいええ男になりたいんです」
は、と明は鼻で笑った。
「生意気ー」
「すみません」
孝太郎が謝ると、まぁええわ、と明は笑った。ふと会話が途切れてカラオケのBGMが部屋に響く。明は、帰るわ、と立ち上がった。
「売り掛け消したる。100万円」
「ほんまですか」
「気ぃ済んだからお前の顔立てたるわ。その代わり1発シバかせて」
「えぇ……」
目ぇ瞑れ、と言われた孝太郎は目を閉じる。
「ッ顔ですか? あんまり跡が残るのは……」
「うるさい、いくで」
孝太郎がぎゅっと目を閉じていたらぐいっと抱き寄せられた。明が……チッと舌打ちする。
「なんやねんこの手ぇ」
不意打ちで孝太郎の唇にキスしようとした明だったが、孝太郎に手のひらでガードされてできなかった。抱き寄せられたまま明の口を手で覆う孝太郎は言った。
「寸前で思い出しました。これ、明さんがおれのファーストキス奪ったときと同じやり口やないですか。おれあれめちゃくちゃショックやったんですよ。初めてする時は好きな人と付き合ってからって思ってたのに、店の営業中に先輩に悪ノリでされて」
「何がファーストキスや値打ちこきやがって……ええやろ。そのへんの変な酔っ払いに奪われるよりは自分の事好きで好きでたまらんくて東京まで追っかけてくるアホな男にやる方が」
好きで好きでたまらん、と真正面から言われて動揺する孝太郎から離れ、明は孝太郎のトートバッグからスープジャーを掠め取った。
「帰るわ。別れたら連絡してこいよ。おれに相手できるまでは身体空けて待っといたるわ」
「別れませんって」
はいはい、と言って明は1人先に帰った。電車に乗って1人ハイツに帰った孝太郎がハイツの外階段を上がると、孝太郎の帰宅に気づいて春が自分の家から飛出してきた。
「おかえりなさい」
心配でたまらなかった、という顔をする春に駆け寄り孝太郎は抱きしめた。
「ただいま、帰りました。春さん」
孝太郎は、ぎゅう、と春のことを強く抱きしめる。
「……終わったんですか?」
「終わりました。心配かけて、ごめんなさい。ちゃんとはっきりとお断りしました」
よかった、と安堵の笑みを見せる春の唇に孝太郎は、自分からキスをした。
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