恋の遅延証明書

@ramia294

第1話

 その日、

 長い眠りから目覚めた僕の頬を、春風が通り過ぎていった。

 まだ早い春の花の香りに誘われる様に、僕は目覚めた。

 遠慮がちに開けられた窓に揺れるカーテン。

 陽ざしは、柔らかく、滑り込む風は、暖かい。


 その窓辺に佇む人には、見覚えがあった。

 誰だったか?

 しかし、今は思い出せない。

 僕の目覚めに気づき驚くその人は、中年の品の良い女性だった。


 彼女が誰だったかと、思い出そうとすると、

 身体の芯が震えた。


 その人が、コードの付いたスイッチを押す。

 小さなスピーカーから驚き慌てる声。

 僅かな時間の後、駆け付ける足音と白衣の姿を見て、ここは病院だと確信した。


 身体を起こそうとすると、身体に力が入らなかった。

 

 その時、力の入らない痩せ細った腕が、僕の物だとはじめて気づいた。

 そして、強烈な疲労感に襲われ、気を失う様に眠った。


 再び目覚めたとき、医者が、僕の身体中を検査していた。

 興奮気味の医者から、奇跡という言葉だけが、聞き取れた。

 

 筋肉を失い、寝たきりだった身体が、どうにか動くまで、半年かかった。

 その間に、何があったのか、徐々に知らされた。


 高校生。

 窓辺に佇む人は、僕の人生で、初めて出来た彼女だった。

 初めてのデートの帰り道。

 事故だった。

 彼女に向かって、突っ込んで来るクルマから、彼女を庇った。

 ドライバーの意識は、無かったらしい。

 結果、僕だけが、その衝撃を受け止める事になった。


 運良く、死にはしなかった。

 いや、周囲の人たちには、運が悪かったかもしれない。

 それから、僕は眠り続けていたらしい。

 眠っている間に、父が逝き、母は老いた。

 心配をかけ続けた三十年を思うと、真夜中に僕は、泣いた。

 

 目を覚ます見込みの無い僕を。

 それでも奇跡を信じ、見守り続け、逝ってしまった父。

 息子を見るたび、安楽死を思った母。

 母には、残酷な思考を押し付けてしまった。


 そして、たった1度のデートしかしていない恋人に、その半生を捧げた彼女。

 何故、僕を見捨てなかったの質問に、

 

「だって、私は、あなたに振られていないもの。まだ、あなたの彼女だわ」


 彼女は、迷いなく、そう言った。

 しかし、長い三十年。

 彼女の人生で最も輝く時をひとりで、ただ眠るだけの僕に寄り添って過ごしたという事になる。


 僕は、彼女の人生を台無しにした事へのいいわけをどこにも見つけることが出来なかった。


 謝罪する以外、言葉が無かった。


 目覚めてから一年が過ぎる頃、僕は不完全ではあるが動けるようになった。

 とても安い給料だったが、仕事に就くことも出来た。

 ある夜、母が机の引き出しから大事そうに封筒を取り出し、僕に手渡した。


「お前の意識が戻る事が、絶望的だと医者に知らされた時、彼女にお前のことは忘れて、他の幸せを探して下さいと言ったの。その翌日、彼女はこれを持って、この家に来たわ」


 僕は、封筒の中に入っていたそれを取り出してみた。

 母の前だが、涙が止まらなかった。


「この先の人生、お前の人生だからね。自分で決断するしかないけど、まず最初にする決断は、それだと思うよ」 


 母は、僕の前のそれを指差した。


 翌日は、彼女と映画を見に行った。

 彼女は楽しそうだった。

 あの頃と違い、映画館は清潔で椅子の座り心地は、良かった。

 帰り道、事故にあった所だと、説明された場所も変わり過ぎていて、見覚えは無かった。


 コーヒーの香りは、以前と変わらなかった。

 帰る途中、立ち寄った喫茶店の席で、僕は母から手渡された封筒を取り出した。


「あれ?その封筒、まだあったのね」


 中を見てくれるように、彼女に言った。

 取り出した紙を開いた彼女は、突然泣き出した。


 それは、昔、彼女が書いた婚姻届だった。

 僕に寄り添い続けるために、彼女が書いて両親に渡したのだ。

 父は何も言えなくなり、母は大粒の涙を流した。


 そして今、そこには、僕の名前が、記入されていた。


「長い間、待たせて申し訳なかったね。これからもヨロシク」


 彼女を長く待たせたいいわけを、今も僕は持たない。

 しかし、今は、僕を受け入れてほしいと心から願っている。

 彼女が、昔、両親に持って来た婚姻届。

 今、それは、ふたりの名前が並ぶ、恋の遅延証明書に変わった。


 3ヶ月後、それは受理された。


       おわり



 

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