かつおぺんき

 夢うつつの中、何やら腹に冷たい感触を感じた。体もチクチクと痒い。

 目は開けずに腕を背中に伸ばし、爪で掻こうとする。ところがどうだ、腕は顔の横までで虚しく止まってしまった。

 寝ている間に余程冷えて固まってしまったのだろうか。そういえば腕は前に伸ばし、足は折り畳んだ変わった状態でうつぶせに寝ている。

 体を起こす。寝起きで平衡感覚が掴めず、よろめいてしまう。再び横になって体を伸ばすことにした。気持ち良い。背中に感じる太陽の温度が体の中でぐるぐると巡る。

 目を開けると見え方がいつもと違う。世界が褪せている。黄色のチョークを拭いた後の、雑巾の様な色の世界。

 目線も低い。それに四つん這いだ。四本の手足の裏に感じるのは芝の感触である。酔いの回った体で昨日は外で寝てしまったのだろうか。

 口は呆けたようにだらしなく開かれ、舌は鼻を勝手に湿らせる。

 犬。

 私は犬になっていた。

 辺りを見渡すと象の形をした遊具を見つけた。ここはどこかの公園だろうか。

 足元を見ると、茶色がかった細い前足がしっかりと地面を踏み締めている。まるで初めから犬であったかのように、当たり前に立っている。

 まだ酔いが覚めていないのであろう。酔いさえ覚めてしまえば見え方も体も戻るはずだ。

 ベンチを見つけのろのろと足を運び、再びうつぶせになる。

 背中に朝の太陽を浴びて。


 ***


 日が高くなり暑くなってきた。

 もう何時間が経っただろうか。長かったような気もするし、短かったような気もする。だが、ようやく頭のぼんやりした感じも無くなってきたところである。家に帰ろう。

 ベンチから黄色の芝に飛び降りる。

 目線は数時間前と相変わらず。

 私の体は犬であった。

 熱を持った体毛も、湿った鼻も、固くなった肉球も、鋭い爪で地面を踏み締める四本の足も、犬そのものである。

 辺りを見渡しても変わらず象の遊具があるだけで何も景色は変わっていなかった。

 長い舌を噛んでみると鋭い歯が食い込み、痛みを感じる。

 血の気が引いて行くのと共に、尻尾が後ろ足の間に勝手に巻き込む。

 戻っていないのだ。何もかも。

 何か、何かを確かめられるものは無いかと、探す物も解らず堪らず走り出す。だが、爪が地面をかく感触が生々しく体に刻まれるだけであった。

 何処まで走ったのかはわからない。声を出しても言葉は発せず、走った後には舌が垂れるだけだった。

 私は犬になってしまった。

 理由も、どこにいるのかも解らず、ただ真昼の街を駆け回るだけの犬になってしまった。

 実家の家族は知っているのか。私が行方不明になったという連絡はもう何処かへ届いているのだろうか。

 会社への連絡はどうなる。賃貸の契約は。預金はどうなる。

 私はどうなる。

 不安から漏れるのは、これまた間の抜けたピーピーという悲しい鳴き声だけである。

 酷い無力感が空いた腹に響く。

 酔い潰れるほど飲んだあの夜はいつだろうか。あれは本当に昨日のことなのであろうか。夢の記憶が溶けるように無くなるように、あの夜の記憶も、もう遠い過去のようにも感じる。

 腹が、減った。

 何か食べなくては。

 舌が鼻を湿らせ、鼻は空気に漂う食べ物の匂いを探す。

 匂いの判ってしまう犬がここいた。

 本能を抑える理性も心做こころなしか薄くなっているように感じる。

 私はただ、涙も流せずに匂いの元へ歩くしかなかった。


 ***


 もうだいぶ歩いた気がする。太陽が傾き、西の空は橙色に染まっている。かれこれ半日近く犬のままであった。

 乱暴に使った足はアスファルトで擦り切れ、踏み進める度に慣れない痛みを伴う。痛みは現実と私を否応なしに結びつける。

 だが、私には歩き続ける他なかった。場所も解らず、自分も何も解らない状態で本能に勝るものは無い。ただ、鼻が見つけた肉の匂いだけを頼りに私は歩き続けた。

 粘性を強めた唾液が喉に張り付き、意識は朦朧とし、私は気付けば文字も分からなくなっていた。

 思考が文字に表せない不安とは堪らないものである。例えるなら、失ったはずの手足を動かしている、そんな感覚であろうか。虚が実に思えてしまう感覚は、実が虚であることを一層際立ててしまうらしい。

 私は次第に、思考をめるようになった。 

 黄色の世界を受け入れ、痛みを受け入れ、だんだんと強くなる肉の匂いだけをただ感じていた。

 酒で煮込んだ腐った肉のような匂い。

 日はとうに暮れていた。光の無い中で、より強く匂いは道を示す。

 近い。

 鼻をくすぐる香りに唾液が激しく分泌され、尻尾をどうしようもなく振り回し、私は遂に走り出す。四本の足がアスファルトに血を滲ませながら私を肉へと連れて行く。

 やっと。やっと食べられる。

 匂いの塊が見える。もう数十メートル先に。

 どこにある。場所はどこだ。公園だ。象の遊具の公園。

 ベンチの上にそれはあった。酷く酒の匂いのする腐った肉。

 大きい。人間か。腐った人間だ。

 私は地面を強く蹴る。

 肉の上に飛び乗り、透かさず喰らいつく。

 ゴワゴワとした布の食感。溢れる鉄の味。


 舌を噛んだ。

 心地良い痛みが広がった。

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かつおぺんき @katsuo_penki

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