第3話 如才ない(2)

もちろん、夫に他の女性の影などない。言い切れてしまうほどに、ない。そんな度胸と余裕をもち合わせている人間ではないし、それは私の出産前後に彼がやつれ、痩せ細っていった姿からも明らかだった。

3日前の晩、終電の時間が終わっても玄関から物音がせず、何の連絡も入っていなかった。「仕事、終わりそう?」と送ったメッセージは、24時を過ぎても既読にならなかった。


翌朝、娘の朝ごはんを済ませ、10時を回ったところで家の電話が鳴った。それは夫の会社からで、まだ出勤していないのだがどうかしたのか、という主旨の連絡だった。私はとっさに、昨日から高熱が出ていること、会社にはメールを入れたという話だったがおそらく送れていなかったのだろう、申し訳ない、とまるで仮病だと知っている子どもを庇うような説明をした。会社側はよほどの重病かと思ったのか、想像以上にあっさりとその説明を受け入れて、明日以降も無理をなさらず、とこちらの様子をいたく気遣ってから、また様子を知らせてほしいと言う。もちろんです、ご迷惑をかけて申し訳ないと伝えて、電話を切った。きっと少し疲れたのだろう、今晩には帰ってくるかもしれない、無理矢理に楽観的な予想を立てて、一日の家事をスタートさせた。

昼ごろまでに、ある程度家事はひと段落する。昼食後は娘の遊び相手をして、アニメを見させ、昼寝をさせる。その間に夕食の準備をして、夕方を迎える。途中、近所に住む母親が孫の様子を見に来て、ワイドショーを賑わせている俳優の不祥事や話題になっているドラマ、ネットで配信されているリアリティショーなどなどについて話をすることもあった(私のほうはそれらを楽しむためのまとまった時間が取れないので、もっぱら聞き役だった)。夕飯を娘に食べさせながら自分も食べ、寝支度をする。あっという間に21時をまわり、一日は終わっていく。仕事には多少理不尽なことや予期しないトラブルがあり自分でも気が付かないうちに疲れていることがあったが、この生活には一切の不満がなかった。穏やかで同じような日々。贅沢をしなければ夫の収入だけで十分に暮らしていくこともできたし、そもそも贅沢をしたいという気持ちもない。私はこれで十分に幸せで、それ以上望むことは特になかった。夫はどうだったのだろう。彼にもこれといった趣味はなく、交友関係も年に一度か二度、高校の部活動をともにした友人たちとの飲み会に参加する程度だ。どちらかというと人にも物事にも淡白な方なのだろう。だから私と一緒になったのだと思っていた。それに関しては少しずつ、確信を持てなくなりつつあるのだけれど。

結局その日も何の連絡も無く、23時を過ぎた。前日あまり眠れなかったせいか、耐え難い眠気に襲われ、娘の横で深い眠りに落ちていった。


3日目も同じように過ぎていく。家の中から、夫の存在が、影が薄まっていくことに危機感を感じる。洗濯物や食器、スリッパ…そういうモノに、人の存在感が宿るのだと気が付く。彼の衣類はすべてタンスに収納され、いつも使っていたグラスは食器棚に並べられて日常生活で視界に入ることがほぼなくなっていた。歯ブラシも3日前と同じ方向を向いている。数年一緒に暮らしていた人の存在感がこんなにも急速に薄まっていくものか、と不思議に思う。彼は家の中をどう歩いて、どんな足音を立てていたのだろう?


娘を寝かしつけたあと、SNSを開くと真理子の出張の投稿が目に留まった。真理子は年末年始でも盆休みでもないタイミングでふらっと帰省した。1年以上前、娘を見にきてくれた時も数日前に連絡をもらい、ランチを食べてから家で娘と遊んだのだった。真理子はすでに不倫から抜け出していて(それは確か2年ほど続いたはずだ)、アプリを活用した出会いに勤しんでいた。「本当に普通の人がいない」と嘆きながら、さまざまな珍事件を面白おかしく話した。真理子に連絡をしてみようか、と思う。彼女なら失踪届も出さずに淡々と同じ生活を送る私を非難せず、励ましてくれるような気がした。


4日目。さすがに何か届出をしたほうがよいのではと思い始める。会社からは、木曜ということもあり明日まで休んで週明けから復帰してもらえれば問題ないと言われていた。私は相変わらず原因不明の高熱で、心因性かもしれないと曖昧なことを話していたが、電話をくれる上司は終始こちらの様子を伺い、気遣ってくれる。過去に精神的な問題を抱えていたことを知っているからだろうか、会社も深くは追求してこない。あるいは、会社でも夫の存在感は薄れていっているのかもしれない。


4日目にもなると、夫の失踪は何か根深い意味や背景をもっているものなのではないかという考えよりも、彼の意思とは関係なく、本人も気がつかないうちにどこかでブラックホールのような穴に吸い込まれてしまったのではないかという考えが強くなってくる。しかし、なぜ私は失踪届を出しに行かないのだろう。これはまだ「事件」ではない、という思いを捨てきれない。どこにでもある普通の家庭、贅沢でも貧相でもない生活、淡々としているけれど細かな努力の継続によって成り立つ心地のよい毎日。そういうものが私を取り巻く環境であって、「事件」とはおおよそ無関係な毎日であるはずだ。この4日間はただの「夫不在バージョン」であって、少し耐えればそれは通常バージョンに戻るにちがいない。朝のニュースにも夕方の地方向けのワイドショーにも、30代半ばの男性に関するニュースは出ていない。


思い出したかのようにけたたましくインターホンが鳴ったのは翌朝だった。朝5時で、カーテンからは白い光が漏れ始めたところだ。

なぜかその音が鳴る直前に目が覚めた私は、その音に動悸が早まり急速に意識が覚醒するのを感じながらベッドから起き上がる。


2度目のチャイムが鳴る。家のインターホンは1回押すごとに4回チャイムが鳴る仕様になっている。髪を手ぐしで整えながら急いで玄関に向かう。どんな表情と声のトーンで「おかえり」を言おうかと考えながら。


3度目が鳴る頃に玄関に辿り着く。覗き穴を覗いてみると、スーツを着た夫が玄関ドアを見つめている。無精髭とセットされていない髪、少しこけた頬。それは紛れもなく夫の姿だった。ふう、と息を吐く。ここまで、呼吸が止まっていたことに気がつく。ドアノブと鍵に手をかける。


4度目と同時に、真理子がいつか言った「妻子がいるの」がリフレインする。その言葉に抱いた違和感の理由が言語化する前に解けていく。血液がサッと全身に行き渡る感覚がある。さて、この扉の向こうにいる男はまだ「夫」なのだろうか。しかし、どちらであっても大丈夫だと思い直す。私は母で、この扉の向こうにいる男が父であることに変わりはない。ドアノブを強く握り直した。

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欠如・不足あるいは強欲 @erimaki_suzu

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