第2話 如才ない(1)

真理子はもう、一年ほど帰ってきていない。SNSのアカウント画像をタッチすると、新幹線の窓に流れる景色がアップされている。田舎の景色。美しいけれど何が珍しいのか、私にはわからない。おそらくそれは、東京からどこか地方へ出張していることを示していた。窓の形状からしてそれは東海道新幹線で、彼女は東京から西へ移動していることになる。


真理子は中学・高校からの友人だ。中高一貫の女子校で進学校だった私たちの母校では、高校に入学して早々、進路別にクラスが分けられる。国公立への進学が推奨されるクラスに振り分けられた私たちは、明らかにクラスの雰囲気に馴染めていなかった。勉強熱心な生徒、もしくは部活動に明け暮れていながらもなぜか成績のよい恵まれた才能をもつ生徒たちが集まるそのクラスにおいて、真理子はほんの少しだけ派手だった。今思えばそれは田舎特有の微妙な属性のちがいだったのだけれど、真理子に自分から話しかけるクラスメイトはほぼいなかった。そんな彼女が目をつけたのが私だった。周りから見れば、私も同じような存在だったのかもしれない。


そんな私たちも3年間を過ごすクラスメイトとは時間をかけて、徐々に打ち解けていった。3年を通してわかったこと、それは真理子はとにかく自由な快楽主義者だということだった。快楽、と言えば大袈裟で、おそらく「今」の私の偏見が入ってしまっているのかもしれないけれど、気がつけば彼女は休み時間、軽やかにいくつものグループを横断するようになっていて、毎日楽しみのタネを見つけては心の底から笑っていた。私はその場にいたり、いなかったりした。彼女の笑い声を中心に、世界が回っているような気がした。そして高校3年に入ってすぐ、真理子は突然受験勉強を始め、誰よりも没頭するようになる。それは昼休みの急な宣言とともに始まった。

「私、今日から受験勉強始めるわ。部活もやってこなかったし、最後受験だけでも頑張ろうと思って」

そこから真理子は会話の輪から外れて勉強することが増えた。学校が終わると予備校に向かい、その授業も終わると自習室にこもる。一緒に通う友人と、その自習室が閉まるまで勉強しているのだと聞いた。そんな彼女の姿は少なくない数のクラスメイトに影響を与えていた。将来の自分の姿など想像もつかないまま、私たちは受験という熱狂に戸惑いながら巻き込まれていった。そして真理子は、誰よりも早くその渦に駆け込んでいった。


私はと言えば、高校に入ってから毎日同じルーティンを繰り返していた。早朝に起きてその日の予習を済ます。宿題は授業中か休み時間に終わらせて部活に直行し、空腹で倒れそうになりながら帰宅すると用意された夕食を食べ、ドラマやバラエティなどには目もくれず淡々と寝支度をして寝る。その繰り返しだった。なぜか一度読んだ文章や解いた問題を忘れることはなかったから、試験期間に焦って勉強をする必要もなかった。受験勉強もその延長でしかなく、多くの教師や予備校の説明動画に出てくる講師たちが揃えて口にする「スイッチ」や「切り替え」の必要性がほとんど理解できなかった。もちろんそんなことは口に出さなかったものの、模試の結果が出るたびに真理子には「いやー天才には参るよ、うらやましい」とぼやかれることになった。


冬になり受験が近づくと、真理子は一層勉強にのめり込むようになり、あれだけ楽しみにしていたお昼の時間にも、食欲がないと言ってお弁当を残すこともあった。私を含む数人はそんな彼女を心配しながらも、そこまで受験に必死になれていない自分に気がついて妙に焦るのだった。結果、真理子は第一とまではいかなくとも(彼女が必死になって目指していたのはなんとT大だったのだ)、第二希望でそれなりに周りが憧れていた大学に入学することになった。一方私は、第一希望の大学にあと一歩届かず、さして行きたいとも思っていなかった私立大学の、学びたいとも思っていなかった学部に入学することになる。あと一歩、は本当に数点だった。今でもあの数点の理由はよくわかっていないけれど、なんとなくわかる気もした。


物理的な距離も離れた私たちが卒業後に会う回数は、年に3回、2回と減っていき、気がつけば年末年始の集まりでしか顔を合わさなくなっていた。大学を卒業し、私は地元の銀行に勤め、3年後に同じ職場の1年上の上司だった男性と結婚した。真理子は東京で記者になった。年に1回顔を出す彼女は少し疲れているようだったけれど、仕事について話す口ぶりはなんだかんだ活力に満ちていた。真理子は変わっていないのだと、会う度に思った。


「ねえ、飲み会の前にお茶しない?」真理子からメッセージが来たのは、社会人になって5年目、私が結婚して1年経ったくらいの年末のことだった。「もちろん。駅の近くに集合でいい?」そう返し、私たちは集まりが始まる2時間前に集合したのだった。


真理子は柔らかそうな素材のウールのコートの下に黒いタイトなニット、チェックのスカートを身につけていて、ヒールのついた硬そうな革のショートブーツを履いていた。すべて今年調達したのか、毛玉ひとつ、傷ひとつついていない。そういえばこの冬、私はひとつも服を新調していない。私たちは駅の近くに最近できたチェーンのコーヒーショップに入る。甘いラテやチョコレートのかかったドリンクがその店のおすすめのようだったが、私はホットのカモミールティーを頼む。真理子はカフェラテにしたようだった。


そのとき、私はちょうど妊活に入った時期だった。真理子は「いいね、学生の頃からずっと専業主婦になりたいって言ってたもんね。頭いいのにさ」と茶化すように笑った。そう、私は結局主婦になり子どもを育てる、以外の将来像が浮かばなかったのだ。それ以上の夢というものが頭をよぎることもなかった。

「真理子は東京で仕事頑張って、自立しててえらいよ」

それは本心だった。仕事と家庭。そんなふうに私たちのちがいは外からもわかりやすくなったけれど、私たちはずっと対局にいたのだ。周囲の人との関わり方も、読む本の趣味も、物事との向き合い方も。


「そんなことないよ、地元で家庭もって生活するの、私には想像もできないもん」

真理子の言葉も決して嫌味ではなく本心なのだ。私たちはできること・できないことが綺麗に対になっている。だから、お互いを重んじながらもずっと「理解できない相手」としてカテゴライズもしてきた。それが心地よかったのだ。そうとわかっていても、「あのね、私好きな人がいるんだけどね。その人、妻子がいるの」と唐突に切り出されたとき、何を話されているのかわからなくなった。


「どういうこと?」

真理子はさすがにバツが悪いのか、目を合わせずに「ごめん、そうなるよね」と呟いた。

「でもさ、人をどうしようもなく好きになることってあるじゃない。止められなくてさ」

真理子はカフェラテの入ったマグカップを両手で囲ったけれど、それを口元に運ぼうとはしない。

「やめなよ、真理子にはもっといい人いるよ」

私にはそれ以上語る言葉がなかった。真理子はさほど気にも留めず、仕事に話題を切り替えた。


その翌年、私は娘を授かった。


真理子は夫のことももちろん知っていた。結婚式にはスピーチをしてもらったし、自宅にも2度遊びに来ている。他人から見ればいわゆるバリキャリの真理子という存在は夫を少しだけ気後れさせるようだったけれど、私はそんな友達がいることに珍しく鼻の高くなるような思いがした。夫は決まって真理子とは目線を合わせず、他の地元の友人や私を通して会話をすることが多かった。全世界に突然襲いかかった感染症の騒ぎがおさまった頃に様子を見に来た真理子は、今度は1歳を過ぎた娘を介して夫と会話していた。娘はアニメのキャラクターを指さしながらその名前を真理子に教えるでもなくつぶやく。その一つひとつに「全部知ってるんだね、えらいね」と彼女が褒め、「僕が知らない名前もすぐ覚えるんだよね」と夫が答える、という具合に。


「カズキさん、痩せたね」台所に立った私に、真理子は小声で囁く。夫は私の妊娠から出産にかけて5kg以上体重を落とした。抱っこ紐を使って娘を抱くとそのシルエットが際立ち、華奢な腰回りが目につく。

「本人も気にしてて、最近筋トレしてるの。言わないであげて」

小声で返すと、真理子は頷いた。


夫は仕事の忙しさと、それゆえに私に気を遣えないストレスで、精神的に疲れていたのだと思う。会社から育児休暇を推奨され、出産から約10カ月もの休みを彼は謳歌していた。その間、筋トレと休息に勤しんだが、あまり体型は変わらなかった。


それが1年と少し前のことだ。そして今、夫が帰ってこなくなって3日目になる。

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