欠如・不足あるいは強欲
@erimaki_suzu
第1話 遣る瀬ない
正しさはひとつではない、とそう言いたいのだろうけれど、あなたが誓ったことをあなたが裏切っていること、それは揺るぎなく正しくないことではありませんか。
そんな正論を叩きつけるよりもその甘い考えに浸かっていたくて、頭を撫でる手を止めてほしくなくて、わたしはただ黙っていた。そうやって黙っていたこと、積極的に受け入れていたこと、自発的に好意を持ち続けていたことを、悪いことだと心の奥底では認められていませんでした。わたしの恋心は、あこがれは、少なくともその始まりにおいては決して嘘偽りではありませんでした。あなたに最初に触れられたとき、悦びに文字通り心が震えたのです。決して得られないものだと決め込んでいたものが、ある日突然手のなかに舞い込んできて、わたしの世界を充しました。それは「決して得られないもの」と思っていたからということにも起因するのだろうと思いますが、わたしのこれまでの人生において、代替するものがないほどの悦びでした。今までさまざまな始まりがあったけれども、これほど劇的で、野生的で、説明のつけられないものはありません。おそらくあなたも色々な理由をつけて、いや、その理由も理由として機能する代物なのかもしれないけれど、とにかく何らかの理由からわたしとの関係を自己のルールに従って肯定しているのでしょう。そんなことにお互いに気がつきながら、それでもそこにある抗えない恋や築きつつある愛や情けや理解やなんやかんやを、意味のあるものだと信じているふりをしていたのでしょう。そんなものはどれだけ築いたとしても無意味だと知りながらも、引き返せず、拒絶することもできず、ただ行けるところまで進み続けるしかなかったのです。それはさながら麻薬常習者のように、逮捕されたあとになって「やめるきっかけになった。よかった。」とまるで負け犬の遠吠えのように叫んでいるのと同じですね。
依存とは恐ろしく、ときにはおぞましくさえありますが、本人にとっては大変甘美なものです。そこには楽園が形成されている。周りからはどれだけ退廃的に、陰惨に、卑怯に見えたとしても、同時にそれらの評価の根底には妬みがあるのではないかとわたしは考えます。自分が感じたことのない快楽を、その人が享受しているということに対する、嫉妬です。だからこそ、わたしたちは他人の目につかぬよう、妬み嫉みを生まぬよう、こっそりと楽園を形づくっていきました。そしてそこは毎日のさまざまを包み込んで放っておいてしまえる、理想的な場所になりました。わたしたちはまさにそれを求めていたし、求めていたものを2人で築き上げていくことができました。それは砂浜につくった落とし穴のように、引き潮のときには身を隠すことができる隠れ家となり、満潮になると海水で覆われ誰にも見つけることができなくなる秘密基地のようなものです。しかし、ここがわたしたちの潮時です。平和な楽園はいつの時代も破壊される運命にあります。
ここまで言い訳のように述べてきたことを、わたしはやはり心の奥底では否定できずにいます。必要なことであったという考えを捨てきれません。しかし重要なことには、これらが実際に起きていたとしても、いなかったとしても、決定的に傷つけられ、怒り、もしくは怒ることもできずに不幸に沈んでゆく人々がいることなのです。そんなこと知ったことではないと撥ね付けることもできますが、こちらとしても誰かを不幸に陥れるために、正しいのか正しくないのかと思い悩みながら関係を続けているわけではないのです。ただ、少しでも何かから救われたかっただけなのです。結局わたしたちには何かが欠けておりました。それは今も欠けたまま修復されていないかもしれません。もしくはもっとひどい状態になってしまったのかもしれません。それでもわたしたちはお互いを必要としていた。すべて満たされている人間などいないと、それを理由にするのは甘えだと仰るかもしれません。その通りです。皆傷ついています。恐れています。どうしようもなく不安なのです。この世の中は、いわゆる正しいことだけで乗り切れる代物でしょうか。あまりに険しく、入り組んでいて、ふと気を緩めればどこにいるのか分からなくなりはしませんか。わたしたちは、いいえ、わたしは。そんな世の中を渡ってゆくために、彼とその楽園を築いた、ただそれだけなのです。
この社会にあるルールとは何でしょうか。正しさとは何でしょうか。わたしたちに残される道は懺悔と反省と対価の支払いによる贖罪か、ひとりよがりな死、のみなのでしょうか。2人でどこか遠くへ逃げて、開かれた楽園の中で穏やかに懸命に暮らすことは不可能なのでしょうか。なぜ、人の心は移ろいやすく出来ているのでしょうか。なぜ、わたしの心はあなたを憎めないのでしょうか。尽きることのない疑問を繰り返していられるのは、わたしが自分自身に心酔しているからでしょうか。法律で決められているから。神前での誓いを破ったから。倫理に反するから。やめる理由ならばたくさんあるわけですが、この本能に近いところで感じる悦びをどう放ってしまえばよいのかしら。人間も所詮は動物。本能が一番強い欲望です。
この文章を書き上げたのは、2年ほど前のことでした。ずっと鍵をつけて、日の当たらないところにそっとしまっておいたのですが、今、身の回りの整理をしていたところ発見したものです。2年前も今も、考えていることは変わらず、進歩していないと言えばそれまでですが、この世の中でいかに不変であることが困難か。それに思い当たると、やはりわたしたちが築いてきたものは唯一無二、奇跡と言ってもよいのではないでしょうか。この2年で、私たちは日本の四季折々の姿を見て回り、各地の名産物を食し、時にお酒も浴びるようにのみ、そして数えきれないほど、日によっては一日に何度も身体を重ねました。飽きることなくお互いの身体を模索し続けました。それは終わりのない甘い夢のようであり、尽きることのない欲望でした。わたしたちは常にどん欲に、己の欲深さにほとほと呆れながらも抗えずにたくさんを求め、そして一緒に手にしてきた。お金をつかわずとも、それは目が眩むほどの贅沢でした。
しかし不思議なのは、いまだに私たちが結ばれていないことです。あなたは結局意気地のない人だったということでしょうか。そうなるとわたしは、意気地のない男に自分のそこそこに良い時を費やし、叶うはずのない幻想を追い求めていたのでしょうか。きっとそうなのでしょう。周りから見れば、そしてあなたから見ればそれは明らかなことで、当然わたしもそれを認識しているものとされていたのかもしれません。それも分かっていながら、わたしはずっと希望を捨てられずにいたのです。そして正直なところ、今もそれを捨てられずにいるのです。だってあなたは意気地のない、落とし前がつけられない格好の悪い普通の男の子だっただなんて、わたしは受け入れられない。そしてわたしはあなたを憎みたくはない、絶対に。だから、すべて台無しになる前に、あなたにいなくなってほしかったのです。でもこんなにも早くあんなにあたたかかったあなたの手が冷たくなってしまうだなんて、触れるたびに涙が出そうになります。これを書き足している間にもあなたが少しずつあなたでなくなっていく。わたしに悦びを与えてくれた、あなたの熱が消えていく。そろそろわたしも決行しなくてはなりません。あなたに読まれることのない、無意味なこの遺書をなぜこんなに必死になって遺してゆくのか。それはわたしたちの物語まで消えてしまうのがどうにも遣る瀬のない気持ちになってしまったからです。わたしはずっと周りのみんなに聞いてほしかった。わたしはあなたを最終的に手に入れ、この、世にも珍しい幸福を愉しんだのだと。白無垢姿など世に晒さずとも、わたしは悦楽を味のなくなるまで噛み締め、沸き立つような快楽物質で互いの脳をなんども溶かし、至福の思いでこの世を去るのだと。それでは、左様なら、甘美な世界。
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