春の涙
片瀬智子
第1話
この世界では私が物語の主人公だ。
私の都合で状況が変化し、私の気持ち次第で役者は動く。
いくらエゴイストだと思われようと正直そうやって生きてきた。
だから
貴弘は優しくておとなしい恋人だった。
知り合ったのは大学生の時、友人の飲み会にたまたま居合わせた。
その頃から存在感のないタイプだったから人数合わせに呼ばれたに違いない。身なりが良く、いつもニコニコして感じのいい印象が記憶にある。
付き合うことになったのは出会って三ヶ月くらいして。
偶然大学近くの駅のホームで会い、私がカフェに誘った。ちょうどバイトまでに時間があったのと彼について興味があったからだ。
当時すでに情報通の女友達から彼の噂は聞いていた。東北に本社を持つホテルチェーンの
しかも「次男だから、もし結婚しても東北に
確かに私たちみたいに、美しいだけの繊細なネイルで雪かきは想像出来ない。
彼の肩書きは恋人の条件にひとつずつ当てはまっていった。
友人に先を越される前、ばったり彼と出会えたのは今でも運命を感じる。
その頃の私はまだ子供っぽくて恋もゲームのように
人の心を勝ち取れるかどうか。
特に私は自己肯定感が高いほうで、甘やかされて悲しみの経験はほとんどなく、楽しいかつまらないかの感情を行き交っていた。
ませてるのに感情に左右され過ぎて幼稚なのだ。
おそらくそれらがバランス良く構成され、私の顔も合わせて相乗効果を上げていたのでなおさら始末が悪かった。
そんな私にある日、絶望という名の出来事が静かに近寄ってきた。
私たちが安易に使う言葉とは訳が違う、本物の絶望だ。
突然の彼の朝帰りに落ち込む間もなく「貴弘くん、街で知らない女の子と手を繋いで歩いてたよ」と噂好きな友人から情報が入ったのだ。
やっぱり……と、私の中の不安要素が結びついて納得した。
女の勘は生きていく知恵。
あの夜、スマホの相手は彼女だったのかと冷たい怒りが生まれた。
いくつかの不穏な
貴弘と私は四年半の付き合いになると改めて思い起こす。
私は二五歳になっていた。
友達の中で早い子はもう子供がいる。
母親からは「そろそろ貴弘さんと結婚?」なんて言葉も聞いてるのに、今さら別れる選択なんてできる?
私たちには積み上げてきた歴史があり、乗り越えてきた過程もあるのだ。
そういえば大学時代、貴弘は先天性の病気を持つ保護猫を飼っていた。
あんなに可愛がってたのに不注意で足に大怪我をさせてしまい、必死で看病したが弱い子猫は残念ながら力尽きてしまう。
ルミという名前の猫だった。
動物病院からの帰り道、後悔の気持ちばかり
愛情深い彼は最後、『留未』という漢字を子猫に贈ると言っていた。
来世では、未来までずっと僕の元に
私にはわかる。
貴弘は自分から別れを切り出したりはしない。
私を傷つけることは出来ない。優しすぎる。
たぶん、始まりも終わりも私が決めるのだ。
それを思うと彼の残酷な優しさに初めて心が乱れ、頬に涙がつたった。
三日間考えあぐね、私が出した提案はこうだった。
浮気相手の彼女とふたりで話し合いたい──。
貴弘は最初驚いて拒否したが、私の意志が固いことを知ると黙って引き下がった。
場所は都内近郊にある老舗ホテル内のカフェ。
なるべく敷居の高い場所がいい、高級感で相手を
*
「初めまして。……
時間通りに現れた彼女はうつむき気味に言った。
長い髪の色には見覚えがあった。
モノトーンのシンプルな服装に、素顔に近い月並みな顔立ち。細い身体が頼りない。
「
大手の化粧品会社で働いてる私は、完璧にメイクしているほうが自然だ。
今日も頭の上からつま先まで隙がない。
ふたりの年齢は変わらなかったが、まわりから見れば私のほうが年上に見えるかもとふと思った。
今いるこのカフェは、私たちのような若いお客は少なかった。
そもそも平日の午前中だからだろう。
モーニングを終えた優雅なマダムや上品なご年配の夫婦が、紅茶を楽しんだりゆっくり新聞を読んだりするのが見える。
私は押し黙ってる紗菜へ話を切り出すため、まずは熱いダージリンティーを口にした。
「……宮越さん、わかってると思いますが。今日こちらに来てもらったのは、
ここで私は、あえて『私たち』という言葉を選んだ。
貴弘も私と同じ気持ちということをこの人に知ってもらう必要があったからだ。
彼女はぴくりともせず、話を聞いている。
「これ以上、彼とは会わないで頂きたいんです」
私の
「……市井さん、観月さんと……隠れてお付き合いをしてしまって、すみませんでした。あの……でもわたし、市井さんに言わなければいけないことがあります」
途切れ途切れの言葉とは対照的な紗菜の真っ直ぐな瞳に、私は嫌な予感を覚える。
彼女はそのまま続けた。
「わたし……何度も何度も、諦めようとしたんです、彼のこと。でも……ダメで諦めることが出来なくて、今日は市井さんに、自分の気持ちだけお伝えしようと思って……ここに来ました」
予想外の言葉に驚いた。
こんなの、
紗菜は精いっぱい恐縮してるように見える。少し震えている。
だからってこんなのが許される訳ない。
貴弘と私は長年の恋人なのだ。
最近出会ってちょっといいなくらいで、彼を寝取られるなんてありえない。
そんなことで私が振られるなんてありえない。
何もかも、今起こっていることが理解出来なかった。
「宮越さん、ご自分が何を言ってるのか分かってますか。あなた、貴弘と別れないって恋人の私に言ってるんですよ」
思わず語気が強くなる。
斜め向こうのテーブルの女性が、新聞の端から好奇の目でこちらを見た。
「……ごめんなさい」
紗菜は消え入りそうな声で言う。
少しでも
「ごめんなさいじゃないの。私は彼と別れてと言ってるんです。出来る出来ないじゃなくて……すぐに別れてください」
もっとも真っ当なことを言ってる自信が私にはあった。
彼女は悩む暇があるなら、今すぐメッセージなり何でもいいから行動すべきだ。
「観月さんは、初めて本気で好きになった人……なんです」
その後は、空間を薄くなぞるクラシック音楽だけが聞こえていた。
それほど静かに紗菜は泣いていた。
だが彼を失いたくないと全身で叫んでるようにも思えて、私は少し怖くなる。
彼女は言葉を選びながら喋り出した。
「観月さんと出会ったのは、一ヶ月ほど前でした。仕事帰りの電車の中です。夜遅くて……満員ではないですが椅子が空いてなかったので、わたしはドアのあたり、暗い窓の前に立ってました」
ハンカチを強く握りしめて言う。
「疲れてぼんやりしていたら、突然電車が……対向車両とすれ違って風圧でドンっと大きな音がしました。わたし、すごく驚いて怖かった。息が苦しくなって……その場にしゃがみ込んでしまったんです」
対向車両がすれ違うなんてよくあることだ。
スピードが出ている電車の場合、鉄と鉄に挟まれた空気の抵抗で一瞬激しい衝撃を感じる。
とはいえ、そんなことで具合が悪くなる人などいないと思う。
紗菜は私の考えを見抜いたらしく、急いで話を続ける。
「市井さん、知ってますか。交通事故で……車同士の衝突の場合ですが、ぶつかる瞬間の感覚が電車のすれ違いの時とよく似てるんです。一瞬強い風圧で耳を塞がれ、時間が飛んでしまう感じ。わたしは前に、車の事故に
そういうことか。
紗菜は自分が
「ああ、そう」
唇を噛む彼女の怯えたまなざしを私は無視した。
「……その時、観月さんがわたしに声を掛けてくれました」
貴弘らしい行動だと思った。
誰にでも優しい男。
車内で具合が悪くなり、しゃがみ込んだ彼女を心配しただけ。
誤解したのは彼女。
それを恋に発展させたのはやはり紗菜のほうだ。
「観月さんはわたしに手を差し出して、こう言ってくれました」
───こっちにおいで。
一緒に帰ろう。
「は? それで彼を好きになったっていうの?」
うんざりして私は言った。
バカみたい。怒りを通り越して冷静さが勝る。
そんな他愛のないことで浮気が始まって、私を傷つける結果になったんだ。
彼女の気持ちは知りたくもないが、そう思ったら少し気が楽になった。
貴弘の熱はすぐに冷めるだろう。
久しぶりに女の子から好意を持たれて、浮かれてしまっただけ。
そうだ。
これを機に、私たちは結婚の準備を始めたほうがいいかもしれない。
新しい思いつきに私は気分が良くなり、窓の外の庭園を眺めた。
春を喜ぶ美しい桜に眩しい光が差している。
来年のこの季節がいい。
名前も知らぬ小鳥が二羽、青空へ向かって同時に飛び立った。
「宮越さん、話は分かりました。でも、これでは平行線のままなので今日のところは終わりにしましょう」
今日のところは──と言ったけれど、次があるとはまったく思ってない。
私の心はもう結婚という自分の未来へ興味が移っていたのだ。
彼女を前にしながら、すでに私には関係のない人間としか思えない。不安は何もなかった。
「また……連絡をお願いします」
白いショルダーバッグを手に取ると、紗菜は小さく会釈をして出口方向へ身体を動かした。
私は目立たないように軽く伸びをする。
肩がこってる。知らずに緊張していたせいだ。
でも終わった。今まで嫌なことなど続いた試しはない。
私は人生において、端役の登場人物ではないのだから。
微笑みを浮かべゆっくり立ち上がろうとした際、紗菜の後ろ姿が目に入った。
先程は見えていなかった、わずかに引きずる歩き方に気付く。
足の怪我?
そう言えば……。
彼女が話してたことを思い返す。
車同士の衝突事故、家族で乗っていた車が大破、交通事故のトラウマ、彼女の怯えたまなざし──。
紗菜のあの歩き方は事故の後遺症に違いなかった。
それを理解した直後、まわりに気づかれぬよう慌ててまた窓の外に視線をやる。
喉の奥が苦しい。すっと血の気が引くのがわかった。
光の庭園に
まさか、そんな……。
貴弘が愛しくてたまらないのは私じゃない───紗菜だ。
私はすでにこの勝負に負けている。
どうしようもない悔しさと虚無感が一度に押し寄せ、視界が涙で見えなくなった。
深い沼にどこまでも落ちていく感覚。
絶望の底に取り残されるのは言うまでもない、私。
───こっちにおいで。
一緒に帰ろう。
彼は手を差し出し、確かにそう言った。
貴弘は見つけたのだ。
なくし物はいつも思ってもみない場所から現れる。
無気力な仕事帰りの電車にいたのは、怯えた
彼にとって紗菜は留未。
あの日亡くした、足を怪我した可哀想な子猫。
私は気づいた。
やっと子猫は貴弘の元へ戻って来た。
もう二度と、彼は留未をはなさない。
春の涙 片瀬智子 @merci-tiara
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