そういう話だから、これは。
空間なぎ
上:最高な私と最低なアイツ
私は私が好きだ。絶対的な自信がある。かわいいし、頭がいいし、運動もできて料理もできて皆から好かれている。そんな私がトップに君臨するのは、当然のこと。
私がなりたい私を体現したのが、この私。
そう自負している。
高校3年生の秋ともなれば、大半の人は受験勉強に追い込まれる受験生の姿を思い浮かべる。大学受験で人生のすべてが決まるわけではなくとも、希望する大学に通えるかどうか、また目標に向かって地道な努力を続けられるかどうかは重要である。
この教室の空気は、それらとはまったく無縁だ。その理由は単純で、タネも仕掛けもなく、ただクラスの全員が受験を終えているからだ。私も、例外ではなく。
大学受験には、指定校推薦という制度がある。簡単に説明すると、校内で選考に勝ち抜けば合格確定。あとはちゃちゃっと小論文の試験と面接を受ければいいだけ。……なんて聞くと簡単そうに思えるけど、ポイントは2つ。まずは自分の行きたい大学が、うちの高校を指定しているかどうか、ということ。加えて、校内選考がめちゃくちゃ厳しい門だということ。校内選考は入学してからの成績、つまり評定平均の高い人が圧倒的に有利になる。早い話、「受験勉強するより、1・2年の成績を上げるほうが手っ取り早い」と判断し、早く動いた人が早く結果を得るだけのこと。
うちの学校は指定校推薦で進学する生徒が多く、1月初旬に行われる有名なあの試験を受ける生徒はほとんどいないと聞いた。そんなわけで、うちのクラスは無事全員が合格を勝ち取り、平和な冬を迎えようとしていた。
教室に担任が入ってくると、さすがに楽しい楽しい放課後を控えた私たちでも空気を読んで口を閉じる。ねちっこい担任に目をつけられては、せっかく最速で受験を終わらせて得たJKブランドで過ごす放課後の時間が減ってしまう。挙句、何の役にも立ちやしない反省文を欠かされる羽目になるのだから、それはまじで勘弁願いたい。
担任がプリントを配布し、私も前の席の人に倣って後ろに回す。この動作すらもかったるい、さっさと卒業して自由なキャンパスライフを送りたい。カバのような、のっそりとした動作で教卓に立ちバインダーを開く担任。どうせろくでもない話しかしないんだろうな、一般受験組に配慮しろとか合格取り消しにならないよう節度のある行動を心がけろとか。そう思った矢先、
「斉藤、生物のノートが出ていないと聞いている。今日中に生物室まで」
と、名指しで注意を受けてしまった。私らしからぬケアレスミスだ。
「わかりました」
真面目すぎず、かといって適当すぎないトーンで返事。正直、めんどくさい。テストじゃないんだから、たかだかノートひとつ出さないだけで成績が下がるわけでもない。だけど提出を怠ったと知った担任から説教をくらうほうが、もっとだるい。
「それと、日直。生物室の黒板が消えていないそうだ。このあと消すように。以上」
担任の話が終わると、今日の日直が慌てた様子で「起立!」と号令をかける。6限で生物室の黒板を消し忘れた日直かと思うと、どこか納得する言動だ。私はこういう、まったりのんびりした人間が好きではない。そもそも、このクラスに好きな人なんていないんだけど。
「さようなら」
フライング気味に運動部の男子たちが廊下を駆けていく。私は担任に向かって一礼し、同時に通学バッグから生物のノートを引っ張り出す。教室の後方にいた友達に手を振ると、「いってらー」「また明日」なんて言われてしまった。間延びした挨拶。向上心のない毎日。平々凡々。私はもっと、熱を帯びた話をしたいのに。
やはり、これではダメだ。内心ついたため息を悟られないよう、バイトで培ったスマイルを浮かべて「またね!」で済ませて教室を出た。
渡り廊下から、図書室や物理室が並ぶ特別棟に足を踏み入れる。特別棟には授業以外で足を踏み入れた記憶がない。今日のバイトは18時からなので急ぐ必要はないけど、見慣れない景色のせいか自然と歩みは速まる。角の空き教室を曲がり階段を上ると、お目当ての生物室に着いた。
生物室の引き戸は、既に開いていた。まるで現実じゃないように見えたのは窓から差し込む夕陽でオレンジに染められたせいか、それとも生物室らしい棚の中身のせいか。所狭しと並べられたビーカーに、なにかの生物が詰められた瓶。よく見てみると、それはカエルだった。自分に向かってとびかかってくることはない、既に死んでいるとわかっていても、気持ち悪く感じる。
そんな空間にひとり、黙々と黒板を消している後ろ姿があった。背の順で並べば最前に位置するだろう小柄な背に、真面目さを芯まで煮詰めたような黒髪が筆のように垂れている。その髪型からすればポニーテールと呼べるが、あれをポニーテールと呼ぶには抵抗があった。ただ無難に「後ろでひとつに結びました」といったていだ。
なぜか足音を忍ばせて、私は生物室に入る。悪いことをしているわけでは当然ないし、宮路に見つかったとて適当に会話してやり過ごすくらいの余裕はあるが、頭のどこかで「こいつには関わらないほうがいい」気がしてならないのだ。とはいえ、気づかれないようにノートを置いて帰るというのも、まるでスパイみたいだし。
結局、やや乱雑に教卓にノートを置く。その音でようやく宮路は私の存在に気づいたらしい。
「あっ、え、その」
意味のわからないことを言いながら、宮路は私を前にわたわたと手を動かし、黒板消しを落とした。途端、白い粉が床に飛び散る。なにやってんだよ、と心の中でつぶやいて、私はブレザーのポケットからティッシュをさっと取り出した。長ったらしい教卓を回り込み、黒板の前へ。
「あの、ごめん、私のせいで……」
床を拭く私の頭上から、今にも泣きそうな声で弁明する宮路。ああ、嫌だ。なぜ素直に「ありがとう」と言えないのか。最後にもう1枚ティッシュを出し、集めた粉を一気に拭き取った。その瞬間、あるアイデアが私の頭をよぎった。
スクールカースト。もはや説明がいらないくらい社会に浸透しているこの言葉は、なんだかんだ言われながらも結局のところ「存在している」のは事実である。それを意識しているか否か、理解しているか否かが大事であって。
私、
カーストの上位にはなんとなくの共通ルールがある。それは至ってシンプルで、成績優秀、運動神経抜群、そして容姿端麗。ここでルールと私を比較してみよう。成績は学年1桁前後。球技も持久走も得意な時点で、おそらく運動神経抜群。容姿は客観的に見たら悪くなく、主観的に見たら超かわいい。
問題はここからである。なぜ私はルールを満たしているのに、カースト上の下などという微妙な位置に追いやられているのか。この勉強もできて運動もできてかわいい私が。毎日2時間勉強して1時間ランニングをして美容のために毎日22時には寝る、この私が。なぜ上の上になれないのか、花のキャンパスライフを控えた私は至って冷静に日々自己分析を重ねた。そして、ひとつの仮定が出た。
カーストを形成しているのは人間。つまり、人に好かれることがカースト上の上に上がるための最後のピースなのである。これまでのカースト上の上を思い返してみれば歴然。成績がよく運動もでき、さらにかわいくて性格もいい。常にポジティブであたたかな雰囲気をまといながらも、ダメなことはきちんとダメと言える芯の強さ。東にひとりでいるクラスメイトあらば自然と輪に入れてやり、西に困っている先生あらばそっと助け舟を出す。雨にも負けず毎日自転車で登校し、風にも負けない前髪をもち、いつも静かに笑っている。そういう者に私はなりたい。とてもなりたい。むしろなるのが当たり前。
上には上があるというのなら、私は上を目指す以外の選択肢がない。向上心のないものはばかだから。指定校推薦で合格して以降、私は心理学の勉強を始めた。
人に好かれる方法として有名なものに、「単純接触効果」と「好意の返報性」がある。前者は言葉の通り、繰り返し触れているうちに好きになっていく現象で、後者は相手からの好意にお返しをしたくなる人間の心理のこと。これを有効に活用しつつ、私はさらに「ギャップ萌え」を狙ってクラスメイトの好感度を上げることにした。
そう息巻いたのはいいものの、簡単にいかないのが世の常。高校3年生の秋ともなれば、既に形成された人間関係が邪魔して新たに関係を築くのは困難である。何かにつけてカースト上位の子たちにお菓子を配ってみたり、うっかりちゃっかり話に混ざってみたりと試行錯誤はしてみたが、どうも反応がいまいち鈍い。それならば、有効な手立ては一体何か。私は悩んだ。クラスの皆に配るはずのお菓子をちゃっかりヤケ食いした。ニキビが増えた。
「あ、あのっ……」
固まった私を気遣うように、上から宮路の声が落ちてくる。頭に浮かんだせっかくの名案、貴重なアイデアを忘れないうちに私はすばやくスカートのポケットからスマホを取り出し、メモ帳アプリを開いた。宮路からすれば、それは不気味な光景だったに違いない。あわあわと混乱している様子が見なくても伝わってくる。
「よし、っと」
欲しい物一覧や勉強の記録の上に、新しく「私は天使」の文言が追加された。そう、私は天使なのだ。これから天使のように振る舞うのだ。宮路の前では。
天才的な努力家でありながら天性のうっかりさんである私は、こんな簡単なことに気づかなかったとは。まったく、まだまだ私の思考力に伸びしろがありすぎて困る。
御託はさておき、理屈はこうだ。たとえば数学のテストで90点を取ったとする。すると、伸びしろは10点だ。では、英語のテストで30点を取ったとする。すると、伸びしろはなんと70点だ。どちらも上限が100点である以上、得意科目を勉強するよりも苦手科目を勉強したほうが伸びしろがあり、より成績アップを狙える。
それを人間関係に当てはめるなら、まさしく私がこれまで実行してきた作戦は「カースト上位の人」よりも「カースト下位の人」にこそ焦点を当てるべきだったのだ。カースト上位の人にお菓子を配ろうが何度も話しかけようが、得られるのはささやかな効果だけ。ここは、これまでよく話したことのないカースト下位の伸びしろにこそお菓子を配り積極的に話しかけるべきである。私、天才かもしれない。
ゆっくりと立ち上がり、胸を張る。スマホを堂々とブレザーのポケットに入れ、スカートのホコリを軽く払う。ここからは私の時代。試しに、丸めたティッシュを少し離れた所にあるゴミ箱まで投げてみる。余裕で入る。完璧。
そんな私に、さっそく宮路がいい話題を出してくれた。
「あ……えっと、ありがとうございます。私が汚したのに……拭いてくださって」
天使だ天使、私は天使。カースト上位に君臨する天使なら、きっとこう返す。
「ううん、大丈夫だよ。私がやりたかったことだから」
「わ、すごく優しいんですね……!」
よしよし、いいぞ。そもそもカースト上位の人たちって、みんな隙がなくて助ける機会すらないから、本当にこの作戦は名案すぎるかもしれない。
憧れの人を見るように瞳を輝かせ、私を見つめる宮路。地味な後ろ姿から想像する顔立ちと寸分違わず、重い前髪が眉を覆い隠し、普通はオシャレに見えるはずの丸メガネが驚くほどもっさりとして見える。丸メガネを外せば、一瞬で誰だか判別できなさそうなほど印象の薄い顔。よく見ると二重だし、鼻筋にシャドウを入れてリップで唇を盛ればいい感じにバランスのとれた顔になれると思う。
もしかしたら、これはチャンスなのだろうか。カースト上位の私がカースト下位の宮路をプロデュースし、びっくり仰天の大変身で私は一躍有名人に。かつて小学生のときに見たドラマに、そんな感じの話があったのをぼんやり覚えている。
「黒板消すの、手伝うよ。2人のほうが、早く終わるでしょ?」
何にせよ、まずは宮路の日直の仕事を終わらせないと。そこらへんにスクールバッグを放り投げた私は黒板消しを手に取り、有言実行とばかりにさっさと消していく。宮路は嬉しそうに微笑むと、ゆっくりと消し始めた。いや、そこはキビキビ動けよ。
「ありがとうございます。あの、斉藤さん、部活とかはいいんですか……?」
「入ってないから大丈夫だよ。宮路さんこそ、部活は大丈夫なの?」
「私……幽霊部員なので」
予想外の言葉に、返答に詰まった。高校3年生にもなって、幽霊部員とは珍しい。うちの学校は入学時、例外なく入部必須だ。それゆえ、1年生のときに籍だけ置いて幽霊部員になるケースが多く、ほどよく1か月ほど経ったら退部届を出すのが幽霊部員としての暗黙の了解だった。私は家庭科部でそんな感じだったし。
3年生で幽霊部員ということは、何かしらの問題があって抜けるに抜けられなくなったか、それとも特別な事情があるのか。会話の分岐点はここか、とばかりに質問を投げる。
「宮路さんって何部に入ってるの。 文芸部とか? 真面目っぽいもんね」
隣でのんびりと動いていた黒板消しが止まる。不思議に思って隣を一瞥すると、
「そうなんですっ! 斉藤さん、どうしてわかったんですか」
と、急に感激した様子で私を見つめる宮路。その反応に、思わず胸の奥が痛む。ややあって、忘れていたムカつきと後悔の念がせり上がってくる。5月の教室、球技大会の話し合い。「斉藤さんって、めっちゃバスケ部っぽい」誰かの言葉。「よく言われるんだよね」ヘラヘラ笑って、ごまかす私。「なんか見かけと違って、全然だったね」誰かの期待から生まれた理想の私が、勝手に他人を裏切っていく。
嫌だ。やめよう。
「斉藤さん?」
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた。今日の体育、マジきつかったよね」
やや強引に話題を変えると、宮路は「ですね」と丸メガネをくいっと上げ、短い相槌を打った。私の発言に気になる点はないらしい。安堵しつつ、さっきのような無意識に任せた会話はやめようと決心する。結局のところ、私たちは無意識に人を見た目でジャッジして好き勝手にイメージの枠に当てはめていく。それが気にならないほど強くいられればいいけど、私は傷つきたくないし、傷つけたくもない。
他人との関係が必ず発生する人間社会においては、どだい無理な話ではあるけど。
「別に、重い話じゃないですよ。文芸部の幽霊部員の経緯」
気を利かせてくれたのか、宮路はフォローするように言った。私が宮路の触れてはいけない話題に触れたことを気にして、話の流れを変えたと思っているようだ。そこまで言われたら、さすがに訊かないわけにもいかない。むしろ、宮路は誰かに話したかったのかもしれないし、と自分に言い聞かせてこう切り出した。
「やっぱり、宮路さんの部活の話、聞いてもいい?」
「はい! ぜひ!」
あっさり食いついた。ちなみにさっきから、宮路の黒板消しは仕事を放棄している。消してくれ、日直。仕事をまっとうしてください。
「えーっと、なんで文芸部で幽霊部員なの」
質問に対する答えは驚くほど簡単だった。
「怖いから逃げてるんです」
「……そうなんだ」
無言が続く。いったい何が怖いのか、尋ねることはできなかった。沈黙を破ったのは、宮路のほうだった。
「実はそのことでですね、斉藤さんにお願いがありまして」
怖いから逃げている。さっきの言葉がまだ頭の中で反響しているなか、宮路は真剣な眼差しで私を見つめて、
「斉藤さん、私の小説を読んでください」
と、お願いをしてきた。なるほど、小説を読む。私は宮路に話しかけたことを後悔した。私はバイトでの経験でよく知っている。こうして急に距離を詰めてくる人間が、どれだけ厄介で面倒くさいかを。勢いよく黒板消しを上下に動かし、残りの文字を消し去る。この瞬間も消し去る。記憶から。
「あーごめん、ちょっと用事思い出したんでやっぱ急いで帰るわー」
何が天使だ何がカースト下位にこそ伸びしろだ。こんなにめんどくさい問題を押し付けられるくらいなら、私はカースト上の下でいい。よくないけど。
黒板消しをクリーナーに置き、床に放り投げたスクールバッグを拾う。さっさと生物室を出ようとして、スカートが何かに引っ張られた。振り返れば、そこには宮路。
「斉藤さん、なんで逃げるんですかっ……!」
「ちょ、ちょっと声がでかいって! 普通に用事思い出したから帰るの」
いくら人が少ない特別棟とはいえ、まだ部活や委員会で残ってる人もいるだろう。その人たちに私の悪評が広まれば、シンプルにカーストが落ちる。シンプルに困る。
このまま脱がされてたまるかと、私はスカートを強く握り抵抗する。ぐいぐいと恥も外聞もなく私のスカートを引っ張る宮路に、もはや恐怖を抱き始めたそのとき。
「あっ」
綱引きの綱よろしく、スカートをお互い力の限り引っ張っていたら起こりうる当然のこと。破けてしまう前にと、私が引っ張る力を弱めた途端、宮路はついに私のスカートから手を離し、そのまま後ろによろめく。
「わっ……!」
小さな叫び声と共に、彼女は盛大に尻もちをついた。その拍子にスカートがめくれ、ちらりと体操着の半ズボンが見える。わざとではなかったとはいえ、人にけがをさせてしまった事実に自責の念がこみ上げる。私は慌てて駆け寄り手を差し出した。
「ごめん、大丈夫?」
「大丈夫じゃないと言ったら、どうします?」
「えぇ……」
「慰謝料は、私の小説を読んでくれたらタダにしますよ」
イタズラそうに微笑む宮路を見ていたら、助ける気が失せた。が、一度差し出した手を引っ込めるのは違う気がして、一応まだ宮路に向けて差し出しておく。
「ほら、さっさと立って」
思わず荒くなる口調を咎めるでもなく、宮路はごく自然に私の手を取った。丸メガネ越しに私を見つめる宮路の両目は、なんだか水を得た魚のようにきらめいていた。
それはキレイというより、田舎の原風景を見たときに感じるすがすがしさに似たような何か。そうか、宮路は私のおばあちゃんに似ている。主に丸メガネが。
「よっこいしょっと」
引っ張り上げると、宮路は意外に重かった。小柄に見えるが、着痩せするタイプなのかもしれない。今度こそ帰るとばかりに、私はスクールバッグを背負い直した。
「斉藤さん」
宮路の嬉しそうな声音が、私をまだ引き止める。こんなに楽しそうにできるなら、クラスでもそうしたらいいのに。そんな思考は、心のうちに留めておく。
ああ、めんどくさい。今日はバイトも勉強もすべて休んで、ただ寝たい。絶対にバイト行くし勉強するしランニングもして22時には寝るけど。継続は力なり、なのだ。
「斉藤さんに、私の小説を読んでほしいんです。他の人じゃダメなんです」
背中越しに聞こえる宮路の声が真剣なトーンを帯びる。
「斉藤さん、わざわざ黒板消すの手伝ってくれましたよね。こんなこと、斉藤さんが初めてだったんです。だから恩返しじゃないけど、少しでも喜んでほしくて」
じゃ今すぐ私を帰らせろ、とは言いにくい空気だった。あと単純に相手が小説を読むのが苦手だった場合、恩返しどころか苦痛をプレゼントすることになる点について、まったく考慮されていないのが気になる。ああ、私はコイツが嫌いだ。
私は振り返り、告白の返事を待つ人のごとく静かに佇む宮路に向き合った。ただのクラスメイトで、地味で鈍くて頑固なコイツに言い聞かせる。
「私は宮路のために手伝ったわけじゃないから。何を勘違いしてるのか知らないけど、私はただのクラスメイトだよ。これ以上、話しかけないで」
言ってしまった。ここまで本心をさらけだして話すのは、初めてのことだった。手垢のついた空っぽの会話じゃなく、誰かに好かれるための媚が詰まった相槌じゃなく、ただ自分の思ったことを口に出す。そのことの難しさも、めんどうくささも、言ってしまったあとのモヤモヤする気持ちまで私は知っているのに。
言いたいことを言えた爽快感と、言うべきではなかったことを口にした罪悪感。
どうでもいい相手、嫌われてもいいはずなのに宮路の反応が怖くて、私はすぐに背を向けた。結局のところ、私の計画がおかしかったのだ。カースト下位にこそ伸びしろがあるのは事実だろうけど、同じクラスになって半年以上過ぎているのに話したことがない時点で、私たちは関われないと明確に結果が出ているようなものだ。嫌っていたわけでも、避けていたわけでもないのに。私たちの世界はカーストなんて言葉がなくても交わらない。
オレンジに染まる生物室、生き物たちの死体が並ぶ棚。教室とは違う不思議な空間に、宮路の謝罪はまっすぐ響いた。そこに湿っぽさや卑屈さはなくて、ただ明るい反省の意が含まれているように感じた。
「ごめんなさい」
その言葉は、私の胸を打つ。反射的に宮路に向き直ると、彼女は頭を下げていた。その角度はまさに、いや、どこからどう見ても土下座。
「何してんの! スカート汚れるでしょうが」
腕を取り立ち上がらせると、宮路は楽しそうに「えへへ」と笑った。
「そもそも今、宮路が謝る要素あった? キツいこと言ったの、私じゃん」
「ありましたよ。嘘なんです。手伝ってくれたのが初めてとか、恩返しとか」
「とんだ大嘘つきめ……」
前言撤回。言いたいことを言えた爽快感が私の心には満ち満ちている。罪悪感なんて無用。コイツに1秒でも触れていたくない。私はすぐに手を離した。宮路はスカートをパタパタと払うと、鼻先までずり落ちてきた丸メガネをくいっと上げ「ふふふ」と意味深に微笑む。その姿はまるで魔女。
「斉藤さん、案外チョロいですね」
「宮路には言われたくないわー。マジで」
心外なコメントには徹底的に反論する。もう、宮路にはどう思われたっていい。人に言いふらすタイプじゃなさそうだし、そもそも友達いなさそうだし。
「でも、斉藤さんに読んでほしいと思ったのは本当ですよ」
「
「自分では何度も読みました。だけど、客観視って難しくって」
気持ちはわかるけど、客観的に自分を見れるようになることは大切だ。それと同時に、主観で見たいように見れるってことも大事だと思うんだけど。
「あのさ、私もう帰るから。これはマジな話なんだけど、このあとバイトある」
「そうなんですね。ではまた、明日。黒板、ありがとうございました」
そう言ってぺこりと頭を下げるその姿からは、どこまでも私のことを信じてくれるような純朴さが漂っている。本当に、人は見かけによらない。そのことが少しおかしくて、私は声を潜めて笑った。
これまでの数回の押し問答は何だったのかと思うほど、あっさりと出られた廊下の空気は驚くほど冷たかった。生物室が西日に照らされていたせいかと合点して、私はスクールバッグから手袋を取り出した。下駄箱までの道のりは怖くなるくらいに静かで、まったく人気がない。この世界から人間が消えてしまったようだった。
「……帰って寝よ」
私は何事もなく帰って仮眠をとってバイトに行って勉強して、寝た。ランニングは珍しくサボったけど、それは許してほしい。翌朝しっかりと取り戻したから。
……実際のところ、それ以降ランニングはサボり続けることになるんだけど、その話はこれから語ろう。
宮路星花という、悪魔の生まれ変わりのような人間に目をつけられた私の話だ。
そういう話だから、これは。 空間なぎ @nagi_139
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