薄墨

雨蕗空何(あまぶき・くうか)

薄墨

 両親の葬儀は、どうにも他人事のような感じがした。

 読経の声も、焼香の香りもどこか遠く、参列者たちの顔は墨で塗り潰したように、表情が見えない。

 幽霊のようになった気分でたたずむ僕の隣で、妹はせわしなく目を動かして、たたずんでいた。


 妹。いただろうか。いたかもしれない。

 瞳が虹色だけれど。さっきからずっと、救急車のサイレンの口まねをしているけれど。


 葬儀が終わったらしい。控え室で妹と一緒に待った。

 ふすまが開いて、迎えが来た。

 四十歳手前くらいの女の人。黒髪を上げてまとめている。黒服。葬儀なので当たり前だけれど。

 肌が白い。髪や服との対比が鮮やかだった。

 色彩に関しては、さっきからずっと世界が薄墨色だから、あてにならないかもしれないけれど。


 その人は、母の妹だと名乗った。

 つまり、僕の叔母おばだと。


 その人はずっと、あごを引くように首を傾けて、必然その視線はねめ上げるようにこちらに向けられた。

 三白眼になったその目の、輪郭が結膜炎のように赤かった。


「あなたたちの生活は、私が保証します。望むのなら大学も、通い続けることができます。

 私のことは、母とでも叔母とでも、好きに呼んでください」


 その人にそう言われて、僕は少し首をかしげて、それから言った。


「では、先生と呼ばせてください」


 その人はほんの少しだけ目を見開いて、けれどやがてうなずいて、それでもあごを引くような姿勢のまま、僕らを連れ立って歩いた。


 それで、僕と妹と先生。

 三人の生活が始まった。




 先生の家は、いわゆる日本家屋のようだった。

 廊下を歩くたびに、木の床がきしむ。

 歩いても歩いても、部屋の配置が、いつまで経っても覚えられないけれど。


 縁側らしき場所に出て、庭をながめる。

 松の木とおぼしき木が植わっていて、うねった幹で、枝葉を横に広げている。

 空は薄暗くて、景色はずっと薄墨色をしている。

 塀の向こうのどこかで、煙が細く長く、上がっていた。


「ぴーぽー、ぴーぽー。ぴーぽー、ぴーぽー」


 どこかで妹が、またサイレンの口まねをしている。




 食事は三食、三人そろって食べるのがなんとなくの習慣になった。

 三食。毎食。毎日。

 大学は、おいおいどうするか考える。

 妹の学校についても。


 畳敷きの部屋。

 三人で食べるにはやや大きいちゃぶ台で、みんなで座して食べた。

 妹はサイレンの口まねを続けながら、器用に食事をする。

 瞳はやはり、虹色。


 先生の方に、視線を向けてみた。

 炊飯器から、ご飯をよそっている。


 先生はいつも、髪を上げてまとめている。

 服もたいていは黒いものだ。

 それでうなじの白さと、結膜炎のように赤いまぶたの輪郭があって、黒と白と赤、それが先生の構成要素のようだった。

 妹はずっと、サイレンの口まねをしている。


 叔母のねめ上げるような視線が、僕に向いた。

 僕は頭を下げて、差し出された茶碗を受け取った。




 家の中を歩き回る。

 景色はずっと薄墨色。どこかから、煙のにおいがする。

 部屋のひとつ。戸を開ける。


 畳敷き。文机ふづくえ。座布団。棚。

 墨。すずり。筆。半紙。

 つまり、書道の道具。

 煙のにおいが、室内からの空気に押し流されて、墨と水のにおいに変わった。


 筆は、濡れている。

 書き物の途中であるように。


「書いてみますか」


 間近で声がして、振り返った。

 僕の斜め後ろに寄り添うように、先生が立って、赤い輪郭の三白眼でねめ上げていた。


 僕はしばらく、返事をせずに先生の顔を見ていた。

 先生は黙って僕を見上げて、ややあって僕の前へと通り過ぎていって、部屋に入った。


「興味があれば、書いていってもかまいません」


 先生は文机のそば、座布団には座らずに、畳に膝を下ろした。

 じっと、赤い輪郭のねめ上げる目で、僕を見てくる。

 遠くで妹の、サイレンの口まねが聞こえる。


 僕は座布団に座って、文机に、その上に置かれた半紙に向かい合った。

 筆を手に取る。墨液ぼくえきにひたす。


「ぴーぽー、ぴーぽー。ぴーぽー、ぴーぽー」


 文机を挟んだ向かいに、妹が立っている。

 サイレンの口まねを続けて、虹色の瞳で、僕を見ている。


 ひとつ、深呼吸をする。

 筆を持ち上げ、半紙の上に持っていく。

 下ろす位置を、見定める。


「筆の持ち方は」


 後ろから、先生が手を沿わせてきた。


「こうです」


 僕の手ごと、先生の指が、筆を支える。

 首筋の裏から、先生のねめ上げるような視線が、僕を見ているのを感じる。


「ぴーぽー、ぴーぽー。ぴーぽー、ぴーぽー」


 妹の虹色の視線が、僕を見ている。

 僕は筆と、それを下ろす先、半紙の上を見る。

 呼吸を深めて、ゆっくりと、先生の腕をひきずるように、筆を持つ手を動かしてゆく。


 筆を、下ろす。


 半紙の上に、墨が広がった。

 薄墨だった。

 濡れて、にじんで、侵食していく。

 溶けてゆく。

 香りが、した。


 ゆっくりと、筆を動かす。

 薄墨が伸びて、軌跡を残してゆく。

 薄く、長く。広がって、にじんでゆく。


「ぴーぽー、ぴーぽー。ぴーぽー、ぴーぽー」


 虹色の瞳が、僕を見ている。

 息を深く吸う。

 どれだけ深く呼吸をしても、体に酸素がうまく行き渡らない気がした。


「すみません。ここまでで」


 ことりと、筆を置いた。

 薄墨で引かれた線は、なんの文字にも形にもならず、ただ半紙を侵食していた。

 ぴったりと寄り添っていた先生は、僕の頭をなでてくれた。


「気が向いたら、また書いてください」


 なでられる感触がする。

 墨と水の香り、それから部屋の外から流れてきた、煙のにおいがする。

 景色は薄墨色。

 妹のサイレンの口まねが、ずっと続いていた。


 息をひとつ、大きく吸った。

 吸いそびれて、ごほごほとむせた。

 視界がちかちかとする。まぶたの裏に、色彩が散る。

 妹のサイレンの口まねが、ずっと続いていた。

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薄墨 雨蕗空何(あまぶき・くうか) @k_icker

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