天使の呪縛 3 救済 (消えない存在)

帆尊歩

第1話 天使の呪縛 3 救済 (消えない存在)

「なんか、最近明るいですね」と、お茶を置きながら山本さんが話しかけてくる。

この頃になると、さらに周りが記号ではなく、血の通った人間になって来る。

つまり僕は天使の直子のせいで、ただでさえ孤立していた物が、さらに孤立したと言うことだった。

「そんなに暗かった?」と気さくに僕は、山本さんに話かけた。

「ええ。この際はっきり言いますけど、死にそうな顔をしていました」山本さんは笑いながら言った。

何だか山本さんと、少しだけ打ち解けたように感じた。

「心配掛けてすみませんでした」僕は明るく受け答える。

「いえ、でも良かったです」


僕は考えた。

井口直子も同じ状態ということか、ならば天使の呪縛から解き放たないといけない。

呪縛、その言葉に確かに違和感がある。

僕は天使に救われたと考えていた。

それは間違いだったと言うことか。

孤独を癒やすはずの天使。

でもその天使がさらなる孤独と、孤立を僕に与えた。

フロアーの人達、山本さんを始め、全ての人の記号化は天使によってもたらされた物だった。

でもあの時僕は、そうは考えなかった。

記号化したからこそ、天使がいて良かったと思った。

それが天使によってもたらされた物だなんて、思いもしなかった。

だから井口直子の孤独が、天使によってもたらされたものであるならば、僕は井口直子をその孤独から救済しなければならない。


「天使はまだ、現れていないの?」と、井口直子は僕に聞いてくる。

「ああ、消えたまま」

「すぐそこにいるのにね。あなたには見えなくなっているのね」

「天使からの解放だよ」

「違うわ。天使への依存が、私たちの孤独を埋める唯一の手段なの」

「そうかな」と僕は懐疑的に答える。

「そうよ」井口直子の断定的な言葉に、迷いはなかった。

「天使に依存しなければ、人は生きていけないの?」僕は天使の呪縛を解くために、井口直子に問いかける。

「そうよ、人は弱い生き物、誰かにすがらなければならない。私はずっとそうして生きてきた。もし天使に依存しなかったら、私はどうなっていたか。あなただって天使が見えなくなって、誰にも依存できなくて辛いでしょう」

「いや、僕には君がいる」

「わたしなんて、何の役にもたたない。だって私自身が、天使の存在に助けられているの。もし天使がいなくなったと考えると、もの凄く恐い」

「なら僕に依存すればいい」

「あなたに」

「そう僕に」

井口直子は寂しそうに笑った。

「今更、私は天使への依存から抜け出すことは出来ない。あなただって、もう一度あの記号の世界に戻りたいの」

「イヤ、僕にあの記号の世界はもう無い。気付いたんだ。周りが記号化したとき、横に天使がいて良かったと思っていた。でもその記号の世界は、天使によってもたらされた物だったんだ。僕は天使が消えて、そこから解放された。だから君も、天使からの呪縛からの解放をしてもらいたい」

「天使の呪縛?違う、依存は救済よ。だから依存からの解放は解放ではなく、追放だわ」

「違う救済とは、天使からの解放だ」僕らに思考は、平行線だった。


なぜ僕は井口直子にこだわる。

井口直子が天使の直子にそっくりだからか。

でもそれは、僕が天使の直子に依存していたからに他ならない。

では今は?

僕は天使の直子から解放された。だから井口直子にこだわる事はないはずだ。

なのに、なぜ僕は井口直子の救済を目指す?

それは僕が井口直子を愛しているからか?

だから僕は天使の直子から解放されたのか。

ならば井口直子が僕をもっと愛せば、井口直子は天使からの依存と言う呪縛から解放されるのか。


その日僕は、井口直子と一日一緒にいた。

食事をして、映画をみて、街をブラつき、そして夕食を食べて、僕は井口直子をホテルに連れて行った。

それが何を意味するのか、分かっているはずなのに、感覚的には理解出来ていなかった。

ホテルに行くという事に対して、井口直子はさしたる抵抗を見せなかった。

ということは、井口直子も分かっているはずなのに、感覚的には理解出来ていなかったということか。

ホテルに入るなり、僕は井口直子を後ろから抱きしめた。

「愛している」と僕は井口直子に言う。

「愛している?」と井口直子は聞き返した。

同じ言葉のはずなのに、これほど内容の異なる問いかけはない。

でも僕は、井口直子を愛することで、天使の呪縛から解放された。

だから井口直子が僕を愛せば、井口直子は天使の呪縛から解放される。それが井口直子の救済だ。

服の上からでも、井口直子の柔らかさや、温かさが伝わる。

そしてそれはより一層、井口直子への愛を確かめることになった。

「愛している」さらに強く抱きしめ、僕はもう一度言う。

「愛している?」井口直子の戸惑いが伝わる。

それは天使の呪縛からの解放なのか。

単なる戸惑いなのか分からない、でも井口直子の心の変化が伝わる。

井口直子は、抱きしめた僕の腕をもの凄い力で振りほどくと、頭を抱えて叫んだ。

その声はあまりに大きく、その悲痛な叫びは僕の心を引き裂く。

「ああ、天使、天使がいない。天使が、天使がいない」悶絶しながら叫ぶ井口直子を、僕は渾身の力で抱きしめた。

それは井口直子が僕を愛し、それによって、天使の呪縛から解放された瞬間だった。

「直子、直子、直子」それは僕が天使に依存しない直子を、心の底から呼んだ声だった。

「ああ、ああ、」

「直子、直子、直子」僕は叫びながら。井口直子を抱きしめる。

そして井口直子は崩れ落ちた。

そのまま僕は強く抱きしめた。

そして、呼び続ける。

「直子、直子、直子」

それが井口直子の救済であると、信じて。

僕はさらに強く、井口直子を抱きしめる。

次第に落ち着きを取り戻した井口直子を抱きしめるが、もうそこにいたのは天使に依存する井口直子ではない。

依存する物が消滅し、よりどころをなくした弱々しい井口直子がいるだけだった。

そして僕は壊れそうな井口直子を、今度は優しく抱きしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天使の呪縛 3 救済 (消えない存在) 帆尊歩 @hosonayumu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ