天使の呪縛 2 解放 (消えない存在)

帆尊歩

第1話  天使の呪縛 2 解放  (消えない存在)

消えない存在であったはずの天使の直子がいなくなって、一週間が経つ。

それは本当に突然だった。

横であれこれ言ってくるはずの直子の声が聞こえない。

そして直子の姿も見えない。

元々観念の産物であるはずの天使の直子なので、見えない事は良くあった。

でも声は聞こえたし、イヤ心の振動は絶えず聞こえ、僕は一人ではないと言う思いにかられていた。

だから直子への依存はそのまま続いていたし、見えない分その依存度は上がっていた。

そう、直子は消えない存在だったはずだった。

なのに直子が消えた。

僕は途方に暮れ、とてつもない喪失感に苛まれ、そして、今度こそ一人になった。

職場の人間は、山本さんを含めて全て記号で、血の通った人間には思えなかった。

それでも僕は表面だけでも取り繕うことが出来た。

でもそれは、自分という着ぐるみの中に閉じこもり、人とはその着ぐるみの外側だけで接する。

そんな感じだった。


仕事をしている時はいい、自分の言う着ぐるみの奥の奥から自分を操縦すればいいのだ。

でも休憩時間はどうにもならない。

だから僕は、会社の外の公園のベンチに座っている事が多くなった。

大勢の中で感じる孤独より、元々自分しかいないところで感じる孤独の方が百倍、精神安定性を保てる。

そんなある日。

ベンチに座っている僕の方に一人の女が歩いてきた。

それは直子だった。

イヤそんな事はない。

直子は僕がその観念の上で作り出した、実像を持たないパーソナリティーだ。

もしも目の前に直子がいたとしても、それは単に似ているだけだ。

案の定、直子そっくりの女は、僕の前を通り過ぎようとした。

でも直子そっくりのその女は、僕の前で足を止めた。

そして驚きの表情で僕を見つめた。

「あなたにも、天使がいるの?」

その言葉を聞いて、今度は僕が驚きの表情を隠せなかった。

「あなたにも?」

「そう、あなたにも天使がいるのね、私には見える、あなたの天使が」

「君にも天使がいるの?」と僕はおそるおそる尋ねた。

「ええ、あなたそっくりの天使がいる」

「僕には、僕の天使も、君の天使も見えない」

「見えなくなってしまったの?」

「君には僕の天使が本当に見えるの?」

「ええ、私そっくりの天使が」

「そんなはずはない。僕の天使は三週間前からいなくなった」

「天使が見えなくなったのね」

「見えなくなった」

「そうよ。だって、あなたには私そっくりの天使がすぐ横にいるもの」

「そうなのか、直子、いてくれたのか。直子」

「あなたには見えなくなってしまったのね」と女は寂しそうに言った。


女は、井口直子と名乗った。

そう直子なのだ。

それから僕は昼休みのたびに、井口直子とこのベンチで話すようになになった。

それは喪失からの救済に他ならなかった。


井口直子は記号には見えなかった。

この世でただ一人、血の通った人間に思えた。


「私に天使が現れたのは随分前の事になるの」

と井口直子は言った

「どれくらい」

「私が中学生くらいの時。初めは単に元気づけるだけの存在だった。

でもいつしか、私の知らないことや、気付かない事まで指摘してくれるようになる」

危険だと僕は思った。

井口直子は、完全天使に依存している。

それは危険だ。

井口直子に出会って僕は、大いなる喪失からの救済と思った。

でも、もしかしたら、その喪失が実は僕自身が作り出してしまった虚像の喪失だったのかもしれない。

井口直子に出会って、そんな事を僕は思ったのだった。

井口直子は、まだその依存の中にいる。

イヤ僕よりもさらに強固な依存だ。

僕は迷った。

僕自身半信半疑だった。

本当に僕に、天使の直子は必要ないのか?

だって井口直子には、今だ天使が必要なんだ。

でも、少しでも依存から解放に向かった方がいい。


「でも天使は君が作り出した人格で、その考え自体だって君の考えで、もし気づいていなくても。それは君の潜在意識の中にある考えだと思う」

「違うわ。確かに初め、天使は私自身だった。でもいつしか天使は、完全に私の思考から独立して別人格となったの」

そんな事があるのかと、懐疑的になった僕だったが、そんな事もあるかなと現状を受け入れるようになっていた。

僕の思考は揺れ動いた。

僕にはまだ天使の直子が必要なのかと。


井口直子は証券会社の事務をしていた。

それは決まり切った仕事の連続で、何の起伏もない。

でもだからこそ、彼女は自分の仕事という行為の連続の中に、自分を置くことが出来る。

そうする事によって、自分はその場にいることが許される。

井口直子は自分の居場所を絶えず模索していた。

同じだと僕は思った。

だからこそ分かる。

僕は天使の直子が、観念の産物だという事がギリギリ分かる。

でも井口直子は、その天使に対して得る強い依存によって、天使が現実の人格になっている。

イヤ井口直子にとって、天使は現実なんだ。


井口直子と様々な所に出かける。

血の通った人格と出かけることの喜びなんて、随分久しぶりに感じた。

この僕が、人並のデートなんて事をしている。

そしてそれはあろうことか、楽しいことだった。

孤独であることを生業としていた自分が、実はこういうことを欲していたことに驚きを隠せなかったが、もしかしたらまた僕は、普通の人間として生きてゆけるのではないかと思い始めていた。

もう天使の直子は、いらないのかもしれない。


「時々自分はおかしいんじゃないかって思うときがあるの」と井口直子は言った。

デートも終盤でお茶をしていたときだ。

「自分の事がおかしいんじゃないかと考えられるなら、君はまったくの正常だよ」それは僕が自分自身に言った言葉でもある。

「本当に」

「ああ」


天使の直子が現れなくなって、井口直子がいることで、職場の周りの人間が、少しづつ記号から人間に戻ってきた。

そういう意味で、僕も危ない状態まで来ていたのだろうか。

なら僕も、井口直子によって救われたのか。

ならば今度は僕が、井口直子を救い出す番だ。

井口直子の天使の呪縛から。

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天使の呪縛 2 解放 (消えない存在) 帆尊歩 @hosonayumu

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