最終話

 隣に座る男性。彼が息を吸う気配に、私は、はっと自分自身を取り戻した。


「ちょっと待ってください……、……〝ぼくは田所たどころ〟〝ぼくは田所〟。……はい、ええ、構いませんよ。なんの違和感もないですからね。〝ぼくは田所〟。ふむ。ぼく自身の形に合う気もするし、うん、気に入りましたこの名前。ぼくは田所です」


 そう言って、田所はうれしそうに、かつての田所の全盛期を思わせるような、いいスマイルを浮かべてくれた。その余波を頬にすこしばかり湛えたまま、彼は私にこう問いかけた。


「それで、あなたのことはなんとお呼びすれば?」

「……ん……私かい?」思いがけない質問に意表を突かれるが、私は伊達でいたくて、努めて気丈に応える。「……そうだな、私ことはさしずめ、〝父の愛人〟とでも呼んでくれよ」

「オーケー。ですが、呼称にしては長すぎるということがある。どうでしょう、〝お父さん〟とお呼びするというのは?」

「いいね、そうしてよ」

「はい。何事もなければ、これからずっとそうしますね」

「望むところさ」

「ところで、あなたの真名まなは?」

「それは君にとって必要なもの?」

「と、思います。ぼくは、手にできるものはすべて、神からの贈り物だと考えています」

「ふ、ふふふ……いいこころがけだね。私は、〝みなみ〟。〝みなみ夢物語ゆめものがたり〟」

「へえ……ちゅ……昔流の名前ですが……どこか現代的なフェティッシュを感じます。……きれいな配列で……奥深くて好きな響きです。いい名前です、とても気に入りました。だけれどぼくは、その感情を捨てて、あなたのことを〝お父さん〟と呼ぶ……ああ、だんだん分かってきましたよ……あなたという人のことがね」

「私自身のことも気に入ってくれたかい?」

「ストップ。ちょっと落ち着てください。あなたの基本方針は猪突猛進ちょとつもうしん。それは理解しています。だけれど、ぼくにもこころの準備ってものがあるんです」

「すまない……誤解しないでもら――」

「いいえ。あなたの方針は間違っていないです。ただ、幸福な将来を容易に想像できるとはいえ、その過程をスキップしてしまうには、ぼくという男は若すぎるんじゃないかと思うのですよ。ぼくの心情、分かってくれますか?」

「……ああ、ありがとう。そうだね、うん、ていねいにすり寄っていこうね」

「ぼくもうれしいですよ、すごく」


 それから私たちは、視線を交わし合いながら相手の表情を味わい、スキンシップに励んだ。すこし打ち解けた頃、私は自然と田所に語り掛けていた。


「自己紹介。端的に私自身を自己紹介するなら、私は苺が大好き」

「へぇ。じゃあぼくは、美しい絵画を見るときはできるだけ近寄りたい質です」

「ふふ……そう……ふふふ……そうなんだ……ふふふふふふ……」

「ええ、そうです。ははっ、ははは、は、はははははは」

「「ぎゃははははははははははははっははははっはははっははははははははははっ!!」」


 笑い。ふたりのそれがおさまった瞬間、田所は見計らったように、生まれたばかりの沈黙に言葉を挿入した。


「なーんだ。ぼくが奥手すぎたんですねぇ。なぁぁぁんだ。すこしだけよろこび損ねてしまった。あなたはなんだかいい人そうだ。ぼく、あなたにもっと歩み寄ってもいいかなって、そう思っているんですが。……?」

「かまわない、そうしてよ」平静をよそおいながらも、私のこころはうれしさのあまり、感情の奥底でのた打ち回っていた。「水臭いじゃないか、君。もうこの際だ。私のことは〝パパ〟と呼んでくれなきゃねっ」

「……ああすいません。ぼくは自分が思っているよりもずっと奥手のようだ。ぼくは元来の性格的特徴として、心理的な距離感をつかむのが不得手ふえてなのです」彼はそう言って、そのきれいな頬を、うっすらとピンクにそめた。「お詫びといってはなんですが、こんな言葉をおくります。〝……あはっ。親しい仲じゃん〟」

「きゃっ。助かるよ。すごくうれしい。妄想が嘘みたいにはかどるよ」

「ふふふ」彼は笑わずにそう言った。「なぁ君?」私は言った。「なんです?」彼は応える。だから当然、私はこう返す。「もしよかったら、このままの調子で街をねりねりしないか?」

「……。返事をすこし躊躇ためらいます。これは羞恥心と好奇心からのものです。負の感情などカーイム。……ぼくこれから、素朴な質問をしますね。いいですか?」

「ぁぁ……いいとも、来てくれ」

「その行為に耽溺たんできすることで、ぼく……いいえ、ぼくたちはどこまでよろこべます? よろこびの絶頂とはいかないでしょうけれど……、よろこびの臨界点りんかいてんを十として、ぼくたちはどこまでいけるのでしょう?」


 私は正直なところをいえば、すぐさま十と答えたかった。だけれど、偽証ぎしょうにすこしでも侵されたよろこびは、もうその時点でよろこびではなくなるのだ。


「……そうだな……五は確実だ。七……いや……いまの私は体が火照っているからね……もしかすると八までいけるかもしれない」

「……妥当なところでしょうね。あなたの誠意、受信しました。いいでしょう、やりましょう。それで……どちらから?」

「ああもちろん私からいかせてくれ」


 私は右手を伸ばし、彼の左手にからませた。まるで知恵の輪のように。そうしたうえで、そっと軽く握りしめた。

 彼のよろこび。私のよろこび。そのふたつが充分に馴染んだとき、私たちは示し合わせたように、肉体的にも精神的にも、その場に起立していた。

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魂し合う者たち 倉井さとり @sasugari

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