エピローグ
駅のホームから見える景色は、数年が経過しても、大きく変わってはいなかった。
そこから見えるビルのテナントが、たとえ何度か入れ替わっているとしても、ホームから見下ろす限り、その変化はあってないようなものだった。
彼と別れてすぐは、寂しさや彼に会いたい気持ちをかき消すために、何度も何度も訪れていた。
入場券のボタンを押し慣れて、彼のいない冬を数回繰り返すうちに、このホームに来なくても、ひとりで歩けるようになった。
彼の記憶がなくても、踏ん張れるようになった。
5時過ぎの人がまばらな都会の駅。
彼と思いを確かめ合い、別れを告げたホーム。
あの日と同じように、冬の朝日は濃いオレンジ色をしていて、当然のように都会の街に朝を届けていた。
はっ、と短く口から息を吐き出すと白い息が浮かぶ。
何もかもあの日と同じ。
けれど、時は流れ、私はもう、あの日と同じではなくなっていた。
「ママー?何見てるの?」
私の右手に握られているのは、小さく柔らかで、今にも壊れてしまいそうなほどか弱い左手。
この世でいちばん大切で、愛おしい、贈り物。
あの日彼が背中を押してくれたから、未来を進み、大切な人に出会えた。
宝物を授かれた。
「見てるんじゃなくてね、思い出していたんだよ。昔のことを」
「じゃあ、今はぼーっとしてたってこと?」
「そう。ぼーっとしてたんだよ」
中学の頃の素行不良を消し去り、一心不乱に勉強し、進学した。それは、少しの彼への憧れと、彼との別れを無駄にしたくないという意地からだった。
間違いじゃなかった。
絵に書いた幸せだけが、全てではないけれど、あの日、放課後の教室で彼に借りて読んだ小説のような幸せを、私は今、噛み締めている。
「ぼーっとしてたらね、あぁ幸せだなって思ったんだよ」
「ママは今、幸せなの?」
「うん。とっても、幸せよ」
左側から3人分の飲み物を買った旦那が手を振りながらこちらに向かってくる。
5時過ぎの電車に乗って、今日は温泉宿に小旅行。
あの時は考えてもみなかった。
こんな幸せな未来が自分に訪れることを。
生きることに必死で、母の面影を探して、意味のわからないことばかりを繰り返していた。
今思い返せば、恥ずかしくて笑ってしまうけれど、あの時があったから今の幸せがある。
今の、私がある。
「ありがとう、先生」
私は旦那にも娘にも聞こえないほど小さな声で、そのホームに最後の感情を置いていく。
娘と繋いでいない、左の手で、コートのポケットをまさぐる。
自分でも物持ちの良い方だと、執着心の強い方だと、思う。
そこには、もう何年も前に渡された彼の携帯の電話番号が殴り書きされたメモがあった。
それをそっと、後ろにある大きなゴミ箱に投げ入れる。
「ん?何捨てたの?今」
様子を見ていた旦那が何気なしに問いかけてくる。
旦那は彼に似ても似つかない。
色白で高身長、パーマのかかった髪にオシャレメガネ。
彼は、私の好みの人とは程遠かった。
「んーちょっとね。懐かしいものがポケットに入ってたんだけど、今の私には必要ないからさ」
旦那がはてなマークを浮かべて首を捻っている様が、愛くるしくて微笑んだ。
その様子を見て、小さな娘がケタケタと笑った。
先生。
先生。
徳永慧さん。
私、幸せになりましたよ。
あなたのおかげで。
あなたが私を愛してくれたおかげで。
だからどうか、あなたも、笑顔で幸せに過ごしてください。
あなたの幸せを、心から願っています。
Gibberish うぇる @goose0727
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