第5話 い
最近の慧は、活力と一緒に運勢まで誰かに奪わてしまったようで、野球部の生徒たちから部活のボイコット宣言をされ、待てど暮らせど兵藤凪に会えなかったにも関わらず、自宅の扉を開けると数日帰っていなかった春佳が帰宅していた。
21時過ぎに帰宅した慧を長い間待っていたようで、ダイニングテーブルの上にコップひとつを置いて、無表情で黙り込んでいる春佳が怖かった。
「おかえり」
「ただいま……」
「どこ、行ってたの?」
「どこって、仕事だよ?」
「違うでしょ?18時に学校の前通ったけど、もう車なかったよ。今まで、どこに行ってたの?」
声色に抑揚がない。
怒っているようだが、声が大きくなることはない。
これまでの春佳であれば、連日慧の帰宅が遅くなっても、浮気を疑ったり、まして職場に車を確認にしに行ったりすることはなかっただろう。
少し不安に思っても、慧を信じ、普段通りの生活に戻るのを待っていただろう。
でも、今回は違う。
もう春佳は、確信しているんだ。
慧の心が既に、春佳へ向いていないことを。
そして気持ちが、別の人に向いてしまっていることも。
「ごめん、今日は、話せない。ほんとに、ごめん」
「何で?決着つけるなら、早く話そうよ」
座って俯いて話していた春佳が、慧の方を向き、伸ばした手が慧の上着の裾を掴んだ。
それはまるで縋るようだったのに、彼女がしているのは、別れ話を進めようという意思表示で、その矛盾が、より慧を苛立たせた。
「そんなに簡単に言うなよッ!俺が悪いのは分かってる。でも、何でそんなに、簡単に離れようとするんだよ。春佳まで俺を、1人にするんだよ」
惨めだった。
こうなることも全て分かりきっていたことで、全ては慧の身から出た錆。
春佳に当たるなんて、見当違いも甚だしかった。
「ごめん……、ごめん。春佳。俺が悪いのはわかってるから、頼むから。別の日にして欲しい」
明らかに普段と異なる慧の様子に気づいた春佳の手が強ばる。それは掴んだスーツ越しに慧にも伝わって、虚しさが倍増した。
終わりの時が近づいていることから、目を背けたかった。
慧は夕食を摂らず、急いで入浴を済ませると、逃げるように自室に戻る。春佳はまだ、ダイニングテーブルに座っていたが、なるべく視界に入らないように早足で横を通り過ぎた。
これが半年前にプロポーズをした相手に、慧がとった行動だ。
1度は未来を共に歩くと決意した人に対する扱いだ。
間違ってる。
それを間違いだと認めず、避けて逃げて、のらりくらりと交わしてきたのも、正解ではないとわかっている。
けれど、一日の間に色々なことが起こりすぎて、もう、考えを放棄してしまいたかった。
自室のドアを閉めると同時にベットに飛び込む。
普段は寝れないというのに、最悪なことが続いたこの日は、あっという間に眠気に襲われて、まどろみの中、スマホの充電だけは欠かさずに行った。
その記憶を最後に、慧の意識は事切れた。
その意識が再び戻ったのは、深夜2時55分。
スマホのバイブレーションの音で目を覚ました慧は、それがメッセージではなく、電話の呼び出しだと気づき慌てて手に取る。
ディスプレイには、公衆電話と表示されていた。
「はい」
誰からの電話なのか、見当はついていたけど、あえて名前は名乗らずに応答した。
電話越しに女性が小さく息を吐く音がして、最悪な1日の中に、安らぎを見出す。
「兵藤?」
「……うん。ごめん、寝てたよね」
「いや、大丈夫。どうした?」
慧は寝起きの掠れた声で優しく彼女に声をかける。
心が解れていくのを体感していた。
「兵藤?」
要件を聞こうと、暫く黙っていたが、一向に彼女が話し始めないので、慧は聞き返す。
スマホのスピーカーからは、こんな時間だと言うのに、車の走行音とクラクションの音が聞こえていた。
「今、どこにいるんだ?」
一瞬の間の後で。
彼女はひとつの駅の名前を呟いた。
それは……彼女が以前、行く決心がついてないから行けないと話していた、彼女の生まれ育った街の名前だった。
「来て……」
「え?」
「迎えに、来て」
それはあまりにも唐突で、身勝手で、けれど、とても、彼女らしかった。
「飛ばして行っても、2時間はかかると思うよ」
「うん、待ってるから。急いできて。お願い」
電話を切ると、慧は寝巻きから急いで着替えて、ジーンズにパーカー、黒のダウンコートを羽織って自室から飛び出る。
春佳が寝ていることも忘れて。
彼女がどう思うかも忘れて。
一心不乱に車に駆け込んだ。
物音で彼女が目を覚ましたであろうことは、明白だった。
×××
運転を始めると音楽もかけず、何かに思いをめぐらせることもなく、慧の頭にあったのは兵藤のもとに急がなければ行けないと言う考えだけ。
無我夢中で車を走らせると、あっという間に目的地の近くまでやってきていた。
高速道路の大きな料金所の手前、彼女の住んでいた街の名前のインターを下りる。
そこから駅まではものの20分ほどで、近くのコインパーキングに車を置くと、駆け足で駅に向かった。
改札にはひとりの人もおらず、静かに、誰かが訪れるのを待っていた。
常磐線の、一番右端ね。
電話口でそう話していた彼女は、約束の場所でひとり、ベンチに腰掛けていた。
「おま.......た、せ」
息を切らして、慧は彼女の元に急ぐ。
待ちわびていたであろう慧の姿をみて、彼女の広角はやや上を向いたが、慧にここまで来てもらったことへの申し訳なさの方が勝っているようで、複雑な表情を浮かべていた。
息を整える度に吐く息が、白く染まる。
小さい頃は、この息が、タバコの煙のようにみえて、何度も何度も息を吐いたものだった。
今となっては、そんなもの、憧れでも何でもなくなってしまった……。
「思ってたより、早かったね」
「そう?」
膝に手をついて、息を整えていた慧はある程度落ち着いたので、彼女の隣に腰を下ろす。
そのあとはしばらく、拍子抜けするほど押し黙って、2人並んで、時間の流れに身を任せた。
なぜここにいるのか。
そして、なぜ慧をこの場所に呼んだのか。
その答えは、まだ聞き出せそうにない。
先ほどまで、夜と同じように真っ暗だった空には、地平線に沿って紅にも似たオレンジ色が、はっきりと顔を出していて、朝の訪れを知らせていた。
駅の構外にしか公衆電話はないはずなのに、慧に電話をかけてきた彼女は、なぜか合流場所を駅のホームに指定してきた。
思えば、彼女が一人でこの街に来ることを選び、ここに下り立った時、この場所だけが、慧と彼女が出会ったあの田舎町に繋がっていたのかもしれない。
まだ戻れるかもしれないという可能性は、唯一このホームにしかなかったのかもしれない。
だから彼女はこの場所に拘り、そして最後の選択をしようとしている今この瞬間でさえ、この場所から離れられずにいる。
寒さで悴む手を温めようと、息を吐き出しながら手を擦ったけれど、なんの意味もなさなかった……。
あのさ、と自分から話を切り出した方がいいのかとも思っていたが、踏ん切りがつかずに、喉元まで出かけた言葉は、白い息と共に都会の空気に掻き消されていった。
先ほど出ていったと思ったら、また電車が入ってきた。
まだ5時過ぎだというのに、電車のどの車両にも人が数人乗っていたし、その数は電車が目の前を通過していく毎に徐々に増えていった。
「まだこんな時間だってのに、すごい人がいるんだな」
結局沈黙を破ったのは慧で、彼女と合流してから30分ほどの時間が経過していた。
「都会の朝は早いんだよ」
「あっちなんてまだ、始発の電車も来てない時間だってのに」
ふいに声をかけたのを理由に、彼女の方に目を向けると、寒さのせいでいつもは真っ白な頬が真っ赤になっていた。
その頬にそっと手を触れる。
「冷たいな」
「だってもう、何時間もここにいるもん」
「風邪ひくぞ」
「うん、多分ね。でもきっと、それを徳ちゃんが知ることはないよ」
彼女が紡ぐ言葉から、彼女がもう、自分の人生で大きな決断をし終えたのは明確で、ずっと悩んでいたことも、いつの間にか答えを出していたことに驚く。
「決めたんだな、この街に来ること」
「うん、もうずっと前に……。でも、怖くて」
彼女は1度、息をつくと俯いて、また顔を上げて、まっすぐ前を見た。
その横顔は、今まで見た中で1番、美しかった。
「部屋から出れなかった。だから、この2週間、私は徳ちゃんに支えてもらいながら、1人で歩く練習をしてたの」
「そう……、そうだったんだ」
出会った頃はどこか人を試しているようで、不安定で、面倒な生徒だとさえ思っていた。
その姿も、今はもう、ない。
彼女は思春期を終えて、自分とは何かを見出して、巣立つ。
幾らかその過程が急速に進みすぎていたようにも思えたが、普通じゃない彼女には、基準と比べることは不釣り合いだった。
「今日の学校どうするの?」
「どうしような」
「ズル休みとか、通じないくせに」
「だな。めっちゃ怒られて……それから、どうなるんだろうな」
「そんな、怖いこと、適当に言っちゃダメだよ」
自分でもおかしいと思う。
慧は自分でも自覚がある程に、彼女と交流を持つようになって、人が変わってしまった。
去年の夏までならば、慧は絶対に生徒と学校外で会う約束などしなかったし、まして二人きりで過ごすことなど絶対にしなかった。
それが、今や電話で呼ばれて、150キロ以上も離れたこんな場所まで来てしまった。
彼女と学校の外で会う罪悪感は、何度回数を重ねても薄くなることはなかっし、躊躇なく彼女の頬に手を伸ばすようになった今でさえ、後ろめたさは消えない。
「徳ちゃん……。私たち、きっと、もう会うことはないよ。だから、ちゃんと教師続けてね」
学校に行くつもりは全くなかっただろうに、彼女は制服を身に纏っている。上に紺色のダッフルコートを着て、スカートから伸びる足はハイソックスしか履いていない。その、見た目は大人っぽいのに、寒さも何も気に留めず、持ちうるものしか身に付けていない感じが、彼女らしかった。
「徳ちゃんは、いい先生だよ。きっと、これからもたくさんの生徒の背中を押して、それで、成人式で感謝なんかされてね。そういう、みんなから愛される先生になるんだよ。まあ、できれば、ほんと、できればだけど、私にしたみたいなことは、もう、しないでね」
急に口数の増えた彼女は、まっすぐ前を見つめたままで、その未来に自分はいないのに、想像しては楽しそうにしていた。
「徳ちゃん、それに、彼女いるでしょ。私と会う度に、所々、すごく申し訳なさそうな顔してて、すぐわかったよ。でも、わかってたけど、気づいてないフリしてたんだよね」
「出たな、魔性の女」
「そういう言い方しないでよね」少し、頬を膨らまして、怒ったような素振りをする。「必死だったんだよ、自分の居場所を探すのに」
その後も彼女は、慧の未来の話を続けた。
結婚して、子供は何人いて、そのうち、お父さんと一緒に洗濯機回さないでよ、と言われて傷つくんだと、絵に描いたような幸せな家庭を描いていた。
彼女が、そんな幸せな家庭を思い浮かべることができるようになったんだと、慧はその話を聞いて、心から嬉しく思った。
あの、夕焼けの綺麗な教室で、進路指導と偽って始めた本の貸し借りは、彼女に幸せな家庭を、幸せな恋愛を教えてくれたようだった。
「あと、10年、私が早く生まれてたら、徳ちゃんの奥さんになれたかな?」
突然そんなことを口にするから、慌てて横を向いたけど、彼女の表情は変わらず、冗談を言っているようには見えなかった。
「ないよ。ない。教師と生徒じゃなかったら、俺は兵藤に近づきすらしなかったよ」
「意味深。聞く人が聞いたら、通報されちゃうよ、それ」
クスクスと笑いながら、兵藤は足をブラブラと振った。
「俺は、教師だったから、兵藤の苦しみを少しでも支えてあげたいと思ったんだ」
その結果の今の行動が、教師の取るべき行動ではないことも、倫理的に許されない関係性になりつつあることも理解はしていた。
でも彼女が言った。
聞き逃してやるつもりはなかった。
その関係も、今日で。
終わりだ。
「兵藤凪」
「何?急にフルネームやめてよ」
「……凪」
「だから、やめてって」
彼女が慧の右腕を強く叩こうとする。それを予測して、慧は、振りかかってきた彼女の手を掴み、その手を自分の両手で包み込んだ。
「凪。俺は、君にすごく惹かれてたよ」
「ほんと、急に何?」
「君があまりにも必死に生きて、未来を何とか探し出そうとして打ちひしがれてる姿に、ものすごく惹かれたんだ」
それはまるで、何もない空に大切なものを探しているような。
砂浜の上で、ありもしない旗を追い求めて走っているような。
そんな、無謀で、果てしなくて、当てもない。
そうして足掻いている彼女に、胸を打たれて、憧れて、恋愛とも呼べる、親愛とも呼べる感情を抱いた。
それは、婚約者である春佳には抱いたことのない情熱だった。
「君もそれに気づいてたはずだ。気づいていて、今日俺に電話してきた。その意味は?俺を、どうしたいの?」
「……ずっと、言わないまま、このまま隣合って座っていたら、そばに居続けてくれるって思ったのにな」
「最初から……そばになんか、いちゃ、だめだったろう?」
苦しかった。
彼女のいない場所で生きる、未来の自分の話をされるのが。
奥さんになれたかな、なんて聞かれるのが。
どれだけ願ったことか、彼女が生徒でなければよかったと。彼女に近づかない選択をした過去に戻れたらと。
そうすれば、変わることはなかった。慧が間違った選択をすることはなかった。
「知って欲しかった。一番に伝えたかった。少し似合わないこの街で生きていこうと思えた私を。一番に知って欲しかったの」
「すぐいなくなるわけじゃないだろ?いつだって話を聞けた。電話でだって、よかったじゃないか」
泣きそうな顔しないで、と今度は彼女の方から、慧の頬に手を伸ばしてきた。
これでは、どちらが諭す立場なのかわからない。
頬に触れる彼女の手は、氷のように冷たい。
「このホームに立つたびに、徳ちゃんのことを思い出せるでしょ。不安になるたびに、このホームに来て、思い出して、背中を押してもらって。そうすれば、一人でも、生きていけるなって。自然が少なくて、ビルばっかで、息ができなくなっても、徳ちゃんと過ごしたこの半年を思い出せれば、大丈夫かなって、思ったんだけど……」
「……勝手だな……。ほんと、勝手だよ、凪は」
「知ってるでしょ?私はいつも、勝手なの」
彼女が、笑っているような、困っているような、曖昧な表情を見せる。頬に触れた手は、離れないまま、ずっと慧に寄り添っていた。
「褒めてよ。よく決められたな、って、偉いぞって。頭撫でて、笑って?」
彼女の引き攣るような笑顔から、涙が溢れた。
話しをするその横を何度電車が通過しても、顔を出そうとして隠れていた太陽が登り始めても、気に留めずに彼女の顔を見つめた。
そのクッキリした二重の大きな両目を、筋の通った細い鼻筋を、少し薄くて、淡いピンク色をした可愛らしい唇を……。
その美しい顔を、目に焼き付けた。
そして、慧は彼女の頭を撫でる。
震える声で、絞り出した。
「え、らいぞ」
彼女に届いたかはわからない。言い終わる頃には、慧の目からも涙が止まらなくなって、それを見られたくなくて、感極まって、目の前の彼女を抱き寄せた。
周りの人たちは自分たちのことを知らないと思ったら、視線は気にならなかった。
今はそんなこと、どうでもよかった。
「最近、毎晩寝る前に考えてた。徳ちゃんが同級生だったらよかったのに。どこにいても、何をしてても、誰にも責められないよ。なんで、私、子どもなの?好きなだけなのに、どうして、好きになっちゃ、ダメなの?」
胸の中で震える彼女が、叫ぶ。
小さく、小さく。
理不尽だ。不平等だ。
「離れたくないよ……。こんな街、嫌いだよ」
慧には、その叫びを聞いてあげることしかできなかった。
本当は一緒に理不尽さを叫びたかった。彼女のそばにいたい気持ちを、面と向かって伝えたかった。
兵藤凪を好きだと、愛していると、訴えたかった。
それを堪えたのは、自分がこれまで通りの生活に戻るための、最後の手綱だったから。
やっていることの全てが許されない行為であることはわかっていた。
だからこそ、言ってはいけないと思った。
好きな気持ちを伝えてしまっては、せっかく決意した彼女の覚悟まで、台無しにすることになる。
彼女のためにも、言葉は胸にしまうべきだと思った。
だから、震える彼女を、その細い体を、痛いほど強く抱きしめた。
涙で滲んだ朝焼けが、眩しすぎて目に染みる。
尖った空気が、息をする度に肺に刺さる。
そして、視界を遮るように、また電車がホームに入ってくる。
銀色の車両に、青いラインの入った見慣れた電車が停車し、口を開けて、乗り込む客を待っていた。
このまま、ここにいてはいけない。
このままでは、慧も彼女も、前に進めなくなってしまう。
彼女はずっと、探し求めていた。
愛とは、何か、を。
伝わっただろうか。
この腕を通じて、身に染みただろうか。
彼女の記憶には、十分に焼き付いただろうか。
慧は思い切って、抱きしめていた彼女を引き剥がす。
突然の出来事に、驚いた彼女は、行き場を無くした両手を宙に浮かべたままだ。
呆然としている間に、慧はカバンを手に持って立ち上がる。
そして……。
発車のアナウンスがされている電車に飛び乗った。
「え?」
状況が飲み込めていない彼女に、追い討ちをかけるように告げる。
「頑張れよ。頑張れ!離れてても、会えなくなっても、信じてるから」
涙は止まっていない。
気持ちはすぐには切り替えられない。
だからこそ、離れた。
このまま、流れに身を任せるよりも、自分は消えていく存在だから。彼女はこれからを、生きていく存在だから。
ドアが閉まる警告音が鳴って、プシューと息を吐きながら、慧と彼女の間に壁ができた。
慌てて電車に駆け寄ってきた彼女が、責めるような視線を向けている。
だから満面の笑みで手を振ってあげた。
頷きながら、涙を拭きながら。
ゆっくりと、低速で動き出した電車が、慧をどこか知らない街へと運んでいく。
常磐線の、一番右端ね。
だから、彼女は慧の姿を追いかけようとして、その先にホームがないことに気づいた。
自分で指定したのに、自分で選んだのに。
まるで二人の関係のようだ。
追いかけたくても、未来なんてないことは明白で、道を塞いでいる柵を乗り越えるための勇気は、持ち合わせていなかった。
遠くなる彼女を目で追って、小さくなって、そして、見えなくなった。
「さよなら」
窓の外を見つめたまま、小さくつぶやく。
外の景色は、ビルや建物が所狭しと並んでいて、知らない場所だった。
森林公園で、一心不乱におにぎりを頬張った彼女の姿が思い出される。
この街には、あの公園のような緑など、ほとんどない。
乾いた人工的な街で、彼女は生きていく。
気づくと数分で次の駅に着いた。
慧は電車から降りて、真っ直ぐと続くホームを進んでいく。奥へ、奥へ。
そして、ホームの左端へと到着する。
スマートフォンを確認すると、春佳からの不在着信が10件ほど溜まっていた。
春佳との別れを先延ばしにしながら、深夜別の女性の元に走った男。
最低な人間だ。
誠意のないことをしている自覚はある。
でも、これで、全て。
全て、終わった……。
だから、春佳との関係も。
終わりにしよう。
過ちを清算するのは、早い方が良い。
慧はメッセージアプリで、春佳に今日の夜、話があることを伝える。
そうしている間に、入ってきた、電車に乗り込んで、彼女がいるであろうホームに再び戻った。
そして、スマートフォンを操作しているふりをして、画面に視線をやったまま、顔を上げなかった。
わかっていた。
きっと彼女は、慧を探している。
通勤の時間になって、増えた人混みの中、慧の姿を探して、早足でホームを進んでいることだろう。
だからこそ、彼女に気づかれないように。
その他大勢と同じように。
前に、前に、歩みを進めていく。
誰にも声をかけられないまま、改札を出て、駐車場に停めていた車にたどり着いた。
悔いはなかった。だから、躊躇いもなかった。
数時間前に通ってきた道の反対側を通って、あの田舎町を目指す。
途中、車を停めて、学校に体調不良で欠勤することを伝えた。
疑われることなく、当たり前のように「お大事に」と声をかけられて、なんだか拍子抜けした。
人生を覆すような過ちを犯して、見つかったら咎められる。
当然だった。
しかし、その過ちは公になることはなく、これまで通りの生活は、粛々と動き続けていた。
慧の気持ちだけが置き去りにされたまま……。
8時過ぎには自宅に戻り、荒れたリビングのソファーに腰を下ろした。
すると、あっという間に睡魔に取り憑かれて、死んだように眠った。
彼女の夢は、見なかった。
×××
春佳との話し合いは、呆気なく幕を閉じた。
ここ最近の慧の挙動がおかしいことに気づき、不安になり始めた時に、春佳にも気になる人が他に出来てしまったこと。
慧との関係を簡単には捨てられず、悩んでいたこと。
ダイニングテーブルを挟んで話し合いをした。
9年連れ添った恋人と別れを決めた。
慧も春佳も互いに涙を流すことはなく、次の新居も、引越しの日程も急なことで決まっていないので、ここから数ヶ月の間、友人としての同居が続いていくことになった。
春佳は転職を決めていたようで、今年度いっぱいで、この町から離れることを決めていたらしい。
その時から、慧と一緒になる選択肢は、彼女の中に残っていなかったようだった。
慧が学校を休んだ次の日、嫌々出勤すると、やはり何も大きな変化はなく、クラスに向かうと、数名の生徒から、体調を心配された。
兵藤凪に肩入れするあまり、周りに目を向けられていなかったが、慧は自分が穏やかで温かい人達に囲まれて生活していたことを認識した。
生徒たちの話し声が木霊する教室。
コーヒーの匂いがする、暖房の効いた職員室。
慧を気遣ってくれる生徒たち、先生たち。
その安寧を自ら壊し、危険に足を踏み入れようとしていた。
自分には、ここがちょうどいい。
自分は最初から、この場所で生きるべき存在だった。
あれほど、自分の存在を責めて、この場所にはいられないと逃げていたが、兵藤と離れて一日が過ぎると、自分のいるべき場所もやるべきことも明白だった。
あらゆるものをあるべきところに戻そう。
その日の授業間休みを使って、慧は野球部の生徒全員に謝罪して回った。
自分の態度が間違っていた。今日から改めるので、また全員で集まって欲しい、と。
そして、連日連夜居残りをして、溜まっていた仕事を片っ端から片付けた。
それは、教師を続けようと決めた慧のケジメだった。
間違いを犯した慧が行うべき償いだった。
そうして毎日を過ごすうちに、あっという間に12月の終わり。
二学期の修了式を迎えた。
兵藤凪の施設退所が正式に決定した。
彼女の引越しは既に完了していて、卒業までの3ヶ月、名前はこの学校に残し、高校は引越し先の近くを受験することになったと、決定事項だけが、淡々と伝えられた。
本当に綺麗な去り方だったと、思う。
何かの不手際で、彼女が慧に会わなければいけなくなる可能性はあった。
けれど、そういう時に限って不手際はないもので、もう、二度と彼女に会うことはないのだと思うと、心に穴が空いたような喪失感に襲われた。
修了式が終わり、クラス全員が帰宅した3年2組の教室。
かつて、兵藤凪の席だった場所に腰掛ける。
この約半年の彼女とのやり取りが、1本の映画のように慧の中で思い出されていた。
彼女と本の貸し借りを始めた頃、彼女にこれほどの想いを抱くようになるとは思ってもいなかった。
何気なく机の上を右手でなぞって、ここで勉強していた彼女の姿に思いを馳せた。
好きだった。
愛していた。
そして、その気持ちは、今はもう、どこにもない。
慧はその席から立ち上がると、机の上に逆さまにした椅子を重ねて、彼女の机と椅子を空き教室へと運んだ。
春佳と別れ、彼女を愛した気持ちを捨てて、慧はもう、二度と誰かを愛する気がなかった。
彼女と結ばれることは叶わなかった。
だからこそ、自分が愛した最後の人は、兵藤凪であって欲しかった。
彼女は死にものぐるいで、長い時間をかけて、愛とは何かを探していた。
けれど、愛が何かを理解してしまった慧にとって、愛は美しいものではなく、時に醜く歪なものだと思えてならなかった。
「それを、知っていたかったんだよな。きっと」
慧がひとり、呟いた言葉は教室に戻る途中の廊下で広がって、誰の耳に届くことなく弾けて消えた。
彼女はこれから、どんな人を愛するだろうか。
どんな選択をするだろうか。
そう疑問に思いながらも、慧は彼女のことを知りたくなかった。
知らないままでいたかった。
ふと窓の外に目を向けると、放課後の時間を彼女と過ごしていた時と同じような夕焼けが教室を照らしていた。
その夕陽に、慧は願った。
どうか、彼女がひとりで泣いていませんように。
どうか、彼女のこれからが幸せで溢れていますように。
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