第4話 る

 

 兵藤が登校をしなくなって1ヶ月が過ぎると、あっという間に季節は秋から冬に切り替わり、望んでいない寒さが小さな田舎町を襲っていた。


 毎朝一定の時間にかかってくる、彼女の欠席の電話。

 理由は分からないが、何日も起きてこない。食事もほとんどとっておらず、リストカットの跡が日に日に増えているのを確認していると、施設の職員から簡単に説明される。


 慧は怒りを抱かない訳にはいかなかった。

 その他人事さ加減に。

 彼女のことを誰も大切にしていない様子に。


 慧の受け持ちのクラスの生徒は、誰も彼女が登校していないことを気にもとめず、そうあることが当然のように、卒業前の半年間を謳歌していた。



 許せない。



 彼女を必要としないクラスを認めたくない。


 そう思う気持ちは捨てきれなかったが、それでも、慧には彼女と過ごさない毎日が当然のように訪れる。


 教室ではストーブを焚き始め、霧吹きやバケツがそばに置かれる。

 生徒たちは指定色のコートを羽織り、寒さで身を縮めて歩く。

 慧の受け持つ3年2組は誰がなんという訳でもなく、自然に受験モードへと包まれて行った。



 そこに彼女の姿だけがないまま。



 慧だけが、クラスの団結感を掴められないまま。



 時間だけが過ぎようとしていた。




「……なが先生、徳永先生!」


 考え事をしていた慧は、会議中であることも忘れ、自分の名前が呼ばれていることにも数秒間気づけなかった。


 数名の教員たちは、慧に注目を寄せ、なんとも言えない気まずい空気がその場を襲う。


「すみません、ボーッとしてました。もう一度お願いします」


 慧の隣のクラスの3年1組。

 学年の会議は毎月1回、その場所で行われていた。


「ちゃんとしてくださいよ。あなたのクラスの生徒のことでしょう?」


「……誰のことですか?」


「兵藤凪ですよ。学校来てないじゃないですか。三者面談の実施が出来てないのは、学年で彼女だけですよ」


 彼女の名前を他者から出されて、頭の中が彼女でいっぱいだったことを見透かされてのではないと、心臓がドキリとした。


 大丈夫。3学年の会議なのだから、不登校気味の彼女の名前が挙がることは当然。

 別に自分の考えが見透かされたわけではない。


 そうして頭の中で自分に言い聞かせて、高まる心拍数を落ち着かせる。


「彼女が学校に来なくなったのはこの1ヶ月のことなので、できれば登校を促して三者面談の実施をしたいな、と僕は思っているんですが……」


 声が上ずりそうになるのを、必死に押えながら冷静を装う。


「でもね〜彼女は理由が理由だからね。来ると思う?学校」


 学年主任の男が半笑いで慧に問いかけてくることに腸が煮えくり返りそうになる。


 ここにもいる。


 どうして、あんなに懸命に生きてる彼女を笑うんだろう。


 そう思うと、慧はもう、なんと言ってその学年主任の問いかけに答えればいいのか分からなくなって、言葉が出てこなくなってしまった。



 そしてそれと同時に気づいた。



 自分はいつからこんなに彼女のことで怒り、自分のことのように考えるようになったのか。


 いつから彼女を考えることに、罪悪感を覚えるようになったのか。



 クラス担任として彼女を考えることは間違いではないのに、他者に考えを見透かされていないか疑心暗鬼に駆られる理由……。



「じゃあ、徳永先生。とりあえず彼女の施設に連絡しておいて下さいね。私立高校の受験まで日もありませんから」


 慧が黙り込んで俯いていると、検討事項はそれだけだったようで、いつの間にか会議は切り上げられてしまった。



 見回りをしようと、何となく出た冬場の17時の学校の廊下。

 それはもう、夏場のそれとは大違いで、灯りがなければほとんど何も見えない。



 校庭では、なんの用事で残っていたのか分からない数人の生徒が、慌てて校門から出ていくところだった。



 慧は廊下の窓から見える景色に気を向けて、何も考えないよう心がけた。



 最近、慧の心は落ち着きとは無縁だった。

 何かしらの考え事をしていて、集中ができない。

 授業中も心ここに在らずで、教師として良くない状況にあるという自覚はあった。




 彼女が学校に来なくなった理由を、彼女が今何を考えてどう過ごしているのかを。

 考えて、思いを馳せては、全ては自分の想像で憶測にすぎないことに、嫌気がさしていた。




 自分がおかしくなってしまったことを認めたくなかった。





 突然。





 電気のついていなかった真っ暗な廊下に、明かりが灯る。

 蛍光灯がつくときの、言葉では表現出来ない機械音が聞こえて、慧は窓に向けていた視線を、自然に廊下に戻した。


 誰もいない。


 けれど、微かに近くの階段から誰が登ってくる足音がして、きっと先程まで会議をしていた教員の誰かが戻ってきたのだろうと、また窓に視線を戻した。


 まだ、職員室に戻る気にはなれなかった。


 これまで7年間教員の仕事をしてきて、これほど息苦しいと感じたことはなかった。


 もともと規則や約束事を守ることを重視するタイプの人間だったし、慧自身がそれを望んでいた。


 それが、たった数ヶ月で大きく変わってしまった。


 程よく縛りのある学校生活が息苦しく、閉塞感のあるものだと思えてならなかった。

 今はただただ、ひとりの生徒に思い入れがあることにストレスを感じる毎日だった。

 ひとりの生徒だけを大切に思ってしまう自分に嫌気がさしていた。


 でもそれは、もはや自分ではどうしようもできない。

 時が経ち、気持ちが薄れていくのを待つか、彼女のことが嫌いになるほどの何かが無ければ、この苦しみから開放される手立てはなかった。


 もしくは……教職の道を自ら経つか……。




「徳……ちゃん?」




 静寂を破ったのは、聞き馴染みのあるか細く掠れかかった女性の声だった。

 日常生活であまり聞くことのない。

 放課後の時間を彼女と過ごすようになって、ようやく覚えたその澄んだ声色を聞いて、外を眺めていた慧は勢いよく、振り返る。



 会いたかった人の声がした。



「何で居て欲しいと思った時に、居るんだろうな……徳ちゃんは」


 囁くような小さな声で、けれど昼間の喧騒から離れた日暮れの学校の廊下で、そのつぶやきは慧の耳に届かないはずがなかった。


「久しぶり、だね」


「あぁ、うん。久しぶり」


 泣きそうな表情のまま笑顔を浮かべた彼女は、1か月前とは、あらゆるものが変わってしまっていた。


 元から細かった手足は、更に細さを増し、スカートから伸びている両足の細さは、もはや病的なものだった。


 つい先日会ったときは、まだ制服の移行期間前で、初めて見た彼女の冬服は、何だか、とても不似合いだった。

 本来は似合うはずの制服が、似合わないほどに、彼女の体はやせ細り、泣いているか笑っているのか判断のつかない表情と相まって、見ているのが辛くなるほど。




 無惨だった。




「……どうしたんだよ……兵藤。見てらんないよ」


 慧は彼女があまりにも痛ましく笑うので、ここが学校であることも、自分が彼女の担任教師であることも忘れて、顔を両手で覆って首を振った。


 受け入れられなかった。


「悩んでたら……うん。こうなった」


「そんなになるまで悩むならッ」


 相談してくれればよかっただろ?

 俺はおまえの相談に乗ってあげられたし、そういう関係性を築けていると思っていたのに、違かったのか?


 と2つの疑問を投げかけそうになって、慧はその言葉が喉元で止まるようにぐっと堪えた。

 拳を強く握った。


「会いたかった……。でも、会いづらかったんだよ、徳ちゃん。だから、ね。ごめんね」


 笑ってしまうほど素直な兵藤を、慧は責めることが出来なかった。


 そもそも、今の彼女に、どんな言葉を投げかければ、壊れてしまわずに済むのか、慧には判断がつかなかった。


 もともとガラスのように割れやすく、繊細で美しかった彼女は、今やシャボン玉のように綺麗な様子を保ったまま儚く消えていきそうだった。


「ねえ、少し、少しでいいから。話がしたいんだけど……」


 そう言われて慧は廊下を見渡す。

 周りには当然人影はなかったが、学校は間もなく、見回りの時刻になる。

 学校に登校できていない彼女が慧と教室で話していて、進路相談に乗っていると取り繕うことは、もう、出来なかった。


「……近くに公園あるから。そこに行こう」


「森林公園?」


「そこ。退勤してくるから、先行って待ってて」


 頭の中は生徒と校外で会うことの抵抗や誰かに見られた時にどう対応すればいいのかという考えでいっぱいだった。


 けれど、そんな自分の葛藤など、後でどうにかなると無視してしまうことが出来た。


 それくらい、彼女の様子は最悪だった。



 彼女と別れ、あれほど行きたくなかった職員室に戻る。

 会議は先程まで行われていたと言うのに、もう職員室には2人の教員以外残っていなかった。


 むしろ、好都合だった。


 慧は何食わぬ顔で自分のデスクに戻り、帰り支度を整える。

 残っていた教員が他の学年だったこともあり、誰に話しかけられることもないまま、その場を後にした。


 車に乗り込み、公園までの道のりの途中にあるコンビニでおにぎりやサンドイッチ、暖かい飲み物を一瞬でカゴに入れる。


 徒歩で公園に向かった彼女と、秒速で退勤と買い物を済ませた慧が到着したタイミングはほぼ同時だった。


 駐車場に車を停めると、慧は彼女が腰掛けているベンチに向かって小走りで駆け寄る。

 彼女から5メートルほど離れた場所で、慧は足を止めた。



 時刻は18時。



 もはや夕方ではなくなり、辺りは夜の暗闇に包まれていた。


 彼女の周りだけが、ベンチの横にある街灯に照らされている。

 スポットライトに照らされているような彼女の横顔は、生徒だとわかっていても、見惚れるほどの美しさだった。


 慧がその横顔に見とれていることに気づいていない彼女は、あまり手入れの行き届いていないショートボブの黒髪を耳にかける。その仕草でさえ、慧の心を鷲掴みにした。


 パキり。

 と突然物音がして、顔を上げた彼女が慧の存在に気づく。

 慧が何気なく体重を移動させた時に、踵で木の枝を踏み潰してしまったようだった。


「着いてたなら、声かけてよ」


「ごめん……。何か、嬉しくて」


「ほんと……そんなこと、生徒に言っちゃダメでしょ?」


「良いだろ、学校に来てなかった生徒に会えて嬉しいくらい、言わせてよ」


 慧は話しながら、自然に彼女の隣に腰掛ける。


 求めていた。

 このテンポ感で会話をすることを。

 彼女と2人きりで過ごす時間を。


「これ……食べて」


 慧はコンビニの袋を彼女の前に差し出す。

 そして彼女がそれを受け取ろうとして初めて、好みも何も考えずに買い物してしまったことに気づいた。


「ごめん、好きな物とか分かんなかったし、慌ててたから、何買ったかも覚えてないんだけど」


 すると彼女は袋の中身を見る前に、くすくすと口元を抑えて笑った。


 寒空の下。

 その笑顔は輝いていた。


「ちゃんと食べて。そしたら、話聞くから」


「うん。ありがとう」


 彼女は楽しそうに、何かな〜と口にしながら、袋の中身を覗いていた。

 その中から、塩むすびを取り出して、おもむろに頬張る。


 慧はその様子を、年相応だと思いながら、愛らしいなと思いながら、気持ちを言葉にすることはなかった。


 おにぎりを食べる彼女を見つめている訳にもいかず、何もすることがない慧は、ただ黙って公園の木々を見つめた。


「ご飯、美味しい……」


「そう……よかった」


「もうずっと、ご飯の味なんて、よく分かんなかったのにな」


「え?」


「味がね……しなくなってたんだよ」


 絶句した。


 彼女が話さなければ、彼女が一体何に悩み、何に苦しんでいたのか、慧がそれを知ることは出来ない。


 けれど、確かなことが一つだけある。


 慧はこれまで生きてきて、味覚がなくなるほど何かに悩むことはなかった。自分を責めたこともなかった。

 きっとほとんどの人が、多かれ少なかれ悩みを抱えていても、味覚をなくすほどのストレスを感じることはないだろう。


「悩んでないで、もっと早く先生に会っておけばよかったね……」


 ふいに隣の彼女に視線を向ける。


 塩むすびの最後の一口を口に入れた彼女は、頬をふくらませて咀嚼し、その両目から大粒の涙を流していた。


 それは本当に、ボロボロと音がつきそうなほど大粒の、涙だった。


 慧は思わず、その涙に手を伸ばしてしまった。


「辛かったんだな。よく、1人で耐えたよ」


 こぼれる涙を指先で拭う。

 拭っても拭っても、その涙は留まることを知らず、彼女が咀嚼するのをやめても泣き続けていたので、その頬を両手で優しく包み込んだ。


 ひんやりとした、やわらかな肌は慧の手のひらに吸い付くような瑞々しさがあった。


 そのまま彼女は30分ほど泣いた。


 本当は肩を震わせて泣く彼女を、脇目も振らずに抱きしめてあげたかったけれど、学校からさして離れていないこの公園で、それをするだけの勇気を慧は持ち合わせておらず、頬に触れた手が涙で濡れなくなるのを待つことしか出来なかった。


「もう、だいじょぶ」


 彼女が俯いて、慧の両手から逃れた。

 だから慧も、伸ばした両手を元に戻して、膝の上で組んだ。


 また、公園の木々を見つめて、隣の彼女は次のおにぎりに手をつけた。

 次はもう、泣くことはなかった。


「徳ちゃんって料理するの?」


「するよ。アラサー男が料理出来なかったら、ちょっとマズイだろ」


「偏見。全国の料理しないアラサー男子に謝って」


「なんでだよ」


 冗談だと伝わるように軽く話す。

 呆れたように返す。

 いつもの。

 放課後過ごす、いつもの彼女だった。


「私、徳ちゃんの料理食べてみたいな」


「……ダメだよ」


「なんで?」


「それしたら、教師と生徒の関係じゃ居られなくなるよ。俺と兵藤がこうして会うこともなくなる」


 口にしていて、とても悲しくなった。

 その慧の様子を知ってか知らずか、彼女はそっか、と呟くと、残っていたおにぎりを食べ進めた。


 結局3つのおにぎりを食べきった。


 その細い体のどこに入ったんだろう、と慧は疑問に思ったが、彼女は食事を終えると、やり切ったように、背伸びをしながら立ち上がった。


「ありがと、元気出た」


「それなら、よかった」


「私、何で悩んでたか今日話そうと思ったけど、やっぱり言わない」


「は?」


 慧は呆気に取られて、思わず、彼女を凝視してしまった。


「その変わり、ここに、夕方毎日来るから。徳ちゃんに会いに。だから、来れる日は来てよ。少しずつ話すから」


 それは、我儘にも近い。

 傲慢。身勝手。傍若無人。


 けれど、そんな彼女の言葉が、まるで毎日会う約束をしているかのようで、慧は心からの喜びを感じていた。


「そんな試すようなことしなくても、毎日来るのに」


「でもダメ。私がそうしたいの。来れる時だけでいいから、お願い」


 立ち上がっていた彼女が、慧の正面に立って、左手を差し出してくる。

 その手の小指がぴんと空にむけられていた。


 それは、約束の合図。


「指切り」


「来るよ。来る。約束するから、指切りは……」


 小さい頃に何度かやったそのやり取りを求められていることが急に恥ずかしくなって、慧は彼女から目を逸らす。


 けれど、彼女は慧に差し出した手を下ろすことはなかった。


「わかった。指切り、嘘ついたら針千本飲むよ」



 小指同士を絡める。



 慧の太い小指と違って、彼女の指は細すぎて折れてしまいそうなほど、頼りない。


 女性と指を繋いでいる。

 そう思うと、心が弾んだ。



 それは、今はもう、春佳との間に抱かなくなった感情。


 長い間感じていなかったトキメキ。



「ありがと。ちゃんと話すから、約束」


 彼女の病的な細さも、疲れきった目元も、一瞬で回復するはずがなかったが、慧に約束と笑いかけた彼女は満面の笑みを浮かべていて、一見すればとても幸せそうだった。


 その笑顔をずっと、ずっと、守ってあげたかった。


「これ、俺の携帯の番号」


 手帳の端に殴り書きをして、破った紙を彼女に手渡す。


「これからは、こんなになるまで悩む前に、ちゃんと相談して欲しい」


「手料理は食べさせてくれないのに、携帯の番号は教えてくれるんだ」


 慧だって、その自覚はあった。

 言ってることとやっていることがチグハグで、矛盾している。


 けれど、この1ヶ月感じていた不安や焦りと同じ体験をもう二度としたくなかった。


 その一心だった。


「まあ、うん。一応貰っとく。かけないけどね」


「それならそれで、いつか処分してよ」


「そうね、大人になって、先生が必要なくなったら遠慮なく捨てるね」


 未来の話をしている。


 それだけで慧は、なんだか報われたような気がした。


 罪悪感は無駄じゃなかったと思えてならなかった。


 そのまま歩いて彼女を施設の近くまで送り届けると、慧は再び公園に戻って、車に乗り込んだ。


 彼女との約束に、胸を高鳴らせている自分がいた。



 ×××



 白い扉の前で、慧は深呼吸をする。

 それが、最近の慧の習慣だった。


 習慣づいたのは冬に入ってからのことで、大きく息を吸って吐くと、口からは白い息が吐き出された。


 その胸の内ではいつも、春佳が帰宅していないで欲しいと願ってやまなかった。


 自宅に帰るのが苦痛になったのは11月に入ってから。

 兵藤凪が登校しなくなって、彼女に会いたい気持ちが強くなれば強くなるほど、春佳と顔を合わせるのが辛くなった。


 間違ったことをしている自分を見透かされたくない怯えと、長年連れ添った春佳との関係性を曖昧にさせている自分の不誠実さから、もう長いこと会話をしていない。


 そしてその気持ちは、退勤後に公園で兵藤と会うようになって、より一層の強まった。


 会いたくない。


 自分の醜さを知られたくない。


 幻滅されたくない。


 そして、きっと慧の心のどこかでは.......。


「ただいま」


 思い切ってドアを開ける。


 家の中は真っ暗で、春佳がまだ、ま・た・帰宅していないことが分かる。


 慧は心のどこかで、兵藤との関係が周りにバレて、責められた時の逃げ場を春佳に求めていた。


 春佳なら、彼女の境遇を聞いて、慧のとった行動の全てとは言えずとも、半分くらいは理解して、共感してくれると思っていた。


 そんな都合の良い話が、あるわけないのに。


 慧の心の葛藤を知ってか知らずか、春佳は4日前から家に戻ってきていない。

 その事実に慧が気づいたのは昨日のことで、春佳の勤務を把握し、彼女の心配をする余裕は、どこにも残っていなかった。



 キャパシティは全て、兵藤凪に全振りをしていた。



 冷蔵庫を開いて、中から昨日炊いた冷や飯を取り出す。ラップで小分けにされたそれをひとつ温めて、納豆と冷凍のおかずで掻き込んだ。


 食事の味はしたが、美味しいとは感じられなかった。


 兵藤凪の言う、味覚をなくしたというストレス状態に、自分が刻一刻と近づいていることに、慧は気づいていて、気づかないふりをした。


 放課後、部活のあるなしに関わらず、土日を除いてこの2週間、慧は彼女に毎日会っていた。


 部活がある日は、冬だからという理由で、早めに部活を切り上げ、なるべく早く彼女の元に急いだ。


 仕事は少しづつ、けれど確実に溜まり始め、年末だというのに、片付けなければいけないタスクが山積みになっていた。



 けれど、それで良かった。



 自分が苦しくても、それで良かった。


 兵藤凪が、学校に行けなくなった理由を、少しずつ、話してくれた。



 慧に男性との性的関係を全て切ると宣言したあとで、トラブルを起こしてしまい、失望されたと思い込んでしまったこと。



 男性との体の関係で、愛を探そうとしていた自分が汚くてたまらなかったこと。



 男性との関係を切ったあとで、孤独感に耐えられなかったこと。



 毎日ひとつずつ、話して行って、2週間でその理由を全て聞き終えられたところだった。


 慧と会う度に食事をきちんと取るようになった彼女は、みるみるうちに元の健康的な体を取り戻していき、心の健康も、徐々に回復しているようだった。


 サキュバスのように、彼女に健康を、幸せを奪い取られているのは、慧自身だった。


 この2週間で、慧の体重は5キロも減っていた。


 それは単に、春佳と顔を合わせずらくて、バランスの良い食事を摂れずにいたから。


 罪悪感から、夜に眠れなくなったから。


 安心安全な春佳との生活を、自ら手放そうとしている自分の愚かさを、責める以外、春佳に対して出来ることが見つからなかったから。


 簡単に入浴を済ませると、眠れないこともわかっていて、早めに布団に入る。

 何を考えているわけでもない。

 けれど、体を横にしても、眠気は訪れず、何の変哲もない白い壁を見つめる時間だけが過ぎていった。



「.......なが先生!徳永先生!!」



 それは、何時ぞかのデジャブだった。

 しかし、大きく違ったのは、慧は何も考えておらず、呆然とグラウンドの土を見つめながら、座っていただけだった。


「すまん.......考え事をしていた。で、なんだ?」


 声をかけていたのは野球部の生徒たちで、筋トレと走り込みを終えた彼らが、次のメニューを聞くために、慧の元に集まっていた。


 夏休みは筋トレも走り込みも一緒に取り組んでいたのに、今の慧には、そんな余力が残っているはずもなかった。


 生徒の輪の中から、1人が前に出る。


 ぼんやりとした様子のままの慧の目の前に、真剣な眼差しの生徒が立ちはだかっていた。


「僕たち、明日から、部活に来ません」


「.......何を、言ってるんだ?」


 それは、9月に新部長に指名した2年生の生徒だった。

 小学校時代はリトルリーグに所属していて、硬式野球を続けるか、学校の友人と軟式野球を行うか、迷って迷い抜いて、軟式野球を選んだ力のある生徒だった。


「筋トレも走り込みも自分たちでやります。全員で話し合った結果です。先生と一緒に部活をしていると、全員の士気が下がるので」


 彼の目は、真っ直ぐ慧を睨みつけていた。

 悪意を持って、蔑むように。


 恐れていたことが実際に起こって、慧は彼らになんと声をかければいいのか分からなかった。


 呆気に取られて、呆然としていると、

「では、お先に失礼します」

 と、礼儀正しく、脱帽して、彼らは帰宅して行った。


 慧はそのまま数十分、動くことが出来ず、1人でグラウンドの椅子に腰かけていた。


 立ち上がる気力さえ、残っていなかった。


 通りがかった、初老のベテラン教師が慧を心配して声をかけてくる。


 状況を説明すると、彼がそっと慧の肩に手を置いて、早めの退勤を促した。


 そこから、どうやって公園に移動したか、慧はハッキリと覚えていなかった。


 普段と同じ時間には公園に到着したはずなのに、まだ彼女の姿はなく、近くのベンチに腰を下ろした慧はそのまま魂が抜けたように座り続けた。




 気づけば公園に到着して、2時間が経過していた。




 その日、兵藤凪が公園に現れることはなかった.......。

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