第3話 し

 

 夏休みが終わった。


 自分が学生の頃、40日越えの休みは途方もなく長いように思えて、早く終われと思っている気持ちと裏腹、8月の後半になって、いざ夏休みが終わるとなると、なんだかせつない気持ちになったものだ。


 それも、教師として夏休みを過ごすようになって、長いと感じたことは1度もなかった。


 授業はなくとも、毎日のように行われる補習、普段より長い部活動は容赦なく慧から余裕を奪っていき、夏休みが終わる頃には、疲れで蒸発しそうになっていた。


 2学期が始まり、燃えるような暑さが少しずつ落ち着いていくと、慧の疲労度も次第に薄れていった。


 9月2週目の土曜に体育祭が行われると、日常は夏休み前と同じように流れ始めた。


「結局夏休みも、ほとんど毎日会ってたよね」


「それは、兵藤がきちんと補習にきてたから。偉いよ、兵藤は……」


 彼女と過ごす放課後も、どちらかが声をかけることなく、当然のように再開された。


 夏休みに貸した10冊の本の感想を言い尽くすまでは、放課後の10分前後の時間は短いように感じたけど、それも何度か繰り返すうちに、ただの本の貸し借りに戻って行った。


「夏休み、どこかでかけたのか?」


「……そういう徳ちゃんは?」


「俺はどこも。割と夏バテしてたかも」


「意外。国語教師だけど、体育会系なのが徳ちゃんのアイデンティティなのに」


 彼女の冗談なのか、そうでもないのか、ノリの分からない会話に愛想笑いをしていると、心地がよかった。


 彼女と話をしていると、中学3年生と会話をしているとは思えなくなる。


 ほかのクラスメイトとは違った落ち着きが、慧の波長と噛み合って、穏やかな時間へと誘われる。


「私ね、おじいちゃんのところに行ったよ」


「おー。どうだった?楽しかったか?」


 人が……と呟くと、彼女の意識は窓の外へと向かってしまう。


 数秒黙っていたかと思うと、「人が多かったよ」と、今の空白の時間をなかったことにしたような笑顔で、慧に笑いかけた。


 彼女はたった数秒の間に何を思ったのか。

 何に思いを馳せたのか。


 彼女が夏休み中に祖父の家にでかけたことは、既に施設から連絡が入っていた。その影響で若干情緒不安定なことも多く、施設での問題行動も増えていたようだった。


「先生」


 ふと、考えごとをしている時に声をかけられて、体がびくりとする。


 彼女が慧を先生と呼ぶ。


「夏休みの本、全部恋愛小説だったね」


「うん。どんな反応するか楽しみにしてたんだ」


 笑顔の慧とは違い、彼女の表情は硬い。


 彼女が慧を“徳ちゃん”ではなく“先生”と呼んだのは、やはり意図的だった。


「私ね、本を読みながら、探してるの。お母さんに愛されてた証を」


 突然の話に慧は呆気にとられる。


「だからね、恋愛小説よりは、家族の話の方が読みたい、かな」


 けれど、あえて、なんでもないように答える。


「そんなの、本読んでたって見つかんないだろ」


 自分の心拍数が上がって、穏やかだった心が急に突風が吹いたように焦り出すのを、悟られないように、あえて声のトーンを低くする。


「見つかるような気がしてるの。見つかるんだよ。きっと……。愛が何かわかれば、私がお母さんに愛されてた証が」


 静かに、けれど必死に訴える彼女は、机の上で組んだ手を力強く握っていて、強く握りすぎて、震えてしまっていた。


 夏休みの話をしたから、祖父の家に行った話を派生しようとしたから。

 突如、落ち着いた雰囲気を覆した彼女に感情が追いつかない。


 慧を“先生”と呼んだ、あの瞬間から、彼女は何かのスイッチが入ってしまった。


 これまでも、あったな。こういうの。


 きっと彼女の本当は、常にこうなんだ。


 自分の生まれた意味や生きていていい保証を頭で考え続けている。それを周りに知られないように、必死に平静を装って、慧の前でも普通に話すよう心がけている。


 それが、極たまに、会話の何かがきっかけでスイッチが入る。


 慧に彼女の何かを支える可能性があるとしたら、そのスイッチが入った時に、どれだけ彼女に響く声をかけられるかどうかだ。


「……なあ、怒らないで聞いて欲しいんだけどさ」


 慧の問いかけに彼女は一瞬、間を置く。


「なに?」


「お前が、色んな男と体の関係を持ってるって噂、もしかしてあれも、今の話と関係あるのか?」


 彼女は思いがけない慧の発言に面食らっているような、慧には知られていないと思っていたのに、意表を突かれたような、驚きと一言では言いきれない複雑な表情をしていた。


「だったら、間違ってるぞ。男は体の関係を持ったって、愛がなにかなんて教えてくれないし、お前がいくら可愛くたって、性欲から始まった関係に愛が生まれるはずない!」


 慧は少し、似合わないほど声を張る。


 いつも通りの放課後のはずだった。


 感情の起伏がなく、ただ穏やかに、本について語るだけの穏やかな時間。


 慧だって、その時間に癒しを感じ始めていたし、彼女と過ごす二人きりの時間を、休息の時間だとすら考え始めていた。


 それが……崩れ始めた。


「……徳ちゃん」


 幾許かの静寂の後、彼女が口を開く。


「間違ってることなんて、自分が1番よくわかってるよ」



 悟ったような鋭い流し目で、彼女が慧を突き刺す。



 それは、一瞬のこと。



 張り詰めた空気が重くて、息がしずらい。


 慧の頭の中では、砂浜で時間をかけて作り上げた砂の城が、さらさらと崩れて、小山になっていくビジョンが再生されていた。


 築いてきた信頼など、簡単に壊れる。


「見て、これ」


 彼女がおもむろに白いセーラー服の袖口のボタンを外す。


 広がった袖口。


 紺色の袖先がテーブルについて、その白くて細い腕が顕になる。


「私が、失敗した数なの」


 その腕には無数の切り傷があった。


 新しいものから古いものまで、その傷跡は存在感を訴えている。


 少なくとも、一瞬目を向けて数が分かる程度では、到底ない。


 だから、彼女は真夏だと言うのに、いつ何時も長袖のセーラー服を纏っていたのか……。


「……何を、失敗した数なんだ?」


「愛を知るためにセックスして、失敗した数」


 慧は思わず唖然として彼女の顔を咄嗟に見つめて、そのあとで黒板に視線をやった。


 気持ち悪い。

 と、思うだろう。


 カッコつけるな、と、自分を悲劇のヒロインだと酔いしれるなと、鼻で笑いたくなるだろう。


 そもそも何が基準の失敗で、それを数えたから何になるかとか、自分の体を傷つけながら、目には見えない抽象的なものを探し続けることなんて正気の沙汰じゃないとか、並べればいくらでも悪く言える。


 でも、まだこの世に生を受けてたった15年の彼女の腕に、これまでの苦しみが現れているのだとしたら……。


 なんて、不公平なんだと。

 なんて、無惨なんだと。


 神を、彼女が生きづらいシステムを作った日本を、普通という幸せの中で不平等を訴える彼女の同年代のクソガキを、彼女を1人にした彼女の両親を。




 心の中で、小さくそっと、呪った。




「泣かないでよ」





 彼女にそう声をかけられて、初めて慧は自分の両目から涙が流れていることに気づいた。


 目元は熱くならなかったし、堪えてる感覚も全くなかった。


 抗うことも、予兆もなく、しかしそれはとめどなく溢れていった。



 きっと彼女は、慧を攻撃しようとしていた。



 これまでの他の人たちと同じように、傷跡を見せて、引かれて、遠ざけて。



 そうして、本当は自分が1番間違ったことをしている自覚のある物事を叱る、理解のない教師との縁をここで断ち切ろうとしていた。



「優しいね、先生は」



 慧は涙を拭うことに必死で返すことができない。


 予想を上回る慧の反応に、彼女は苦笑いをして、向けた敵意は、あっという間にその勢いを失っていく。



「私の事情を知ってる人はみんな、私を腫れ物扱いする。そんなに弱くないのに、腫れ物を扱うみたいに顔色伺って、当たり障りのないことしか言わない。私はそれが、大っ嫌いなの。だから、施設の職員もクラスのみんなも、消えて欲しい。みんな……」



 慧に向けた残り僅かな敵意を消化するように、彼女は吠える。



 静かに、まるで会話をするかのように静かに、静かに……。



「先生は、でも、違うね。ありがとう、泣いてくれて」



 彼女はそっと、その腕を元に戻して、また苦しみは誰にも見えなくなった。



「分かってるよ、消えればいいのは、私の方なんだよね」



 彼女はあの傷を、愛が何かを探して失敗したから残したと言った。



 でも、あれは違う。



 彼女を取り巻く人間が、彼女を守り、正しい未来へ導かなければいけない大人が、彼女の気持ちを無視して、目を逸らし続けてきた証拠だ。


 彼女が、もう、擦り切れそうだという証明だ。



「消えれば、いいなんて、そんなわけないだろ」



 途切れ途切れで、小さな声しか出ない慧の言葉に、真面目な話をしてるというのに兵藤は笑い出す。



 でも慧は心の中で思い続けた。



 自分は間違っていたんだと。


 教師というのは、教育を受けなければいけない子どもたちに、勉強を教え、少しでも未来の選択肢を広げてあげることだ。



 そう思っていた。間違いではない。

 でも教える必要があるのは勉強だけではない。


 人生を生き抜くために必要な力を、考え選択する能力を、最大限まで伸ばしてあげる必要がある。


 でもそれを、関わりを持った全ての生徒にしてあげることは難しい。

 というか、不可能だ。


 そもそも、教師の手助けなど必要とせず、自分で生き方を見つけ出せる生徒だって大勢いる。


 それができない、そうする力が弱っている生徒に手をかけ声をかけ、成長を促さなければいけない。


 だから、生徒を特別視することはないと言っていた自分の考えは間違っていた。


 時には特別視をしなければ、未来を描くことも、生き続けることも難しい生徒がいる。



 それは必要な特別視であって、やましいものではない。




 だから……。




 慧は俯く兵藤の頭に手を伸ばす。


 直毛の黒髪が真っ直ぐと肩まで落ちている状態を崩さない程度に、その頭を何度も撫でる。




「生きろ、兵藤。俺はおまえに、消える選択肢なんて選んで欲しくない」




 頭を撫でていない方の手で、自分の涙を拭っているのだから格好などつかない。



 それでも、不意に他人の手が体に触れて驚いて、肩を弾ませた彼女は、自分が撫でられていると実感したと同時に、それまで何事もないように平静を装っていた表情をみるみるうちに歪ませた。


 ポロポロと涙を零したあとで、遠くにある職員室にまで聞こえるのではないかと言うほど大きな声で、長いこと泣いた。



 張り詰めていた空気は、その声と一緒に、徐々に緩んでいた。


 彼女が泣き出す様子を見て、何だか安心した慧は、逆に急に涙が止まって、次第に薄暗くなっていく教室で、彼女が泣き止むまでその頭に手を乗せたままでいた。



 下校時刻はゆうに1時間を超え、職員室に戻る頃には日は沈んで、田舎の町が夜を迎えようとしていた。


 進路相談に乗っていて遅くなったと、彼女の住んでいる施設に連絡をいれると、慧はカバンから車のキーと財布を取り出した。


『今日はあまりにも遅くなってしまったので、責任をもって僕の方で施設まで送り届けます』


 その場で電話をしている様子を見ていた教員に状況を説明し、慧は兵藤を助手席に乗せて学校を出た。


 目をパンパンに腫らしながらも、ほぼ泣き止んでいた彼女は多くは語らず、呆然としているうちに施設に到着した。


「私、もうやめるよ。その……男の人と、無闇に体の関係持つの」


 シートベルトを外しながら、彼女はこともなげに呟く。


 それは、これまで自分が行ってきた間違いを認め、変わりたい思い始めた彼女の、決意の表れだった。


 慧はその言葉に特に返事をせず、「ゆっくり休めよ」と笑顔で声をかけて彼女を見送った。


 歩き始めた彼女がうつむき加減なのは変わらなかったが、その背筋はほんの少しだけ、伸びていて、昨日よりは胸を張って歩けているんじゃないかと思った。


 慧の中で、兵藤凪が特別な生徒になった日だった。


 ×××


「徳ちゃんッ!兵藤さんが!!急いで来て!」


 10月の頭、昼食後の掃除の時間が終わろうとしていた時だった。


 慧のクラスで学級委員長をしている女子生徒が血相を変えて、入室方法などお構い無しに職員室に飛び込んできた。


 そのあまりに慌てた様子と、普段の彼女なら絶対にしないであろう行動から、事態の深刻さが感じられた。


 間もなく始まる5時間目の授業の準備をしていた慧は、手に持っていた準備物を投げるようにデスクに置いて、息を切らす彼女を置き去りにして、自分のクラスへと急いだ。


 教室の周りには若干の人だかりができていた。野次馬とも呼べる生徒たちを、慧は苛立ちを隠さずに押しのけていく。



 目に飛び込んできたのは、教室の後ろの空きスペース。



 頭から血を流して、横たわっている兵藤がいた。


 意識はあるようで、慧が入ってきたのが分かると彼女は傷を押えながら、体を起こそうとする。


「おいッ!!起き上がるな!そのまま抑えて、横になってろ!!」


 普段の慧は声を荒らげたりしないので、教室にいる生徒全員が緊急事態だと察する。


 教卓の周りには複数の生徒に肩を抑えられ、今にも振り払って駆け出そうとする、とんでもない形相をした隣のクラスの女子生徒がいた。


「この、クソ女!人の彼氏奪い上がってっ!」


 ここは本当に中学校なのか、疑いたくなるセリフだった。

 男女の関係によるトラブルが、義務教育の行われてる場所で起こることなんて滅多にないだろう。

 しかし、目の前では、いわゆる修羅場という最悪な状況が広がっていて、その女子生徒のセリフから、一体何が起きたのかを推測することが出来た。


 慧は兵藤の元に駆け寄り、自分のポケットからハンカチを出すと、傷をそのハンカチで強く抑えるように指示した。


 両の頬にも、叩かれたような赤い腫れがみられる。恐らくこちらは平手打ちで、頭部の出血は突き飛ばされて後ろのロッカーに頭を打ち付けたのだろう。



 「だい、じょぶだから……」



 彼女は我をなくして、焦りながら処置する慧の背中に、優しく手を添える。


 頭を強く打った影響なのか、上手く目を開けられず、正常な判断など、到底できる状況にない彼女は、それでも慧のことを気遣っていた。




 こんなに、優しい子どもを。


 こんなにも立派な女の子を。




 ひとりぼっちになんて、させたくない……。




 教室には事態を聞きつけて、さらに複数の教員が兵藤のそばに駆け寄ってくる。


 興奮した様子の女子生徒は別室に移動させられ、兵藤は念の為にも救急車が呼ばれることとなった。


 怪我は大したものではなかったが、その日を境に、兵藤凪は学校に来なくなった。


 ×××


 不貞腐れた態度。

 この言葉が、今の彼女以上に当てはまる人を、慧は29年間生きてきて見たことがない。


 3学年のフロアとは別の、音楽室や美術室と言った教室が並ぶ特別棟の手前。


 放課後という人気のない時間帯に、さらに元々人気のない特別棟。


 クーラーをつけるような暑さは今はもう消え失せ、かと言って肌寒くもない心地の良い気温だったが、進路指導室の空気は彼女の態度のせいで最悪だった。


「今から指導受ける人間の態度じゃないんじゃないか?」


 2つの細長いテーブルを縦に並べて、少し対面との距離がとれる配置で、慧は兵藤とトラブルを起こした女子生徒と対峙していた。


 慧の隣には3年1組の担任が腰を下ろしている。

 中年でベテランの男性教師は、女子生徒を煽るかのように声をかけるが、その実うっすらと笑みを浮かべていて、怖いという感覚はなかった。


 そして女子生徒はと言うと、もちろんそんな声掛けには応じることはなく、目線は窓側を向いて椅子の背もたれに寄りかかりながら、不服そうな表情を浮かべていた。


「なあ、向井。おまえだってわかってるだろう。こんな時期に同級生殴っちゃダメだったなって」


 やはり、担任だからだろうか。

 明らかに話を聞く態度にない、向井と呼ばれた女子生徒を、男性教師は怒鳴りつけるのではなく、諭すように話をする。


「向井の口から、何であんなことをしたのか話して欲しいんだよ」


「……」


 しかし、彼女は鼻で笑うように口角の右だけを一瞬あげると、投げ捨てていた足を前ではなく、窓側に向けた。


 言葉じゃないコミュニケーション方法。

 彼女の拒否感の表れ。


 ただ、学校としても、今回の暴行事件にも近い一件を、理由があったからと言って見逃せはしなかった。


 恐らく、兵藤の暮らす児童養護施設は、全く抵抗をしなかった彼女を、何度も殴った女子生徒を許さないだろうし、国から守るように言われている子どもが、学校で傷つけられてしまったのなら、相手方に正式な謝罪を求めることも目に見えていた。


 それとは全く別で、慧は自分の行いを反省しない彼女の言動が、腹立たしく思えて仕方がなかった。


「まあ、難しいよな。先生だって怒ってる時って言うのは、自分が何してるのかよく分からなくなるよ」


「……そうなの?」


「そうだとも。人間って言うのはね、頭に血が登ったり、興奮状態になると、一気に記憶力とか判断力とかが下がったりしてね。それでなくても、物事を覚えてられなくなってきたって言うのにね」


 彼の話口調は確実に普段のそれとは異なった。

 共感し、自分にも似たようなことがあったと、大人の彼が子どもと同じ立場に立つ。

 これが、長年子どもたちを教えてきて、彼が身につけた指導技術だというなら……。


 慧は、そんな技術はいらないと思った。


「でもね、兵藤を殴った時のことは覚えてなくても、なぜ殴りたくなってしまったのか、その理由はわかるんじゃないかな?」


「……」


「今回問題を起こしたのは向井だ。俺たちには、君からの話を聞く義務がある」


「出た……。義務とか責任とか、頼んでもないのにうっざッ」


 男性教師に気を許していたと思ったら、また初めの威嚇した猫のような彼女に戻ってしまった。

 けれど、確かに、少しずつ、彼女の心は動かされ始めていた。


「君が話をするまで、私たちはここで向き合おう。遅くなるなら、仕方がないがおうちの方に連絡するしかないね」


 彼女は、大きく舌打ちをすると、窓側を向いていた体をまっすぐ前に向き直し、かと言って、伸ばした足を戻すことはなく、太ももの上で組んだ両手を見つめるように俯いてしまった。


 黙ったまま。

 けれど、体をまっすぐ前に向けた。


 少しは話をする気になったみたいだった。


 彼女……向井は、この学校では、兵藤凪とは違った有名人だった。


 素行不良と言ってしまえば一言で片付いてしまうが校則は従わないもの。教師のことなど、虫けら同然の扱い。成績最悪。おまけに男子生徒と体の関係を持つことや恋愛関係になることを一種のステータスのように思っていて、扱いづらい不良生徒として名が通っていた。


 慧は彼女の担任ではなかったので、彼女のことをほとんど知らなかったが、彼女と兵藤が同じクラスにならなかったのは、この二人を同時に扱えるだけの力ある教師がこの学校にいなかったからだろう。


 兵藤は兵藤で、彼女は彼女で、大きな闇と苦労を抱えていて、出会わないように離されていた二人が、何かの因果で繋がりを持ってしまった。


 では、兵藤が殴られても反撃せず、彼女にされるがままにされた理由は何か。


 彼女の方ではなく、最近の兵藤に何らかの変化があるとすれば……。


「君……もしかして、彼氏に浮気でもされてたんじゃないか?」


 ずっと話をせずに黙り込んでいた慧が話をし始めると、彼女は驚いたような表情をみせた。何より、先程までただそこに同席しているかのように座っていた慧の口から、核心を突くような発言がされたことにも、驚愕していた。


「いや、浮気と言うより、君の彼氏が兵藤と体の関係を持ってたんじゃないか?」


「は?」


 彼女は怪訝そうに低い声を出す。


 どうやら図星だったようだ……。


 慧は放課後の時間を兵藤と過ごすようになって、生徒に踏み込んだ会話をすることに抵抗がなくなっていた。


 そして、兵藤の近況を考えれば、起こったことなど想定できる範囲内にあった。


「君はそれを知らなかったけど、兵藤と彼氏の体の関係がなくなたことをきっかけに、彼氏が君に当たるようになった……とか?」


 ハハ、と彼女が乾いた笑いを浮かべた。それは口から声が出ただけで、表情に笑みはなく、どこか虚しさが感じられた。


「徳ちゃん、優しそうな顔して、聞かれたくないことズカズカ聞いてくるじゃん」


「君が話さないからだろう」


 とぼけたように慧が返答すると、彼女は呆れたように顔を逸らして、窓の外、遠い空を見つめた。


「徳ちゃんの話、ちょっと違うけど、大体あってるよ」


 すると彼女は薄ら笑いを浮かべて、窓の方に向けていた視線を慧に向けた。


「でも、これ以上は徳ちゃんには教えてあげない」


 彼女の敵意むき出しで、慧を挑発するように投げかけられた言葉が、必死に隠して、何事もなかったように振舞っていた慧の感情を大きく揺さぶった。


 あの、血を流しながらも、慧に心配かけまいと体を起こそうとした兵藤の姿が思い出される。


 痛みに顔が歪み、頭を打った衝撃で上手く物事を判断できないのに、慧に「大丈夫だよ」と囁いた小さな声が、頭の中で繰り返されている。


 思わず慧は、勢いよく立ち上がった。

 古いパイプ椅子が、慧の勢いを受け止めきれずに、立ち上がった拍子にそっぽ向いてしまっていた。


 怒りから呼吸は荒くなり、普段は穏やかな顔も、今は目が釣り上がって優しさとは無縁だ。


「徳ちゃんが最近あの子と仲良くしてるの、知ってるんだよ。揃いも揃って騙されちゃって」


「違うだろ!アイツは、アイツなりに間違えを正そうと努力してた!なのに……おまえのせいで」


「私のせい?もとあと言えば、自分で蒔いた種でしょ?」


 その言葉に慧が言い返そうとした時、隣から、スーツの裾をくいっと引かれる感覚があった。


 引かれるがまま、そちらに目をやると先程まで穏やかに向井を諭していた男性教師が、物凄い形相で慧を睨みつけていた。


「2人とも、落ち着いて。向井、君にも言い分があることは、わかったけど、どんな理由であれ、暴力はいけないことだよ」


 そして、くいっと引っ張るだけだったスーツの裾を強く引かれ、慧は斜めを向いたパイプ椅子に半強制的に座らせられた。


「君の話に耳を傾けるべきである僕ら教師が、話の腰を折ってしまって申し訳なかったね。それで、君の言い分を聞きたいんだけど……」


 やってしまった……。


 完全に受け持ちのクラスの生徒が怪我をした担任がとる態度の域を超えてしまっていた。


 そう自覚した途端、慧は座り直した椅子の上で脱力してしまった。


 向井が言い捨てた、揃いも揃って騙されて、というセリフが、他人事と思えずに、慧の心に侵食し始めていた。


「話すも何もないよ。ほぼこいつが言った話であってるの。彼氏があの女と関係を持ってた。それが切れて、私だけじゃ満足できなくなって捨てられた」


 それは、兵藤が悪いんじゃなくて、付き合ってた男がクソなんじゃないか?と慧は心の中で思ったけど、口にせず黙って彼女の言葉に耳を傾けた。


「割と本気だったの、珍しく。だから悔しくて、我慢してたけど、アイツの顔みたら殴ってた。それだけ」


 彼女のその、投げやりで、自分に非など全くないと思っているような態度が気に入らなかった。


「それだけって、あれだけの怪我させといてそれだけじゃ済まないだろ?」


 気づくと、1度制止されたのに、懲りずに慧は机を両手で叩いて、身を乗り出すように彼女を責め立てていた。


「徳永先生は黙って!」


 しかし、そうして動いたのも束の間。

 慧の声の何倍もの大きな声で、とうとう男性教師が怒り出した。


 注意をされるべき対象は彼女だと言うのに……。


「向井……。君はとても辛かったんだね。だから彼の気持ちが、兵藤さんに向いていたことを許せなかった」


「そんなんじゃないよ……」


「辛い時は辛いって言っていい。それともこれまで、辛いのを我慢して、いいことがあったかい?」


 気づくと、向井は泣いていた。

 両目から大粒の涙を零して……。


 それは数日前、兵藤の目から溢れたものと同じはずなのに、慧の心を動かす様子は全くなく、むしろ、加害者側の彼女がなぜ泣く必要があるのか、苛立ちすらした。


 何より、向井の肩を持つ男性教師に心底腹が立った。


「兵藤の額の傷、2針縫ったそうだ」


「そう……」


「悪かったと、思うか?」


「そうね」


 自分が中学生だった頃、周りにここまで大人っぽい生徒は誰もいなかった。


 生徒が恋愛関係で争うことなどなかったし、みんな仲良く、子どもでいられる時期を楽しんでいた。

 彼女も、兵藤も、大人にならなければいられなかった理由。大人にならざるを得なかった理由。


「向井のところの親御さんは相変わらずか?」


「何?急に」


「いや、遅くなる時は親に連絡すると言った時の君の反応がね……。ちょっとばかり気になって」


「そんな電話、お母さんが受けたら失神しちゃうわ」


 苛立ちから、自然に窓の外を眺めていた慧は、その話を聞いて一気に意識を進路指導室に戻した。


「恋愛を楽しむのはいいが、あまり周りに迷惑をかけてはいけない。それに、親御さんに自分を見て欲しいなら、君の伝え方は間違ってるいる」


「おせっかいおじさん」


 彼女は流していた涙を自分で拭いて、少し笑いながら男性教師の言葉を受け流した。


 向井が1人で気持ちを整理する様子を見て、彼女とは……兵藤とは、何かが決定的に異なると感じた。


「そうか?蚊帳の外からだから、言えることもあるさ」


 男性教師はそう言うと、彼女に笑いかけるでも何でもなく、もう終いでいいぞと言って、彼女の退室を促した。


「は?もういいの?」と彼女の方も拍子抜けした対応に困っていたが、数分もすると、荷物を抱えてコソコソと出ていった。


 男性教師は彼女から反省している話も聞いていないし、兵藤に謝る約束すら取り付けないまま、彼女との話を終わりにした。


 今回の一件の捉え方の違いに、慧は呆気に取られていた。




 廊下を歩く向井の足音が徐々に遠くなっていくと、クーラーも暖房も着いていない進路指導室は驚くほどの静寂に包まれていた。




 空気が凍りついているような感覚があったのは、恐らく、慧の勘違いなんかでは、ない。




「どうして彼女をあのまま帰したんですか?」


 その空気感に耐えられなくなった慧は、思わずパイプ椅子に座り込んだまま微動だにしない男性教師に問いかけた。


 すると、彼は鼻で大きく息を吸うと、数秒止めて、大きな大きなため息をついた。

 それは、慧の勘違いではなく、悪意を持ったため息だった。


「徳永先生。私はね……、少しあなたに落胆しています」


「と、言いますと?」


「あなたは、生徒それぞれの事情を汲んで臨機応変に対応出来る先生だと思っていました……」



 言葉を過去形にするということは、今はもう、そうは思ってはいないということだ。



 わかっている……。



 あれだけ声を荒らげて、慧を止めたのだ。

 彼が慧のことを良く思っているはずがない。


「今回のこと、向井の親御さんには報告するつもりです。当然ですね。彼女の母親はよく言えば過干渉、悪く言えば出しゃばりすぎなんですよ。向井の起こす出来事全てを、自分の責任と思って関わってくる」


 男性教師は薄くなり始めた頭髪を両手で前後に擦りながら話を続ける。


「彼女はずっと、それを煩わしく感じていた。だから、問題行動が多い。けれど、それを逆手に取れば、今回の件も、学校が出る幕なんてないんです」


「……」


「彼女の親が、兵藤さんに謝る。必然的に向井も謝る。それでいいんですよ、学校がすることなんて、大したことじゃない。それなのにあなたは……」


 頭髪を弄っていた両手はそのまま首の後ろで止まって、彼は頭を抱えているようなポーズをとった。


「私たち教師は、必要以上に生徒に深入りする必要はありません。なんというか……私は今の徳永先生を見ていると、危うい存在に見えてなりませんよ」


 それは、怒りを通り越して呆れているようだった。


 つまり、彼は、謝らせるのは親の役割であって、教師は事実の確認だけ行えればよかったと言いたいのだろう。


 彼の言わんとしていることは理解出来る。


 でも、じゃあ、殴られた兵藤の気持ちはどうなる?


 辛そうな表情をしながらも、慧に心配をかけないように我慢をしていた彼女の無念は誰が晴らしてくれると言うんだ?



 彼女には、彼女を守ってくれる親がいないのに……。



 向井と兵藤に感じた共通点。

 それは、15歳の子どもだと言うのに、下手に大人びているところ。


 向井と兵藤の決定的な違い。

 それは、両親の愛を感じて育ったか。


 向井には、どうせ最終的には親が守ってくれるといった自信が透けて見えていた。


 じゃあ、兵藤のことは、一体誰が守ってくれるんだ?

 誰が、彼女の分まで怒ってくれるんだ?



 慧は男性教師に「すみませんでした」と思ってもいない謝罪をして、進路指導室を後にした。


 既に日が暮れて、暗くなった廊下をグングンと進んでいく。


 不誠実だ。

 理不尽だ。


 だから兵藤は、生きづらいんだ……。


 慧は叫び出したいほどの怒りを抑えて、ひたすら廊下を進んだ。


 職員室に戻ると、仕事が残っていることも無視して、鞄を掴んで車に飛び乗った。


 帰宅してもその怒りが収まることはなく、水を1杯飲んで、シャワーを浴びると、ベットに横になった。


 仕事のことも、春佳のことも考えなければいけないのはわかっていたが、その気持ちに目をつぶって、耳を塞いだ。


 こんなにも全てを投げ出したくなった日はなかった。

 彼女に。


 兵藤凪に、会いたかった……。

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