第2話 あ

 

 それからと言うものの、慧の放課後は野球部の練習を見る、兵藤に本を貸す、と言うのが日課になった。


 ただ、兵藤と過ごす時間はものの10分ほどで、貸した本の感想を言い合っては、施設から帰りが遅いと連絡が来ない程度に下校を促した。


「ホントに、恋愛ものとか家族の幸せ物語とか、スリルも下手くそもない本ばっかりオススメするんだね」


 夏に差し掛かった蒸し暑い放課後の教室。


 傾いた日差しが差し込み、絵に書いたような懐かしい雰囲気に包み込まれた。


「俺自身がそういう話の方が好きだからね」


 慧は窓側、後ろから3番目の席。

 彼女の前の席に腰を下ろしていた。

 窓を正面にして横向きに。


 そして、少し顔を向ければすぐに兵藤に向き合え、必要がないときは自然に目をそらせる状態をあえて作りだしていた。


「まあ、面白いから、いいけどね」


 ほとんどの生徒が下校し、静寂が包む教室で、決して高まることのない会話が展開される。


 初めて兵藤に本を貸す日こそ緊張したものの、それも次第に感情の変化を必要としないものになっていった。


「徳ちゃんはさ、この本読み終わった時、どんなこと思った?」


 彼女は前回貸した本を手に持ち、そのページをパラパラと捲っては、一気に読んだ時に抱いた感情を思い出しているようだった。


「どうだったかな。それ、買ったの大学生の時だからな」


 どうだったかと、言葉を濁す慧は、その言葉とは裏腹、いくつかの場面が脳内で、思い起こされていた。


 大学3年の頃、春佳と付き合い初めて1年が経とうとしていた冬の日。デートの待ち合わせ時間まで2時間あった間に、カフェで一気読みした本。


 読んでいる途中で、本当に春佳が待ち合わせ場所に来るか不安になって、読み終わった時には早く会いたくてたまらなくなった。


 好きな人に会いたくなる本、という謳い文句に誘われて買ったら、まんまとその罠にハマって、静かなカフェで小さく微笑んでいた。


 それを兵藤に話したくなかったのは、きっと恋人がいることを隠さなくてはいけなかったからだけではない。


「兵藤はどうだった?どんなこと思った?」


「私は……」


 兵藤が言葉を続けなかったから、慧は気になって彼女の方へ目線を向けた。


 すると、彼女はいつの間にか本を捲る手を止めていて、窓の外、喧騒とは無縁の町を眺めていた。


「お母さんを、うん。……思い出したよ」


 まさか母親の話が出ると思っていなかった慧は不意を突かれて、少しだけ怯んだけど、思ったことをそのまま、言葉にしていく。


「恋人同士の恋愛の話なのに?」


 何度か本を貸して、放課後に少しの会話をすることで、彼女にそれくらいの親しみは感じていた。


 少しくらい、間違った返答をしても、彼女は同学年の他の女子生徒のようにすぐ傷つかないし、学校で慧の悪口を言うこともない。


「苦悩の日々も好きな人となら、一緒に乗り越えられるって話でしょ?特に彼女は病気にもなるしさ。そこがお母さんと生活してた頃の思い出と被った」


「そっか……」


「小学4年だったからさ、ある程度物心もついてたし、しんどいな、なんで私は他のみんなの家と違うのかなって思うこともあったけど、お母さんが仕事から帰ってきて、抱きしめてくれると、全部どうでもよくなったよ」


「お母さんのこと、大好きだったんだな」


 いつの間にか、頬杖をついて、完璧に慧から目を逸らしていた彼女は、小さな声で「だった?」と聞き返していた。


「過去形にするってことは、徳ちゃんはお母さんが死んでること、聞いてるんだね」


「……ごめん。悪気があったわけじゃないんだ。知ってるよ、これでも一応担任だからな」


「好きだよ〜。だいたい、母親のこと嫌いな子どもなんてなかなかいないでしょ」


「……それも、そうだな」


 何となく、気まずくなって、その後はなんの会話もできなくなった。


 兵藤に習って、慧も窓の外を眺める。


 彼女と母親の幸せな生活が全く想像できず、思い浮かぶのは、泣くことも騒ぐことも許されず、ただ膝を抱えて黙り込む小さな兵藤の姿だけ。


 それは偏見でも先入観でも何でもなく、児童相談所の職員が彼女の母親から聞き取った、当時の彼女の様子だった。

「申し訳ないことをした」と謝りながら、早く引き取れるように頑張りたいと語った彼女の母親は、今はもう、この世にいない。


 子どもと生活できないことをストレスに感じて、お酒を飲むのが増えたって聞いてますよ。


 呆れるように話す、昨年度の担任教師。

 全部、聞いた話だ。


 だから、兵藤が思い浮かべる母親と慧が勝手に想像した彼女の母親像じゃ大きな違いが生まれるのも無理はない。


 慧は与えられた情報しか持ちえない。


「……徳ちゃん」


「ん?」


 数分の沈黙を彼女の方から破られた。


「もうすぐ、夏休みだね」


「あー。そういえば、そうだな」


「夏休み前は10冊くらい本貸してね」


「うん」


 しばらくすると、彼女は動き出し、今日貸した本をスクールバックにしまっていた。


「私、お姉ちゃんいるんだ」


「へ?」


 突然の話に慧はどこから出したのか分からない声で返事をする。


「なんで、そんなこと急に話すんだよ」


「だって徳ちゃん、私のことなんも知らないみたいな顔して、黄昏てるから。教えてあげた方がいいかと思って」


 人のことよく見ているなと思いつつ、帰り支度を進める彼女の方には視線を向けない。

 今はきっと、中学3年生には思えないほど、大人びた表情をしていると予想ができた。


 そんな顔は、見るべきじゃないと思った。


「お姉ちゃんはね、今年の春におじいちゃんの所に引越したの。もちろん、母親の方のね」


「なんで兵藤はついて行かなかったんだ?」


「おじいちゃん、意外と私たちが住んでた場所の近くにいてね。おじいちゃんの所に引っ越すのは、前いた場所に戻るのとほぼ同じなんだよね」


 立ち上がった彼女が、黒板の方を真っ直ぐ見つめて、もしくは、慧を見つめて、少し深めに息を吸った。


 その視線から逃げるように、慧は顔を下に向け、自分の汚れた室内履きのシューズを眺めていた。


「まだ決心がつかないの。お母さんがいないあの都会で、私が私らしく生きられる自信がない」


 彼女はその言葉を残して、教室から出ていった。


 胸が、苦しかった。


 中学3年生に、こんなにも、自分を俯瞰して考えることができるんだろうか。


 できて、いいんだろうか。


 本を読むことが好きだから?

 あまりにも辛い体験をしてきたから?


 だから彼女は、こんなにも自分の感情に向き合えているのか?


 普通の15歳は、自分が何に悩み、何に葛藤しているのか、気づいたり、それを言葉にしたりする能力が未成熟だ。


 それでいい。変に大人になるべきじゃない。


 まして、児童養護施設で生活する子どもにとっては、向き合うことから逃げた方が、自分を傷つけずに済むことの方が多いだろう。


 どんなに求めても、親が自分と向き合ってくれない。

 親として、あるべき姿であろうとしてくれない。


 だから、自分の悩みに向き合わず、ただ流されるまま、生活していた方が苦しくない。


 そんな子ども達ばかりなのに。


 なぜ、こんなにも……彼女は。


「強すぎるよ……」


 気づけば、完全下校の時間を伝えるチャイムが聞こえ、呆然としていた慧は我に返る。


 彼女が机の上に置いていった本を回収する。


 その本でリズム良く手を叩きながら、職員室に戻った。



 ×××



 夏休みに入った。




 慧の一日の始まりの業務は、炎天下の中での野球部の指導が多くなり、その分肉体的な疲労が増えた。


 願ってもいない日差しと、うだるような暑さ。苦痛と言うほどではなかったが、慧はあまり夏が好きではなかった。


 兵藤には約束通り10冊の本を貸し、夏休み中に会う約束をすることはなかった。若干気まずかった放課後のやり取りの記憶も、そんな毎日を繰り返すうちに薄れていった。


「水分補給、怠るなよー。熱中症で死ぬぞー」


 慧は、野球部の指導をしながら、自分も体を動かす。慧は小学生の頃から高校まで野球を続けていたが、日陰で偉そうに指示をする監督にあまり良い印象をもたなかった。


 自分はそうなりたくない。


 そんな気持ちから、動けるうちは部員たちと共に汗水流す指導者であろうと決めた。


 その分、部員の士気も高まっているように感じていた。


「徳永先生、トレーニングメニュー終わりました」


 まだ体の小さな部員が慧に声をかけてくる。

 6月の大きな大会で3年生は引退し、この夏休みは完全な新チームでの練習になる。


 小学校を卒業してまだ数ヶ月しか経っていない1年生には、まだ幼児体型を引きずった、筋肉とは無縁の小さな生徒も何人もいる。


 慧はその体の成長を阻害しない程度の筋トレメニューを立て、適度に休憩を取らせる。


「よし、じゃあ15分の休憩をとろう。各々、しっかりマッサージするように」


 声をかけ、慧はいったん職員室に戻る。

 教師の特権。

 一度エアコンの着いた部屋で涼む。


 生徒たちと同じ熱量で練習をしたい気持ちはあれど、ずっと外では慧が熱中症になってしまう。


 汗を吸収したTシャツを着替えるためにも、自分のデスクに急ぐ。


 そして、職員室の前に近づいた時、見慣れた後ろ姿が入口にあることに気づく。


「兵藤……。ちゃんと補習来てるのか、偉いぞ」


 受験前の3年生は、希望者に補習が実施されている。

 慧が野球部の顧問をしている都合上、国語の補習は午後に設定されていた。


「徳ちゃん。夏休みであっという間に真っ黒になっちゃったね」


「そういうお前は、相変わらず真っ白だな」


 夏休みに入る前は、束ねられていた兵藤の少し長めのボブカットも、暑さのためか、4月の頃のように短く整えられていた。


 職員室に吹き込む熱風が、彼女の黒く美しい髪を揺らす。


「徳ちゃんも、汗臭いことなんてあるんだね」


 少し顔を顰めた彼女が、苦笑いにも近い笑みを浮かべる。


「今から、着替えるよ」


 彼女があの日と違って、いつも通り冗談交じりに話しかけてくれて安堵した。

 その気持ちもあって、慧は足早に彼女の脇を通り過ぎる。


「しっかり、勉強しろよ」


「もちろん。徳ちゃんもファイトだね」


 手の前でガッツポーズを作る彼女が、無邪気に笑い、慧は疲れていた気持ちが少しだけ和らぐのを感じた。


 教師の夏休みは、決して休みではない。


 通常業務にはない、様々な書類仕事をして休業に入る前より、残業が増えるのも当たり前だった。


 赤いTシャツをカバンから取りだし、職員室の端にある、簡単な更衣エリアで着替えを済ませる。


 夏休みだと言うのに、まばらな職員室では、1人の女性教師が頭を抱えていた。


 なるほど、兵藤が職員室の前にいたのはこれか、と思いながらも、間もなく休憩時間が終わる野球部に急いで戻らなければと言う気持ちから、慧はそちらを気にもとめない様子で、職員室を後にした。


 廊下で下を向いて、本を読んでいた兵藤は通り過ぎる慧に気づきもしなかった。



 早めに業務が終わり、急いで家路に着いた慧は、帰宅するや否や、シャワーに駆け込んだ。




 午前に部活をやったあとに授業をするのは、身を削られる思いだった。

 真夏日に、息をするように汗をかき、搾り取られた体で、約1時間の授業をする。

 その後に手をつけていない事務仕事を済ませる。


 汗をかいたまま行う仕事がどれだけ不快か。世の社会人の命題かもしれない。


 喉が渇いていたことも忘れ、数分で身を清めると、そのまま冷蔵庫に直行した慧は、冷えた麦茶を一気飲みする。


 帰り際に、職員室で頭を抱えていた女性教師に声をかけられた。


「徳永先生のクラスのところの女子生徒がほかのクラスの子と揉めてるのよ。彼氏をとったとかとってないとかで。私には事情も分からないし、とりあえず2人に距離を取らせたんだけど、新学期は気をつけてみてあげてくださいね」


 一日の終わりに何を聞かせてくれてるんだと、憤りを感じたけれど、起きてしまったことは仕方ない。


 ありがとうございます、と静かに告げて、心が荒波立つのを悟られないように心がけた。


 兵藤凪の噂。


 それは慧が彼女を受け持つ前から騒がれていたことだ。


 あの美貌。ミステリアスな雰囲気。

 それにそぐわない、みだらな話し。


 兵藤凪は男遊びが激しい。この学校のほとんどの生徒と関係を持っている。


 その噂は生徒に限らず、全ての教師の耳に届いていたし、若い男性教師は自分の身を滅ぼしかねない噂に細心の注意を払った。


 慧が兵藤を夏に入るまで避けていた理由の一つに、この噂も含まれる。


 担任になってからは、その噂を聞かなくなったので、油断していたが、結局噂はほとんど確定の事実として、慧のもとに届いた。


「けいー。帰ってるー?」


 気づくと、残業していたであろう春佳が帰宅してきて、夜の7時を回ろうとしていた。


 慧は今日の夕食作りに手をつけていないことを思い出し、慌てて春佳のもとに急いだ。


 早く帰宅した方が夕食を作るのが、2人のルールだった。


「悪い、俺もさっき帰ってシャワー浴びたところで……。今日外食でもいい?」


「あー、いいよ。私もシャワーだけ浴びたい。それに……ちょっと話もあるし、助かる」


 表情の硬い春佳があまり上手くない笑顔を慧に向ける。

 その目元からは疲れが伺えた。


「外食じゃなくて……寿司でも買ってくるよ」


「え、ほんと?今から出るの?」


「いいよ、春佳は。シャワー浴びてて」


 凡そ、春佳の話には検討がついていた。

 両家に挨拶に行く日、入籍の日取りを調整したいのだ。


 もともと、夏休みに入るまで忙しいからと先延ばしにしていたのは慧の方だった。


 男の慧の少し待ってては長いが、春佳にとっての慧の少し待っては、全然少しではない。

 長く付き合ってきて、それくらいの事は予測できるようになった。


 それに、慧は29歳で、春佳は31歳だ。

 子どもを産むなら、入籍が早いに越したことはない。


 わかっては、いた。


 春佳を大切にしたい気持ちは、強かったから……。


 それでも、1歩踏み出すときに躊躇して、行動が遅くなってしまっていたことは事実で、慧は今でも、その理由がよく分かっていない。



 結婚は自分が望んでいたことのはずだった。



 ただ、大きく変化しようとしている環境を想像しては、不安になって避けたくなってしまっていた。


 財布を持って、サンダルを突っ掛ける。

 住み始めた時は真新しかった玄関の扉も、慧や春佳の付けた傷で、もう、新品とは言えない傷がいくつか付いていた。


 重い扉を押し開け、生温い風が慧を迎える。


 春佳とこのアパートで同棲を始めたのは4年前。新築のアパートが出来たので、喜んで引っ越した。


 でも、長年の付き合いは、お互いを大切に思う気持ちだけを残し、体の接触や本能的に求める気持ち、甘える気持ちを消去させていった。



 このアパートで、慧が春佳を抱いた回数は、拍子抜けするほど、少ない。



 それでもプロポーズしたのは、春佳以外の結婚相手は考えられなかったし、信頼も大切にしたい気持ちも、誰よりも強かったのは春佳だったから、間違いではなかった。


 けど今の慧にとって、春佳と自分の子どもが生まれ育ち、自分を父親にする未来が全くと言っていいほど、思い浮かばなかった。


 アパートの階段を駆け下りて、車のエンジンをつける。すぐ側のスーパーまでは5分とかからなかった。


 スーパーで春佳が好きなイクラが入った寿司パックを選び、同じものを自分用に購入する。


 マンネリ化、倦怠期とはまた違った。


 結婚一年目。

 来年、自分たちはそう呼ばれるようになるんだろう。

 ただ、付き合って10年目である事実は変わらず、性的な対象として見れなくなっている現状も変化しようがなかった。


 プラトニックラブ、という言葉が頭の中で浮かんで、嘲笑に似た笑みを浮かべた。


 寿司を購入して、車に乗り込んだ慧は通ってきた道を無心で運転した。


 この結婚の選択肢が、間違っていないことも、正解ではないことも、気づいていた。


 だからこそ、身動きが取れなかった。


 アパートに戻ると、既に春佳はシャワーを終えていて、濡れた髪を拭きながら慧の帰りを迎えてくれた。


 流れるようにグラスにビールを注ぎ、小さく乾杯する。


 喉をすぎていくアルコールの風味と、炭酸のシュワシュワとした感覚を楽しむ。

 そうしている間に注いだビールはあっという間になくなった。


 お腹が空いていたのか、春佳は寿司のパックを開けると、すぐにマグロを口に運んだ。

 春佳はあまりマグロが好きではなく、好物は最後にとっておく派だ。


「慧、嫌になってるでしょ?結婚の準備進めるの」


「へ?」


 拍子抜けしたような声が自分の口から漏れ出て、思わず口元を手で隠す。

 彼女の洞察力というか、人を観察して推察する能力は、完全に職業病で、彼女の前で隠し事はあまり意味をなさないことを再確認した。


「だからね、腹割って少し話したくてね。その気持ちも、話し合った上なら問題ないような気がするんだよね」


「……と言いますと?」


「お互いに、子どもを望まないなら、結婚を焦る必要もないのかなって」


 春佳は表情を変えずに続ける。


 考えても見なかった。

 だから、予想していなかった彼女の考え方に、少し狼狽える。

 当然のように、春佳は結婚も子どもも望むと思っていたし、自分たちの関係性のゴールはそう言ったものだと思っていた。


「結婚、年齢も年齢だし、焦ってると思ってたよ」


「だよね。焦ってるのは、私の親だけ」


「子ども、欲しくないの?」


 春佳は寿司を食べ進める箸を止めずに、慧の質問には少し答えずにいた。


 正直、結婚から逃げ腰でいることを春佳から責められると思っていた。

 プロポーズをしたのは自分なのに、その誠実さの欠けた自分の心境に嫌気すら覚えていた。


「ずっとさ、思ってたんだけどね」


「うん」


「慧は、どうしたいの?結婚って、片方の気持ちだけじゃなくて、二人の気持ちが一緒になって初めてできるものでしょ?」


 春佳が悩んでいた理由。


 慧は春佳がそうはっきり言葉にしてようやく、彼女の気持ちに気づいた。


 彼女が望むと思って、彼女のことを考えて。


 そう思ったからプロポーズをしたのであって、自分が彼女と一生を添い遂げたかったとか、彼女との子どもが欲しかったとか、そう言うのでは……ない。


 気づくと、慧が寿司一貫を食べて箸が止まっていたのに対し、彼女はもう、最後のいくらを口に運ぼうとしていた。


 そうして、一瞬目をやった慧の様子を見て、寿司のパックにそっといくらを戻した。


 春佳はぽんぽんと慧の頭に手を乗せる。


「そんなに落ち込んだ顔しないで、慧。責めたかったわけじゃないんだよ」


 失礼だ、とも思う。でも、これでどうにかなる関係性ではない、とも思う。

 出会った頃と同じように慧を慰める彼女の変わらない優しさに、少し懐かしさを覚える。


「俺、満足してるんだ。今の関係に」


「うん」


「だから、その……。自分からプロポーズしておいてだけど、結婚は、今じゃない気がしてる」


 箸を持ち直した彼女は、満を辞していくらを口に運んだ。

 少しだけ嬉しそうなのは、きっと好物のいくらを食べれたことが理由ではない。


「いいんじゃない、それで」


 モゴモゴといくらを咀嚼しきれてない彼女が、なんでもなさそうに話すので、慧は心が軽くなって行くのを感じた。


 二人とも、家族に結婚の報告はしてしまっている。


 それでも、彼女が良いと言ってくれたから、もう少しだけ、二人の時間を楽しもうという気持ちになれた。


「ありがとね、春佳」


 そう言うと、彼女は慧のほとんど手をつけていない寿司に箸を伸ばして、そっといくらを奪った。


「本日の授業料」


 ニヤリと笑う彼女の笑顔をずっと見ていたいと思う。でもそれは妻として、とは今は思えない。

 誰にも何も求められない今の関係は、とても気が楽で、彼女を苦しめないのなら、まだ続けていたかった。


 その日はリビングのソファで、ずっと見たかったホラー映画を二人で並んで見た。

 酔っていたのもあって、映画中に何度かキスをしたけど、案の定、彼女を抱くことはなかった。


 いつものように、二人揃って別々の寝室に向かっていく。


 その時慧は、笑顔を浮かべながらも、どこか泣き出しそうな表情を浮かべていた春佳に気付いていながら、何も声をかけてあげることができなかった。

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