第1話 て
生徒を特別視することはなかった。
教師として、何より一人の人として、成人に満たない、まして義務教育真っ只中の彼らを生徒以上に接することはあってはならないことだと思っていた。
それが、教師である徳永慧とくながけいの当たり前だった。
もちろん、慧も人並に女性の見た目に惹かれたし、柔らかな笑顔や直向きな優しさに胸を打たれた。
生徒たちが、学校で過ごす大半の時間を共に過ごすのだから、一般的にトキメキと呼ばれる場面にだって出会わないわけではない。
けれど、生徒を特別視することはなかった。
Yシャツのボタンをひとつずつ閉めて、カジュアルなスーツを身に纏う。
自宅から自家用車で市立の中学校まで向かい、その汗や土の匂いが混ざり合った独特な匂いを嗅ぐと、気持ちは完全に仕事モードに切り替わった。
仕事中に出会った相手に惹かれることはない。
それは、慧の性質なのか、野球で培った精神力なのかは、わからない。
公私は分けている方だったし、混同するとかえって気が滅入ってしまう。
だから。
どんなに美人で脚の長い、モデルのような女子生徒がいても、自分を慕ってくれる健気な同僚がいても、恋愛対象にはならない。
自信を持って明言する。
そういう、筋の通っているところくらいしか、慧には長所と呼べるところがないのだから。
「なに?ボーっとしちゃって。疲れてるの?」
夕食後、リビングのソファで呆然としていると、お風呂上がりで頬を赤らめた春佳が、慧に麦茶を持ってきて、隣に腰掛ける。
積み重なった氷が、カラカラと音を立てて揺れていた。
「いや、ちょっと……考えてたって言うか、昔を思い出してたって言うか」
「何それ……」
きっと、お風呂上がりで自分が飲みたかったから彼女は麦茶を用意したんだろう。
その時に何を聞くでもなく、とりあえず慧の分も注いでおこうと、些細な優しさを発揮してくれるところが、慧が彼女を恋人に……。
結婚相手に選んだ理由だ。
「畑中って、ほら、俺が初めて赴任した学校で可愛がってもらってた1個上の先輩いたろ?」
「ん?あー、いたね。サッカー部見てたっていう」
「そう。あの人がさ、結婚するんだよ」
そっかー、よかったね。と返事する春佳の声は慧の耳に届いても、心にまでは入ってこない。
いいもんか、全然。
「相手、当時担任持ってた時の生徒だよ。ヤバくない?普通に」
いいもんか、そんな結婚。
世間体を気にして、とか、倫理的にどうとかって、そんな話ではない。
いくら見た目や性格が良くて惹かれて言ったとはいえ、相手は法律的に事実子どもだ。
慧の仕事は……、教師というのは、教育を受けなければいけない子どもたちに、勉強を教え、少しでも未来の選択肢を広げてあげることだ。
「まあ、惹かれあって、結婚できる歳になった2人がその道を選択したんだから、別にいいじゃない」
「……そう、か?」
「あー、全然納得した顔してない!」
先輩教師の結婚の話を聞いてから、ずっと慧の眉間にはシワが寄ったままだ。
慕っている先輩だった。
年齢は1つしか変わらないのに、出会った時から揺るぎない、バカが付くほど真面目な教師だった。
尊敬してた。
「そういう慧の堅いところ、私は好きだけどさ。子どもが相手の職業なのに、融通が利かないのはきっと、いつか自分の首を絞めるぞ」
春佳が人差し指で慧の眉間を小突く。
「……いてっ」
「教師だってさ、いけないってわかってても、止められない時もあるんだよ」
隣に目をやると、ゆっくり麦茶を口に含む春佳が、まるで遠い過去を見つめるように、懐かしむ表情をしていた。
「さすがっすね、先輩。やっぱり言葉に重みがあります」
「なんだよー。珍しく落ちてる顔してたから、真面目に返してやったのに!」
春佳の肩パンが慧を襲う。
何気ないひと時を、笑いあった。
春佳との出会いは大学のサークルだった。
1年生と3年生。
教育学部の児童専攻と幼児専攻。
目指す職業こそ違えど、子どもの成長に携わる仕事であることに大差はなく、2人とも真面目だっただけに、子供について熱く語らい。
距離が縮まるまでに、長い時間はかからなかった。
春佳が大学を卒業するタイミングで交際を始め、今年で9年。
春佳は児童養護施設の職員に。慧は教師に。
互いに就職して、数年の忙しい時期を一緒に過ごし、中堅になって責任と仕事量が倍になる時期も、2人で声をかけあって乗り越えた。
落ち着いて結婚を考えるまでに時間はかかったが、彼女となら、失意のどん底に落ちても、這い上がってこれると思った。
だから、少し過敏になっていたのかもしれない。
自分と同じく結婚をするのに、全く違う出会い方をした先輩夫婦に。
「もう、どーでもいいやー。人様の恋愛事情なんて」
「そうだ!その意気だぞ!徳ちゃんセンセっ!真面目人間に必要なスキルをよく手に入れた!」
自分は生徒を恋愛対象にしない。
他の人は恋愛対象にするのかもしれない。
何より、自分には春佳という大切な人がいて、他の人には大切な人がいないのかもしれない。
自分のことじゃないのだから、深く考える必要なんて、なかったのだ。
慧は隣に座る春佳をそっと抱きしめ、触れるキスをした。
不要なことで悩んで、一日の疲れがどっと全身に重みを加える。
春佳に相談に乗ってくれたお礼を伝えて、自分の寝室に戻る。
交替勤務で働く春佳とは、休みが合った時以外は、別々に眠る。
安くて硬いベットに全身を預けると、あっという間に睡魔が慧を襲った。
×××
慧の自宅から、勤めている市立中学までは、距離にして数キロしか離れていない。
それでも慧が車で通勤しているのは、学校が見渡す限りの木々や草花で囲まれ、夏は猛暑、冬は厳冬に見舞われるからだ。
そもそも高低差の激しい田舎町で、数キロの距離を徒歩や自転車で移動する大人は少ない。
そんなことをするのは交通手段の選択肢が少ない、若者だけだ。
だから慧は今日も燃費のいい白の愛車で、さして燃費の善し悪しの関係がない移動距離を通勤していく。
朝目覚めると、既に恋人の姿はなく、早番で6時に出勤して行ったことが分かる。
「なのに俺より後に寝るとか、マジつえーよな」
愛車のエンジンを切り、職員玄関に足を踏み入れる。
生徒がまだ登校していない学校は、自分が通った記憶にあるそれの印象とは異なり、厳かな雰囲気が自然と慧の心を穏やかにさせた。
「おはようございます、徳永先生」
「おはようございます」
職員室に入ると、先に出勤していた数人の教員が慧に挨拶をしてくる。
いつもと変わらぬ光景。いつもと変わらぬ朝。
自分のデスクに座って、ふと昨日、春佳に相談した話を思い出す。
あれほど、先輩の結婚に引っかかった理由。
それは、なんでもない。
先輩が結婚したのは当時、学校で人気のマドンナ的生徒で、慧が請け負っていた野球部でマネージャーをしていた生徒だった。
相澤結子。
確か、そんな名前だった。
美人で話上手、オマケに気が利くといって、友達も多かったし、彼女に好意を持つ男子生徒は後を絶たなかった。
そんな状況でも、彼女は中学三年間、ずっと彼氏が居なかったし、かといって、恋愛に興味がないような素振りもみせていなかった。
友人の間で恋愛の話になると、決まって悲しそうな、切なそうな表情を見せるのだった。
まるで、大人の女性が叶わない恋をしているかのような。
そんな彼女を、新任の慧は、大人びた生徒も居るもんだ程度にしか見ていなかったし、なんなら、彼女も自分の顧問する部活の1人の生徒なのだから、心配ではあった。
それが、まさか。
自分の尊敬していた先輩に恋をしてただなんて……。
「ひとは見かけによらない、か……」
小さく独り言を呟くと、朝礼の予鈴が響く。
考え事をしていた顔を上げると、職員室はいつの間にか出勤していた教員たちが勢ぞろいしていて、各々が受け持っているクラスに出向こうと準備をしていた。
慧も呆然としてしまう思考に喝を入れて、気持ちを切り替えた。
慧は国語教師として、教壇に立っている。
不運にも月曜日の今日は、国語の授業がほぼ休みなく入っている日だ。
考え事なんてしてる暇ないな。
そう自分に言い聞かせて、慧は3学年の2組に向かった。
「あぁー、徳ちゃんきたよーみんな」
慧は自分を親しみやすい人間だと思ったことが、29年間生きてきて1度もなかった。
曲がったことが嫌いで、よく言えば真面目。
悪く言えば、若いのに融通の利かない頑固者だ。
教師になってから、苦労することは分かっていたが、その時は学年に一人はいる厳しい教師でも目指してやろうと思っていた。
それが、どうしてこうなったのか。
前に赴任していた学校も、2つ目の勤務先であるこの中学校も、生徒や年齢の近い教員は慧のことを徳ちゃんや、徳ちゃん先生と呼ぶ。
苗字の徳永からとって、徳ちゃんだ。
野球部の顧問だと言うのに、加えて30手前のいい歳の男だと言うのに、情けない。
そのあだ名のせいか、生徒たちは慧を怖がらなかったし、真面目な進路相談よりも部活や日々の生活の愚痴を吐かれるのが、慧の毎日だった。
「徳ちゃん、月曜日なのに、なんか疲れてないー?」
「振られたんだ、彼女に。はい乙ー」
もはや煽る声掛けにも何も反応しなくなった。
学年に2クラスしかない、小さな学校。
各クラスも30人前後しかいない。
田舎町の小さな学校なんて、今やどこの地域も似たり寄ったりな現状を抱えている。
だからこそ、嫌われるより、親しまれている方が、よっぽど過ごしやすいだろう。
慧は生徒の舐めた態度も和気あいあいとしたクラスの雰囲気も嫌いではなかった。かといって、思うところがないほど、振り切れてもいなかった。
「よし、軽口はいいから出席とるぞ」
いつもと同じくだり。
からかってくる生徒もほぼ同じ。
それがよかった。
こんな小さな町で、変化なんてものは。
ただ……面倒なだけだ。
怒涛の授業続きに慌てている間に、気づけば放課後になっていた。
この学校は月曜と木曜は部活動のない日になっている。
ホームルームを終えて、一息ついてから生徒たちを見送ろうと廊下に出た時には、校舎は静寂を取り戻していて、もう生徒が残っていないことが分かる。
見送るはずだったが、いないのならいないで、戸締りや残留している生徒がいないか、確認をして回ることにする。
慧は50メートルほど続く誰もいない廊下を、行き止まりを示す壁とにらめっこをしながら進んで行った。
数回の現代文の授業を繰り返して、小説に出てくる主人公や周りの登場人物の気持ちを考察して、昨日の悩みの要因がわかった。
慧は自分を不甲斐なく思って、そして、彼女の……相澤結子との距離は先輩教師よりも確実に自分の方が近かったのに、彼女が頼る相手に選んだのが、自分じゃなかったことに嫉妬をしたのだ。
それは恋愛ではない。
彼女とどうにかなりたかったとか、そんな短絡的で安易な発想ではない。
教師として1年目の不出来な慧よりも、たったひとつしか歳の変わらない、人の出来上がった先輩の方が頼りがいがあって、信頼できて、悲しみを打ち明けられたと言うだけの話だ。
慧はその事実にたどり着くまでに時間がかかった。
だから、スッキリと目覚めたはずなのに、昨夜の悩みを学校に来てまで思い出してしまったんだ。
まだまだ、切り替えが下手くそだな。
そして、自分はあの頃のまま、生徒の頼りになんてされぬまま何となく、それから6年間も教師を続けてしまっている。
見つめあっていた向かいの壁から視線を下に移して、何気なく、拳で自分の太ももを数回殴った。
悔しくて、ではない。
そうして何度か軽く殴ると、上がっていた心拍数は落ち着き始め、下がっていた気分も、それ以上落ち込むことはなかった。
ふと、気配なのか、物音がしたのか、視線を上にあげると、いつの間にか廊下の突き当たりにある自分のクラスにたどり着いていた。
教室の中には、明らかに1人分の人影がある。
引き戸をゆっくりと開けて教室の様子を確認すると、窓際の1番後ろから2番目の席に、一人の女子生徒が腰をかけていた。
「兵藤、なにやってんだ。おまえ」
姿勢正しく、行儀良く。
自分の席でピンと背筋を伸ばして読書をしていた彼女が、慧の声に驚いたように顔を上げた。
わっと小さくため息のような声が聞こえた。
その高くか細い彼女の言葉が、自分の知っている兵藤凪ひょうどうなぎという女子生徒の印象と一致せず、慧は一瞬の混乱を覚える。
「急にびっくりするよ、徳ちゃん」
「急っていったっておまえ、音出してドア開けただろ」
多分、彼女がドアの開閉音に気づかなかったのは、日頃の習慣のせいだろう。
周りの生徒や教員がどう動いても目を向けないように。
9割方、自分には関係ないのだから、反応しないように。
そうしているうちに、そして読書に集中しているうちに、兵藤は環境音に反応することが少なくなった。
のだと慧は思っている。
「完全下校時間だぞ。もう16時だから」
「まだあと10分あります」
「他に生徒もいないんだから、お前も帰れってことだ」
彼女は観念したのか、読んでた本のページに栞を挟んだ。
兵藤凪は俗に言う、クラスで浮いた生徒だ。
その整った容姿とバランスのとれた細長い体躯が同級生の子どもには大人っぽく見えるようで、女子は妬みから男子は恐れ多さから、彼女と距離を置いている。
浮いている理由がそれだけでないことを慧は知っていたけど、仮に自分が同級生だったと仮定したら、自分も例に漏れず彼女を避けていただろう。
そのくらい、彼女の美しさと異質さは際立ったものだった。
「徳ちゃん、国語教師でしょ?おすすめの本貸してよ」
「……生徒と物の貸し借りはしない主義なんだ」
「なんだよ、ケチ。本読む知り合いなんていないから、オススメ教えてもらおうと思ったのに」
クラスで活動している時、彼女はほとんど発言しない。声を発さない。
だから、こんなにもフレンドリーに話しかけてくる様子に、慧は少し面食らっていた。
机の脇に掛けられた学校指定のスクールバックに、兵藤は本をしまう。
ふとその様子を見つめていると、彼女がしまった本のタイトルに心を奪われた。
「おまえそれ、中学生が読む本じゃないだろ」
慧の口角は無意識に釣り上げられた。
彼女が仕舞おうと手に持っていたのは警察の内部事情や世の中の闇について書くことの多い小説家の本だ。
決して、青春を謳歌する年齢の子どもが読む本ではない。
「だって、施設にある本で、読んでないのこんな感じだから」
真夏だと言うのに、長袖の白いセーラー服を纏う彼女が、日本の闇を読み解いているなんて。
慧はそのチグハグな感じに、口角をあげる程度で抑えていた笑いが止まらなくなる。
あまりにも慧が声を上げて笑うので、無反応だった彼女の顔は次第に赤くなっていった。
「そんなに笑わないでよ、図書館は本が多すぎて何読んだらいいのかわかんないんだよ」
「にしたって、お前のキャラでその本は難しすぎだろ」
笑いすぎて目に涙が溜まってきた。
「おもしろいよ?単語の意味がわからない時もあるけど……」
それは収穫の早かった果物が極上に甘かった時のような、早咲きの桜を見かけて、想像以上に感動した時のような、思いがけない早熟の感動に似ていた。
「なあ、兵藤。俺はさ、お前に世の中の闇なんて知って欲しくないよ」
笑った状態のまま、慧は彼女の方に向き直る。
そして、呟くように、それでいて気持ちを込めて、続ける。
「中学3年の女の子にしては、兵藤は色んな経験をしすぎてるよ。俺はその経験の一部しか知らないし、知っていても、その時の悲しみも痛みも、俺には想像してあげることしか出来ない」
「何、急に。引くんだけど」
「だからさ、せめて。小説くらい、もっと楽しいの読みなよ。恋愛とかヒューマンドラマとかそういう心あったまるやつ」
自分でも驚くほど饒舌に言葉を並べる。
考えることなく、感じた思いのままに紡がれた言葉たちが、容赦なく、兵藤の元へと運ばれていく。
「生徒と貸し借りしない主義、一部条例の緩和を発表する」
「……徳ちゃん、マイペースすぎ」
「いいだろ、そのくらいふざけても」
教師になって短くない年数が経った。
だから、わかるようになった。
この呆れた表情。冷めたように見つめる目。
でも、心做しか綻んだ口元に、先程よりも少しだけ潤みを増した眼球に、気づかない教師ではもうなかった。
「部活のない、月曜と木曜だけだけど。今日みたいにここで待っててくれれば、おすすめの本持ってくるよ」
スクールバックに本を戻して、動きが止まっていた彼女が、不意をつかれたように再度慧に視線を向ける。
そしてその表情は驚きから、優しい笑顔へと変わっていく。
「ほんとに?」
「あぁ。生徒に嘘つかないように指導してる教師が嘘ついたりしないよ」
「約束だからね」
兵藤は飛び跳ねるように席から立ち上がり、勢いのままスクールバックを肩にかける。
学校の指定より圧倒的に短いスカート。
それが腹部で何度も折り曲げられていることも、彼女が下校途中にその折り目を元通りにすることも知っている。
何もそれは、彼女が慧にとって特別だからではない。
彼女はこの学校の特・別・だから。
特別な支援が必要で、注意してみまもるべき存在。
慧はそれを認識していたし、この約束が幾ばくの危険を孕んでいることも理解していた。
でも、目の前で屈託のない笑顔を浮かべている彼女に、本を貸すくらいの優しさあったっていいだろう。
「寄り道はしないで帰れよ。施設の人、心配するだろ」
「……過保護なくらいね」
「仕方ないだろ。それが仕事なんだよ」
「そうね」と伏し目がちに返事をする。
やや呆れた様子が入り交じっていることも分かったが、慧はそこには触れず、昇降口に向かおうと教室を出ていく彼女をその場で見送った。
不必要な肩入れは、身を滅ぼす。
彼女がいたから消さないでいたであろう、教室のエアコンの電源をオフにする。
窓が薄いせいか、あっという間に教室は外気を取り入れて、もしくは夕方だと言うのにまだ顔を出している太陽のせいで、生暖かくなってしまった。
乱れた机や椅子を、何も考えずに整えていく。
黒板の上には、春にクラス全員で決めた学級目標が掲げてある。
『一人じゃない』
中学3年の1年と言えば、全てが義務教育最後のイベントであり、それでいて、常に受験という恐怖と隣り合わせになっている。
だから、子どもたちからこの目標の話が出た時、他の意見がでることはなく、また、この目標を否定する生徒もいなかった。
そして、慧は思いをめぐらせた。
教室の後ろ。
常に一人で3年間生活してきた兵藤は、どんな気持ちでその様子を眺めていたのか。
既に1人なのに、この1年どうすれば良いのか。
仲の良い身内だけの馴れ合いなど……。
「クソ喰らえだ……」
社会を知れば知るほど、教師になって年数を重ねれば重ねるほど、世の中には自分の知らない苦労と闇を抱えた人が溢れていることを思い知った。
兵藤凪もその一人だった。
彼女が慧の受け持つこのクラスで浮いているのは、その大人びた雰囲気や見た目だけが理由ではない。
無邪気で、自分の未来は明るいと信じてやまないような若い活気に入り交じる、不穏な影。
進学先を決めるために将来へ思いめぐらす同級生の中で、ただ1人未来に夢も希望も抱きたがらず、努力する理由を見いだせない生徒。
それが彼女だった。
慧が担任を持って3ヶ月。彼女については、仲を深めることもないまま。親身になって話を聞くこともないまま。
だから慧は偶然できた、彼女と定期的に話をする機会を無駄にしたくなかった。
自分が彼女を変えたいなんて、大それたことは言わない。
ただ、クラスの生徒たちの進路相談に乗り、親身になって悩みを聞き、みんなにやっていることが彼女にはできていない。
これは、特別な彼女の特性に合わせた支援の一貫。
若干、教師がやるべきことではないと、自分が逸脱した行動をしている自覚はあった。
ただ、慧には自信があった。
少し女子生徒に肩入れしても、自分は絶対に恋愛感情を抱いたりしないと。
「あぁ……徳永先生いたいた。先生宛に電話ですよ、先生んとこのクラスの子がいる施設から」
噂をすれば、なんとやら、というやつだ。
「はい、すみません。すぐ行きます」
気づけば教室は夕焼け色に包まれていた。
小高い山の上にある学校の教室から見えるのは、田舎町の穏やかな風景。
ビルもなければ、激しい車の往来もない。
常に穏やかな風の流れる町。
その綺麗な町並みを背にして、慧は教室を後にする。
先程まで明るかった廊下は既に薄暗くなっており、明かりがなくては足元がよく見えないような程に暗がりが迫ってきていた。
電話を待たせてると思うと、進める足も早くなる。
どうせ要件は分かっている。
兵藤凪が帰ってきていないが、学校にいないか、という問い合わせだ。
今日は偶然にも慧と過ごし、帰るのが遅くなった兵藤だが、彼女の帰りが遅いのは、何も今日に限ったことではない。
しょっちゅう彼女は放課後どこかに出かけ、自分が暮らす児童養護施設の職員に心配をされている。
生徒間の噂で、その行先も凡そ判明しているが、噂は所詮噂の域を出ず、確証が持てない情報を変に施設に伝える訳にはいかなかった。
兵藤は小学4年の時にこの地域にある児童養護施設に入所した。と聞いている。
10歳だと言うのに、当時はほとんど話をせず、一時は発達の遅れを心配されていたが、知能指数は標準域で、この田舎町での生活に慣れていくと、徐々に話すようになったと、元担任から情報提供があった。
シングルマザーの母親からの身体的虐待。
ひっきりなしに出来る母親の恋人からの性的虐待の疑い。
母親はアルコール依存症でもあって、子どもたちの生活のためなのか、自分のためなのか、水商売で生計を立てていて、夜は常に自宅にいなかったという。
そして、兵藤が10歳の頃に母親が付き合っていた恋人は、感情のままに暴力を振るう人物だった。住んでいた隣の県に逃げてきた母親と彼女を含む2人姉妹を保護。
重篤なケースとして、児童相談所が対応し、晴れて県の1番最北端のこの田舎町まで飛ばされてきたという最悪な経緯だ。
この情報を聞いた時、慧は教師人生の中で最大の難関が立ちはだかったと感じたし、この3ヶ月間、彼女との関わりを心のどこかで極力避けてきたのは事実だ。
それに、彼女の母親は今年の春に急性アルコール中毒で他界したのだ。
もはや、29歳の若造に手に負える子どもじゃないと思ったのが4月。
なんとなく距離を置いて、当たり障りのないことを話した5月。
彼女抜きで、クラスの団結力が高まっていくことに憤りを感じた6月。
話してみたら、想像以上にフレンドリーだった7月。それが今日だった。
大概慧も、教師として、一人の人間としてクズだ。
教師とは何か、と日々考えながら、自分の苦手意識から目を背けて生活してきた。
それが、今日をきっかけに動き出そうと決意した。彼女を少しでも支えたいと行動に移した。
そんなことを考えている間に、進む廊下は短くなり、遠く感じた職員室もいつの間にか目の前にあった。
慧は小走りで電話に駆け寄り、外線1のボタンをゆっくりと押した。
「はい、おまたせしました。担任の徳永です」
「いつもお世話になっております……」と形式的な挨拶が行われる。
慧は簡潔に、教室で兵藤の進路相談に乗っていて、彼女の帰宅時間が遅くなったことを話す。
そして、今後も月曜と木曜の部活がない日は、教室で彼女の進路相談に乗ろうと思っていることを伝えた。
初めは怪訝そうな返事をしていた電話口の施設職員も、一度保留にして数分経つと、個別相談に乗ってくれる感謝の気持ちが伝えられた。
進路相談などという、都合のいい言い訳が目の前にあって、簡単に嘘をついてしまったことにほんの少し罪悪感は覚えたが、嬉しそうに立ち去っていく彼女の笑顔を思い出しているうちに電話は切れていた。
「兵藤の進路相談なんて、思い切りましたね、徳永先生も」
いつの間にか隣の席にはこの学校で1番年配の教師が腰掛けており、慧の様子を眺めていた。
「実は自分、彼女に苦手意識があったんです」
「……まあ、そうですね。若手の先生なら誰だって嫌がる生徒でしょう」
苦笑いを浮かべながら相槌を打つ。
「でも、ふと逃げてばかりじゃなく、せっかくだから向き合ってみたいなと……思ったんですが。考えが甘いです、かね?」
隣の席の教師は顎に手をやると、白髪の交じった自分の髭をジョリジョリと何度か指でなぞった。
「いいんじゃないですか。生徒も、教師も。相手の顔色伺ってるだけじゃ、成長できませんから」
痛いところを突かれ、自分の不甲斐なさが露見する。
生徒や職場の同僚を特別視することが絶対にないと明言できる慧。でもその反対は、無関心だ。
教師ほど、生徒に無関心であってはいけないのに。
「まあ程々に。深入りしすぎず、彼女が少しでも将来に前向きになれるようにフォローして行ったらいいんじゃないですか」
隣の席の教師は、その顔に貼り付けたような笑みを浮かべる。
彼もきっと、長い間、この笑顔で無理難題を乗り越えてきたのだろう。
彼女との実際の約束が進路相談ではないことを忘れ、慧は避けていた生徒と繋がりも持ち始めた自分が今後どうすべきか、考えることで頭がいっぱいになった。
そして、頭に浮かぶ。
最初はどんな本を貸そうか。
抱え始めた難題は決して容易いものではないはずなのに、慧の心の中は不思議と、10代の頃友人と本の貸し借りをした懐かしい感覚を思い出し始めていた。
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