Gibberish

うぇる

プロローグ

 

「なんで?」


 知らない街の知らない人の雑踏をかき分けるように歩みを進める。




 先生。


 先生……。




 たった今、東京方面から入ってきた電車で、きっと彼はこの駅に戻ってきているはずだった。


 なのに、この街は……。

 私がこれからの人生を過ごしていくと決めたこの都会の街は、人が多すぎて、彼を探し出すことができない。


 進んでも進んでも、見えるのは知らない人の知りたくもない顔ばかりで、違う、違うと我を忘れたように、口の中で繰り返していた。



 朝のホーム。


 澄み渡る冬の空気。


 まだ始まったばかりの一日が進んでいくことに、これほど虚しいと感じたことはなかった。


 通り過ぎていく人々は、何に心を動かされるでもなく、無心で目的地を目指している。自分だけがこの場所に取り残されている感覚が怖くてたまらなかった。



「なんでよ」



 先生はきっと、私を置いていった。

 私が苦しむことも、この街に疎外感を覚えることもわかってて、このホームに私を置き去りにした。


 彼の優しさに、心を打たれた。誰もが、近づきたくない存在である私を、他と同じように、いや、他の生徒以上に大切にしてくれた。

 そんな彼だから……。



 やめようかな。




 私は、長い間悩んで出した自分の決意を、今にも壊してしまいそうになる。


 そうだ。


 この街で暮らすことをやめれば、またあの田舎町に戻って、彼の授業を受けて、僻みにも似た、悪い噂をされても、彼がいるあの場所でなら、頑張って行けるような気がした。


 けれど、頭の中ではそう思えても、目からは涙が止まらなかったし、自分の心までもは誤魔化せなかった。長い苦しみの中、導き出した答えをねじ曲げられるほど、今の私は強くなかった。



 全て、たらればの話だ。



 あの町に残れたら、彼のそばにいられれば、彼の恋人になれたら……。


 そんなことはありえない。そんな日は永遠にやってこない。




 わかっていた。




 だから私は、この街で暮らすことを選んで、最後に彼に背中を押して欲しかった。


 そして彼は、少し無理矢理なくらい、私を勇気づけてくれたし、この街に忘れられないくらい、素敵な思い出を残してくれた。



 彼を見つけ出すために急ぎ足で進めていた足が、少しずつその勢いを失っていく。



 追いかけてどうなるって言うんだ。



 私の前から、綺麗に消えようとした彼を見つけ出して、何を言って欲しいんだ。



 そう。



 聞き分けがいい子どもでいるのをやめたかっただけ。

 悲しい気持ちも寂しい気持ちも割り切って、前向きに歩いて行けるような大人になるのを少し拒んだだけ。


 彼をまだ、好きでいたかっただけ。


 勢いをなくした歩みを止めて、私はその場で蹲った。




 全部、終わったんだ……。




 さっきまで、必死に誰かを探す私に目もくれなかった人たちの視線が、今は私に向けられていることが痛いほど分かる。


 膝を抱えて、嗚咽も堪えずに、わんわんと泣いた。


 ローファーに涙がぽたぽたと音を出して落ちていく。


 私の半径数メートルを、大勢の人たちの靴が避けて行く。




 彼の笑顔が頭の中で走馬灯のように再生される。


 最後の彼の泣き笑いが脳裏に焼き付いて離れてくれない。


 抱きしめてくれた時の、腕の力も、彼の洋服の香りも、すぐには消えてくれそうにない。




 声も、仕草も、私を思って痛いくらいに悩む姿も、全部、全部、全部……。




 私のものにできれば、よかったのに……。




 私は、溢れる涙も、カッコ悪い嗚咽も、気にせずに立ち上がって、改札を目指した。



 彼にたくさんの本を借りて、たくさんの人々の生き様や心の動きを見つめてきて、私は知っていた。


 手に入らないから、美しいんだ。


 手に入らなかったから、こんなにも、胸が打たれるんだ。



 だから私は、今は、少しでも早く、このホームから、この思い出から離れなければいけない。 



 少し長い階段を慎重に降りて、初めてこの駅を使った日のことを思い出した。

 その時隣にいたのは母で、左側には姉がいた。3人とも、笑顔だった。



 母に満たしてもらえなかった愛情を、彼に求めていた。

 私に向けてくれた愛情を逃したくなかった。


 執着していた。


 だから、私は今、彼の温もりから巣立つ。


 母が満たしてくれなかった愛情をくれた彼が、それを望んだから。

 私に幸せになって欲しいと、泣いてくれたから。


 なけなしの小遣いで買った切符をポケットから取り出して、黒い改札機にそれを滑り込ませる。

 私の侵入を阻止しようとしていたこの街のゲートが、手を広げて、私を歓迎した。



 小さい頃に過ごした、嫌な記憶がめいいっぱい詰まった街は、涙で潤んでいたせいか、前に来た時より幾分マシに思えた。



 コートの袖で、溢れ出る涙を拭いた。


 きっと彼だったら、汚ねーぞと言って笑っただろう。


 その様子が目に浮かんで、不安だった気持ちが少しだけ軽くなった。




「うん。大丈夫」




 涙は止まらなかった。

 マシになっただけで、この街はやっぱり嫌いだった。


 それでも、私はここで生きていく。

 彼と離れても、一人になったとしても、ここで大人になる。


 歩きながら両腕を空に伸ばして、口から溢れるままに声を出した。



「ぬんあぁーーー」



 早朝だと言うのに、車や大勢の話し声、信号の音に溢れた街で私の声に振り向く人はいない。



 進もう。


 進もう。


 進もう……。


 大丈夫。私にはもう。


 愛が何かが、わかっているから。

 生きる理由がわかっているから。

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