驕る天上人は、やがて身体臭穢となりて朽ちるなり

あの衝撃映像を目の当たりにした日から、幾分か経った日のこと。

季節はすっかり秋めいて、うだるような真夏日が嘘のように肌寒い気温が続くのにも、慣れた頃。

久しぶりに顔を合わせた神崎と三人は、大学近くの喫茶店で顔を付き合わせたまま、暫く無言で過ごしていた。

人数分の注文が届き、飲み物がすっかり冷めきったあと、ようやく口火を切った夏野が、秋澤の捜索が打ち切られた、と沈痛な面持ちでそう告げると、春宮がヒステリックに噛みついた。

「何で!? 明らかに殺人事件じゃない!」

春宮の目の下には、メイクでも隠せないほどの色黒い隈に縁取られていた。恐怖に頬がひきつり、パニックを起こしかけた彼女の唇はがさがさにひび割れている。

一方、噛みつかれた夏野も憔悴しており、春宮のキンキンと高く響く声に顔をしかめていた。冬木も似たり寄ったりである。神崎はどんどん空気が悪くなっていく三人を端から眺めながら、「夏野先輩。何で打ち切られたんすか」と話を戻してやった。

夏野は虚ろな瞳を神崎へ向けると、「警察に何度も訴えたよ。毎日通った。でも……」と口数少なげに語ったのち、口をつぐんだ。

夏野たちはあの後、直ぐに警察に連絡をした。秋澤の両親にもこの事件を伝えた筈である。それなのに夏野の奥歯に物が挟まったような話し方を見るに、何かがーー夏野の予想だにしなかった出来事が起こったことは明白であった。

夏野は何度か迷うように唇を開閉させたのち、ぐっと顎を引くと、今にも消え入りそうな声のままもごもごと呟いた。

「警察は、あれを殺人だとは思ってない。あの動画が……」

『あの動画』と聞いた神崎は、ここでピンときた。秋澤を拷問したあとに生きたまま解体して、そのあと遺体を損壊した、あの忌まわしい動画。夏野たちはそれを証拠として提出しようとしたのだ。

しかし、夏野はそれから顔を真っ青にさせたまま黙りこんでしまったので、仕方なく冬木がその後を継いだ。

「あれから一度も再生出来ないものね。加えて、ご両親は秋澤が生きていると盲信してる。それはそうよね、一応可愛い一人息子が拷問されたあと、生きたまま解体されて死んだなんて、到底信じられる筈ないわ。まあ、世間体もあるのかしら。どれにしたって、薄情だけれど」

「冬木さん! そんな言い方ってないじゃない!」

友人一人が凄惨な最期を遂げたというのに、冬木の言い方は淡々と冷たく、何の思いやりもないものである。たしかに秋澤は人としては足りない部分が多く、更には富裕層の生まれであることをひけらかしていたので反感を買うことが多かった。しかし、幼馴染みにも近しい関係の冬木からもすげない態度を死んだ後もとられる秋澤に、神崎は何とも言えない気持ちを抱いた。

一方、めそめそ泣いていた春宮は冬木の心ない言葉に目を三角につり上げると、再び口角を飛ばして噛みついた。しかし、冬木はそれを小型犬の癇癪のごときとばかりに鼻で笑うと、ぴしゃりと反論すら許さぬ鋭さで春宮の言葉を切って捨てた。

「私は夏野から聞いた話と、自分の目で確かめた事実を、そのまま噛み砕いて説明しただけよ。それにあんただって知ってるでしょ? 秋澤の御両親、本当はあいつのことが手に余ってたって。正直、私たちでさえ閉口することはあったじゃない。あいつは、人前では言えないような悪辣で下劣なことを、平気で自慢げに話す奴よ。春宮、あんた、忘れたの? まあ、あんたも秋澤に負けず劣らずだものね。ふふふ、秋澤の御両親、尻拭いなんて、それこそ片手で足りないんじゃないの? 社会に出る前に死んで、せいせいしたんじゃないかしら?」

春宮は冬木のあまりの言い種に絶句した。夏野は不愉快そうに、冬木を睨み付けている。

しかし、当の本人はというと、すらりと伸びた白い脚を組みながら、すました顔をしている。

そして、頬杖をついた冬木は続けて、

「とにかく、私たちがあの日見た動画を警察に提出出来ない限り、秋澤は行方不明扱いってことね」

と言った。神崎はそこで、夏野が怒りと悔しさで青ざめた顔色のまま話した、秋澤の捜索の顛末を思い出す。

夏野たちの生家が有名な資産家であり、各業界に名を馳せており著名な知り合いが多いということは述べた通りである。彼らはその太いパイプーーそれらは全て、彼らの両親のものではあるがーーを使って、幅広く秋澤の捜索ならびに彼を拷問した謎の集団の正体を確かめた。夏野たちは、『まじないマリオネット』が呪いの動画である等、欠片も信じていない。少なくとも、夏野と冬木はそう考えていた。そして、夏野と春宮、そして渋々だったものの冬木は、実家を使って残虐非道な犯人たちを捜そうと躍起になったのである。

しかし、結果は惨敗であった。最初は夏野たちの力になると豪語した連中は揃いも揃って手を引いた。何か掴んだのか、何でも良いから教えてほしいと懇願した夏野たちを簡単に切って捨てた。彼らは皆一様に黙りこみ、恐怖に似た何かに顔をひきつらせて、丁寧に前払いとして頂いた報酬を返した。「アレは……駄目です。関わっちゃいけない。お友達は非常に残念ですが、忘れた方がよろしいでしょう」一見冷たくも見える彼らの豹変ぶりに夏野は困惑し、春宮はめらめらと怒りを滾らせていたが、神崎は彼らが浮かべたその表情が、どうしても目に焼き付いて離れなかった。

あれは何か……、人智を越えた畏怖を目の当たりにした眼であった。

彼らは何を知ってしまったのだろう。しかしどう問いただしても、彼らはとうとう口を割ることはなかった。

警察も似たり寄ったりであったが、彼らはどちらかというと、秋澤の失踪と拷問に関して懐疑的であった。

そもそもの証拠映像が再生不可、秋澤は素行不良が祟って警察から白い目を向けられていることも相まって、夏野たちの訴えは狂言として処理された。大方、家出でもしたのではなかろうか、と年若い警察官に言われた夏野は抗議したものの、では秋澤の拷問現場に思い当たる節があるかどうか尋ねられると、言葉に詰まる。あの動画では、徹底的に特定出来るような証拠は残されていない。

加えて奇妙なことは、秋澤の両親を含めた彼らの家であった。警察が動かないのならば、と彼らは自身の両親に泣きついたのだが、その対応は冷淡であったという。否、冷淡というよりは、かかわり合いになることを恐れているようであった。冬木は先ほど、秋澤の両親はどのような思惑があれど頑なに息子の生存を信じていると述べていたが、神崎は夏野から受けた説明で感じ取ったのは、彼らは息子の生存を信じているのではなく、何かに関わって死んだことを信じたくないようである、ということだった。少なくとも夏野たちの家は、秋澤の拷問死に関して情報を掴んでいるのかもしれないが、それを子どもに教えるつもりは毛頭ないようであった。

夏野たちの家の反応と、調査を依頼した人々の反応は似ている。どちらも何か知っていて、それをひどく恐れているようだった。その何かとは……果たして何であるのか、夏野たちにはよくわかっていないようであったが。

「秋澤を殺した犯人は、老人なのかしら」

冬木が顎に指をかけて、そう呟いた。言葉尻は疑問を呈していたものの、その後すぐに「白髪だったし」と付け加えたところから、誰かの返答を待っているというよりは、己の考えを整理するために敢えて口に出したように神崎は思った。

「いや、意外と若いですよ。手の甲に皺ひとつなかったですもん」

神崎が冬木に向かってそう告げると、彼女は一瞬片眉をつりあげて、それから呆れたような口調で「よく見てるわねえ」と言った。

「わはは」

神崎は声をあげて笑う。夏野と春宮はぽかんと呆けているので、恐らく神崎が提示した情報どころか、冬木の疑問も思い当たらなかったのだろう。

しかし、若かろうが老いさばらえていようが、その点は別段重要ではなかった。問題は、あの白髪の男……体格から考えるに、男であろうと結論付けられた彼が、一度秋澤に殺された上で、蘇生して襲い掛かってきたことである。

「ちょっと思ったんだけど」

さて、冬木は何と結論を下すのか、と神崎はわくわくしている一方で、彼女は神妙な顔つきで色の薄い唇を開いた。

「秋澤の殺され方……。あの動画に似ているものがあった気がするの」

夏野がはっと息をのみ、瞬時に表情を強張らせた。秋澤の死に憔悴しきっていた顔から、更に血の気が引いていく。

しかし、春宮の方はというと、冬木の話をよく理解出来ていないのか首をかしげている。彼女はあまり察しが良くなくて、頭の回転も鈍い。その点でも冬木とは合わぬのだろう、と神崎はこっそり思っている。

「あの動画?」

案の定、春宮は不思議そうな表情を浮かべている。冬木は春宮を冷たく一瞥したのち、あからさまにため息を落とした。

そして、むくれる春宮を他所にトントン、と自身のスマートフォンを軽く叩くと、簡潔に述べる。

「秋澤が最初に持ってきた動画よ」

夏野は蒼白い顔のまま沈黙を貫き、春宮は眉をひそめて「そうだっけ……?」と呟いている。

神崎もまた、あの不気味な動画について思い起こしていた。強烈で醜悪な映像の継ぎ接ぎ、不快な音声、意味の理解出来ぬ文字列の数々……。

冬木は手近にあったメモを手繰り寄せると、さらさらとそこに書き出し始めた。神崎がその手元を覗くと、彼女はどうやら記憶を頼りに、動画にあった内容をあげ連ねているようだった。

冬木が主に書き出した部分は、以下の通りである。


・首吊り死体

・丁寧に並べられた切断された人形らしきもの

・水槽の中をふわふわ浮く魚に挟まれる、浴槽に何度も頭を突っ込まれる女

・何かを泣きながら食べる吐瀉物まみれの人


よくもまあ鮮明に覚えているものだ、と感心する神崎がじっくりとそれを眺めていると、冬木はすっと人差し指をある一点に定めて、指し示した。

「ほら、これ。バラバラにされた人形のシーン」

ほう、と神崎は感嘆の吐息を漏らした。なるほど、確かに秋澤はバラバラに解体されている。

「たまたまじゃないの?」

「そうかもしれないわね」

春宮は懐疑的であった。冬木もそれは否定しない。

「でも、あの動画を視聴してから、秋澤は行方不明になって、殺された。貴方たち、あの動画が噂で何て呼ばれてたか忘れたの?」

「呪いの動画」

間髪を容れず神崎がそう言うと、冬木は満足そうに頷いた。

すると、ぴったりと口を閉ざして何か考えていた夏野が、ここでようやく嘴を挟んだ。

「冬木、まさかそんな眉唾物を信じてるの?」

「それこそまさか、よ。馬鹿にしないでくれる?」

ふん、と鼻を鳴らした冬木は肩を軽くすくめると、

「呪いなんてあるわけないでしょ。例えあったとして、何で私たちが呪われるわけ?」

と宣った。その言葉を聞いた春宮が、暗闇のなか一筋の光明を見つけたような表情を浮かべたが、夏野は相変わらず浮かない顔のままである。

「見た人全員を呪う動画かもしれないじゃないか」

夏野はそう反論した。神崎は首をかしげる。まさか、彼は理解不能な友人の死に患って、とうとう、呪いを信じてしまったのだろうか……。

一方、冬木は「ばっかじゃないの」と、夏野を一刀両断したのち、「それなら」と言葉を次いだ。

「それなら、もっと変死してる事件があるでしょう」

夏野がはっと目の覚めたような表情を浮かべ、春宮もまた目を見開いた。神崎は「どういうことっすか?」と冬木に向かって訊ねると、「あの動画、そもそも怪訝しいのよ」と応えた。

「私も秋澤が殺されたあと、色々調べてみたけれど、直近でそんな事件は見当たらなかった。そもそも、あの動画……『まじないマリオネット』なんて都市伝説を知ってる人間も見当たらなかったわ」

神崎は、秋澤がどうやってこの呪いの動画と呼ばれる代物を持ち出してきたのかを思い出した。たしか、同じゼミの人間からもたらされたものだった筈だ。そして、そのゼミの人間は、五人で動画を視聴してあと、最後まで捕まらなかった……。

「でも……、秋澤くんは、ゼミの人から教えてもらったんだよね? その人が嘘をついてたってこと?」

春宮が涙に潤んだ声で、そう言った。冬木にすがるように、大きく見えるように施された瞳を一心に向けるが、冬木の反応は依然として冷たかった。

「さあ……。そこまではわからないわよ」

春宮はがっくりと項垂れると、「そのゼミの人を探さなくちゃ……」と弱々しい声で呟いた。しかし、垂れ下がった前髪の隙間から覗く眼はぎらぎらと異様な光を放っている。神崎はそれを眺めながら、まあ出てこないだろうなあ、と思った。

「とにかく、あの変な動画。あれを発端にしてる可能性はあるわね」

冬木はそう結ぶと、唇を真一文字にぴったりと閉じた。眉をしかめて眼を尖らせる彼女は、平素と異なりかなり苛立っているようであった。

「でも、何で私たちだけなの? 私たちが、何かしたっていうの? それとも、あの動画を見たから? 見たから呪われたの?」

めそめそとしながら、湿っぽい声で言い募る春宮を一瞥した冬木は、それを鼻で笑うときつい口調で春宮を詰った。

「呪い? 何度も言わせないでよ、春宮。くだらない。非常にくだらないわ」

春宮は呪いの信奉者、冬木は絶対的な否定派、黙りこんだまま何事かを思案する夏野も恐らく否定派であろう。

「じゃあ、あれは何だと思います? 秋澤先輩が殺してたらしい、あの白髪の人の顔が再生したやつは」

神崎は冬木に向かって、そう問いかけた。確かに拷問されて殺されたという事実だけを見れば、あれは人間……その心情が果たして人間であるのかは定かではないが……でも行うことが可能だろう。しかし、秋澤は殺される前にあの白髪の何者かを殺しており、そしてその誰かは何度も目の前で生き返っているようだった。あれについて、冬木はどのような見解を持っているのだろう? 神崎の関心は、専らその点である。

冬木は神崎へ冷たい表情を向けると、「そんなことも分からないの?」と今にもため息をつきそうな口調で、淡々と答えた。

「加工か何かでもして、それらしくしたんでしょ。普通の人間が顔をあそこまで耕されて、生きてるわけないじゃない」

加工……と、神崎は呟いた。たしかにそうであろう。神崎も、真っ先にそれを考えた。しかし、そうなるとひとつの矛盾が生まれる。

動画を加工して、白髪がいかにも甦ったかのように見せかけたとしたならば、白髪は秋澤を一旦殺してから秋澤に殺されたということになる。それでは本末転倒である。それとも、まさか冬木は秋澤こそ甦ったとでも言うつもりなのだろうか?

神崎の疑惑の視線に気がついたのか、冬木は面倒そうに眉を寄せると、

「だから、動画を編集でもしてるんでしょ? 別にそんなこと、どうだって良いじゃない。それって、この話に大切なの?」

と吐き捨てた。これ以上、その件について話し合うつもりは無いようで、苛々と貧乏揺すりをしているのを見てとった神崎は、開きかけた口を閉ざした。

とにかく、と冬木は前置きをすると、神崎、夏野、春宮を順繰りに見回した。

「私たちに何かしらの恨みを持ってる奴らが、足がつかないように、わざと呪いだのなんだの、気持ち悪いカモフラージュをして犯罪を犯してるだけ。怯えることなんて、何もない。毅然としなさい」

冬木の発言はたしかに正しいだろう。しかし、人は時に、正しいだけでは通らないこともあるし、救われもしないのである。

現にすっかり意気消沈している春宮は虚ろな瞳で冬木を眺めているだけだし、夏野は依然青白い顔のまま、宙をぼんやり眺めていた。二人に冬木の言葉は殆ど届いていない。この場で必要なのは正論ではなく、夏野と春宮への思いやりだろう、と神崎は三人のちぐはぐな様子を眺めながら、ひとりそう思った。

「恨み……」

夏野が呆然と呟く。それを耳にした春宮は、びくっと体を震わせると、金切り声をあげて、ヒステリックな様子で再び泣き出した。

「恨まれるなんて、そんな……。私はなにもしてない! 思い当たることもない! 秋澤くんは、ああいう性格だから、恨みを買ってるかもしれないけど……。ねえ、そうでしょ。夏野くん、冬木さん!」

しかし、夏野は沈鬱な顔つきで何かを考えている様子、冬木は瞼を下ろして眉を寄せたまま無言を貫いている。

三者三様の彼らを見回しながら、あのような殺され方をしても誰からも心の底から悼まれぬ秋澤を思い起こして、神崎はそっと瞳を細めた。


■■■


夏野、春宮と別れた神崎は、同じく駅に向かう冬木と肩を並べて歩いていた。冬木は必要なこと以外は殆ど話さないタイプの人間だったので、必然的に会話は途切れて、黙々と目的地を目指すこととなる。

平日の昼間と言えども、それなりに活気に満ち溢れた駅周辺ですれ違う人々は、皆げらげらと笑っていて、誰もが楽しくて幸せそうに見えた。神崎は、何だか自分だけが異空間に放り込まれたような、奇妙な感覚を覚える。

空を見上げると、薄雲が敷き詰められるようにして一面に広がっており、そこから透けるように、青がちらちらと覗いている。時折、雲の隙間から太陽が顔を出して、にやにやと笑いながら神崎を見下ろしている。

「それにしても、本当に心当たりはないんですか?」

空から視線を外した神崎は、足元でのそのそ歩く虫の群れを見つめながら、冬木へそう問いかけた。

すると、冬木は不愉快そうに顔をしかめて、横に並ぶ神崎を睨んだ。彼女の足元を百足に似た足の多い虫が通りすぎるのを、神崎は何ともなしに眺めている。

「神崎って、私たちが恨みを買うような人間だと思ってるわけ? ひどい後輩ね」

吐き捨てるようにしてそう言った冬木は、もしかしたら後輩への気安さから敢えて乱暴な言葉を使ったのかもしれない。しかし、それで幾多の人間が嫌な気持ちになったのだろう、とふと神崎はそう思った。

しかし、それを口に出す愚行は犯さない。神崎は彼女の軽口への返答を微笑むだけにとどめると、代わりに、

「先輩方が……というより、先輩方のお家関連とかどうっすか?」

と訊ねた。

「それこそお門違いじゃない。親の因果が子に報うってやつ? ばっかじゃないの、親は親、子は子でしょ」

冬木の答えはにべもない。親は親、子は子。確かにそうであろう。日本は連座制を採用する場合が多い。特に、子が何らかの罪を犯した時、その親が子の罪を引き受けることもある。それは、成人を越えてもなお、そうであるのだから、冬木の馬鹿馬鹿しいという言葉には神崎も頷けた。

親は親、子は子。親が血も涙もない鬼畜であろうとも、その血を引く子が必ずしも鬼畜であることはない。逆もまた然り。親がどんなに偉くとも、その子は何も成していないのならば、その威光は子のものであるはずがない。

神崎は冬木の刺々しい言葉やはり応えず、曖昧に微笑んだ。

「神崎こそ、そういう心当たりはないわけ? 勘弁してよね、実はあんたのせいで私たちがとばっちりを受けてるとか、マジで洒落にならないから」

「え~、俺ですかあ?」

冬木に水を向けられた神崎は気の抜けた声をあげると、何か考えるように宙を見上げた。

神崎の視界を、巨大な虫が通りすぎる。瞬きをひとつすると、虫は消失してそこには冬木が立っている。

「まあ人並みに生きてるので、全くないってことはないですけど。でも、こういう悪意……というか、殺意全開の悪趣味な恨みを買った覚えはありませんかね」

結局、当たり障りのないことを言うと、冬木は「だから、私もないんだってば」と苛立ったようなささくれだった声で返す。

「ま、冬木先輩はともかく、他の方々はどうなんでしょう?」

「夏野と春宮? あと、秋澤か……。秋澤は、まあ、恨まれてるでしょうねえ」

何を言っても突っかかってくる冬木に辟易した神崎は、仕方なく別の話題を彼女にふった。

水を向けられた冬木はというと、細い顎に指をかけて暫しの間思考したのち、ぽつぽつと話し始める。

「春宮は……そうね。あんたも聞いてるでしょうけど、あの子、男関係にだらしないから。それに加えて、秋澤を焚き付けていろいろやってたみたいだし。それ関係でいらない恨みを買ってる可能性はあると思う」

神崎は内心で首肯する。春宮の男癖の悪さは、秋澤と同列、否、もしかしたらそれを凌ぐ勢いかもしれない。同じ学部の女生徒の彼氏を寝盗ったという話は朝飯前、教授と寝ているので単位の心配がない、大学職員と不倫している、他学部に手を出して揉めに揉めた等々、兎に角噂が絶えないのである。中には誹謗中傷の意味を込めた悪意のある噂もあるのかもしれないが、神崎が知る限り、それらの噂が只の噂であった試しがない。

しかし、それをおくびにも出さずに、神崎は努めて無知を装いながら、「たとえば?」といけしゃあしゃあと訊ねた。一方、冬木の横顔は淡々としていたが、その瞳は爛々と輝き、春宮を貶めることに対して嬉々とした様子を隠しきれていなかった。

「そうね……」

冬木の薄く色づいた唇が、ゆっくりと開く。

神崎は瞳を細めたまま、彼女が宣う幼馴染みの罪業に耳を傾けた。

「昔、あの二人、いじめをやってたの」

「いじめ?」

「そうよ。しかも、中々えぐいやつ」

体を傾いで冬木の顔を覗き込む。その顔には何の感情も浮かんでおらず、瞳も先程の異様な光は消し去られていて、凪いだ水面のような静けさをたたえていた。

「転校生だったと思う。大人しい感じの女の子。春宮が目をつけて、秋澤をけしかけて色々やったのよね。若気の至りってやつかしら」

実際他人事なのだろうが、それでも己の話す内容に痛みを感じることなく、原稿を読み上げるような無機質さで語る冬木を、神崎はじっと見つめていたのち、嘴を挟んだ。

「まさか、その人が……?」

「あり得ないわね」と、冬木は即答する。視線だけで何故、と問いかけると、冬木はその意味を正確に受け取って、簡潔に答えを述べた。

「その子、死んだから」

神崎はゆっくりと瞳を瞬かせる。冬木に群がる虫の群れが、ふっと音もなく消えた。

彼の瞳に映る冬木は平然としていて、やはりそこに何らかの感情を見出だすことは困難であった。

「死んだ? 何で?」

「さあ……? 私も詳しいことは知らないわ。ただ、噂によると家が裕福じゃなくて首が回らなくなったから、自殺したんじゃないかって」

まさか、と神崎は思った。いじめを受けていた女子学生が、家の事情を苦にして自殺? 家庭環境によるいじめが原因ならば、あり得ないことではないのかもしれない。しかし、冬木は先ほど秋澤と春宮が率先していじめを主導していたような旨を話していた。そして、その内容がえげつないものであったということも。

「……春宮先輩たちのいじめが原因ってことは……?」

神崎がそう訊ねると、冬木はそれを鼻で笑った。侮蔑が隠しきれていないその表情に、冬木の心が表れたのを、神崎はたしかに見たのである。

「そうだとしたら、意志が弱いのね。ちょっと嫌がらせされたからって、死ぬまでもないじゃない」

冬木は吐き捨てるようにそう言った。神崎はその言葉を聞いて、一瞬口唇を開きかけたものの、すぐさま口をつぐんだ。

冬木は続ける。

「もしその子が例の動画に関係してくるとしたら、本当に呪いになるかもね」

茶化すような物言いを遮るようにして、神崎は矢継ぎ早に問いかける。これ以上、彼は冬木の他人を見下した言葉を聞きたくなかったのであろう。

「他には?」

「は?」

「他には、そういういじめみたいなのって、なかったんですか」

途端に不愉快そうに表情を歪めた冬木は、素っ気なく「覚えてないわよ、そんなこと」と言って、顔をそらした。あからさまに機嫌を損ねた顔つきになる彼女を無視して、神崎は辛抱強く言葉を待つ。

しかし、冬木は神崎を小馬鹿にしたように軽く笑うと、

「なに、神崎。まさか、そういう逆恨みが関係して、私たちが呪われたっていうわけ」

と言い捨てた。逆恨み、逆恨みか。神崎は心の中で呟く。それを直接口に出して言うことはなかったけれど。

「いや、ははは、呪いじゃなくて」

神崎は明るく笑いかけると、凝視していた冬木から視線を外して、空を見上げた。雲ひとつない紫色の晴天は、神崎の心の内とは真反対で、何だかそれがひどくおかしかった。

二人は既に最寄り駅に到着している。帰り道に使う線路はお互い反対側になるので、本来ならば此処でお別れだ。

しかし、神崎も冬木も別れの挨拶を切り出さなかった。そこには甘やかな空気など微塵も感じ取れない。

抜き身の刃をお互いの首筋にぴたりと当てているような、冷え冷えとした緊張感が、二人の間を包み込んでいる。

「もしかしたら、その関係者が何かしてるのかも……と思ったんですけど」

口火を切ったのは、神崎であった。駅に吸い込まれる人びとの群れの中、向かい合う冬木の顔は動かない。

「関係者……。もしかして、秋澤に動画を教えたゼミ生の話をしてる?」

神崎はそれに応えなかったが、冬木は何やらひとりで合点したようで、ぶつぶつと口の中で呟いている。

「そういえば、あいつ、『兄弟がいる』って言ってたわね」

以前、秋澤が溢していた言葉だろう。冬木は『兄弟』の部分に、強く反応しているようだった。神崎は女の顔をまじまじと見つめた。薄化粧のためか、肌の色が感情を強く表しているようで、唇も青紫に近い色合いに変化していた。

「冬木先輩、顔が真っ青だよ? 何か……気づいたんですか?」

神崎は相手を慮るような声色で、そう尋ねた。冬木はいつの間にか下がってた視線をふと持ち上げたが、瞳は硬く強張り、どこか怯えのような色合いが見てとれた。

「いや……」

しかし、冬木は決して口を割ろうとしなかった。強情で、疑り深い女なのだ。彼女は神崎を信用していない。或いは、決定的なこと以外話したくないタイプなのか。

神崎は冬木から聞き出すことを諦めた。それに、このまま混雑する駅前で立ち塞がっていると邪魔であろう。現に、大学から真っ直ぐこちらへ向かってきた様々な頭を持つ学生たちが、じろじろと不審そうな目付きで神崎たちを追い越す際に視線を向けている。

「でも、もしそいつが、アレの関係者なら……」

ぶつぶつと呟く冬木の声は、雑踏の混雑に紛れてよく聞き取れない。鋭く尖った冷たい瞳も、虚ろで視線が定まらない。彼女は神崎を見ているようで、何処か遠くの何かを思い出しているようだった。

すると、とん、と冬木の肩が行き交う群衆の誰かとぶつかり、彼女の体は弾き飛ばされる。神崎はよろめく冬木を抱き止めた。彼女もまた、神崎に凭れかかりながら、上目遣いで見上げる。

「おっと、大丈夫ですか?」

「ぶつかって謝りもしないなんて、非常識よね。神崎、重くないの?」

二人の視線が交わると、一瞬、虚無にも似た沈黙が訪れた。

それを打ち破ったのは、にっこりとした神崎の笑顔。優しく穏やかな微笑みを浮かべた彼は、支えた腕を自然な動作で背中に回す。

「問題ないですよ。冬木先輩、羽のように軽いから」

「お世辞を言っても、何も出ないわよ」

「いやいや、本当ですって」

神崎は冬木をゆっくりと抱き締めた。人混みの中、突然の接触に鉄面皮で冷徹と唾棄されることの多い冬木は、思わず顔を赤らめる。そして、おずおずと神崎の顔を覗き込んだ冬木の瞳には、散々虚仮にした春宮のような、厭らしい女の媚びが滲み出ていることに、本人だけが気がつかない。

「ちょっと、神崎……」

口では咎めつつも、いつの間にか神崎の背中に回した指でそっと服を掴むいじらしさを見せる冬木に、神崎の唇が微笑の形に歪む。もじもじとしている冬木のつむじを見下ろしたまま、神崎はゆっくりと、少しずつ、抱き締める腕の力を強めていく。

冬木が静かに目を閉じる。端から見れば、仲の良い恋人同士の戯れにも見えるかもしれない、と神崎は頭の片隅でそう思った。

体を屈めて、冬木の真っ白な耳に唇を寄せる。ふっと息を吹き込むと、ぴく、と体を震わせたのが異様に面白かった。

そしてそのまま、神崎は無邪気を装った明るい声色で、彼女にしか聞こえない声量でそうっと囁いた。

「このまま力一杯締め付けたら、全身の骨が砕けちゃいそうですねえ」

「え?」

冬木がぱっと顔を上げる。何を言われたのか理解できなかったのか、珍しく瞳を大きく見開く彼女を、神崎は静かに見下ろした。

冬木がとん……と軽く胸を押したので、神崎は素直に体を離した。彼女の眼差しには、先程の甘やかな色はとうに抜けきっており、代わりにぎらぎらと異様な光を宿している。神崎はそれを見てとって、にっこりと笑う。

「大丈夫だよ、冬木先輩。俺が、直ぐに貴方を楽にしてあげる」

冬木はそれに対して何も言わなかった。ただ、不気味で理解できぬ何かを見るような視線を、じろじろと不躾に神崎へぶつけるだけである。

神崎は首をかしげると、「ああ、これは後輩からの差し出がましい忠告なのですが」と前置きしてから、とつとつと話し始めた。

「それとね、冬木先輩。誤魔化しちゃダメですよ」

「は?」

冬木が不快げに眉をひそめる。彼女が何か発言する前に、神崎は続けて迎撃した。冬木に会話のイニシアチブを盗られたら、しばらく握らせてもらえないのは経験済みであるので。

「冬木先輩もいじめてたんじゃないですか?」

神崎のその言葉を耳にした瞬間、面白いほど冬木の表情は変わった。

「なに、言って」

精一杯の虚勢をはって、ともすれば歪みゆく表情を必死に押さえつけて、神崎を睨む冬木のその眼。

しかし、ふっ……と冬木は肩から力を抜くと、静かに「誰からその話を聞いたわけ?」と訊ねた。瞬時に切り替える肝の座りかたに内心舌を巻きながら、神崎は首をかしげた。

「秋澤先輩が言ってたじゃないですか。『俺は人を殺したことがある』って」

ぴくり、と冬木の眉がひくつく。全身から立ち上るような殺気は、彼女の怒髪天を衝いた証拠である。

しかし、神崎はそれらを一切合切無視して話を続けた。

「それで、さっきの冬木先輩の話と照らし合わせれば、自ずと答えは見えてきますけど……?」

「はっ……。死んでも迷惑かけるとか、いい度胸ね。疫病神だわ、本当に」

唾を吐き捨てるかのごとく、忌々しげに呟いた冬木の表情は、憎悪で歪んでいた。神崎はそれをまじまじと見つめる。

すると突然、冬木は神崎に顔を寄せると、鋭く尖った眼差しを彼に向けたまま「それで?」と言った。

「で? 神崎はそれを知ってどうするの?」

神崎は彼女の問いには答えなかった。

曖昧に微笑んだまま見下ろす神崎を訝しげに見返す彼女は、神崎の思惑を推し量れないようだった。

だから、神崎はその問いかけの答えの代わりに、ひとつの質問を彼女へ投げ掛ける。

「何でいじめたんですか?」

「私が聞いてるんだけど」

神崎は黙殺した。もう一度、質問を繰り返す。

「何でいじめたんですか?」

今度は冬木が黙りこむ番だった。訝しげな眼差しから、得たいの知れない何かを眺めるそれに変化した彼女の瞳の奥には、たしかに恐怖が渦巻いていた。

「それだけ教えてください」

神崎はずい、と冬木に詰め寄るとそう言った。頭ひとつ分の背丈の差がある二人の間に、火花が激しく散る。バチバチッと音が聞こえてきそうなほどの、にらみ合いであった。

そして、そのにらみ合いを制したのは神崎だった。視線をそらした冬木は不貞腐れている。

「……私はいじめてないわよ。ただ、あいつらの隣で、それを見てただけ」

神崎はその続きを、視線で促した。冬木は頑なに目を合わせないようにしている。その横顔は固く強張っており、口調には忌々しさが滲み出ていた。

「いじめられた人間がどういう末路を辿るのか、見てみたかったからよ」

神崎はその答えに、息をのむ。いつの間にか固く握り締められていた拳が、氷が溶けていくようにほどけていく。真っ白な指先をだらん……と垂らした神崎は力なく、「そう」と一言呟いた。

冬木が顔を上げる。勇ましく凄んでいた神崎が、突如脱力した様子を訝しく思ったのだろう。

そして、彼女はぎょっと目を見張った。神崎は自身が今どのような表情を浮かべているのか、わからなかった。しかし、冬木のひきつった顔を見るに、かなりひどい顔をしているのだろう。

「貴方は、疫病神だと罵った秋澤先輩よりも、男狂いだと嘲った春宮先輩よりも、邪悪ですね」

神崎は凪いだ声でそう言った。冬木からの反論はない。

そのままくるりと踵を返した神崎は、足を駅の入口へと向けた。すると、その後ろ姿に冬木が恐る恐る声をかける。

「神崎、あんた、何なの?」

神崎はぴたりと足を止めて、下ろした視線の先にある己のスニーカーの爪先を見つめた。

薄汚れてくたくたに履き潰された、草臥れたスニーカー。あの日、神崎の元に戻ってきた靴は、もっと汚れてボロボロで、靴底も剥がれていたことをぼんやりと思い出す。

「貴方たちのサークルの後輩ですよ」

のっぺりとした平淡な声が、神崎の唇からまろび出た。

冬木はいま、どのような表情を浮かべて、神崎の後ろ姿を観察しているのだろうか?

「ところで、冬木先輩。貴方は自殺した同級生の遺体を、ちゃんと見ましたか?」

「は?」

要領の得ない神崎の質問に、冬木の訝しげな声があがる。彼女の疑問を一切無視した神崎は、もう一度だけ同じ意味合いの質問を繰り返した。

「ちゃんと、死んだところを見ましたか?」

冬木が鋭く息をのむ音が、耳のすぐそばで聞こえたような錯覚に陥るほど、神崎の聴覚はーー否、全身の感覚が鋭く研ぎ澄まされていく。利口で理性的で冷徹な冬木は、神崎の意図を正確に理解してくれる筈である。

「……あんた、まさか」

神崎は再び歩き出した。地面にて蠢く虫の群れを蹴散らしては踏み潰していく。家に帰る前に、兄に連絡しなければならない。彼は心配性なのだ。しかし、一時期荒れに荒れまくった神崎を知っている兄からしてみれば、その心配癖も仕方なかろう、と彼は思っている。

「待ちなさいよ、神崎!」

冬木の絶叫に、何人もの群衆が振り返る。神崎は雑踏に紛れ込んだ。きっと、すぐに冬木は神崎を見失うだろう。

神崎はパンツのポケットに無造作に入れていたスマートフォンを取り出すと、慣れた動作で電話帳を開いた。履歴画面がまず最初に出てくるが、その画面は一名の名前のみで埋め尽くされている。

「もしもし、兄貴?」

スマートフォンを耳に当てて、呼び出し音を静かに聞きながら、神崎はそうっと呟いた。その視線の先には、雑踏に埋もれることなく此方に背を向ける制服姿の子どもが立っている。

長年さまざまな人間に踏みしめられたため、ぼろぼろに崩れた煉瓦で覆われた地面には、蓮が敷き詰められている。時折にょっきり生える花は美しく高貴な紫電色、黒い背中はその隙間を縫うようにしてふらふらと歩いていた。

その背中が目指す先には彼岸の川、周囲には宙を泳ぐ金魚の群れ。神崎は制服の子どもを目で追い続ける。コール音は一向に切れない。神崎の周囲をすれ違う異形の人間は、手足が腐り落ちて首がもげて目玉をぼたぼたと落としている。体が、溶けていく。

すると、不意に制服がくるりと軽快な動作で振り返った。その顔を一目見た神崎は、スマートフォンを耳に当てたまま、優しく微笑みかける。

神崎に向かって笑い返した制服の回りには、無数の色とりどり花が、静かに雨のように降り注いでいた。


■■■


かつかつと高らかに靴音を響かせていた冬木がふと顔を上げると、丁度スクランブル交差点に差し掛かったところであった。

あの日、人を食ったような神崎と対峙してからというもの、どうにも調子が出ないようだった。冬木は苛々としながらも、軽く頭をふる。あの時の神崎の態度を思い起こすだけで、腸が煮えくり返るようだった。

奴は確実に何かを知っている。冬木たちがひた隠しにしようと、闇に葬った事実について。

そもそも、秋澤が調子に乗って、いらないことをべらべらと話したせいなのだ、と冬木は歯軋りをした。秋澤が思わせ振りに含みのある言い方をしたから、神崎に興味を持たれた。黙っていれば顔立ちの整った、お人形のようなあの男は、春宮にちやほやされたままで大人しくしていれば良いのに、と冬木は臍を噛む気持ちである。それなのに、身の程を弁えず、分相応にでしゃばる悪癖は如何なものか、と冬木は重ねて思った。夏野と春宮には釘を刺した上で、神崎に注意を払うように忠告せねばならない。夏野は慎重だからまだ良いとして、問題は春宮である。優しそうで穏やかな、庇護欲を誘う見た目とは裏腹に、気に入った好みの男に片っ端から手を出して、入れ込む悪癖のあるあの擦れっ枯らし。あばずれめ。冬木は春宮のことを内心そう毒づいている。

神崎は妙に口が旨い。彼女に探りを入れられたら、あっという間に『あの時』何があったのか……春宮たちのいじめの真相を……見抜かれてしまう。

それだけは嫌だった。冬木には関係ないことなのに、秋澤が、春宮がーーいや、元を辿ればあいつが、余計な感情に振り回された結果、起こった事柄なのである。冬木は巻き込まれただけだと、今でも思っていた。いい迷惑だった。冬木は足を引っ張る幼馴染みたちを恨めしく思いながらも、夏野との約束の場所まで歩みを進めていく。

夏野には、例の動画を教えたゼミ生について、何か進展があったかどうかを確認するために呼び出した。ついでに、何かと不穏な動きをする神崎のことも、相談しようかと迷っている。

神崎。冬木は思考した。いつの間にか冬木たちの懐にするりと潜り込んで、さも昔からの仲間のような面をした、サークルの後輩。後輩と言っても、浪人しているようだから、年齢は冬木たちと同い年である。

「同い年……?」

信号が青になるまでの間足止めを食らっていた冬木は、ふとその事実が気になった。

同い年であるということは、本来ならば冬木たちと同学年である。そして、冬木たちにとって、同学年という存在は、一種の鬼門であったのだ。

「あいつも……。昴琉とも……、同い年になるのよね……」

誰に言うとでもなく、呟く。何か、引っ掛かる。何でもないようで重大な何かを見逃しているような、致命的なミスを、冬木たちは知らず知らずのうちに犯しているような、漠然とした不安に襲われるのである……。

すると、考え込む冬木の腰辺りに、とん、と軽いものがぶつかった。冬木は一旦思考を中断し、視界の端に映る丸い頭を見下ろした。

どうやら余所見をしていた子どもが、誤って冬木に体をぶつけてしまったようだった。フリルがふんだんにあしらわれた、所謂ロリータ服と呼ばれる可愛らしい衣装に身を包んだ、小学校中学年ほどの年齢の少女が、びくびくとした視線で冬木を見上げている。

「あっ」

子どもはおどおどしている。冬木は子どもが嫌いだった。うるさくて、汚くて、すぐに壊れそうで、何より弱い。泣かれたら面倒だ、と顔をしかめたまま子どもを睨み据えていると、その保護者らしき人物が、のっそりとした動作でこちらに歩み寄ってきた。

「すみません、余所見をしていたようで」

若い男の声だった。年齢は然程冬木と変わらぬだろう。歳の離れた兄なのか、はたまた若い父親なのかは定かでない。青年がすっぽりと大きなカーキ色のフードを被っていて、顔の判別が出来ないためだった。

すると、子どもはあからさまにほっと息をついて、慌てて青年に駆け寄った。そのまま彼の腰元にすがりつくと、冬木から隠れるようにして青年を盾にする。冬木はまたもや苛ついた。子どもの中でも、特に女が嫌いだった。ませていて、媚びていて、大人にどんな顔をすれば甘やかしてもらえるかよく知っている、小賢しい女の子どもが特に。

冬木は己の中で燻る子どもへの嫌悪感と、それを野放しにしている保護者らしき青年への苛立ちをそのままに、きっと鋭く睨み据えると、射撃のごとき勢いで捲し立てた。

「子どもから目を離すのって、保護者としてどうなんですか。今回、私は飲み物とか持ってなかったから良かったけど、これで服にかかったら弁償ですよ、弁償」

とんとん、と子どもがぶつかった辺りの服をわざと叩く。帰宅したらすぐに消毒しよう、と冬木は思った。子どもなんぞ、いつどこで何を触っているのか知れないのだ。そう思うと、途端に高級なコートが汚ならしい雑菌だらけに思えてくる。思わず舌打ちをした。

「申し訳ありません」

一方、フードを目深に被った青年はというと、相変わらずのっぺりとした抑揚のない声色で謝罪を繰り返した。顔がよく見えないため、彼の感情がどのようなものなのか、いまいち測りきれない。何となく、冬木はこの青年のことを薄気味悪く思った。

青年にがっちり掴まっている子どもはというと、ぱっちりとした大きな丸い眸を、冬木へひたと向けている。青年の腰元からひょっこり顔を覗かせているのが腹立たしくて、冬木はじろりと子どもを見下ろした。

しかし、意外なことに子どもは冬木の憎悪にも似た視線にたじろくことなく、平然と見返していた。余程胆力のある子どもなのか、はたまた状況認識能力が著しく欠如した子どもなのかは、判断がつかない。結局、冬木の方が先に子どもから視線をそらした始末である。

「気をつけてください」

唾を吐き捨てるようにそう言い捨てた冬木は、親子なのか兄妹なのか判別のつかぬふたり組から背を向けた。このようなところで時間を食っている場合ではなかったことを思い出したのだ。このままでは、夏野との約束に遅れてしまう。

「お姉ちゃん、ごめんね」

子どもの声が背後からかかるが、冬木は無視をした。

すると、ととと、と軽い跫が聞こえてきたので、冬木の燻っていた怒りの炎が、ガソリンを注がれたかのごとくめらめらと燃え上がった。だから子どもは大嫌いなのだ。うるさくて、汚くて、すぐに壊れそうで、弱くて、そしていつも思考の斜め上をいく行動を起こす。冬木は怒鳴ってやろうと思い立ち、振り返りかけた。そして、冬木はとうとうあの子どもの近寄る姿を見ることはなかったのである。

「えっ」

子どもは冬木の想像以上に近づいていたようで、ぴったりとくっつくように腰の辺りで立ち止まっていた。

幼く頼りない小さな掌が、トン、と冬木の背中を軽くーーそれでいて力強く、押した。冬木はふらふらとよろめき、勢いのまま二三歩、前に足を踏み出してしまう。

視界の端で赤がチカチカと点滅する。まるで崖に隔たれたかのように、目の前には人、人、人、無数の人が、ひしめき合いながら無個性に無感動に、冬木を揃いの瞳で見守っている。

そして、間髪を容れず、冬木の体にとてつもない衝撃が与えられ、数十メートル引きずられたのち、バラバラに砕けるごとくめちゃくちゃになった。

即死だった。

二トン以上ある大型トラックに追突され、轢かれてぐちゃぐちゃになった女の遺体を、十字路の交差点で信号待ちをしていた群衆が、音もなくぐるりととり囲んだ。

それらは、突然引き起こされた痛ましい事故に驚愕や恐れを抱いているというよりは、予め知っていた事実を確認しているような、妙な冷静さが感じ取られた。

誰一人として、悲鳴どころか声すら上げることはない。

トラックの運転手が扉から慌てて出てくる様子もない。沈黙を貫いたまま、奇妙な体勢で停車した大型トラックが、ぽつんと人垣から離れて放置されていた。

誰一人として、口を開かず、腕が捻れて脚がひしゃげて首が折れた肉塊を、彼らは無感動に見つめ、無個性に見下ろしている。

湯気が立ち込めそうなほどの生温かい血がじわじわと広がり、群衆の足元を汚すころ、不意に集団がモーセのように左右に分かたれた。

群衆は皆、一様に頭を垂れて、避けて作られた道を歩む『彼ら』を、無言で見送っている。

人垣によって作られた道を悠々と歩き、ゆっくりと遺体に歩み寄るその青年は、カーキ色のくたびれたコートに付いたフードを目深に被っていた。ぺちゃ、ぴちゃ、と血溜まりを踏みしめるたび、薄汚れたスニーカーの底が更に汚れていくが、彼がそれを気にかける様子は見受けられなかった。

そしてその後ろを、クラシカルロリータのドレスに身を包んだ子どもが、てくてくと続く。

そして、どろどろとした肉の塊にたどり着くと、青年はそれに跨がるようにして立ち、無言のまま見下ろした。身を屈めて眼球と脳漿の飛び出た顔を覗き込む際に、フードから溢れ落ちる真っ白な髪の毛を、傍らの少女が何ともなしに見上げている。

やがて、青年から視線を外した少女は、ふう、とため息を小さく落としたあと、年齢にそぐわぬ落ち着いた声色で「お姉さん、ごめんなさいね」と、冬木だった肉塊に向かって呟いた。






【2023.4.30 つづく】


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元気いっぱい笑顔いっぱいで大学生四人を地獄送りにする話 冴島ナツヤ @saezimanatuya0728

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