十六話

 自分を呼ぶ声が聞こえた……気がして、リッツォはうっすらと瞼を持ち上げる。途端にまばゆい光が視界を包み、顔をしかめた。それに目が慣れ始めると、周囲の様子が見えてきた。ここは……自分の部屋だ。窓からの陽光が差し込む、見飽きた景色。そしていつも使っている毛布とベッド。今リッツォは自分の家のベッドで横たわっていた。しかしどうしてここに戻っているのか、リッツォはまるで記憶がなかった。


 重くだるい頭を動かし、部屋を見回そうとすると、その姿はすぐ傍らに座っていた。何やら熱心に手元の本を読んでいて、リッツォの視線には気付いていない。だがその顔を見ると、不思議と安堵感を覚えた。しばらく眺め、いつ気付くかと待ってみたが、一向にその気配はなく、リッツォは仕方なく声をかけることにした。


「……リ、ズ……」


 発した声は吐息のようだった。寝起きのせいかまったく声に力が入らない。しかしそれでも呼んだ相手――リズは手元から視線を上げ、リッツォに顔を向けてくれた。


「……あっ、起きた!」


 少し驚いたふうに、だが笑顔を浮かべてリズは声を上げた。


「よかった。ちゃんと目覚めてくれて」


 そう言ってリズは安堵の息を吐いた。


「体調はどう? 苦しくない?」


「……平気、だ」


 ささやくような声でリッツォは答える。だが本当は全身が鉛になったように重く、呼吸も浅く、短くしか出来ずに辛かった。しかしこんなことはいつものことで、リッツォの中の苦しさには入らないものだった。


「リズ、が……俺を……ここに……?」


「お父さんの魔術でね。……憶えてない?」


 リッツォはこくりと頷く。


「意識なかったし、そうだよね。フレインの家から運んで四日間、ずっと寝てたんだよ」


 リズを助けに行った出来事は、今もほんの数時間前のことのように感じられ、あれから四日も経っていたとは思えず、リッツォは少し驚きを見せた。


「お医者さんに診せたら、もう目を覚まさないかもなんて言うから、ちょっと覚悟してたんだけど……診断が外れてよかった」


 医者と聞いて、リッツォの頭には顔馴染みとなったあの初老の医者がすぐに浮かんだ。


「所詮……藪医者の、見立てだ……」


「そんなこと言っちゃ駄目だよ。あのお医者さんもすごく心配してたんだから。……リッツォは、生まれ付き心臓が悪いんでしょ?」


「……聞いた、のか……」


「お母様にね。他にもいろいろ悪くなったところがあるって……。お医者さんはもう自分の手じゃ治しようがないからって、医者の自尊心を捨てて、お父さんに薬作りを頼んだんだよ。そんなこと普通のお医者さんは頼めないよ。治癒魔術が使える魔術師を商売敵って考える医者もいるのに、あのお医者さんは真剣にリッツォを助けようとしてる」


「でも……その、医者が……俺の、余命、を、告げて……んだ」


 リッツォの命はもうすぐ尽きる。それは周囲の者も、本人も自覚する事実だとわかっていることだった。


「それは、そうなんだけど……でも皆、少しでもよくなってもらいたいっていう気持ちは同じだから」


 そう言うとリズは側の机に置いてあった小瓶を取り、リッツォに見せた。


「……何だ……?」


「これが頼まれた薬。一日一回、小さじ一杯だけ飲んで」


「これで……治る、のか?」


 リズは力なく首を横に振る。


「心臓そのものが原因の病気だと、残念ながら魔術師でも治せないってお父さんが言ってた。でも、これを飲めば体力は保てるから、体の辛さは軽減されるって」


 リッツォは小瓶の中で揺れる液体を見つめた。


「体力を、保てば……もう、ちょっと……生き、られる、もん、なのか……?」


「何もしないで放っておくよりはいいでしょ? この薬、私も作るの手伝ったんだよ。だからちゃんと飲んでね。なくなったらまた持ってくるから」


 にこにこしながら言うリズを、リッツォの目は緩慢な動きで見据えた。


「これが……お前、の……責任の、果たし方……か」


 リズは笑顔を少しだけ潜めて言う。


「だって、他にしてあげられることなんてないから……」


 リッツォが不十分だと文句を言うとでも思っているのか、リズは具合が悪そうに目を伏せた。正直、責任など今さらどうでもよかった。言った手前、果たしてもらうということにはなったが、薬を作ってもらわずとも、リズがこうして訪れ、話し相手になってくれているだけで、リッツォは十分だと感じていた。


「お前の、父ちゃん、に……礼を……言わないと、な」


「そんなのいいよ。リッツォは私のこと助けてくれたんだから、それでお相子」


「じいさんは、どう、してる……? 俺を、助けて、から……会って、ねえ……」


 燃やされた家でフレインと戦い、ぼろぼろになりながらも助けてくれたバンベルガーのことを、リッツォはリズの行方と共に気にしていたことだった。


「ああ、バンベルガーさん? 今はうちにいるの。家がなくなっちゃったから。フレインと戦って傷を負わされたし、体力と魔力もかなり消耗したみたいで、安静にしてる」


「大丈夫、なのか……?」


「命に関わるほどじゃないって。会話は普通に出来るから、私は魔術を教わってるの。昨日は何か手伝いたいって、ベーラの餌を作ってくれたし、少しずつ回復してるみたい」


 家を失い、行き場のなかったバンベルガーは、逃げ込んだリズ達の家でそのまま世話になることになった。家の再建に目処が立つまでの間ではあるが、リズにとっては尊敬する魔術の先生が一人増えるわけで、共に暮らせることを歓迎した。体に負った傷はファルカスの治癒ですぐに治せたが、使い果たした体力と魔力はそうもいかない。こればかりは時間をかけて休むしかない。しかし日に日に回復していくバンベルガーを見ると、リズは別れが迫っているのを感じてしまい、嬉しい反面、少しだけ残念な気持ちも抱いていた。


 とりあえずバンベルガーは心配なさそうだとわかり、安堵したリッツォだったが、リズの話にベーラという名前が出て、ふと気になって聞いた。


「……そういや……あの、猫……家に、帰れた、のか……?」


 これにリズは大きな溜息を吐いてから言った。


「今はちゃんとうちにいるけどね……捕まえるの、大変だったんだから」


 リッツォの魂がベーラから出る直前、フレインは魔術で動きを止め、その腕にベーラを抱いていた。その後リッツォは自分の体へ戻ってしまい、ベーラがどうなったかはわからず仕舞いだった。あの状況なら殺されていてもおかしくはないが、フレインはそうしなかったようだ。ただの猫では利用価値はないと判断し、放っておいたのかもしれない。


「リッツォをここに運んだ後、家に戻ってからお父さんと一緒に魔術で捜したら、気配がフレインの家辺りにあるから、本当びっくりした。もういないからよかったけど、フレインがいたらかなり危なかったかも」


 その前に、すでに危ない目に遭っていたことはあえて伏せ、リッツォは黙って話を聞く。


「それからすぐに森に入って、私とゾルタンでベーラを捜して、見つけたのはいいんだけど、そのベーラがずっと何かに怯えてるみたいで、私を見ても逃げちゃって」


 まあ、魔術をかけられればそうだろうなと、リッツォは内心で頷く。


「追っかけたんだけど、その日は諦めたの。それで次の日は好きな餌を持って行って、隠れて出て来ないベーラをどうにかおびき出して、やっと連れ帰ることが出来たの。二日がかり……本当に大変だった。リッツォは一体どこでベーラから離れたのよ」


「……さあ? よく、憶えて、ねえ……」


 当時の状況を教えたら、何かがみがみと言われそうな予感がしてリッツォはとぼけた。


「そう……でも、リッツォってこの村に移動させられてたんでしょ? ベーラが森に迷い込んじゃったのかな。……ん? 何か、笑ってない?」


 リズは怪訝そうに、じっとリッツォの顔を見つめた。自分でも知らぬ間に笑っていたようで、リズの話を聞いていると、体の辛さをほんの一瞬だけでも忘れられた。


「ベーラ、に……謝って、おいて、くれよ……」


「いや。それは自分でして」


「自分でって……」


「体調がよくなって、出歩いてもよくなったら、私の家まで来て直接謝って」


「無理、言うな……そんな、遠く、まで……」


「わかってるよ。送り迎えはお父さんに頼むから。元気になったら教えて。それまで私もベーラも待ってる」


「保証は、出来、ねえ……ぞ」


「それも、わかってる」


 リズとリッツォは互いの顔を見て笑った。


 その時、部屋の扉が叩かれ、その向こうからリッツォの母親が顔を出した。


「リズちゃん、お留守番ありがとう。リッツォに変わりは――まあ、リッツォ! 目を覚ましたのね」


 満面の笑みを浮かべ、母親はベッドに歩み寄る。そして横たわる息子の頬に優しく触れた。


「何だかんだ言っても、リッツォ、あなたは強い子なのね」


「こんな体で私を助けてくれたんですから、当然です。ね?」


 リズの視線に、リッツォは母親の手前、照れたような苦笑いを浮かべるだけだった。


「大したものはないけど、よかったらリズちゃん、おやつでも食べていって」


「ありがたいんですけど、私はそろそろ……」


「あら、予定があるの? 残念だけど仕方がないわね」


「すみません。また次の機会に」


「ええ。その時はもっとゆっくりしていってちょうだいね。今日はありがとう。助かったわ」


 にっこりと笑い、母親は部屋を出て行った。


「……留守番の、ために……来て、たのか……?」


「留守番は偶然。薬を持ってきたら、お母様がちょうど用事があるって言うから引き受けただけ。でもおかげでリッツォとこうして話せたからよかった」


「悪かった、な……引き、止めて……」


 リズは嬉しそうにリッツォを見つめた。


「……何、だよ……」


「最初の頃と比べると、すごく素直になった気がして」


「そうか……?」


「そうだよ。私に怒鳴ってばっかで、謝りもしなかったのに、今はちゃんとお礼も言えるようになってる。初心に戻ったのかな」


 そう言うとリズは膝に載せていた本をリッツォに見せた。


「何だ、それ……」


「リッツォが小さい頃に読んでた絵本でしょ? ベッドの下にあったよ。いつも威張ってるキツネさんは自分のことしか考えてなくて、友達のネズミさんを困らせてばっかりだったけど、川で溺れたネズミさんを助けて、初めて感謝されて、キツネさんは自分の態度を反省して心を入れ替えるっていうお話」


 リッツォは、ふっと笑う。


「俺は、その、キツネさん、を……見習った、っていう、のか……?」


「それを私は聞いてるんだけど?」


 からかうような目のリズをいちべつし、リッツォは言った。


「そんな、わけ、あるか……俺が、変わった、きっかけが……あると、すんなら……それは、多分――」


「多分?」


「友達、に……恵まれた、から、だろ……」


 一瞬静寂が訪れるも、すぐにリズの笑い声が響いた。


「何で……笑う……」


「おかしくて笑ってるんじゃなくて、何か、嬉しくて笑えてきたの。私も、友達って呼べる同年代の子はいなかったし」


「俺は……二歳、上だ」


「そうだけど、そんな感じしない。それって、気が合うってことだよね」


「さあな……俺は、お前の、こと……子供、だと……思ってる、けどな」


 以前の調子に戻ってしまったような言葉に、リズは残念そうに眉をひそめた。


「あー、駄目だってば。最初のリッツォに戻らないで」


「別に、戻って、なんか……ねえ」


 少し反抗的に見てきたリッツォに、リズは嬉しそうに笑って見せた。


「……じゃあ、リッツォの機嫌を損ねちゃう前に、私は帰るね」


「……そう、か」


 椅子から立ち上がり、絵本を机に置くと、リズは部屋の扉へ向かいながら振り向く。


「薬、ちゃんと飲んでね。次来る時にまた持ってくるから」


「わか、ってる……」


 ベッドからの距離ではリズまで返事が届いていないかもしれないが、それでもリズは笑顔で手を振って返し、部屋を後にした。途端に静かになった空間で、リッツォは天井を見つめながら頭に残るリズの声を聞く。だがそれも消えると何もすることがなく、何となく視線を泳がせていると、側の机に置かれた絵本が目に留まった。そして目一杯腕を伸ばし、手に取ってみる。


「……初心、ねえ……」


 先ほど言った言葉は本心だった。自分が変わったとしたら、それはリズの存在があったからだ。一日中寝ているしかない毎日で、リッツォは自分に苛立ち、そして悲観していた。こんな時間に何の意味があるのかと。しかし思いがけずリズと会い、話し、共に問題に立ち向かったことで、リッツォの曇っていた目は磨かれ、今まで見えなかったものが見えるようになった。人の思い、優しさ、懸命な心……何より、自分自身の気持ちも。先が短いことは仕方がない。それを悲観するのは簡単で、楽なことだった。だがそれではいけないと、気持ちが自然と変わりたがったのだ。そうさせたのは間違いなく、リズの存在だ。リズと出会えたからリッツォは変われたのだ。それは初心に戻ったというよりも、導いてくれたというほうがしっくりくる気がした。


 細く弱った腕では、薄い絵本を持つだけでも重労働だった。だがそれでもリッツォは胸元に引き寄せ、ぺらぺらとめくって読んだ。そして最後に心を入れ替えるキツネに、自分を重ね合わせてみるのだった。


 その後もリズは薬を届けるために、あるいは顔を見るためにリッツォの元へたびたび訪れた。友達として、二人は一時を楽しく話して過ごした。しかしリッツォの病状が会うたびに少しずつ悪化しているのは明らかだった。呼吸はいかにも苦しそうで、発する言葉は途絶えがちになり、向けられる目はうつろになり始めていた。もう近いのだとリズは感じていた。だがその恐怖を隠し、笑顔でまたねと言って別れては、次回も変わらず話せることを胸で祈っていた。


 しかし、そうして通い始めてから半年が経った夏の初めに、その知らせは届いてしまった。


『リッツォ・カーロイが亡くなりました――』


 ああ、とリズは声を出して泣き入った。この数週間前から会いに行っても、リッツォの体調がよくないからと会うことが出来ていなかった。だから覚悟はしていたはずなのに、喪失感はリズに長い間涙を流させた。もう一度、会いたい――そんなことを思うと、リズの脳裏にはフレインの姿が浮かんだ。彼女も恋人を失い、同じような喪失感に襲われたのだ。そしてそれに耐えられず、魔術でどうにかしようと人の道を外れてしまった……。今ならそうした気持ちが少しだけ理解できるような気がした。だがあくまで気がするだけだ。真似をしようとは決して思わないし、してはならない。リッツォもそんなことは望んでいないだろう。自分はフレインとは違う。この喪失感に向き合い、乗り越えなければ。リッツォと過ごした時間を思い出として胸に刻むために――


 村での質素な葬儀にファルカス、バンベルガーと共にリズは参列し、涙をこらえながら棺で眠るリッツォへ別れを告げた。頬のこけた白い顔は穏やかで、険しさは見られなかった。やっと苦痛から解放されたのだ。よかった――リズは涙を滲ませながらもそう呟き、ここでようやく笑顔を見せることが出来たのだった。


 それから一ヶ月――夏の暑さは森の奥にまで浸透し、あらゆる命を勢い付かせていた。植物は青い葉を茂らせ、ぐんぐんと成長し、動物達はその影を活発に動き回らせる。その頭上では日差しを受けてはばたく鳥が巣作りにせわしなく、すでに子を持った親鳥は川や茂みで飛び跳ねる虫、魚を一心不乱に捕らえる。


 リズも家の庭で忙しく動いていた。そこにはまだ青い実のトマトと、薬の材料に使う植物が植わっている。こう暑いと雑草の育ちもよく、頻繁に庭を見て回っては、こうして抜いていくのがリズの日課だった。同じように水やりも忘れてはならない。油断をすると植物はすぐに枯れ、干からびてしまう。土の乾き具合を見て、リズは井戸で水を汲み、それをジョウロへ移す。そんな作業をする側、家の屋根の下の日陰では、灰色の体を暑そうに伸ばして寝るベーラの姿があった。それは夏場になるとお馴染みの光景であり、この時期、あらゆる日陰がベーラの居場所となる。暑さに参ってごろごろする無防備な姿は可愛らしいが、強い日差しの下、日課をこなす身としては羨ましくもあった。


 そんな愛描をいちべつし、リズは水を入れたジョウロを手に庭の畑へ戻ろうとした。


「よお」


 不意の声にリズは止まり、振り向く。だがそこに人影はなかった。確かに人の声が聞こえたと思ったのだが、気のせいだろうか――再び歩き出そうとすると、それはまた聞こえた。


「無視かよ」


 今度はすぐさま振り向く。そして周囲に視線を巡らせるが、やはり人影は見当たらない。幻聴でも聞こえているのだろうかと自分の耳を疑い始めた時、足下に近付いて来る小さな影に気付き、見下ろした。


「ベーラ、起きたの?」


 いつの間にか側まで来ていたベーラに笑いかけ、リズはかがんでその頭を撫でようとした。


「おいこら、やめろ!」


 迷惑そうに頭を振って避けたベーラに、リズは驚いて目をしばたたかせた。しばらく呆然と愛描を見つめる。


「……今、しゃべった?」


 半信半疑で問うと、返答はすぐにされた。


「聞こえてんなら、さっさと気付けよ」


 リズの頭は懸命に状況を理解しようとする。話しかけたのはベーラだが、その声や乱暴な口調は、どう考えても一人しか思い付かなかった。リズは困惑の表情で聞く。


「あ、あなたって、まさか――」


「リッツォだよ。忘れちまったか?」


 その名を聞いた瞬間、リズは息を呑み、胸に苦しくも嬉しい痛みを覚えた。もう二度と話せないはずだったリッツォと、まさか再び言葉を交わせるとは夢にも思っておらず、その感激は抑え切れないものだった。


「……リッツォ!」


 夏の太陽にも負けないほどの笑顔を浮かべたリズは、リッツォに逃げる暇も与えず、腕の中に灰色の体を強く抱き込めた。


「や、やめっ……ぐる、じい……」


 手加減を忘れた力に猫の体は締め付けられ、リッツォの声は押し潰される。その異変に気付き、リズは慌てて腕の中から解放した。


「ごめんなさい。つい、嬉しくて……」


「……ったく、もう一度死なせる気かよ」


 もう一度――そう。リッツォは一ヶ月前にこの世を去ったのだ。それがなぜまたベーラの体に入っているのか、リズには疑問だった。


「でも、どういうことなの? 私、降霊術なんて使ってないのに」


「魔術は関係ねえ。これは、俺の意思だ」


「意思? 自分でベーラの中に入ったっていうの?」


「そういうことだ。……あ、でも心配はいらねえぞ。長居はしねえから」


 よくわからないというふうに、リズは首をかしげた。これにリッツォは説明をする。


「知っての通り、俺は死んだ。それからあの世へ向かうまで、少し猶予があんだ。今はその猶予期間で、この間は好きに動いて見て回れる。で、何しようかと考えた時に、リズにはちゃんと別れを言ってなかったなと思ってさ。父ちゃん母ちゃんには死ぬ間際に言えたけど、お前は、最後のほうは会えなかったから……」


「わざわざ、そのために、私に会いに……?」


 リッツォは照れを隠すように顔をそむけた。


「一応、世話になったんだ。会いに来ちゃ悪いかよ」


 リズは嬉しさに顔をほころばせる。


「そんなこと言ってないでしょ。……ありがとう。会いに来てくれて」


「まあ、友達、だからな。挨拶しないままじゃ、気分悪いし……」


 見つめるリズに間が持たないのか、少しうろうろと歩き回ってからリッツォは聞いた。


「……そっちは、変わりないか」


「うん。私もお父さんも元気だよ。バンベルガーさんはやっと新しい家を建て始めたばっかりで、私も時々手伝いに行ってるんだ」


「そうか。じゃあじいさんも、ゆっくり休めるようになるな」


「でも、本人は休む気はないみたい。フレインのことを調べたいって、森のあの家によく出かけてるの」


「あの女を? また何でだ」


「天才魔術師ってとこに興味があるみたい。フレインがどんな魔術をよみがえらせたのか、家で資料を探して、いつか本にしてまとめたいって。バンベルガーさんは魔術学者みたいな面もあるから」


「ふーん。俺ならもう、あんな女には関わりたくもねえけどな」


「でも資料が残ってるなら、今のうちに集めておかないと、なくなっちゃうから」


「なくなる?」


「うん。あの家、取り壊しが決まったの。あそこで犠牲になった人達の親族がそう望んでね。数ヶ月後には何もなくなる。フレインの痕跡も……」


 どこか寂しげにリズは言った。


「殺された人を思えばいいことじゃねえか」


「そうなんだけど……忘れ去られちゃうフレインが、ちょっとだけ可哀想な気もして」


「どこがだよ。人殺しなんてどこからも消えてなくなって当然だ。それだけのことをしたやつなんだ。可哀想なんて言うべきじゃねえ」


 リッツォの口調は怒っているようだった。自身が生きたくても生きられなかった命だったからこそ、それをないがしろにした行為は絶対に許せないと感じているのかもしれない。これが真っ当な考えなのだろう。フレインが命を奪った背景に何があろうと、その罪に変わりはないのだ。フレインは非道な犯罪者だ。しかし恋人を奪われた被害者でもある。多くの者が知らないその顔は、知る者だけが胸に秘めていればいいのかもしれない。そしてふと思い出した時にだけ、そっと寄り添ってやるくらいでいいのだろう――リズはそう思った。


「あの女には散々な目に遭わされた。けど……まあ、今となっちゃすごい経験だ。何度も殺されそうになったんだからな。それで生きてたってのも奇跡的だ。でも結局、予定通り病死で終わっちまったけどな」


 残念そうに言うリッツォに、リズは目を伏せる。


「私のせいだね。降霊術の失敗で巻き込んじゃったから……。それがなくて、家で安静にしてたら、リッツォはもう少し生きられたかも……」


 これにリッツォは、じっとリズを見つめた。


「……そうかもな。弱った体で出歩いたせいで、確実に寿命は減っただろうな」


「ごめんなさい……」


 暗い顔になるリズに、リッツォは明るい声で言った。


「何謝ってんだよ。俺は責めてなんかねえし。寿命ったって高が知れてる。どうせ死ぬってわかってたことだ。減ろうと増えようと大差ねえよ」


「でも、あんな危ない目に遭わせちゃったし……怒ってるでしょ?」


 リッツォは目を丸くした。


「はあ? お前、そんなふうに思ってたの? んなわけあるかよ。むしろ逆だ。逆」


「逆……?」


 リズは首をかしげた。


「だってそうだろ? それまで俺はベッドで寝てるしかなくて、あの狭い空間だけが俺の知る世界だったんだ。でもリズが失敗してくれたおかげで、俺はこの体を借りていろんなことを見聞きすることが出来た。つまり、リズがより広い世界へ連れ出してくれたってわけだ」


「そ、そんなつもり、まったくなかったけど……」


「わかってんよ。結果的にそうなっただけだ。でも俺はそうなってよかったと思ってる。あのままベッドで寝続けてたら、俺はきっとそのまま死んでたんだ。周りへの不満と、病気への恨みを持って、親の想いも知らないで、とげとげした気持ちのまま……そんな想像すると、ちょっと怖いくらいだ」


「じゃあ、本当に怒ってないの?」


「そう言ってんだろ。あれは俺に必要なことだったんだ。リズ、お前と出会えたことも、多分そうなんだ。俺はリズに出会えたから、真っ当に死ねた」


 リズは悲しげな表情を浮かべながらも、そこに笑みを重ねた。


「真っ当に死ねたなんて……変な言い方」


「そう思ったんだからいいだろ。礼を言ってんだぞ」


「お礼より、リッツォとはもっと長く話してたかったよ。……ベーラの体で、また一緒にどっかへお出かけする?」


 期待を含んだ眼差しを向けるリズに、リッツォは語気を落として言った。


「そうしたいとこだけど、そうもいかねえんだ。猶予期間がもうなくてな。言っただろ? 長居はしねえって」


「それじゃあ、もうすぐ魂は……」


「この世を離れて、あの世へ連れてかれる。……寂しいからってすぐ降霊術で呼ぶんじゃねえぞ。死人は死人で、あの世での暮らしってもんがあるらしいからな」


「そうなの? すぐ怒鳴るリッツォじゃ心配ね」


「大丈夫だよ。あの世にリズはいねえからな」


 一瞬、口を曲げて怒りを見せたリズだったが、それがすぐに消えると、次には寂しさが表れ、おもむろに動いた両手は灰色の体を優しく抱き寄せた。


「……泣くなよ? 涙で別れるのはいやだからな」


 呟いたリッツォにリズは頷く。


「これまで十分泣いたから。……約束してくれる? 私も、いつかリッツォのとこへ行くと思うけど……」


「随分先の話だな」


 小さく笑い、リズは続ける。


「……それまで、私のこと、忘れないでほしいの。会えなくても、ずっと友達だからね」


「忘れるかよ。リズは初めて出来た友達なんだ。これからもな」


 リッツォはリズの肩に頬を寄せ、リズはリッツォの背中を撫でた。これが本当の最後の別れだった。また会えるのは何十年も先のことだ。それまでの長い別れを思い、二人はしばらく黙ったまま身を寄せ、そして惜しむように離れた。


「……じゃあ、そろそろ行くかな」


「うん。元気でね……っていうのもおかしいか」


「俺は今が一番元気だからな。リズは、早く一人前の魔術師になれよ。そんであの世に来たら、俺を驚かせてみろ」


「いいよ。何の文句も付けようのない魔術、見せてあげるから、楽しみにしてて」


 笑顔のリズを見つめると、リッツォはその場に座り込んだ。


「へへっ、気長に待ってんよ。それじゃな……」


 リズを見ていた大きな目からリッツォの影が消えると、ベーラの頭はがくっと垂れた。そして再びゆっくりと頭を上げる。そうして目が合ったベーラの目は、もう元の猫らしい無表情に戻っていた。


「ベーラ、ごめんね。お昼寝に行っていいよ」


 言ってリズが頭を一撫ですると、言葉を理解したのかそうでないのか、おもむろに踵を返したベーラは、家の壁に沿ってその裏側へと消えて行った。それを見送り、リズはジョウロを片手に立ち上がる。


「……そうだ。水あげないと」


「お友達は帰ったのか」


 声に視線を向けると、家の窓から父親が顔をのぞかせていた。


「見てたの? それなら言ってよ」


「別れの時間を邪魔しちゃ悪いと思ってな。……ちゃんと出来たか?」


 リズは笑って頷く。


「うん。大丈夫」


 これにファルカスも笑みを見せた。


「それならいい。そろそろ昼食だ。手伝ってくれるか」


「水あげたらすぐ行くよ」


 リズはジョウロを軽く持ち上げて見せる。


「わかった。じゃあ先にベーラの食事を作ってやるかな」


 そう言いながらファルカスは窓際から離れて行った。リズも小走りで畑へ向かうと、そこへまんべんなく水をかけて回る。流れ落ちる水は陽光を受けてきらきらと輝きながら緑を濡らしていく。その水が跳ねたのか、リズの頬にも水滴が付いていた。しかしそれには構わず、リズは微笑んで水をやり続ける。胸の中の、リッツォの言葉を忘れないように。

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猫と魔術師と不自由な魂 柏木椎菜 @shiina_kswg

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