十五話
突然のことに戸惑いながらも、リズは倒れた少年に駆け寄ると、とりあえずその体をフレインから遠ざけることにした。両脇に手を差し込み、ずるずると引きずる少年の体は驚くほどに軽い。外套越しにつかんだ腕はまるで骨だけのように細く硬い。こんな体では倒れるのも当然だと思えた。壁際まで運び、そこに寄りかからせると、リズは少年の顔をのぞき込む。伸びた黒い前髪の下で、半分だけ見える茶の瞳には活力がなく、何か体に問題が起きているのは明らかだった。
少年を気にしつつ、リズはフレインの様子もうかがう。目を向けた先では、フレインはまだかがんだ状態で腰の辺りを押さえていた。よく見れば押さえている下に赤いものが滲んでいる。そしてそこに何かが突き刺さっているようだった。
「礼、くらい……言えよ……」
少年のかすれた声にリズは視線を戻した。
「あ、ありがとう。でも、あなたは……?」
「はあ? ……被害者を、忘れるなんて……最低な、やつだな……」
その言葉と口調に、リズははっとする。
「……まさか、リッツォなの?」
これに少年の口元がわずかに笑った。
「へっ……驚いた、か」
「これって……本当のリッツォの姿なの? どうやって戻って……」
「リズは、頼りに、なんねえから……自力、で、戻って、やった」
「自分の力で戻れたの? だったら初めからそうしてよ」
「あのなあ……そんな、簡単に、戻れた……わけじゃ……」
リッツォは苦しい呼吸に一旦言葉を止める。
「無理しないで。……本当に、重い病気なんだね」
「信じて……なかった、のかよ……」
「そういうわけじゃないけど……でも何でここに来たの? 私がここにいるってどうしてわかったの?」
「まあ……いろいろ、あって……森を、這いつくばりながら……この家、に、たどり、着いたって……ことだ」
するとリッツォは視線だけを動かし、フレインのほうを見やった。
「……あの女、には、ちょっと世話に、なったからさ……リズを、助ける、ついでに……拾ったガラス、で、礼を、してやった……」
フレインは苦痛の表情を一瞬だけ二人に向けると、腰に刺さったガラスの破片をゆっくりと引き抜いていく。血を流しながらも赤く染まったガラス片を床に放り、フレインは深く息を吐く。
「……随分と、ひどいお礼の仕方ね」
微笑みを取り戻したフレインは傷をかばいながら立ち上がった。それを見てリッツォも壁に手を付き、立ち上がろうとする。
「駄目、リッツォは動かないで」
「動かなきゃ……役に、立てねえ、だろ」
「そんなこといいから、隙を見て逃げて」
「俺は、お前を……助けに、来たんだぞ」
「もう助けられたよ。あとは私がどうにかするから」
「一人で、どうにか、出来る……わけ、ねえだろ」
「いいから、言うこと聞いてよ!」
二人が言い合う様に、フレインはくすりと笑う。
「私のことは無視して、喧嘩をするの? それは何だか寂しいわ。お仲間に……入れて」
フレインの右手が振られる。それに気付いてリズは叫んだ。
「……伏せて!」
立ち上がろうとしていたリッツォを強引に押さえ込み、リズは壁となって伏せた。その直後、背中に強い衝撃が走った。
「あうっ……」
全身が揺さぶられる衝撃と痛みに、思わず声が漏れる。
「リズ! ……何、やってんだ……俺の、ことなんか、いい、んだよ……」
押さえ込むリズを押し退け、リッツォはよろめく足で立ち上がる。だがリズはすぐに外套の裾を引っ張り、止めた。
「駄目だってば。そんな病気の体じゃ、死んじゃうよ」
リッツォはリズを見下ろし、不敵に笑った。
「そんなの……俺が、一番、わかってんだよ……」
リズは怪訝な顔で見つめる。
「この、体は……動かす、だけでも、苦しい……けど、ここまで、来る、間、俺は……生きてるって……思えて、何か……わくわく、してたんだよ……わかる、か?」
同じ表情で見つめるリズをいちべつし、リッツォはフレインへ視線を向けて続けた。
「これまでの、俺は……寝てる、だけで、あとは死ぬ、のを、待つだけ、だった。生きてる、意味が……何にも、わからなかった……でも、最後、くらい……一生に、一度……その、意味を、見つけて、体を、張ったって……いいだろ……俺には、はなから、守りきりたい、命……なんか、備わって、ねえんだから……」
「死ぬ気、なの?」
裾をつかむリズの手をリッツォは振り払った。
「……ああ。悪いか?」
ふらふらとフレインに向かって歩き出すリッツォを、リズはすぐさま引き止めようとする。
「あなたが死んだら、わ、私のせいにするでしょ! そんなの絶対――」
リッツォの背に手を伸ばした時、横からの見えない衝撃がリズの体を吹き飛ばした。
「きゃあ――」
「リズ! ……てめえ……」
睨むリッツォにフレインは微笑む。
「だって私のことをあまりに無視するから……あなたが、お相手をしてくれるの?」
「そうだよ……お前は、俺と……死ぬんだ」
「一度傷を負わせたからといって、いい気になるのは早いのではないかしら? ……いえ、二度だったかしら」
するとフレインは真っすぐリッツォに向かうと、抵抗する間も与えずに羽交い絞めにした。
「体に全然力が入っていないわね。以前とは違い、私の腕から逃げ出すのは難しいと思うけれど……元猫さん」
「逃げる、気なんか……ねえよ……お前の、ほうこそ……魔術の、壁が、なきゃ……よわよわな、くせに……」
「あの子の小細工の影響は間もなく消えるわ。けれど障壁がなくとも、あなたを使えばあの子は何でも聞いてくれるはずよ。とてもあなたのことを心配しているようだから……」
瓦礫の埃にまみれたリズが痛みをこらえながら立ち上がる姿に向かってフレインは言った。
「お友達とまた喧嘩をしたいのなら、私のお願いを聞いてくれないかしら」
床に打ち付けた全身に走る鈍い痛みに顔をしかめながら、リズは視線を上げた。
「あなたが持って行ってしまったファルカスの魂を、返してくれない? そうしてくれれば、このお友達は無事にお返しするわ」
「……お父さんの魂は、絶対に渡さない」
これにフレインは残念そうに首をかしげる。
「そう……では、この子は用なしということね」
羽交い絞めにするリッツォの胸に、フレインは右手をかざす。
「まっ、待って!」
慌てて止めたリズに、フレインは笑みを浮かべた。
「……待てるのは、あなたが私のお願いを聞いてくれた時だけよ。そうしてくれるの?」
「う……」
リズは返答に詰まる。父の魂を渡せるはずもなく、だがそれを聞かなければリッツォの命が奪われてしまう。そのどちらもリズは選べない。こういう時に人はどう動けばいいのか、初めて遭遇するリズには答えがわからなかった。
そんなリズを見て、リッツォはうっすらと笑い、言った。
「そんな、顔、すんな……俺の、こと、は……いいって……言った、だろ」
「いいわけないでしょ。見捨てるなんて……」
「それで、いいんだよ……俺ごと……こいつを、やれ……」
「出来ないよ。そんなこと……」
「考える、な……早く……」
「リッツォを死なせるなんて、嫌だよ!」
リズの悲痛な声に、リッツォは疲れたようにうつむいた。
「はあ……わかんねえ、やつ、だな……もう、いいよ……」
そう言うとリッツォは力の入らない手足でささやかにもがいて抵抗を試みる。だが細く鈍い体ではフレインの力に敵うはずもない。
「献身的なお友達ね。犠牲になってもいいだなんて。……あなたは、これに応えるのかしら?」
フレインの青い目が選択を促してくる。しかし彼女が望むのはファルカスの魂だけだ。それをリズが拒んだとしても、フレインは必ず力尽くで奪いに来るだろう。承諾しようと拒もうと、彼女には大して不都合は生じない。だがリズは違う。父親の魂とリッツォの命、そのどちらも同じように重く、天秤にはかけられないものだ。たとえ一方を選択したとしても、リズにとっては失うものが大き過ぎる。つまりこれは進退きわまった窮地なのだ。一歩も身動きが取れない、最悪な状況。リッツォを人質にしたのは、リズを追い込む方法としてまさに的確と言えた。
苦しい表情で黙り込むリズを見ながら、リッツォはぼそりと呟いた。
「……卑怯、だな」
「私は、目的のためなら手段を選ばないことにしたの。もう後悔をしたくないのよ」
「それは、俺も、同じだ……後悔、なんて、残すもんじゃ、ねえ……!」
リッツォの左手が不自然に動いたと思うと、直後、フレインは自分の足に激痛を感じた。
「ぐっ……!」
リッツォから思わず身を離し、痛む箇所を見ると、左の太ももに垂直にガラス片が突き刺さり、ドレスに赤い染みを作っていた。リッツォは外套のポケットにもう一枚ガラスを隠し持っていたのだ。そうわかってフレインは気付く。先ほど無駄にもがいたのは、そのガラスを取り出すことを隠すための動き――またしても隙を突かれたことに、フレインは悔しげにリッツォを睨んだ。
「卑怯には、卑怯で、な……」
にやりと笑い、リッツォはフレインから離れながら叫んだ。
「リズ! 今だ!」
はっとしたリズは一瞬出遅れるも、すぐにナイフを構え直してフレインに突っ込んで行った。
「そうはいかない……!」
口の中で短い呪文を唱えたフレインは、向かってくるリズを正面から待ち受けた。ナイフはその身を貫くかに見えたが、切っ先が触れようとした瞬間、何かがそれを防ぎ、弾き返した。勢い余ったリズもそれにぶつかり、体は背後にいたリッツォを巻き込んで床に倒れ込んでしまう。
「……うう、障壁が、戻って……」
魔導器で放った解呪の効果は、ナイフが届く寸前で消えてしまっていた。それをわかってフレインは冷静に障壁を張り直したのだった。
「惜しかったわね。もう少しだけ早ければ、私に傷を負わせられたのに……」
血が流れる左足を引きずり、フレインは倒れた二人に近付く。
「……これが、あなたのお返事なの?」
微笑む目に見下ろされ、リズはリッツォをかばうように抱き抱えた。
「私の邪魔をしなければ、こんなことをせずに済んだというのに……」
フレインの右手がリッツォに向けられた。
「やめて! お願い!」
骨だけのようなリッツォの体を抱き締めながら、リズは恐怖に目を瞑った。その背後では聞いたことのない呪文が唱えられていく。見習いの自分では、もう成す術がない――絶望は全身を震えさせ、無力感を苦しいほどに突き付けてくる。それを感じ取ったのか、リッツォは緩慢な動きでリズの腕を労うように叩いた。仕方ない、とでも言っているふうにリズは感じた。自分は最善を尽くしたのだろうか。そもそも一人で乗り込んできたことは正解だったのか。もう少し冷静に行動していたら、リッツォが殺されることもなかっただろう――頭の中を行き交うのは今さらなことばかりだ。
「ごめんなさい……」
リズはリッツォの肩に顔を埋め、そう言うのが精一杯だった。
すると詠唱するフレインの声がなぜか止まり、一瞬の静寂が辺りを覆った。どうしたのかとリズが顔を上げようとした時、すぐ側で耳をつんざくような雷鳴がとどろいた。それに再び顔を伏せたリズだったが、その雷鳴が雷鳴ではなく、ある魔術によるものだとリズはすでに知っていた。音の鳴ったほうへ目を向ければ、中空に白く光る筋があり、そこから見覚えのある姿が勢いよく飛び出してきた。
「リズ、無事か!」
現れた人物――ファルカスは、娘をすぐに見つけると駆け寄り、その様子をうかがった。
「お父さん……!」
安堵に涙が出そうになりながら、リズは父親に抱き付いた。
「捜したぞ。いなくなったと思ったら、一人でこんな無謀なことを……」
「お父さんをもう、取られたくなかったから……守りたかったの……」
一言叱るつもりだったファルカスだが、親を思う娘の気持ちに、埃で汚れた頭をぽんぽんと軽く叩くにとどめた。
「親子共々来てくれるなんて、とても嬉しいわ。ファルカス」
フレインは歓迎と喜びの笑みを浮かべる。それにファルカスは身構え、警戒の目を向けた。
「お前には騙された。まさか生きる屍だったとは」
「何を言っているの? 私はこうして生きているわ。ほら、血も通っている……」
そう言ってフレインは左足に刺さったガラス片をぐいと引き抜いた。途端ドレスに赤く濃い染みが広がっていく。
「……なるほど。安心した。魔術の天才であっても、やはり不死身ではないようだな」
「当然よ。私は怪物ではないわ。ただ実験を終わらせ、望みを叶えたいだけ……」
「お前は怪物じゃなくとも、人殺しには違いない……その望みは断念してもらう」
表情を変えたファルカスは、リズを自分からやんわりと押し離す。
「お父さん、私も一緒に――」
「駄目だ。リズはその少年を連れて離れてろ」
「でも、お父さんの体は平気なの? 魂が離れ過ぎた影響が……」
「万全じゃないが、休んだおかげで少しはましになった。大丈夫、心配ない」
ちらと娘に視線をやると、その目は安心させるように微笑んだ。出来れば助けになりたい。だが大した魔術が使えない自分では足手まといになることはわかっていた。悔しい気持ちを押し殺しながら、リズは頷いて離れるしかなかった。
「私のお相手をしてくれるのね……今度は堂々とその魂をいただくわ」
フレインが右手に魔力を溜め始めたのを見て、ファルカスはリズに叫んだ。
「急いで離れろ!」
その声にリズは倒れて動けないリッツォを抱え、慌てて走り出す。直後、対峙した二人の間に激しい光が弾け飛んだ。その風圧に背中を押されるように、リズは部屋の隅へ退避した。
「……リッツォ、大丈夫?」
大きな瓦礫の陰に横たわらせ、その青白い顔をのぞき込む。今にも閉じてしまいそうなほど薄く開けた目は、かろうじてリズの視線をとらえた。
「大丈夫、に、見えるか……?」
発せられた声は、先ほどまでよりもさらに弱く、小さくなっていた。
「苦しいなら、もうしゃべらなくていいから」
心配そうに言うリズに、リッツォはふっと笑った。
「お前を、助けに……来た、のに……な……」
「わかってるから」
「わかって、ねえよ……何で、俺と、一緒に……あいつ、を、やらなかった……」
「出来るわけないでしょ!」
「俺達、は、友達、でも、何でも……ねえ、んだ……気遣う、必要、は――」
「友達じゃないから見捨てていいなんて理屈、あるわけないでしょ! 自分を諦めるようなこと、言わないで!」
真剣に怒るリズをリッツォはぼんやりと見つめた。
「それに、出会いは降霊術の失敗で、本人にも会ったばっかりだけど、私達、友達になれるでしょ……?」
聞いてきたその言葉は、リッツォの心にじんわりと染み込んでいった。幼い頃から作りたくても作れなかった友達は、どこか憧れにも似た思いがあったが、こんな自分では無理なことだと早々に諦めていた。それが命の終わりの見え始めた今になって作れるとは……。リズの言葉は、まだ十六歳の少年にとって素直に嬉しく感じることだったが、ねじけた日々を過ごしてきたリッツォの口は、そう素直に感情を吐露出来なかった。
「……俺に、失敗、の、責任……果たして、くれた、らな」
「いいよ。そのお詫びはする。だから、それまで絶対に死んじゃ駄目だからね」
リズのあまりに真剣な眼差しは、リッツォの心を戒めるよりも、温かく包み込んでくるようだった。
「……しょうが、ねえ、な……」
浅い呼吸をしながら口角をわずかに上げて笑って見せた。それにつられるようにリズも笑顔を浮かべた。
びゅん、と背後から風が吹き、小さな瓦礫が石つぶてとなって飛んでくる。リズの振り向いた先ではファルカスとフレインが互いの魔術を駆使して力をぶつけ合っていた。そのたびに強い風圧が二人の元まで及ぶ。部屋の中には稲妻や炎が走り、妖しくも美しい光が無数に飛び交う。これが本気を出した魔術師の戦い。普段はまず見ない攻撃魔術の数々に、リズは圧倒されながら見守る。
だが、見ているとだんだんとわかってくる。ファルカスは必死に攻撃を避け続けているが、フレインはほとんど動かず、攻撃を受け止めていた。そこには見えない壁が張られ、ファルカスの魔術はフレインに少しも触れずかき消されていく。やはり最大の難関となるのは障壁……それに対してファルカスも解呪の呪文を唱えようとしているふうではあったが、そうするとフレインの攻撃が容赦なく飛んで来て、詠唱を中断せざるを得なくなってしまう。そうしてフレインは徐々にファルカスとの距離を縮めようとする。その身を捕らえられれば、魂を奪われることは避けられないだろう。
「どうしよう……お父さんが……」
おろおろするリズにか弱い声が言う。
「助け、て、やれよ……」
「そうしたいけど、私なんかがどうやって……」
「知るか……俺は、魔術の、ことは、知らねえ……けど、さっき、は、……壁、を、消せた、じゃねえか……」
「あ、あれは魔導器を使ったから……でももうフレインは知っちゃったし、魔導器もあれで全部使っちゃって……」
「本当、か? 他に……ねえ、のかよ」
「あれしか持って来なかったの。あれに全部懸けて……」
これにリッツォは呆れたように鼻を鳴らした。
「使えねえ……やつだ……あの、女、相手に……切り札、一つ、だけ、とはな……」
「だって、それしか思いつかなかったんだから、仕方ないでしょ!」
「だから、お前は……頼り、に、なんねえ、んだよ」
「な、何よ! こんな時にわざわざ不満ぶつけなくても――」
その時、二人に一段と強い風圧が当たった。なびく髪を押さえ、リズは振り向くと、攻撃魔術のやんだ空間には父親が倒れていた。
「お父さん……!」
息を呑み、心臓が止まりそうな胸を拳を握って押さえた。ファルカスは両肘を付き、立ち上がろうとするが、そこへフレインがゆっくりと歩み寄って行く。
「そろそろ、力の差を思い知ったでしょう?」
肩で息をするファルカスに対し、フレインはどこにも乱れた様子はなく、微笑みを浮かべていた。
「お前の魔力は、無尽蔵なのか……?」
「これも、持って生まれたものの一つよ」
にやりと笑い、フレインはファルカスの首をわしづかみにする。
「苦しいのは今だけ……また安らかな眠りに戻りなさい」
「ぐっ、ううっ――」
首を圧迫され、ファルカスはフレインに両手を伸ばすが、障壁がそれを拒む。その間にフレインは呪文を唱え、ファルカスからその魂を強引に奪おうとし始める。同じことが繰り返されてしまう――切迫した状況に何も出来ないとわかっていても、リズは飛び出さずにいられず、一歩を踏み出した。だがその足は何かにつまづき、危うく転びそうになって止まった。
「……!」
ふと足下を見て、リズは目を丸くした。そこには小さな丸い玉が転がっていた。先ほどまでは見かけなかったもので、もしかしたら風圧で転がって来たのかもしれない。しかしそれよりも不思議なのは、なぜ魔導器がまだ残っているのかだった。破裂して魔術を放てば、丸い殻は破れているはず。だがこれは未だに丸い形を保っていた。
「……不発の魔導器?」
そうとしか考えられなかった。投げ付けたものの、何らかの理由で上手く中に衝撃が伝わらなかったのだろう。そうと知り、リズはすぐにそれを取った。これは一か八かの賭けになる。中の欠陥が理由で破裂しなかったのなら、もう一度投げたところで効果はなく、意味もない。だがそうではなかったとしたら、再びの切り札になり得る。フレインはリズがもう魔導器を持っていないと思っているだろう。その隙を狙えば、ファルカスを助けられるかもしれない。
「う、あ――」
父親のうめき声が娘を急かす。フレインの意識も視線もファルカスだけに向いている。今なら――リズは思い切り小さな玉を投げ付けた。と同時に、魔術の発光体も放った。これは魔導器の存在を隠すための攻撃だ。こんな初歩的な魔術でフレインをどうこう出来るとは思っていない。しかしこれに意識を向けさせることは十分に出来るはずだ。
発光体はフレインの横顔にぶつかり、瞬時にかき消えた。その足下には小さな玉がころころと転がっていく。リズはそれが見つかっていないかとはらはらしながら反応を待った。これにフレインは横目でリズを見やり、かすかに笑みを向けてきたが、そのまま詠唱を続けた。リズの邪魔は何ら妨害にならないという判断なのだろう。それならば意識をこちらに引き付けるまで――リズはその時が来るまで、フレインに向けて発光体を放ち続けた。無駄な抵抗をとでも思っているのだろう。フレインの横顔は攻撃にも動じず、冷静なままだった。だがそれもわずかな間だけだった。
――パンッ!
その希望の音が高らかに鳴ったのと同時に、リズは最後の発光体を放ちながら叫んだ。
「お父さん! 反撃して!」
これにすぐさま異変を感じ取ったフレインは詠唱を止めた。そして迫る発光体に目をやった瞬間――
「うっ!」
あるはずの障壁は発光体を素通りさせ、フレインの頬にぶつかった。弾かれた頭は大きく傾き、ファルカスの首をつかんでいた手を放させる。
それを見てすぐさまファルカスはフレインにつかみかかった。その体を押さえ込み、形勢を逆転させる。驚いたようなフレインの目と合った直後、ファルカスはその胸に手をかざし、攻撃魔術を放った。
「――!」
ドンッという衝撃と風圧がフレインの胸を押し潰した。声にならない悲鳴を上げ、フレインの体から力という力が抜けていくのがわかった。苦痛に歪んだ顔は宙を見つめ、手と足は微塵も動く気配がない。この一撃で勝負はついた。あれほどてこずらせた相手だというのに、何とも呆気ない終わり方だった。
「……フレインに、勝てたの?」
信じられないリズは倒れたフレインを疑いながら父親に歩み寄った。
「終わった……」
立ち上がりながらファルカスは呟く。その目は憐れみを含んでフレインを見下ろした。
「お父さん、怪我はない? 痛いところは?」
服の端を破かれ、埃で汚れた父親をリズは心配そうに見つめた。
「平気だ。ありがとう。リズの助けがなければ、また魂を持って行かれるところだった……それにしても、上手く解呪が出来たもんだな」
魔導器を勝手に持ち出されたことをファルカスはまだ知らないようで、リズは気まずい表情で答える。
「あ、それは、その、私というより、お父さんの――」
その時、足下のフレインがわずかに身じろぎしたのを見て、リズは小さな悲鳴を上げて父親の背後に身を隠した。
「う、動いた……!」
ファルカスも気付き、リズをかばいながらフレインを見据えた。そんな親子をフレインは薄く開けた目で見つめる。
「……あ……あ……」
震える口元は満足な言葉も発せないようだった。それでもフレインは残った力で何かを言おうとする。しかしあまりに小さい声はなかなか聞き取れない。するとおもむろにファルカスは片膝を付くと、その口元に耳を寄せた。
「お父さん、危ないよ!」
止めようとする娘を制し、ファルカスはフレインに聞いた。
「言いたいことでもあるのか」
「あ……会い、たい――」
苦しげな吐息を混ぜた声が言う。
「彼に……会いたい……だけ、なのに……」
ゆらゆらと揺れながらフレインの細い左手がファルカスの肩をつかんだ。これにリズは声を上げようとしたが、ファルカスは目でそれを止めた。
「なぜ……皆……邪魔を……するの? ……会いたい……会いたい……」
恋人へのこの想いだけで、フレインは六百年もの時間を生き永らえてきたのだろう。裏切りや、理不尽な仕打ちに遭っても、たった一人の理解者で愛する者との再会だけを夢見ながら。しかし、フレインは手段を選ばなかった。そのためなら無関係の命までも巻き込んでいった。盲目的に突き進んだ結果、犯してきた数え切れない罪は、もう同情の余地はなく、憐れむべきでもない――そう頭ではわかっていても、リズの心はフレインのこの姿に強く締め付けられた。美貌があり、魔術の天才と呼ばれた彼女なら、もっと別の道があったはずだ。運が悪かったと言えばそれまでだが、人生は運だけでは決まらない。自らの決断こそが道を切り拓けるのだろう。それをフレインは誤ったのだ。愛を追い求め、怒りと悲しみに身をゆだね、生きる屍になることを選んでしまった。恋人との夢を過去の思い出に出来ていれば、また新たな幸せが訪れていたかもしれないのに。憎むべき女だが、やはり可哀想な人だ――リズはそう感じながら眺めていた。
「お前は十分苦しんだ。もう、解放される時だ」
ファルカスは真っすぐ青い目を見つめ、言った。
「ならば……会わせて……彼、に……」
「目を閉じろ。そして呼ばれるほうへ行け。そうすれば会える。必ず」
「会える……? 私は……会えるの……?」
「ああ。もうすぐだ。もうすぐそこに……」
ファルカスはフレインの顔に手をやると、その目を静かに閉じさせた。
「……そこに……いるの? ……イグ、ナス……」
恋人の名を呼ぶと、肩をつかんでいた手ががくりと落ちた。それを見てファルカスはフレインからゆっくりと離れる。その直後だった。白く細い全身の肌がじわじわと色あせ始めると、その身は急激にどす黒く腐り、皮膚は干からびて骨に張り付き、その皮膚も溶けるようになくなると白い骨だけとなり、最後にはその骨も灰となって崩れてしまった。たった今まで横たわっていた美しい姿は、ものの数秒で服と灰だけを残し、その形を消した。リズは呆然としながら父親に聞く。
「……何が、起こったの?」
「おそらく、自身にかけた魔術が……いや、呪いとでもいうべきか、それが息絶えたことで解けたんだろう。そのせいで止まってた六百年の時間が一気に押し寄せ、体を灰に変えた、というところか」
これでフレインは生きる屍から人間に戻れたのだ――リズはそう理解した。
カランッと瓦礫が転がる音がして、二人は背後に振り向いた。その先では壁に這いつくばるようにして立とうとしているリッツォの姿があった。
「リッツォ……!」
辛そうな様子に、リズは慌てて駆け寄った。
「……どう、なった……」
体をリズに支えられながらリッツォはかすれた声で聞いた。
「終わったよ。フレインはもういない」
「全員……無事、か……」
「ちょっと怪我はしたけど、私もお父さんも大丈夫だよ。……一番重症なのはリッツォかも」
安心させるため、リズは冗談めかして言った。しかしリッツォには笑ってやる余裕もなさそうだった。
「リズ、彼は?」
背後からのぞき込んだファルカスが聞いた。
「リッツォだよ。話したでしょ? ベーラの中に入ってたって。でも自分の力で戻れたんだって。すごいよね」
「それは確かにすごいが……随分と体調を悪くしてるようだな」
リズは腕の中の青白い顔を見つめた。
「重い病気らしくって、それなのに私のためにここまで来てくれて……リッツォ、すぐに家まで運んであげるから」
これにリッツォの目は、ごく浅く瞬きをした。
「無事、か……よかった……何か、気が……抜け、て――」
リッツォはゆっくり目を閉じると、頭をがくりと垂らした。全身をリズに預けたまま、体は微動だにしない。
「リ、リッツォ! どうしたの、しっかりして!」
「意識を失ったようだ。まずそうだな……急いで運ぼう」
ファルカスはリッツォを受け取り、その体を抱き抱える。リズはそれを心配そうに見つめながら呼びかけた。
「リッツォ、まだ眠っちゃ駄目なんだから! 責任も果たせてないのに……友達になったばっかりで置いてかないで!」
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