花が咲くまで初見月。

秋色

中庭

 午前十時から始まる休憩時間。工場の敷地にある凍えそうな中庭から空を見上げると、まだ白く細長い三日月が見えていた。細くて折れそうな月。

 今日は金曜日。でもうきうきした気分からは程遠い。


 今朝もいつも通り、寮から送迎バスに乗り、職場に向かった。早朝勤務の週なので、五時半に送迎バスに乗ると、十分もかからずに工場に着く。外はまだ薄暗く、車窓から見える建物の影も朧気おぼろげな中での出勤だ。


 そして十時まで働き、早朝勤務の休憩時間が始まる。この後はいつも通り午後三時まで仕事を続け、またバスに乗り、寮に戻るだけ。

 高校を卒業した一年後に工場のライン作業を始めて、もうすぐ二年。毎日は規則正しく、あっという間に過ぎていく。



 月曜日の朝礼で主任が話していた。


 ――旧暦での正月、春節が始まる。材料等は一部ストップするから、大変な時期でもある。そしてこの時期を初見月とも、日本では言う。何事も初めて見るつもりで、初心に戻って仕事に取り組むように――


 でも初心になんて今更戻れないよ、と心の中で呟く。過ぎ去った時間は取り戻せないから。


 いつもなら休憩時間に同僚と昨日のテレビドラマの話や工場内での噂話をする。

 でも今日はみんなと雑談する気になれず、売店でサンドイッチを買うと、中庭に足を運んだ。屋上から下を見下ろした時にほんの少し緑の一角が覗いていて、いつも気になっていた緑化のスペース。



 そこはひっそりとして、緑の木々の間に小さなベンチもあるのに、人の姿はなかった。禁煙のスペースだからかもしれない。この職場には喫煙者が多いので喫煙できる場所に向かう人が多い。


 こんな綺麗な場所なのに。


 私はベンチに腰かけ、一人、サンドイッチを食べていた。

 その時、一人の同僚が現れた。芽衣さん。私より六才年上のスッキリとした目鼻立ちの美しい人。ショートボブの前髪は斜めに流れ、顎のラインで微かに揺れている。黒い眼鏡をかけていてもその綺麗さは際立っていた。他の同僚に比べると、一人で行動している姿をよく見かける。正直、うらやましい。私はこうやって中庭に来るのも、コソコソしている。



「あら、翔子ちゃん。中庭で会うなんて珍しいよね」


「芽衣さんはよくここでお昼を過ごすんですか? ここ、静かですよね?」


「でしょ? ここでよく過ごしてる。少しでも陽の光に当たりたくて」


「そう言えば、芽衣さん、しばらく病欠でしたよね」


「私、年末にコロナに罹ったから。このお正月は実家にも帰らずに寝込んでいて、陽の光もしばらく見ていなかったの」


 芽衣さんは年明けからずっと休んでいた。一週間前に復帰したばかり。そしてその姿は一層ほっそりしたように感じられた。


「そう……。大変でしたね」


「仕方ないよ。ここ、いい?」ベンチに座る私の隣を指した。


「はい。あ、私がお気に入りの場所、とってしまってたんですね」


「いや、いいよ。年末年始寝込んでたから、その分ここで、よく動画を見たりしてるの」


「え?」


 芽衣さんはバッグからスマートフォンを取り出した。


「ほら、旧暦だと今はお正月だって、月曜日の朝の朝礼で主任さんが話してたでしょ? だから物流が止まるとか何とか。実家にいる時は、お正月にみんなでよくテレビを見てたの。祖父母はテレビでお正月にやってる演芸番組やコメディ映画が好きで。新年は笑って過ごさなきゃってよく言ってた。笑ったら福が来るって」


「そうなんですか? えっとそれで……」


「それで面白動画を探して見ようと思ったの。ヘンかな?」


「ううん。でも芽衣さんが面白動画なんて意外な感じがしただけです。そうなんだ。ちょっと遅れたお正月なんですね。

 そう言えば私も子どもの頃、お正月は家族でよくお笑い番組を見てたような。その後、家族で初詣に行ったり」


「子どもの頃はそうよね。大きくなると家族以外の人と出かけるようになるんだけど」


「そっか。そうですよね」




 そうだ。芽衣さんはリア充だった。私が工場で働き始めた頃、芽衣さんと私の二人だけが勤務の関係でお昼に遅く入った事がある。その時、二人で色々話した。芽衣さんには結婚する予定のカレシが故郷にいるとい知ったのはその時。そのカレシがいつか花屋を開きたいって夢を持っているから、芽衣さんもその資金稼ぎで工場で働くようになったのだとか。


 その日、名前の由来も話してくれたっけ。芽衣という名前は、薔薇の品種からとっているのだそうだ。家の庭で薔薇を育てていて、それで薔薇に因んだ名前になったって。家が花を育てるような環境だから、花屋さん志望のカレシと巡り合ったのかな、とも言ってた。うれしそうに、少しはにかみながら。

 その時、芽衣さんは「私の場合、完全に名前負けよ」と言って、私は「全然負けてません! 」と言ったっけ。

 そう、薔薇に全く引けを取ってない。カレシさんにとって、自慢のカノジョなんだろう。うーん、世の中ちょっと公平さに欠けている。


「そう言えば年末年始に帰らなくて、カレシさんは寂しくないんですかね?」


「ああ……」と芽衣さんは溜息をついた。「カレシとは別れたの。店を持つ夢も断念したし、彼は別に好きな人ができたみたい」


 沈丁花の蕾が揺れている。

 私は言葉を失った。


 **


 空には心に突き刺さりそうな細い三日月。


「やっぱりいつも一緒にいないとダメなのかもね。私が、躍起になり過ぎてたのが原因かもしれない」


 芽衣さんはそう言うと空を見上げ、手を開いて腕を伸ばした。そして「ね、あの月、指輪に見えない?」と精いっぱい明るく話す。

 まるで自分の指に月の指輪をはめようとしているみたいだった。


 私の眼からは知らず知らずのうちに涙が溢れ出ていた。


 それは、自分に対しての涙だ。身勝手な自分。


 その日の朝、二年間片想い中の男性ひとの左手の薬指に昨日までは無かった指環が光っているのを発見したから。


 二年間、単調な工場の仕事の日々の中で、その人と偶然会うのだけが唯一の清涼剤だった。材料の納品と受注に事務所に訪れる人。仕事で毎日ほんの少しだけ言葉を交わす仲だけど、たまに世間話をする事もある。名前と出身地と好きな食べ物位しか知らない。ただここの職場にも何処にもあまりいない、静かで穏やかな笑顔の人。いつかは、この工場の敷地を離れて会えるって勝手に思っていた。

 二人で過ごす楽しい時間を空想していた。


 毎日ほんのちょっとしか会わないのに。これは無理だよね。


 今日は、この指環の話題がお昼休みにされるのを恐れ、休憩時間にみんなの輪から外れ、中庭に来た。誰も私の片想いなんて知らないのだけど。


「もしかして私のために泣いてくれているの?」

 芽衣さんは心配そうに私の顔を覗き込む。



「ゴメンナサイ。違うの。なんで色々上手くいかないのかなって思って」


 涙は留まる事を知らず、次から次に溢れ出る。

 芽衣さんはティッシュを差し出し、優しく言う。

「上手くいかない時は、何したって仕方ないものよ」


「芽衣さん、ここに働きに来たの、後悔してない?」


「全然。ずーっと時が経ったら、きっとここで働いた事、宝物みたいな思い出になると思うから」


 もらったティッシュは、私の涙で水分含有率が百パーセントになっていそう。


「本当? 私、辞めようかなと思ってる。何にもないから」


「何もないかな。いや、あるよ。ここには何でも。気付いてないだけなのよ」


「そうかな」



「私、初めてここに来た時の事をよく思い出すの。建物がすごく大きいし、この街で見るもの全てが珍しかったわ。懐かしい。もう何年経つかな。これまではお店の資金を貯めなきゃってそれだけを目標にしていたけど、それが失くなったからなー。新たな目標を探さなきゃ」

 そう話す芽衣さんは相変わらずの爽やかな笑顔。



 目標? 自分には何もない。そして新しい目標を見つけたら芽衣さんは工場を辞めようと考えているのかもしれないな、なんて心に影がよぎる。


 

「まだ帰ったり……しないですよね? ここに何でもあるって言ってたし」

 私は自分が「辞めようかと思ってる」なんて話したのをさておいて、そんな拗ねた訊き方をした。


「まだ少しはここにいるわ。半年間の契約書にサインしたばかりだし。その後はどうしようかな。わが家の庭の薔薇の事、懐かしいって思うようになったら帰るかも?」そう言って笑う。


「わが家の薔薇が懐かしいなんてステキ過ぎます」


「ちょっと待って。今、見せるから」


 そう言って、芽衣さんは膝の上のスマートフォンを持ち上げた。そして私に見せようとフォトアプリのアイコンをタップした。そのフォトアプリが開く前、ほんの何秒間、暗くなったスマホの画面に芽衣さんの顔が反射した。その俯き加減の顔を目にした時、何かぱりんと割れたような気がした。その一瞬の画面は芽衣さんの隠していた悲しみを写していた。こけた頬。寂しく虚ろな眼。

 それは、面と向かって話していた時には気付かなかった、完ぺきな笑顔の裏の傷付いた姿。



「ね、これ、綺麗でしょ。薄紅色の薔薇。初夏にに咲くんだけど、少し遅れて咲く花もあるんだ。咲く時期はみんな少しずつ違うの」


「うん、綺麗……」


「私ね、本当は父の育てる薔薇の中で、少しでき損なったような小さいのが好きだったりするの」


「分かる気がします。


 ね、動画って面白いのありましたか?」


「うーん。私ね、子どもの頃、お正月見た番組みたいな面白い動画を見て、笑いたかったの。でもここで見てたら、あんまり面白くない」


「そう……か」



 ――そりゃね。だって心の傷が邪魔してるんだよ。私も。こんな時、一人じゃダメなんだから――


「ね、一緒に見ませんか? 私、そういうの探すの、得意なんです」


 



 **


「わぁ、この子犬が同じ方向見てるの、可愛すぎ。あ、ほらこの鳥にからかわれてるネコ、面白いですよ」


「このおばあちゃんのカンフーも見て」


「なにこのヘンテコなサッカーチーム。ありえないー」


「これ、パンダがカンフーしてるよ」



  

 中庭にはいつの間にか薄い陽が差してきていた。木々の緑の葉が煌めいている中、私達の笑い声がさざめいている。気が付くと指環のような三日月は空の色の中に沈んで消えかかっていた。


「ハツミヅキかぁ。初めて見る月って意味? それとも新年の月って意味かも。何か、まだ旧暦ではお正月というのが安心するなぁ」

 私が空を見て呟く。


「え?」


「もう新年になってだいぶ過ぎたかなって思ってた頃、まだまだお正月なんて、ね」


「これから花も咲くしね」


「ん」


 仕事再開のベルが鳴るまであと十二分。


 自分の中でたった一つ目標が出来た。もっともっと面白い動画を探して芽衣さんと一緒に笑う事。





〈Fin〉







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