僕と私のクレイドル
山田あとり
うっかりした。
じいちゃんが振り回した腕を
じいちゃんの裏拳が僕の顔にヒットして鼻血が出た。それを見たじいちゃんが更に暴れる。そんな悪循環。
一度この場を離れるしかないか。これじゃじいちゃんの興奮がおさまらない。
僕は上着を取った。おっと、ティッシュ二・三枚も忘れちゃダメだ。鼻を押さえなきゃ。
「ゴメンじいちゃん、僕コンビニ行ってくるね。アイス食べたくなった。帰ったら片付けるから、お皿置いといて」
僕は財布とスマホを上着に突っ込んで、外に逃げた。
そんなに夜遅くはないけど人通りは少なかった。静かで、気持ちが凪ぐ。せかせかした歩調がゆるんでいくのがわかった。そして口の端からため息が漏れる。
「コンビニ……行くの、めんど」
別にアイスなんか食べたいわけじゃない。むしろあんな、煌々と明るくて店員も客もいる所に足を踏み入れたくなかった。一人がよかった。
暗い道端に僕は立ち止まった。どこに行けばいいんだろ。こんな住宅地に高校生がいられる場所なんて、ろくにない。
鼻血をぐしぐし拭くと、ティッシュをジーンズのポケットにねじ込む。そして僕は途方に暮れた。無意識にとがらせた唇が痛んだ。少し切れてるみたいだ。
「どっこも行くとこないよ……」
我ながら情けない声が出た。
じいちゃんだって暴れたいわけじゃないと思うんだ。
味噌汁ひっくり返したのも上手くしゃべれないのも、脳梗塞と認知症のせいだ。いろんな事ができなくなって悲しくて、苛々してカッとなる。
それで俺に怪我させて。怒られるんじゃないかって怖くなって。でも殴ろうとして殴ったわけじゃないんだぞ、って思うとまたカッとなるんだ。
帰ったら家の中はぐちゃぐちゃかもしれない。少なくともぶちまけた味噌汁はそのまんまだろう。
じいちゃん、服汚れなかったかな。着替えずに布団にもぐり込んでないかな。何かに八つ当たりして怪我してないかな。
でも今は、帰りたくないな。
トボトボと動いた足は、近所の公園に向かった。そこぐらいしか思いつかない。
ブランコと砂場と、タコさんすべり台があるだけの小さな公園。来たのは小学生以来だった。
花が終わり、とっくに青葉のしげった桜の木に囲まれた公園。ポツンと点る外灯に照らされたすべり台は記憶よりも小さいような気がした。
近づいてみても、やっぱり小さい。夢中ですべったもんだけど、今はそんな気にはなれなかった。無理にでもすべったら楽しくなるのかな。
僕はふとタコさんのお腹トンネルをのぞいた。そしてギリギリ悲鳴を飲み込んで飛び退いた。
中にいた人と目が合ったんだ。
僕は盛大に尻餅をついた。狭いトンネルから硬い表情でこちらを睨んでいる目が、闇の中に見えた。
「あ……れ。いいんちょー?」
よく見れば知ってる顔だった。中学の同級生だった女の子。
彼女は修学旅行委員会の委員長だった。
クラスの旅行班の班長の一人だった僕は、彼女に何度か迷惑をかけたのだ。計画表の提出ミスとか、集合時間に遅刻とか、あげくに現地で迷子とか。
「え……班長くん?」
そんなわけで僕はその後ずっと、こう呼ばれていた。頭のいい彼女が僕の名前を覚えてないとか、そんなことはない。まあ皮肉をこめて一度そう呼んだら、それからは成り行きだよね。
僕はトンネルから一歩下がった所にしゃがんで首を傾げ、暗がりで気まずそうな彼女に目をぱちくりした。何してるんだろう。
「いいんちょー、えーと、久しぶり」
「……卒業ぶり。班長くんは、ちゃんと高校行ってる?」
え、二年以上を経ての再会第一声でそれを心配されるの? 僕ってそんなに頼りない?
「行ってるよ! ……まあ、なんとか」
反射的に答えてから、ちょっと我に返った。休む時もないわけじゃない。
じいちゃんの具合によっては、お母さんと二人にしておくのマズいかなって日もあるんだ。お母さんは基本夜勤だから、日中は休みたいじゃん。
「じゃなくて、いいんちょーは何してんの。僕よりそっちの方がおかしくない?」
夜の公園ですべり台下にもぐってる女子高生から心配される筋合いはない。さすがにない。そう思うんだけど、言い返された。
「班長くんだって、こんな時間に公園に何しに来たの」
「う……」
「同じ穴のムジナでしょ。昔遊んだトンネルにもぐりたいことぐらい、誰でもあるじゃない」
……誰でも、はないと思う。
「どうぞ、入りなさいよ。別にここ、私のものじゃないし」
外でしゃがんだまま困っている僕を、彼女は呼んだ。薄手のコートをかき合わせて、身体も少し奥に詰めてくれる。いや僕はタコさんトンネルに用事があった訳じゃ。まあいいか。
もぐり込んだ僕はトンネルの真ん中で彼女と並んだ。床には砂がジャリジャリしていた。
「……ここ、頭ぶつかる」
背中を丸めて窮屈な僕を見て彼女が不愉快そうなのが、闇に慣れた目に映った。
「背、伸びたの」
「高校で十センチぐらい」
彼女は怒ったように顔をそむけた。
「男の子なんて、これだから嫌」
「え、何? なんの風評被害?」
「やだ。寄らないで」
キュッと身体を引かれてしまった。入っていいって言うから隣に来たのに。
仕方なく少し離れてみた。それをチラリとして、そむけていた顔が真っ直ぐ戻る。でも唇はへの字のままだ。
僕たちは母子家庭仲間だった。それで何だか少し、他の人より近い気がしていた。向こうも僕のことは気にしてくれた。
くどくど小言を言いながら面倒みてくれたし。怒ってるかと思うと先生から庇ってくれたし。僕が何かしら成功した時には嬉しそうに笑ってくれるのに、すぐに澄ました顔したりしてさ。
つまり素直じゃないんだ。
てことは、今日はなんなんだろう。
「いいんちょー……家出?」
「……班長くんも?」
本当に家出なんだ。どうしよう。何があったのかなあ。
困っていたら、ため息をつかれた。
「ちゃんと帰りなさいよ」
「え、いいんちょーもでしょ?」
「私はいいの」
「なんで」
「帰れないの!」
こっちを見ずに怒鳴られた。刺々しい。
前からすぐ怒るところはあったけど、こんなよくわからない怒り方はしなかった。怒られる理由は僕にちゃんとあった。
「……大丈夫?」
今度は怒鳴られなかった。抱えた膝にあごをのせて、むっつりと黙り込んでる。
トンネルの向こう側から入るぼんやりした外灯が彼女の横顔を逆光で暗くした。僕は前にかがんで彼女をのぞき込んだ。
「おばさんとケンカした?」
彼女は答えなかった。そういうことか。でもケンカなんかで飛び出すなんて、らしくない。
「――お母さん再婚したんだ」
「ふえぇ?」
変な声が漏れた。そうきたか。
「半年前。その相手がムリ」
ボソ、と言う声が張り詰めていて、僕まで緊張した。
彼女がここまで追い詰められて、母親とぶつかって家出するって相当だと思う。前から気は強いけど、我がままじゃなかった。
「ムリすぎておばさんに言ったら、ケンカになった?」
彼女の身体がギュッとなったのがわかった。頬はたぶん強ばっている。僕はなるべく柔らかく言った。
「おばさんからすれば自分の彼氏のことだもんなあ」
「――だったら、彼女のことだけ見てろっての」
小さくて低い声。にじむ憎悪。
僕は心臓を握り潰された気分になった。
――それは、どういうこと?
義理の父親になった人が、母親以外に目を向けてるって。もう浮気? それとも――。
「いいんちょ……」
僕の声は、かすれてしまった。
真面目で頑なな彼女。怒りん坊だけど公平で誠実な彼女が、背が伸びただけで僕を嫌がった。
――僕が、少し男っぽくなったから。
「なんか、されたの」
「されてない!」
食い気味に叫んだ声が、トンネルに短く反響した。僕の心臓は本当にギュッと痛んだ。
「お風呂のぞかれただけ。着替える時にドア開けようとするだけ。お母さんがいないと距離詰めようとするから私も家から逃げるの。だから触られたりとかしてないし」
彼女はコートの前をしっかり押さえ、早口で言う。自分に言い聞かせるみたいに。僕はそれを遮った。
「もういい。やなこと思い出さなくていい」
「大丈夫! 何もされてないんだから、大丈夫なの!」
「されてるよ! のぞかれただけで十分ひどいじゃん! なんでおばさん、放っとくんだよ!」
怒鳴り返した僕は、涙声だった。彼女は勢いをなくした。
「なんでそっちが泣くの」
「いいんちょーが泣かないからじゃん」
「私が泣けばいいの?」
「泣いてくれたら、頑張ってなぐさめるよ。僕だってそれぐらいする」
「班長くんになぐさめられたって、どうにもならない」
そうだけどさ。あまりのことに泣きベソかいてる男のことを、正論で殴らないでくれるかな。
僕は自分の膝に顔を埋めて深いため息をついた。彼女には聞こえないように、細く長く。
「班長くんが気に病むことじゃないよ」
聞こえてたか。僕はチラリと彼女を見て、力なく笑った。
「帰らなくて正解だね」
「でしょ」
僕たちは、おのおの黙り込んだ。
どうしよう。何か言ってあげたいけど、何も出てこない。何かしてあげたいけど、何が出来るのかわからない。
そもそも、僕は一応男だ。近くにいられるのは嫌なんじゃないか。
そう思いついたら心配になってきた。もぞもぞして少し身体を離す。彼女の様子をうかがうと、呆れた顔をしていた。
「叱られた子犬みたいにしないで」
「してないよ」
言い返したけど、してるな僕。キュウゥーンて。カッコわる。
彼女は小さく笑うと、ズズイと身体を寄せてきた。え、何。
「肩貸して。眠い」
返事も待たずにトンと寄りかかってくる。
……いいの? 僕のことは怖くないの? それならスッゲー嬉しい。
斜め下を見ると彼女の黒い髪があり、白い顔の輪郭が少しだけ見えた。
僕と違うシャンプー。そして何だか知らない、いい匂い。僕はまた泣きそうになった。
「班長くんは、どうしてここに来たの」
かすかな小声が骨を通して伝わった。なんだろう。気持ちいい。
「じいちゃんがボケちゃって。ちょっと暴れたから避難」
「そっちも大変じゃない」
「うん……時々、疲れる」
僕はそっと彼女の頭に寄りかかった。
彼女は嫌がらない。そして、呟いた。
「ねえ。どこか、行っちゃおうか」
それはとても素敵な提案だった。
僕は何も言わずに彼女の手を探した。
探りあてた手は少し砂っぽくて、小さくて細い。僕はそれに指を絡めるようにして握った。
握り返す手は弱々しくて、そして、すがりつくようだった。
僕たちはそのまま眠っていたんだ。
気づけば外は薄明るくなっていて、ザカザカと足音がした。
同時に頭を上げた僕たちは、トンネルの両側を塞ぐようにされて息を呑んだ。ギュッとくっついた彼女の身体を、僕は両手で抱き寄せた。
「発見」「確保しました」「男が一緒です」「未成年者略取誘拐容疑」
そんな声が周囲から聞こえて訳がわからない。警察、と彼女が呟いて僕にしがみついたのだけが、僕の現実だった。
外から腕が入ってきて、僕はつかまれた。引きずり出されそうになって、彼女が抵抗する。
僕の首にかじりつく彼女の目に涙があふれたのを見て、僕は彼女を抱きしめた。やっと泣いてくれた。
頬を寄せていた僕たちは、そこで引きはがされた。
直近で視線が交わる。
彼女の唇が僕をかする。涙の味。
でも、それだけだ。
僕はすぐにパトカーに押し込められた。
彼女がやっと泣けたのに、僕はなぐさめることができなかった。
彼女には捜索願が出されていた。そして僕には出ていなかった。
だから警察は僕が何者だか知らなかったんだ。家出に付き合った友だちなのか犯罪者なのか、わかるはずもない。
だけどその後、僕たちは会えなかった。
僕は警察と家でえらいこと叱られた。犯罪にはならなかったけど説教はされた。
そして彼女は早々に本当の父親の元に移された。性被害の可能性有りの一報で真っ青になって駆けつけてくれたらしい。
だから僕の出る幕はなかった。
どこかに行こうと言われたのに。手を握ったのは、僕なりに本気だった。
ごめん。ほんとごめん。何もできなくて。何の力もなくてごめん。
僕が大人だったら。家から連れ出してあげられたら。二人でどこかに行けたなら。
そうしたら、幸せになれたかな。
恋とか何とか、そんなこと僕にはわからない。ただ、放っておけなかった。一緒にいたかっただけなんだ。
最後にかすった唇は、あふれた涙でしょっぱくて痛かった。
あれからずっと痛いんだ。じいちゃんの裏拳の傷が治っても。これはあの時の唇のせいだよね。
だからさ、いつか。
僕は君に会いに行く。この痛みの理由を確かめに。
僕と私のクレイドル 山田あとり @yamadatori
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