深夜の電話

深海くじら🐋カクコンまほあい参戦中💕

今夜は掛かってくる日

 深夜一時、右手の下に置いていたスマートフォンが蠕動ぜんどうを始めた。隣に眠る妻を起こさないようそっとベッドから抜け出した僕は、断続的に震えるスマートフォンを握ったまま音を立てずに部屋を出た。階段を降り、リビングのスタンド照明を付けてソファに身体を沈めた。振動はまだ続いている。僕は通話ボタンをタップした。


「よかった。今年も繋がった」


 聞き覚えのある女性の声。僕はスマートフォンを耳に当て、声を殺して応答した。


「こんばんは、祥子。元気にしてた?」


「大丈夫。私は元気よ。ひとつ歳はとっちゃったけど。それより、誕生日おめでとうサトル。これでまた同い年ね」


 耳に心地よい祥子の声は、去年と同じ台詞を告げた。


「ありがとう。まあお互い喜ぶ歳じゃないけど、またきみに追いついた」


「そんな若い声じゃとても同い年なんて思えないわね。それに半年後には私が前に出ちゃうし」


 祥子の声だって昔とぜんぜん変わってないよ、と僕が返すと祥子はくすくす笑った。

 電子を変換させただけなのに、彼女の息遣いは僕の耳から脳に伝わって官能を呼び覚ます。


「変わりは無い?」


 僕が尋ねる。


「相変わらずよ。ひとりで淡々と過ごしてる。あの方とも、もう半年は会ってないわ。声すら聞いてない。洸太郎が先月見かけたらしいけど、なんだか冴えないおばさんと一緒にいたんですって。母さんの方が百倍綺麗だよって。あの子のお世辞はどうでもいいけど、それ聞いても私、ふぅんって思っただけ」


 ちっとも心が動かなかった、と言って祥子はその話題を締めた。祥子の旦那さんは性懲りもなく女出入りを続けているらしい。相当いい歳のはずなのにお盛んなことだ。


「そっちの気候はどう? シアトルはもう寒いんじゃないの?」


「うん。肌寒くはなってきたけど、ちょうどいい感じかな。シュワードパークの紅葉が素敵なの。私の住んでるデルリッジから車で二十分くらい、ワシントン湖の湖畔なんだけど。天気のいい休日はお弁当作ってよく行ってる。ていうか今もそこのベンチにいるのよ」


「彼氏と?」


「そうそう。嘘よ。ちゃんと隣の席はサトルに空けてあるから安心して。もう、ずぅーっと先までね」


 海の向こうで祥子が告げた。なるほど。たしかに風の吹いている音がする。


「シアトルは緑が多くて気持ちいいところ。サトルも来て。今すぐ! もう待ちきれない。早く一緒暮らそ」


 そこでひと呼吸おいた祥子は笑いながら、なぁんてね、と続けた。


「そんなこと、もう二十年も前から言ってるよね私たち」




 しばしの沈黙。ワシントン湖を周回するジョガーの靴音が近づいて遠ざかる。




「クボタ・ガーデンっていう日本庭園もあるのよ」


 再び元気な声色に戻った祥子は、近況報告を再開した。


「真っ赤に染まったハイイロモミジと緑の苔との彩りが素敵なのよ。昔サトルと歩いた三渓園みたい。池の亀が浮石にのぼって日向ぼっこしてるのもおんなじ」


 この話は去年も聞いた。でも僕は指摘したりしない。ただ彼女が気持ちよく喋れるよう短い合槌を挟むだけ。




「奥様はお元気なの?」


 不安と期待が入り混じった質問。僕は去年と同じ作り話で答える。


「うん。まだ存命。入退院を繰り返してはいるけど、いまは小康状態。意識もあるし食事もできる」


 ご無事でなにより。そう言った彼女の声は不満げなトーンになっていた。僕は視界の隅の位牌をちらとだけ見やる。気持ちに折り合いがつかないのか、祥子は黙っている。僕は話を替えた。


「それより、この前のきみの誕生日には電話できなくてごめん。タイミングがつくれなくて。来年もこっちから掛けるのは難しいかもしれない」


「それはいいの。私と違ってサトルは家族と一緒なんだから。こうやって年に一回二回でも声が聴けて、同じ時間を生きてるってわかれば安心できる」


 でも、と祥子は言葉を継ぐ。


「いつの日か一緒に暮らしたい。あなたを選ばなかった若い頃の私の肩を叩いて考えを改めさせれるくらい、穏やかで幸せな日々を送りたい……」


 それは同じ気持ちと僕も返した。




 それからも、彼女が話疲れて白旗を上げるまで僕らの通話は続いた。


「じゃあまた今度。来年の誕生日に」


「うん。でもこっちに来れるときはすぐに連絡してね。待ってるから」


「わかった。それは約束するよ。祥子、元気で」


「サトルも」




 長い通話が終わった。深く大きく息を吐き、立ち上がってカーテンを開く。星々の残る空は早くも群青を薄め始めていた。ガラスに背後の影が映り込んでいるのに気づく。


「電話、終わったのね」


 妻の声に僕は振り向いた。


「遺言とはいえ、あなたもたいへんよね」


 曖昧に頷きながら、僕は壁の棚に並んだふたつの位牌を見上げる。母と父。

 二十年以上、家族に秘密で元カノと連絡を取り続けていた父・聡が、声がそっくりの僕に彼女との儀式の継続を託してきたのだ。心が不安定な彼女に生きる目標を与え続けるために、彼女との歴史がびっしり書かれたノートと連絡先をひとつだけ登録したスマートフォンとともに。


(了)

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