空風の立つ春に

神崎 ひなた

魚上凍

 立春の候、いかがお過ごしでしょうか。などと心にもない事を言わなければならない。それが大人の務めだと誰かが言った。たしか入社した年の部長だったか課長だったか――いずれにせよ、もうここにはいない人間の話であることは確かだ。

 パソコンの画面から目を離して現実に戻る。社内はすっかり暗くなっていて、いつの間にか空調が切れ、足の指先が冷え切っていた。外ではしんしんと雪が降り続けている。どうやら今晩も積もりそうだった。立春とは名ばかりの寒い日が続く。

「なにが立春の頃いかがお過ごしでしょうか、だっつーの。アホらしい」

 これだけ雪が降ってるんだから毎日雪かきで大変に決まってるだろ。いくら定型文とはいえ、分かり切ったことを聞くのは失礼に当たらないのだろうか? などと、考え始めればキリがない。そもそも、こんな時間までビジネスメールの文言を考えていることがアホらしくなって、本日は完全に終了してしまった。

「さぁ、帰ろう。どうせ大した仕事じゃない」

 上着を羽織って会社の外に出ると、雪はますます勢いを増していた。国道沿いの道路では、トラックがいつもよりスピードを落として走っていた。すると、風がぶわっと通りすぎて、そのすぐ後を粉雪が追いかけてゆく。ボーッと歩いていた俺は、暴風雪に思いっきり巻き込まれて、顔中がビチャビチャになってしまった。

「今日に限ってハンカチ持ってるとかいう、都合のいい展開はないか?」

 ポケットをまさぐっても答えはNOだった。その代わりに、もっと安っぽい触感が手に当たる。その時、俺は思い出したのだった。

「そうか。今日はバレンタインデーだったな」

 いつのまにかデスクに置かれていた量産型チョコレートを、適当にポケットに放り込んでいた。プラスチックの包み紙を剥がして一口、放り込んで舌の上で転がす。

「なんの感慨もねぇ。劣化したチョコの味だ」

 社内で無機質に配られるチョコ相応の味だ。顔面をビチャビチャに濡らしながら俺は思った。だが、今の気分はそう悪くない。

「そうかそうか、今日はバレンタインデーだったか」

 俺は最寄りのコンビニに向かった。安い板チョコとワンカップとハンカチを買った。会計はちょうど700円だと言われた。お釣りをポケットに放り込んでチャラチャラ言わせながら、袋をガザガサ言わせながら大足で雪道を歩いた。刺すように冷たい風がごうごうと吹いていたが、あまり気にならなかった。

 国道と市道が交わる、大きくて小さい十字路に着いた時には深夜2時を回っていた。ここは例年、何件もの死亡事故が起きているので魔の交差点と呼ばれている。道路改良の要望は毎年のように挙げられているが、ここの景色は一向に変わる気配がない。辺りはとても静かで、風はいつの間にか止んでいた。雪だけがしんしんと降り積もっていた。ガードレールの下には、冬なのに瑞々しさを保つ白い花が置かれていた。

「げっ、また来やがった」

 女の声がしたので振り返ると、先輩がいた。ヨレヨレのスーツに汚いメガネ。どこにでもいるようなショートのボブカット。一年前に会ったときと何も変わっていなかった。

「いいじゃないですか、別に。どうせ、何回来ても減るモンでもないし」

「意味が分からない言い回しも全然変わってない。最悪」

「はっはっは、教育係の顔が見てみたいモンですね。はい今年の分」

 コンビニの袋から板チョコを取り出して投げると、先輩は微妙な顔をしながら受け取った。

「あー、まぁ、アリガトウ」

「どうしたんですか。好きだったでしょ、ミルク味。仕事中とかずっとそれ食ってたし」

「そうねぇ。好きだけどね。好きだったけど、毎年毎年、同じ味だと飽きてくる」

「そういうもんですか?」

「そういうもんなのよ」

 よく分からなかった。俺は毎日同じワンカップでも飽きないし、なにを食っても気持ちが動かない。まぁ、先輩がそういうからには、そうなのだ。銀紙を剥く音が聴こえたので、俺もワンカップを開けて勝手に飲み始めた。

「ていうか、なんで毎年アンタが寄越す側? バレンタインって普通逆じゃなかったっけ?」

「細かいことはいいじゃないですか」

「あっそ。よく飽きないよ」

「なにがです?」

「アンタがだよ。毎年毎年、同じことの繰り返し。もう何年目?」

「八年くらいですかね。九……まではいかないはず」

「やめたらいいのに。どうせ私、お返しもしてないし」

「最初から期待してませんよ、そんなの」

「それはそれで、なんか納得いかないんだよなぁ」

「そんなこと言われてもねぇ」

 はっはっは、と笑いがこぼれる。酒が入るとどうも、無性に楽しくなってしまう。

 しばらく無言になって、しんしんと雪が降り続いていた。どれくらいの時間が経ったのだろう。もうワンカップ酒の残りは少ない。

「でもさ、来年からマジでやめてよ。こっちに来るの」と先輩が言った。

「なぜ?」と尋ねると、「なんでも」と答えが返ってくる。

「私はね、これでも割と真剣に心配してるんだ。なにも返せてないことを」

「だから気にしないって言ってるのに」

 そう言っても、先輩の表情は変わらなかった。なんだか、昔を思い出す。この人は、ずっと俺のことをなにか勘違いしている。そんなに仕事が出来る後輩でもないのに、どうしてか評価が高すぎる。もっと出来る奴だと、ずっと思い込んでいるんだよ。だから言った。

「ホントはちょっとだけ期待してるんです。その、お返しってやつを」

「ほら見ろ。やっぱりそうだろう」

「でも、しょうがないじゃないですか。俺は、先輩が思っているような要領のいい奴ではないんです。会社でも、チョコくれる相手なんて一人もいませんし。これからも出来る気はしません。だから、先輩くらいしかいないんですよ。期待する相手が」

「だから私は……」

「いいんです。俺が勝手に、期待してるだけですから。先輩が気にすることじゃない」

 半分食べかけのチョコをぎゅっと握りしめながら、先輩はまだなにか言いたそうにしていた。やがて、大きな溜息を吐いた。

「本当にしょうがない奴だな、アンタは」

「自分でもそうだと思います」

「まぁ、でも……あまり悪い気はしないな。なんだか」

 先輩は少しだけ笑った。しんしんと雪が降り続けていて、街はとても静かだった。ぼんやりとした街灯が、雪を、夢のように照らしていた。

「来年のことも、まぁ、なにか考えておこうかな」

「期待しています」と言おうか迷ったが、俺は結局なにも言わなかった。

「じゃあ」と先輩がガードレールから腰を上げる。


「そろそろ、行こうかな」

「はい。では、また」

「うん。体に気を付けてな」


 次の瞬間、交差点をもの凄いスピードで一台の乗用車が駆け抜けていった。まき散らされた粉雪は周辺にぶわっーと散らばって、ごうっと風が吹き抜けていく。そして、暴雪風が通り過ぎた後には、もう誰もいなかった。

「さぁ、帰ろう」

 ビチャビチャに濡れた顔面をハンカチで拭きながら、交差点に背を向ける。すると、どこからともなく風が吹いてきた。刺すほどに冷たい風とは違い、暖かくて、柔らかくて、まだずっと遠い先の春を予感させるような風だった。すっかりと積もった雪に足を取られつつも、俺は足早に歩いていく。


 どうせ次に会ったときも「げっ、また来やがった」と言われるだろう。

 全然、それでも構わない。

 だからまた、早く一年が過ぎてほしい。

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空風の立つ春に 神崎 ひなた @kannzakihinata

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