誰からも好かれて哀し額の花

 学生の時、そんなに親しくもないクラスメイトから、「あなたはみんなに愛されるから云々」と言われたことがある。こういう人物評というのは、いつも接している親しい人より、多少なりとも距離のある人の方が的確に行えるものだ。私は、この人の言うところは当たっているのだろうと思った。だがそれで私は、自分はみんなから好かれているキャラクターなのだ、と自惚れていた訳ではない。安堵を覚えると共に、ため息の出るようなむなしさに囚われたのである。

 小学生の頃から今に至るまで、私は恐らく「誰からも悪くは言われない人」だ。私の職場は「誰もがお互いの悪口を言っている」ような、よく考えてみればあまり環境のよくない場所で、そしてそういう点からも察せられるようにまとまりに欠ける面があるために、信じられないような不祥事が起きたこともあるのだが、その点、私の評判というものはそう悪くはないと思っている。有り体に言えば、私は例えばA氏がB氏の性格的欠点を論うのを聞くと、A氏と同じ振る舞いはすまいと心に決めるのである。逆にB氏がA氏の気に入らない点を挙げると、それも聞き流しているようでもれなく記憶に留め、やはり同じことをしてはいけない、と胸に刻むのである。つまりそうすることで、私はA氏からもB氏からも悪くは思われまいと予測して安心感を得られるのだ。こんなの全くの取り越し苦労で一人相撲もいいところだと自分でも思うが、もう今から直すことはできないだろう。私は常に他人の顔色を伺うような人格になってしまったのだ。

 その原因となったのは、やはり親との関わりによるものだと思う。

 私の母親は日頃は快活だが疲れたり嫌なことがあると、妙に内に籠るタイプで、家族と口を利かず世にも不景気な顔をして部屋に閉じ籠もることがよくあった。そしてようやく口を利いたかと思えば、日常私たち家族に抱いている不満や愚痴を延々とぶちまけるのである。

 私は多少なりともこの人の性格を受け継いだので、こういう振る舞いをしたくなる気持ちもわからなくはないのだが(嫌なことがあった時、それに誘発されて過去の別の嫌なことが蘇ってくるところなど)、全くつくづく嫌な性格だと思っていた。そして母親が不景気な顔を始めると、日頃自分が後ろめたく感じていることを指摘されるのではないかとびくびくして、母親の顔色が変化しないか観察するのである。これが今でも私の性格に残留している哀しい性だ。私はテレビドラマで親子の衝突のシーンを見ると、自分の母親はああいう風にはならないだろうといつも思っていた。派手に衝突して互いの思いを表に出し合った後、涙を流して抱き合って和解、そんなことある訳がないと今でも思っている。私の家の親子喧嘩は片方の怒りがぶすぶすくすぶって本格的に燃え上がることのないまま、子どもの心に煙の臭いだけがいつまでも残るのだった。

 他人の顔色を伺って生きることに何のメリットがあるのか、と自分で考えてみて一番思い当たるのが、結局誰からも悪く言われない人は誰からも無視されているのと変わらないということだ。つまり誰からも切実に関心を持たれることなく孤独に自由でいられるということだ。私はたぶん、他人の気に入らない振る舞いをすることでその人の関心の対象になってしまうと、それが心の自由の束縛になると感じているのだ。嫌いの反対は無関心である。誰からも嫌われたくなければ誰からもさして関心を持たれない存在になればいい。そしてそれはそんなに難しいことではないのだ。

 それでもやはり、そういう自分の性格に疲れることもある。私はドナルド・トランプが注目され始めた時、この人が本当に羨ましかった。この人には私の抱いている心情はおよそわかるまい。いや、わかる方がきっとかなしいのだ。トランプという人は、実際には公の場では本来の自分を誇張して振る舞っている面もあるのだろうが、おおむね世界中の人間がその言動を目の当たりにして、それを非難し、それに呆れ返り、また怒りを覚えた通りの人なのだろう。

 しかし私からすれば、怒りの対象になること、呆れや非難の対象になりながらも、なおその言動をやめずにいられることが羨ましいのである。ここには他人の顔色を伺うなんてしみったれた作用はけし粒ほどもない。

 これはこれで孤独や孤立を招くことはある程度避けられないだろうが、自分を出し切った上での結果なのだから悔いは残るまい。清々しさすら私は感じるのである。

「誰からも好かれて哀し」ここまで思いついて、あとの五字を何にしようか、と歳時記をめくっていると、「額の花」が目についた。いつの間にかどこも紫陽花が見頃だ。紫陽花を嫌いという人はあまりいないだろう。存在感がないわけでもないが、あまりにありふれた花すぎて、切実な関心や楽しみを持たれていないのではないか。

 それが結局自由でいいのかもしれないが、しかし・・・。

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わが句帖補遺 佐伯 安奈 @saekian-na

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