猫を見に行く

たつじ

猫を見に行く

 本当に欲しい人とは目を合わせることができない。合わせてしまったら最後、両目を起点に皮膚が捲れ上がって裏返り、中に隠していたドロッドロの正体が顕になって、「ちょ、なに? キモいんやけど」と打ち捨てられてしまう気がして、怖い。例えば今日ユウくんが連れてきた西田さんは、ど真ん中だ。涼しげな目元にちょっとクセ毛の髪、シンプルなモノクロの服装。トゲのあるテノールの声。好きだ。いったんこの「好きだ」の雷に撃たれてしまえば、たちまち前後不覚になり、左手薬指に指輪を発見したって「へぇー」ぐらいにどうでもよくなる。そうして平気で、ちまちま耕してきた『人間関係』や『信頼』『環境』みたいな自分の畑を、焼き払っても「好きだ」に身を投じたくなってしまう。でもまさか、三十歳を過ぎても、ようやく初めて彼氏ができてもこの衝動に苦しめられるとは。

「西田です。よろしくお願いします」

「西田さん。よろしくですーっ」

 予約していた肉バルで、西田さんはテーブルの一番奥のソファに座った。私は一番離れた椅子を選んで、なるべく不自然にならないように視線を外す。お店の中はクーラーがガンガンに効いているのに、頭の前のほうが痺れてどっと汗が噴き出る。西田さんの横にくっついていた細長い女の人が続ける。

「あたしはkikiです。まぁ、あたしも西田さんなんだけどね」

 (おいテメェ、あたしの旦那に惚れてんじゃねーぞ)

 って、早速牽制されたのかも? 女は他人の好きに気付くのが早いから。いやいや考えすぎやって。てか、こういうことばかり考えているから逆にバレるんやって。自分へのツッコミの声で頭がいっぱいになってしまって、kikiさんの隣の髪が薄い男の人が「もっさんでーす」って自己紹介したのをスルーしてしまう。このまま、やばいループに入ってしまいそうだ。

「茉莉さん大丈夫? メニエール具合悪い?」

「……ありがとうユウくん。大丈夫だから」

 私の隣に座っているユウくんの眼鏡の奥、お肉の間の薄い月のような目は、相変わらずじいっと見つめることができる。なんならそのまま、ニコッと笑ってあげることだって。

 ユウくんは最初、フラミンゴさんだった。フラミンゴさんとは去年の冬にマッチングアプリで出会った。私は試行錯誤を繰り返すことにより、男性とメッセージを何度かやり取りして一度会ってみる、というところに持っていくまでは、なんとかこなせるようになっていた。あまりにもアプリをやりまくっていたので、待ち合わせしてるカップルが、アプリかそうじゃないかわかるようになってくる。アプリの人たちは、まず片手に持ったスマホで、メッセージに提示された特徴と相手を見比べる。加工された写真と本物の違いを見ているのかもしれない。ペコペコとお辞儀しながら恐る恐る近づき、でも、味見するような上目遣いで互いを盗み見合っている。約束していたフラミンゴさんと思しきダッフルコートの男性が、なんば駅の改札の前の柱にもたれかかって、宮部みゆきの「模倣犯」を読んでるので声をかける。

「……フラミンゴさんですか?」

「Mさん?」

 私はフラミンゴさんを味見する。写真より太って見えるけれど、清潔感があって感じのいい人だ。「好きだ」は来ない。ひとまず安心した。今までアプリでもリアルでも、「好きだ」で散々失敗してきた。「好きだ」に操られて家まであとをつけたりストーカーみたいなことをしてしまい、相手がどこかに引っ越して逃げたこともあった。今度こそフラミンゴさんに彼氏になってほしかった。「好きだ」が一度も成就することなく三十歳の誕生日を迎えてしまった私は、既に「好きだ」と心中せずとも、もっと確実に彼氏が欲しくなっていた。その日は二人で千日前でうどんを食べて、好きな映画だとか会社がキツイだとかについて、わざとらしく他愛もない話をした。

「そういえば、どうしてフラミンゴさんなんですか? 米津?」

「僕、鳥が好きなんです」

 フラミンゴさんは、ハンドルネームの由来を聞いてくれた人は初めてだと嬉しそうにしていた。

 三回目に海辺でデートしたあと、私は展望台に誘われる。あ、告白されるのかー。ボタンのはげたエレベーターで上まで登ると、全面の窓の下に街が広がっている。高所恐怖症の私はなんだかお腹が冷えくる。夕日を見ながら、ようやく口を開いたフラミンゴさんが「Mさんを好きになってしまいました」とか声を震わせて言ってるとき、私の便意はピークに差し掛かっていた。個室に駆け込んで便座に座ったら、これでやっとアプリをせずに済むんだと思った。トイレから出てきた私にフラミンゴさんは

「手を、繋ぎませんか?」

 だって。変なの。会って三回目の人間なんて、ほとんど赤の他人なのに。私はさっきまでティッシュで尻を拭いていた手を、おずおずと差し出す。フラミンゴさんのてのひらは湿っているけれど、それなりに多幸感に包まれる。今、手を繋いでいるこの人は、私を選んでくれたんだ、とか思う。

 フラミンゴさんは私を下の名前で呼びたいと言った。それならと私から提案して、フラミンゴさんはユウくんになる。

 それから一年が経って、多分他の人よりは遅いと思うけど、いよいよお互いを知人に紹介していき、テリトリーを融合して馴染ませていくフェーズに入ってきた。こないだは、私の親友とユウくんの三人でお茶をした。今度はユウくんの友達に私が品定めされる番。私とユウくんは飲めないのでオレンジジュースを、他の三人はビールを頼んだ。乾杯のあと、西田さん×2ともっさんは、私を取り囲むみたいにして次々と質問攻めにする。今は身体を壊して仕事をしていないこと、趣味は漫画を読んだり映画を見たりということ、生粋の大阪人だけどユウくんにつられて普段からエセ東京弁になってしまっていること、彼のことはユウくんと呼んでいることを、順を追って説明する。

「ユウくんって呼んでるん。マンガのキャラによくおるよねー」

 kikiさんは、小さいニセモノの宝石をあしらったネイルの綺麗な指先を、ひらひらさせて言った。

「おるおるーっ。儚い美形優等生ってカンジ。ちょっとミズヤンとはイメージ違うかも」

 もっさんが笑う。西田さんも、『ミズヤン』と呼ばれたユウくんも笑う。もしかしてユウくんは、このちょっとだけ陽キャっぽいグループの中で、いじってもいい人みたいなポジションなんじゃないだろうか。一段下みたいな扱いをされてるんじゃないだろうかと心配になる。でもそれって、私がユウくんをそういう目で見てるから、周りの人も同じに見えちゃってるんやないかな。自分のことを好きな人は、自分より一段下として扱ってもいいみたいな。だって、自分の方が明らかに「好き」が少ない相手って、すごく楽ちんやから。

 お店を出て、まだ飲み足りない他の三人と別れて、私とユウくんは大阪の道を駅まで歩いていた。二人で歩くときはいつも手を繋ぐようになった。ユウくんは本当にこういうカップル様式美みたいなものが好きだ。でも、二人で築いていくこういう瞬間の連続に、いつのまにかかけがえのなさ、みたいなものが生まれている、って感じ? 失ったら初めて気づくタイプの。そういうもんなんだろう、多分。夜でも灯りが点いているショウウィンドウに照らされて、ゴキブリの羽が白い。都会のゴキブリは光るんだ。初めて知った。

「……なに?」

 私がゴキブリを見ている横顔を、ユウくんはじっと見つめていた。

「かわいいから」

 どうしてこんな歯の浮くようなことが平気で言えるんだろう。私はわざとそっけなく、あ、そう、と返す。

「茉莉さん。今度、実家に猫を見に来てよ」

「家に。猫って。笑う。よくあるやつだ」

「そうです。よくあるやつ」

 お互い異性にそっぽ向かれて、世間一般の恋愛のルールに弾かれてきたはずなのに。今更世間の恋愛あるあるの真似事をしているなんて。

「そうだね。久しぶりにマズル、フニフニしたいな」

 ちょうど飼っていた猫が病気で死んで、慢性的な猫不足になっていたので、私もテンションを持っていきやすかった。今度は東京に住んでいるユウくんのご両親と、弟くんに品定めされるということだ。その全然隠しきれない目的を、私もユウくんもなんとなくはっきりとは言葉にしない。

 ユウくんと出会ったとき、私はデザイン会社の週六勤務のせいでメニエール病になっていた。冬から春に向かう天気や気圧の変化が、度々縦になっていられないくらいの頭痛や吐き気を引き起こした。一ヶ月目くらいのデートの日、どうしても頭痛薬を飲みたくなったのでユウくんに思い切って打ち明けた。これで切られたり、ヘンなこと言われたりしたら盛大に傷つくなぁ。アプリで手頃な男性を見繕うところからやり直ししなきゃいけないし。

「僕にできることはなんですか?」

 ユウくんは思いがけず百二十点の答えを返してきた。これって「病気の彼女に対する理解」だ。すげー。ということは、ユウくんはインターネットスラングで表現されるところの「理解のある彼くん」だ。図鑑で見ていた生き物が目の前に現れたみたいな気分だった。メンヘラのエッセイマンガで、病気がつらいだの世間の目がつらいだのの愚痴の最後に出てきて、「でも、理解のある彼くんができたおかげで今は幸せです!」って。メンヘラの肥大した自意識のサイズを、社会に適応させてまるーく収めるために出てくるあの伝説の生き物。ずっと彼氏ができなかった時代には、僻んで好き放題ディスっていた「理解のある彼くん」が、ついに私にもできてしまったんだ。気分が盛り上がって、調子のいいことを言っているだけなのかもしれない。付き合っていくうちに超絶DV男とかに豹変するかも。でも今この瞬間は、そうだ。

「あなたは、いてくれるだけでいいです」

 メニエールは薬を飲めばいったん収まるので。と私は付け足した。ほどなくして、私は会社を辞めて一人暮らしの家を引き払った。それからは実家に引きこもり、たまに個人の依頼を受けてちまちまお小遣いを稼いでいる。社会から爪弾きにされても、「理解のある彼くん」からの理解があれば情緒は安定する。恩恵を受けている。

 ユウくんは全ての動作に無駄がある人だ。背が小さいのにいつも登山するみたいなリュックを背負って、激しく身体を左右に揺らしながら待ち合わせ時間ギリギリに現れる。だから新大阪駅の人混みの中でも、すぐに分かった。

 売店に行き、二人で駅弁を選ぶ。私は新幹線の中でカフェインをとると決めているので、ドトールに並んでカフェラテとユウくんのリクエストのカツサンドを買った。出発の時間までまだ十五分ほどあったので、待合室で適当なベンチを探して座る。

「カフェラテとって」

 ユウくんがドトールの紙袋からカフェラテを取り出そうとして、バランスを崩して中にぶちまけてしまった。

「ちょっと待ってて」

 そう言うと、ユウくんは急いでどこかへ走って行った。カフェラテの香ばしいにおいがむわっと香る。取っ手を摘まんでクラフト紙の袋を持ち上げると、生ぬるい液体が底面の形に四角く染み出している。しばらくしてユウくんがドトールの紙ナプキンを両手いっぱいに持って現れた。どう見ても頼りない紙ナプキンは案の定、床にばら撒かれた瞬間にピンク色に染まって縮んでいく。私はなんだか色んなことが全てどうでもよくなって、逃げ出してしまいたくなる気持ちを、必死で振り払うように言った。

「ごめん、駅員さん呼んできて」

 力いっぱい頷いて、また走っていく猫背を見つめている。どこまでもいい人なのだこの人は。自尊心がちょい低めだから、なんでも一生懸命で。こんなん最初から他人にサクッと頼んじゃえばええやん。そういう不器用な誠実さを好きになりたいと思ってたけど、なんだか今日は鼻についてしまう。

 零れたカフェオレを駅員さんに任せて、私たちは新幹線に乗り込んだ。早速駅弁を広げる。ふたりでお揃いの鮭弁当にした。

「いただきます」

 ユウくんは多分、噛み合わせが悪いか、力いっぱい食べ物を噛む癖がある。ご飯を食べているとき、たまに歯と歯がキシッと軋む音がする。キシッ。これから、け、結婚して長く一緒に暮らしていくルートに入るとして、結局こういう些細なことが積み重なり、どんどん気になってくるものなんだろうなぁと思っている。思っているから思っていないよりはマシでしょ、多分。キシッ。

 私のメニエール病を理解してくれたユウくんは、今度はキスをしたがった。ちょっと待てよ。まだ恋人になっただけで、親しくはなっていないだろ。例えば車で家まで送ってくれたとき、急に神妙になって音楽を消すだとか――ユウくんがちょくちょく仕掛けてくるキスの前フリみたいなのを、照れている、あるいは全く気が付かないふりをしてのらりくらりとかわしていた。ついに二人でカラオケに行ったとき、ユウくんが大きなリュックからUSBを取り出して、

「僕の全てを知ってほしくて、徹夜しました」

 とか言い出す。パワーポイントで自分のプレゼン書類を作ってきたらしい。

「茉莉さん、これを見る覚悟がありますか?」

 僕の全てとか、覚悟なんて大掛かりな言葉が、私の日常に突然登場したのがおかしくて笑った。USBをカラオケのテレビ画面に接続するには、専用の端子が必要みたいだ。端子のレンタルがあるかをカラオケのWEBサイトで調べる。しばらく「すっごいねー」とへらへら笑っていたけれど、そのうちユウくんの焦りと性欲が遅効性の毒みたいに伝わってきて、だんだん頭をぎちぎちと締め付けてくる。

「ごめん。ちょっと、メニエールやばくなってきたみたいだから帰るね」

 パワポの中身がちょっと気になったけれど、見てしまったら取返しがつかないような気もして、席を立つ。ユウくんの黒い車の中で考える。キスとかって、そんなにしなければならないものなんやろか。担保? 担保がないために関係性の確からしさを信じることができず、僕の全てを知ってほしくて……とかになってしまうものなんやろか。ああそうか。ユウくん今「好きだ」になってるんだ。「好きだ」を私にぶつけてきてるんだ。私を「好きだ」になる人間なんていたんだ。というか、他人の「好きだ」って、こんなに筋が通ってなくて滑稽で怖いものだったのか。そらそんなもの、きちんとパワポの.pptxファイルの状態になっててもキツいのに、生身でお出しされたら引っ越して逃げたくなるわ。ごめんなまじで。家まで送ってもらってロキソニンを飲んで横になる。過去とか感情とかが色々と整理整頓されていく。次のデートで、私たちは初めてのキスをする。

 「理解のある彼くん」がしている理解って、きっと「好きだ」の表面を、相手の形に合わせてぬるっと最適化させているだけなのだ。そんな危険なものを日々脈々と享受していて大丈夫なのだろうか、人間は。というか、私は。

 言うてる間に品川駅に着いた。大阪より空気がヒンヤリしている。すれ違うサラリーマンも、頭が小さくておしゃれでカッコイイ人が多い。聴こえてくるセミの声すら上品だ。よく知らないIT企業の広告が並んでいる電車に乗って、早速ユウくんの実家を目指す。山の手線の外側の閑静な住宅街を、ユウくんについて歩いていく。小さい住宅と個人商店が所せましと並んでいる。大阪や他の都市とはどことなく違う街並みに、ユウくんが引いてくれている私のキャリーのゴォゴォという音だけが響いている。縦横無尽に走る細い道を右や左に曲がり、角に立つ一軒家の前に着いた。小さな土地に立つ三階建ての家。『水元』の表札。コンクリートの庭で、キュウリやナスがプランターの中にすくすくと育っていた。

「おかえりぃ」

 ユウくんのお父さん、お母さんが、玄関で私を迎えてくれた。二人共背が高くて痩せていて、シュッとしてるご両親だ。荷物を置くために二階にあがると、ユウくんの弟くんもニコニコと迎えてくれた。はっきり言って、イケメンだ。「好きだ」にならなくて心底ほっとした。

「はじめまして、片岡茉莉です」

 私を見守る三人は三人共心からの笑顔をしていて、なんだかユウくんはとてもご家族に愛されているんだなぁと思った。同時に、私は自分がとんでもなく罪深いことをしているような気になった。こんなに丁寧に愛されているユウくんを、私は「理解のある彼くん」とか言って、雑に想ったり、扱ったりしてしまっている。荷物を二階の余った部屋にあげて、ダイニングに降りると、お母さんがふくよかな三毛猫を抱いて現れた。

「ミケっていうのぉー。はじめましてぇー」

「ミケちゃーん!」

 眠そうな顔をしている猫に指先の匂いを嗅がせて挨拶し、額を撫でたあと、白いマズルを親指でフニフニする。毛質が柔らかすぎる。死んだ猫と感触が違う。ミケはお母さんに抱かれて、されるがまま状態になっていたけど、しばらくして「ぶるにゃ!」と身を捩って逃げて行った。

 夕飯の食卓に、鶏、豚、ナス、じゃがいも、色んな種類のからあげばかりが次々と出てくるので面喰ってしまった。お父さんが白ご飯を入れてくれた。本当に男子だけの家庭のご飯ってこんな感じなんだ。ユウくんが色々あらかじめ伝えておいてくれたのだろう、三人は私の仕事や身体のことについて一切聞いてくることはなかった。ただひたすら、流れているテレビ番組についての話とか、ユウくんの仕事についての話とか、お母さんの趣味の漫画やゲームについての話とかをしていた。ユウくんはやはり歯をキシキシさせながら、カリッカリのからあげを貪り食っている。ミケは私たちをずっと険しい目で遠巻きに見ている。

 翌日、私は都内の美術館に行くために早起きした。ユウくんはまだ自分の部屋で寝ていた。お母さんが色々喋りたそうに待ち構えていて、まだ警戒しているミケを拾って抱っこさせてくれた。私の腕の中で大人しく丸まっている。賢い猫だ。でも、顎の置き場所、前足の角度、背中の丸め具合、尻尾の収まり方、全てが死んだ猫とは明確に違った。私はミケのぬくもりを抱きながら、死んだ猫の不在を強く思っていた。本当に欲しいものの不在を強く思っていた。

「勇一さんはいいやつなのよ。いいやつなんだげと、それをわかってくれる女の子がなかなかいなかったのよ」

「ユウくんは私が出会った人間の中で、一番いいやつですよ」

 そう、一番いいやつなんだけど。

 ユウくんが奥の部屋からもそもそと起きてきた。お母さんはすこしだけ買い物に行くと言って、出掛けてしまった。朝ごはんを食べ終わると、ダイニングの椅子に座っている私に、ユウくんは中腰になってどすどすと近づいてきた。瞼の下に目ヤニがついている。

「茉莉さん、ちゅうしていい?」

 薄い月のような目を見つめる。

「いいよ」

 このキスもきっとヘンなキスなんだろうなと思う。でも、私にはわからない。私はユウくんのキスしか知らない。


 夜。新大阪に帰ってくると、肌を撫でる空気が生暖かかった。自分も疲れているだろうに、ユウくんは律儀に私の乗り換え駅まで送ってくれた。

「二日間ありがとう。じゃあまた週末に」

 ユウくんはいつもいつまでも手を振ってくれている。何度か振り返りつつ手を振りながら、ユウくんが見えなくなってなぜかすこしだけホッとした。私はキャリーを自分でひいて、改札を出て地元の駅を目指す。

「茉莉さん? 茉莉さんやん? 偶然やねー」

 トゲのあるテノールの声だ。

「へっ!? 西田さんやんかっ!? なんで?」

 ふたたび雷が落ちる。一瞬で全身が足の指の先まで痺れた。そういえば西田さん、この辺に住んでるって言ってたっけ。どこかからの帰りなのだろうか。涼しい目元、クセ毛の髪。を、私はやっぱり見つめることができない。そんなことしたら正体を知られてしまう。ユウくんには裸で抱き合っても簡単に隠せた正体を。「あー、あー、失礼しまーす」ぺこぺことお辞儀して会社でするみたいな適当な挨拶をして、私は西田さんを振り切って改札に入る。逃げるように電車に飛び乗る。空いていた座席に座る。眩暈がするので薬を口に放り込み、両腕をぎゅっと抱える。

 きちんとユウくんを選べ。

 雷に撃たれても畑は焼かない。私はこの畑を守る。その決断の連続が人生やろ。

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猫を見に行く たつじ @_tatsuzi_

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