第37話 巫女と青年

 《奇跡》の巫女と、登場した彼女はそう名乗った。

 一語一句違うことなく、この地で巫女の称号を冠するのはたった一人しか居ない。ということはこの女性ひとが。


「あんたがあの巫女か」


「あの、がどの巫女かは判断しかねますが、正しく、私が巫女です」


 彼女は何故か誇らしげに鼻を鳴らした。

 件の巫女で相違ないか。

 しかしバルガスめ。確かに使いを寄越すと言ったが、まさか本人を一人で出向かせる馬鹿が居るものか。

 仮にも命を脅かされる身だというのに……それとも俺が気付けないだけで直前に護衛でも連れていたのだろうか。


「……入ったらどうだ」


「あ、はい!」


 寒そうに肩を擦る巫女アセルシアに提案すると、彼女は待っていたとばかりに扉を大きく開けて入室する。俺の隣を横切った彼女と一瞬視線が交わった。底抜けに明るい瞳が、殆んど変わらぬ視線の高さから真っ直ぐにこちらを捉えている。

 扉を閉める際に廊下の人影を確認したが、やはり彼女一人きりのようだった。


「んー、男の人の匂いがしますね!」


 部屋に入るや否やでアセルシアは深呼吸するとそんな感想を吐いた。彼女は幼子のように目を煌めかせ、俺の部屋に有るものを物色する。


「ねね、ヴォルフ。これは何ですか?」十年来の友人が呼ぶかに親しく問う彼女が指差すのは鎖帷子であった。「見ての通り」と答えれば「何に使う」のかと更に疑問を重ねる。


「そりゃあ、戦いにだろ」


「戦いとは誰とのですか?」


「敵だよ。決まっているじゃないか」


「……そうですか。ふふ、それにしてもとても錆び臭い!」


 何なんだこいつ。

 人懐っこいというより、馴れ馴れしい奴だと思った。嫌な感じがしないのは彼女の放つ陽の気配ゆえか。

 こういう性格の女性とは余り関わり合いが無かったので、既に振り回されている感覚が否めない。


「っておい、何してんだよ」


「少し暑いので」などと溢しながらアセルシアは修道服を脱ぎ捨てる。薄絹の下着姿になった彼女は首もとから肩、太腿を大胆に見せつけて言う。「女性の肌は見馴れませんか。ヴォルフはういのですね」


 彼女は嘲笑したつもりは無いのだろうが、咄嗟に「馬鹿にするな、経験それくらいある」と反論してしまった。食い気味な台詞は却って何だか言い訳がましくなっていた。彼女は必死な俺を見て、にまっと頬を弛ませた。


「はあ、もういい。好きにしていてくれ」


「聞いていた通り、ヴォルフはお優しいですね。私、器の広い方は大好きです」


「優しいって……お前さぁ」


「アセルシアですよ。名があります、呼んでください」


「じゃあ、アセルシア」


「はいヴォルフ。何でしょうか!」


「いや、いいや。何でもないよ」


「ふふ、変な人ー」


「……」


 こっちの台詞だと突っ込みたい衝動に駆られたが寸での所で制した。問答をしても無駄に消耗するだけ。

 アセルシアは依然、物色を続けている。

 気が済むまで勝手にさせてやろうと、剣を壁に立て掛けベッドに腰を下ろす。すると何故か彼女は俺の隣に寄り、なんの抵抗も無く座り込んだ。

 蝋燭の火に照らされた赤褐色の肌は熱っぽく、吸い付くような肉感は到底無視できぬ色香を放ってくる。普通であれば誘いとも取れる距離だが、彼女の、アセルシアの無邪気な様子にそうした考えを抱く事は失礼なのだと感じた。

 彼女の身体つきは目に毒だった。

 どうにも理性を揺すられる。「そういえば最近も御無沙汰だよなぁ」、なんて考えてしまえば、うっかり魔が差してしまうくらいに。有り体にいえば、好みの部類なのだ。これで恥じらう様子など有れば、今頃間違いを犯していた。


「ヴォルフは変わった人ですねぇ」アセルシアが呟いた。いや、囁いたのか。夜でなければ聞き逃していた。聞き取れたのが不思議なくらい、隙間風の音にすら隠れてしまうような声なのに、案外すんなりと耳に入ってきた。どういう仕組みか、彼女の声はその声量に拘わらず全ての音に優先されるようで。


「何が変わっているのか」とは聞かなかった。何故聞かなかったのかは解らない。もしくは聞けなかったのか。俺の横顔をじっと観察する彼女の視線を過敏に感じながら、ただ次の言葉が出るのを待った。


 けれど待ってみても彼女はピタリと言葉を止めてしまう。その上、終いには「お話は嫌いですか」などと訪ねるのだ。


「そういうのじゃないけど、少し困惑してるんだ」


「私が苦手ですか」


「苦手、とは言わないよ。でも得意ではないというか……会ったばかりだし、圧倒されてるのは確かだね」


「照れますねぇ」


 何をどう捉えて好意的に受け取ったのだろう。心底嬉しそうに身体を揺らしている。感情に素直というのか、なんというのか。


「ヴォルフは、強い瞳をしていますよね。それでいて、少しだけ寂しい瞳」


 急に顔を近づけたアセルシアは、俺の顔を覗き込んでそう言った。鼻息が掛かる程に近く、微かな瞼の動きすら、鮮明に読み取れる。


「そういうあんたのは、酷く儚く思える」


 つまらない返しだと思った。

 これだけ傍で視線を交えたのはクシェルを除けば例の無い事。

 どうしようもなく駆け出す脈動。

 何を期待してか、細部には熱が奔る。


「アセルシア、です」複雑に絡まった筈の視線だったが彼女は容易く振りほどく。代わりに指を俺の唇に押し当て、あざとく語気を強める。「何度も言わせないで下さいね」


 彼女の忠告など入ってこず、頭の中は唇に触れた指の感触で一杯だった。

 味など無いのに歯が浮く程に甘い、そんな指先。

 一方的に終えた視線の交わりに未練を残しているのは俺だけか。もう一度覗き込んで来やしないかと期待したが、彼女の関心は他所に移ってしまう。


「その剣、触ってもいいですか?」


「え?」次いでアセルシアの標的となったのは立て掛けた剣、《征服されざる者アダマス》だ。特に面白いものが置いてあるわけでない部屋の中、異色を放つこの剣に惹かれるのは無理もない。


「玩具じゃないんだ、怪我をするから……」


「……わぁ、きらきらして不思議。私、剣を抜いたのは始めてです!こういうものなのですか!」


 渡すつもりは微塵もなかった。

 意識の隙を縫う如く、アセルシアは簡単に剣を手中に収め、それどころか引き抜いている。彼女によって曝された剣身は白光を宿して瞬いた。俺が振るう際はもっと蒼く思えたが……。


 暖かな光だ。穢れの無い白い光は、太陽の匂いがした。色は違っているが、クシェルが癒しの力を行使する際に放つ《奇跡》の光に酷似している気もする。

『資格がない』と語ったバルガスが過る。真意は計れずにいたが、アセルシアが魅せる光が答えか。


「ねぇヴォルフ! 剣はすごく重たいです!」


「あ、ああ。危ないから、そろそろ返してくれ」


「あっ……すいません」


 剣が鞘に収まれば光もまた消え失せる。

 不可思議な現象だ。試しに自分でも剣を抜いたが、やはり仄かに蒼を宿すばかりであった。


「ヴォルフ、少し怒っていますか?」俺の険しい顔を自分への叱責だと思ったアセルシアが縮こまる。

 しおらしくされると、悪くもないのに罪の意識みたいなのが込み上げてきた。「怒ってないよ」と頭に手を置く。いつもクシェルにしてる為、つい反射的に手が伸びてしまった。彼女は嫌がる素振りもなく安堵して微笑んだ。


「……アセルシアは何の用件で来たんだ。まさか何もないって事は無いよな」


 彼女に合わせていたら夜が明けてしまう。本題に入る為質問するも、彼女はまるで用件を忘れていたみたいにとぼけた顔をした。しばし首を捻らせた後、いよいよ「あっ、そうでした!」と俺の手を掴んで胸に己の身体ごと引き寄せる。


「私を、街に連れていって欲しいのです!」


「……ん?」


 ――――これがアセルシアとの、彼女との出逢いの一頁。

 巫女と呼ばれた女と誓いに生きた青年の、果ての無い旅路の始まりであった。




 ————◇※◇第37話-巫女と青年◇※◇————




 深夜から現れたアセルシアだが、あの後普通に寝床を占領して、普通に爆睡をかましていった。

 遠慮だとか常識だとか淑女っぽさは微塵も無く。

 大の字で腹を出して眠る様は幼い頃のクシェルにも重なった。体型や諸々から年頃は近しいだろうが声音や仕草、行動はまるで子供だった。

 無邪気で在るがままに振る舞うアセルシアは、しかし言葉の節々に『深み』らしきものを感じる。加えてあの瞳……淡く、儚げな色彩。「酷く儚く思える」と、上手い返しをしようと不細工に紡いだ一言だったが、本質を突いている気もした。


「おい、起きろよ。とっくに朝だぞ」


 アセルシアの訪問から一夜明け。

 陽もすっかり上がった頃、彼女は未だ夢の中にいた。

 さぞ幸せな夢なのか、揺すれど揺すれど目覚める気配は無い。

 起こすのもしのびないが寝床を占領されたままも困る。何より年頃の(それに好ましい)女体が無防備に横たわっているというのは、精神的に耐え難いものがあった。

 普通は行きずりの相手なら湧きもしない邪な感情が渦巻いてくる。そもそも知らぬ男の部屋で夜を越すなど無用心もいいところだ。相手が相手なら、やることをやられても文句は言えまい。


「おい、おいって」ぺちぺちと頬を軽くはたいてみたが、「んーん」と唸るだけで覚醒には遠い。しかし柔らかい頬だ。手触りが良くて、ついつい摘まんでしまう。

 夢中になっていると、滑らかな肌からは想像できないざらつきに触れる。気になって覗いてみると髪に隠れた左耳の裏辺りに大きな傷があった。

 どういった経緯で負ったものか、相当な深さだ。

 場所が場所なだけに、下手をすれば命にもかかわる深手だったはず。


「……っ」


 一瞬、アセルシアの身体が跳ねた。俺の指先が首筋をなぞった直後の事だった。眠りに落ちているはずの眼はごくごく薄っすらと開かれて、だが明らかに俺の顔面を捉えていた。

 こいつ、もしかして……。

 油断しきっている頬をもう一度、今度は思い切りつまんでやった。

 

「あっ! 痛い痛い痛い! 痛いです!!」激痛に耐え兼ねたアセルシアが飛び起きる。やっぱり寝たふりか。彼女は頬を抑えながら「~~~っ!何をするのですか!」と抗議する。赤みの強い肌がさらに色味を増していた。


「起こしただけだが?」


「も、もっと普通に起こしてください!」


「努力はしたつもりだ」


「何処がです!」


「というかアセルシア、とっくに起きてたろ。同じ事をしたら次は服をひん剥いて外に放り出すからな」


「ひ、酷いっ、酷い酷い! ヴォルフは意地悪です!」アセルシアはその後も悪魔だの獣だの喚いていたが、無視して着替えてやった。

 流石に恥じらいくらいはあるらしく顔を赤らめて黙り込んだ。なんだ、こいつの方が余程初心じゃないか。


 ひとしきり文句を放つと途端に勢いを失い、「うう、沢山お話したら喉が渇きました」そんなことを言って肩を落としたが、続けて腹を抑えては「……お腹も空きました」と呟いた。

 まあ、彼女が訪問してからそれなりに経っているから喉も渇けば腹も減るだろう。

 俺は机上に持ってきていた手提げ籠からパンと果物、それから水を取り出してアセルシアに差し出した。

 彼女は手を上げて喜ぶとそれらを素早く受け取る。蕾が春の訪れに開花する、彼女が咲かせたのはそんな笑顔だった。

 真ん丸に開いた瞳は果物を標的としたようだ。成る程、空腹と渇きを同時に満たすわけか。悪くない選択じゃないか。


「ヴォルフは食べないのですか」アセルシアが果物に齧りつく直前に問い掛ける。気遣いは持ち合わせていたか。「俺はもう済ませてきたよ」と朝食を終えたことを伝える。


「えっ」


「迎えが来てたから、皆と食べてきたんだよ」


 侍女ミネルバは欠かさず定時にやってくる。

 朝と夜、どちらも食事の時間にだ。部屋まで来たミネルバは当然アセルシアの存在に気付いたが、何事もない振りで見逃してくれた。アリアかクシェルあたりなら言及は免れなかった……いや、クシェルに関しては朝食の際に「他の女性ひとの匂いがする」とか言って顔をしかめていたか。さっさと切り上げてきたが間一髪だったな。

 ともかく、ミネルバはアセルシアの存在について触れなかった。与えられた職務以外には首を突っ込まない。なんと真面目で忠実なのだろう。


 アセルシアは「一緒に食べた方が美味しいのに」なんて、いつかのクシェルみたいな台詞を溢していた。仕方なく一口分だけパンをむしって食べてやると彼女は思い切り破顔する。一度咥えてしまえばそこから彼女は脇目も振らず食事に夢中になった。

 次々と欲張りに頬張る姿は外見の愛らしさも相まって小動物のようだった。慌てて食べる割に不思議と粗雑な感じが無いのは妙な事だ。作法など無いが、綺麗な食べ方なのだ。溢したり汚すことがない。食いつきがよく、あんまり美味しそうに食べるから自然と笑みが零れてしまう。

 パンを詰め込み過ぎたらしいアセルシアが思い切り噎せ込んだ。

 口を手で塞いで意地でも飲み込もうとしているので水を杯に汲んで口元に運んでやると、俺の手を掴んで彼女の方から杯を迎える。


「全く、そそっかしい奴だなぁ」


 口元を拭ってやると、アセルシアは一瞬目を見開いて固まったが直ぐに食事を再開する。こうも食べっぷりのいい女性は見たことが無いが、心地よいものだ。

 俺は彼女が食べ終わるまで、隣でただ、その様子を眺めていた。



 ◇



 食後、彼女アセルシアの要望通り街に出ることにした。

 一応彼女には外套フードを被って貰っている。嫌がるものと思ったが彼女は案外すんなりと受け入れた。とかく彼女は目立つ。珍しい容姿は勿論、包容力すら感じる体貌は人々の視線を惹き付けるだろう。護衛上の都合と、俺個人の事情もあって露出は下げた方が良いと考えた。


 街は相変わらずの賑わいだった。

 雑多な通りは陽気にあふれ、人々の営みが彩りとなる。労働にいそしむ領民の表情は豊かさを求める希望を灯していたが、しかし微かにくすんでいた。

 最初は活気に満ちた都市と感じていたのに、今は確かな陰が在ると知っている。生憎の曇天も相まってか、道行く人々の笑顔すら、作り物のように思えてならなかった。

 アセルシアは初めて訪れた土地のよう、目に映る全てに関心を奪われている。

 彼女の一挙手一投足は予測不能で、捕まえていなければ本能のままに駆け出してしまう。彼女の瞳は貪欲に景色を映し、その耳は喧騒から様々な音を掻き分け、大きく吸い込む息は、全霊で世界と向き合っていた。人も街も店も、花も空も。全ては彼女の為に開かれている。それともアセルシアが開いているのか、とにかく、彼女は街をただ歩くのに真剣だった。

 アセルシアを見ていると悩んでいる自分が馬鹿馬鹿しく、矮小に感じる。

 小難しい道理を彼女ならぶち壊してくれる、そんな気さえした。


「————シェーンにもよく同じ事を言われました」露店で燻製肉を買う最中、銀を取り出している時にアセルシアが脈絡なく呟いた。首を傾げると彼女は「そそっかしいといったでしょう」と補足する。


「シェーンってのは?」


「私の騎士です。こう呼ぶと、彼は怒るのですが」


 騎士……バルガスから聞いた守護者とやらか。


「シェーンは小さい頃からの知り合いで、私にとっては、そうですね……家族のような間柄なのです。飄々としているのに生真面目で、慎重なのに抜けていて、心配性なのに何でもないように振舞って。騎士に憧れているのに、騎士と呼ばれるのを嫌がるの」


「気難しいというか、変わった男なんだな」


「優しい人なんです————だから、損ばかりするのよ」


 アセルシアの瞳が昏い光を蓄える。この女性ひとはこんな表情もするのか。


「それにしてもヴォルフ、よくシェーンが男性だと解りましたね」


「そんくらい解るさ」


 目を見ればはっきりと。

 異性の話を語る際は少し異なるものだ。彼女はシェーンなる人物を家族と例えたが、その結びつきはもっと複雑に感じた。シェーンというのも、実際は愛称で真名は別にあるのではないか。


「それで、そのお優しい騎士様は今何処にいるんだ」会計を済ませ、買った燻製肉を半分千切ってアセルシアへ渡す。「野暮用があると言っていました。その内に戻ってくると思います」


「野暮用て、大丈夫かそいつ」


 守るべき主を見知らぬ俺と二人きりにして他所事とは……。

 本当に信用できるのかよ、その騎士とやらは。

 ちなみに買った燻製肉は噛むほどに獣臭く、あまり美味しくは無かった。

 アセルシアもアセルシアで「味がしない!」と叫んでいたが、俺が渋い顔で食べているのに気づくと彼女は俺に寄せた表情を作った。面白い顔をするから笑ってしまうと、彼女もまた笑みを浮かべる。それで、美味しくも無い燻製肉をまた二人で齧った。


 アセルシアを連れての街巡りは夕刻まで続いた。

 彼女は初めて訪れた土地のような反応で、商人の多い通りから裏道(もちろん貧民区は避けたが)まで、とにかく様々な場所に行きたがった。

 不用意に教会の傍に近づいた時は流石に身構えたものだ。

「教会だぞ」と伝えても彼女はきょとんとしていた。敵という認識はないのだろうか。

 奇襲の想定もしていたが人の多い街中で仕掛けるほど相手も馬鹿では無いか。戦闘に備えて鎖帷子は着込んでいるし、投擲用の仕込みの短刀、《征服されざる者アダマス》、そしてちょっとした隠し球も持ってきている。準備万端だ。

 こっちは顔が割れているが、相手はどんな連中かも分からないのだ。人一人を護衛するのはそれなりに消耗するし、複数人との戦闘を考えて備えは多い方がいい。

 クシェルで馴れているつもりでいたが、ここ数年はクウェンの壁の中だった。実際に付きっきりで守ったのはあの逃亡生活。あれだけの苦境を思えばさほど苦ではないが、それでも楽な仕事ではない。


 夕暮れ、陽日が城壁に隠れる頃、アセルシアは「最後に行きたいところがある」と言った。彼女が指定したのは、聖アミュガット城塞において最も高い場所……いわゆる監視塔であった。

 監視塔は基本、領民が立ち寄れる場所ではない。

 あそこは外界よりの敵襲や異変を名の通り監視するためにあって、塔の階ごとで武器庫や駐在するための食糧、輪番で見張るために簡易的な寝床も設置されている。そもそも城壁の上に自体、限られた者しか上がることは出来ないのだ。だから「行きたい」といっても簡単に行けるわけでは無いと諭したのだが、アセルシアは全く聞く耳を持たない。どうせ追い返されるだろうに。


「どうぞお通り下さい」


「あれ?」


 見張りの衛兵は訝しんで立ち塞がったが、アセルシアが俺をバルガス閣下の遣いだと明かすと快く道を明けた。どうやら俺はクウェンからの使者としてある程度は顔が効くようだ。「ありがとう! お仕事頑張ってくださいね!」アセルシアは満足げに頷くと俺の袖を引っ張って塔を駆け上がる。踊り場で休息を取る衛兵は見知らぬ来訪者に驚いていた。


「わあ、高い! ヴォルフ、夕焼けが綺麗ですよ」


 開いた視界は巨大な湖を越え、地平の果てまで見渡せた。

 故郷などもうはっきりとした位置も解らない……なんだか随分と遠くまで来た気がする。

 監視塔からは城塞内を一望できた。教会やバルガスの屋敷、隔離された貧民区も良く見える。同じ城塞内なのに、上から見るとはっきりとした格差のようなものがあった。人の流れや多さ、建物の材質、通りの衛生、何処に富が集まるのか。


「街に行きたかった理由はこれか?」


「はい、この景色が見たかったのです。ここから、この城塞内を。私が今、何処に立っているのかを。————もちろん、純粋に街を巡ってみたい気持ちもありましたよ。何せ初めてですから!」


 彼女の台詞に違和感があった。『初めて』とはどういう事だろう。今日は彼女の放つ言葉や行動に悩まされてばかりだった。そんな思考する猶予すら奪うのも、また彼女の言葉だ。


「ねえヴォルフ、少しだけ目を閉じて」彼女に従って瞼を下ろす。衣擦れと、彼女の力の籠った声が聞こえた。少しして、彼女の細い指が俺の左耳に触れる。強張る頬に手を添えて、「怖がらないで」と彼女が囁いた。それから彼女は俺の耳を弄ると、何やら締め付ける感覚が耳朶に残される。


「もう、いいですよ」


 目を開けると、正面にアセルシアの顔があった。

 夕陽に輝く彼女の美しさは鼓動が止まるほどだった。瞬きをするのも惜しい、一秒、一瞬でも見つめていたかった。どうかこのまま時と共に止まってくれればいい。叶わないなら、せめてゆっくりと。

 左耳に残った感覚に触れると、何か着いていると気付いた。さっきまで彼女が左耳に着けていた耳飾りだった。

 耳朶に嵌め込むための金具の部分には、ほんのりとした人肌の温もりが残っている。


「親愛と、加護の御守りです。遥か彼方の土地に住む、古狼の牙から作ったそうです。高価なものではありませんが、受け取ってください。きっと、貴方を守ってくれるでしょう」


 狼の牙から生まれた耳飾り。

 動物の牙を身に着けたり送るのは、一部の地域では特別な意味を持つ。

 己の強さを誇示する為や、儀式的なもの、求愛。精霊信仰のある土地だから、この耳飾りにも確かな意味があったはず。その片割れを授ける、その意味とは。


「代わりに、お前のことは俺が守るよ」


 ……守られるはずの彼女が俺を守るという。

 受け取った耳飾りと締まった口調から本気で言っているのだと理解わかる。


「頼りにしています、騎士様」アセルシアに残った右耳の飾りが、波のようにゆっくり揺れた。

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破滅の旅路を征く者よ 霜月 ひでり @shimotsukihideri

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