Aquilegia

汐海有真(白木犀)

Aquilegia

 恋愛に日夜いそしんでる人たちを見ていると、彼等が自分と同じ人間なのかどうかがわからなくなってくる。


 そもそも恋愛というものが、ちょっとヘンなのだ。だって恋愛というのは、人間がつくり出した概念じゃないか。皆、漫画とか映画とか小説とかドラマで描かれている「美しい恋愛」の虚構を追い求めて、誰かと手を繋いだりキスをしたり肌を重ねたりしているだけだ。甘い香りを漂わせている食虫植物に誘い込まれる愚かな蝶々のように見えてならない。


 ……とか考えてしまう自分が、正直に言うと嫌だった。


 愚かな蝶々が羨ましい。私もできることなら、そっち側の大多数の人間になりたい。そう思って同性異性問わず色々な人と話してみたのだけれど、自分の中に大きな熱が宿る瞬間など訪れなくて、その度に自分のことを欠陥品だと嘲笑あざわらいながら眠りについた。


 ――私はきっと誰のことも好きになることなく、死んでいくのだろう。


 確信めいたその思いが私の中を充満するようになったのは中学生が終わる頃で、卒業式に誰に告白するだとか誰の第二ボタンを貰うだとかいう甘ったるい話を聞きながら、私はある種の諦念ていねんと共に卒業を迎えた。


 だから高校一年生になって同じクラスの加波千尋かなみちひろと出会ったとき、私は大きな興味を抱くことになった。


 身長は百六十五センチメートルくらいで、男にしてはそこまで高くない。雪をあざむく綺麗な肌、さらりとした焦げ茶色のショートヘア、薄茶色の大きな瞳――そんな特徴も相まって、中性的な美少年、というのが第一印象だった。


 この加波千尋だが、可愛らしい顔立ちとは裏腹に、どうやらとっても女癖が悪いらしい。


 まだ六月だというのに、彼と噂になっている女子の数は片手では数え切れなくなってきた。昼休みに屋上でこの子とお弁当を食べていたとか、放課後の隣町でこの子とクレープを食べていたとか、まあとにかくゴシップの生産量がすごい。


 それに加えて、特定の誰かと付き合っている訳ではなく、いい感じの雰囲気だった女の子から告白されても冷酷に振る、らしい。クラスの中では密やかに、女泣かせというあだ名が付いた。


 不思議だった。加波ほどモテている奴なら、特定の一人の相手と交際するのなんて容易なはずなのに。どうしてだろうと考えたとき、私の中に一つの可能性が浮上した。


 ――もしかして加波は、ほんとうは誰のことも、好きじゃないのかもしれない。


 その考えに至ったことで、私は加波のことを知りたいと思うようになった。……加波のことを知りたい、というのは間違った表現かもしれない。恐らく私は、自分と重なり合うところがあるように思えた相手を利用して、恋愛という訳のわからないものの輪郭りんかくに少しでもいいから、触れてみたかったのだ。


 *


「加波……くん」


 一限と二限の間の休み時間。私は机に突っ伏して眠っている加波に、そうやって声を掛けた。加波はぴくりと身体を震わせて、目を擦りながら顔を上げる。お月様みたいに真ん丸な瞳が、私のことを捉えていた。相変わらず顔がいいな、という浅めの感想を抱く。


 加波は二、三度瞬きを繰り返してから、楽しそうな笑顔を浮かべた。


駒橋こまばしちゃん、だよね? 話し掛けてくれるなんて嬉しいなあ。僕に何か用?」

「……よく私の名前、覚えてたね」

「えー、クラスメイトの名前くらい暗記してますよ? それに駒橋ちゃんは女の子だしね」


 八重歯を見せて笑う加波に、モテる男の発言っぽいなと思いながら「ありがと」と返す。さっさと本題に入ろうと思って、私はまた口を開いた。


「加波くん、今日の放課後は空いてる? よかったら一緒に帰ってくれない?」


 加波は少し驚いたように目を見張ってから、くすりと笑う。


「ごめんねー、今日の放課後は先約あるんだ」

「……そっか」


 私は頷いた。それもそうだ、加波の放課後なんてどう考えても埋まっていそうじゃないか。微かに残念だと思っていると、加波は頬杖をつきながら微笑む。


「でも、明後日……木曜日の放課後なら空いてるよ?」

「そうなの」

「うん」

「そうしたら、その日でもいいんだけど……どう?」

「おっけ、空けとくねー」


 加波は右手をオッケーの形にして、にこにこ笑った。私は「助かる」とだけ告げて、自分の席に戻る。次の授業の教科書を準備しながら、そっと自分の胸に手を当てた。心臓の鼓動はいつもと変わらなくて、まあそうだよなと思いながら、小さく溜め息をついた。


 *


 雲を染めるほのかなオレンジ色が、もうすぐ夕暮れが訪れる頃だと告げていた。

 私は加波と並んで歩きながら、放課後の帰り道を歩いている。いつも自分が歩いている道順とは少しだけ異なっていて、そんな些細ささいなことに非日常性を感じていた。


「それで駒橋ちゃんは、何で急に僕と帰りたいと思ったの? 話したことなかったよね」


 薄く笑いながら首を傾げる加波に、私は少しだけ目線を逸らしながら口を開く。


「……加波くんのことを、知りたかった」

「ふうん、ありがとう。それって何か理由とかあるの?」


 私は加波の目を見た。大きな瞳が、何故だか全てを見透かしているように感じられた。だから、回りくどい嘘をつくのはやめて正直に話そうと思った。


「加波くんは、恋愛が上手でしょ?」

「え、いきなり何? 変なこと言うね、駒橋ちゃん」


 くすくすと笑う加波を、真剣な表情で見つめた。


「私、恋愛がよくわからないの。ほんとうに、わからない。……だから私に、それを教えてほしいの。あ、別に付き合いたいとかじゃないんだけど」


 私の言葉に、加波は不思議そうな顔をしながら、口角を上げた。


「駒橋ちゃんって珍しいタイプだね。僕たち高校一年生なんて、恋人が欲しい奴ばっかなのに、そういう訳じゃないんでしょ?」

「うん。そもそも私、誰のことも好きになれないし」

「それってさ、何か要因があったりするの?」


 加波は楽しげな笑顔で、そうやって尋ねた。


 要因。そう言われてすぐに思い浮かんだのは、のこと。私の知っている人間の中で、最も愚かな蝶々に近いひと。


 でもそれを加波に話す気にはなれなくて、私はようやく言葉を発する。


「正確にはわからない。……でも私、こういう自分のまま死んでいくのかと思うと、諦めみたいなものと同時に、心の芯から冷えるような恐ろしさを感じるの。怖いの」


 加波は「ふうん」と言って、急に角を曲がった。それは明らかに駅の方向とは異なっていて、私は怪訝けげんに思いながら彼の後を追った。


 そこは路地裏だった。初夏のはずなのにどこか空気は冷え込んでいて、狭く、物寂しい雰囲気が漂っていた。いきなり別世界に迷い込んでしまったかのように思った。


 加波が少しして立ち止まったから、私も足を止めた。加波の薄茶色をした綺麗な瞳が、私のことを捉えていた。


「駒橋ちゃんは、恋愛について知りたいんだよね?」

「うん」

「一つ教えてあげる。……恋愛なんて、ろくなもんじゃないよ?」


 加波は大きな瞳に、憎悪に似たどす黒い感情を溶かした。私は何も言えず、そして同時に彼から目を離すことができなかった。加波は何かをわらうように口角を上げて、私に近付いた。


 一瞬だった。


 加波の顔が離れて、私は呆然としながら自分の唇に触れた。もはや加波の目には恐ろしい何かなど残っていなくて、ただ美しい薄茶の色彩だけがそこに存在していた。


「どう? 何かわかった?」


 加波はそう言って、楽しそうに微笑んだ。どう答えればいいのかわからなくて、でも少しだけ、少しだけだけれど、ぼやけてしょうがなかった恋愛の輪郭りんかくに触れられた気がして、その事実に高揚こうようしている自分が、いた。


「……よくわからない」

「へえ、それは大変」

「だから……もう一回、して」


 私の言葉に加波は微かに驚いたような顔をしてから、いつもの飄々ひょうひょうとした笑顔に戻る。


「いいよ?」


 また、唇が触れた。

 心の準備ができていたから、さっきよりもわずかに、理解が追い付いている気がした。


 こういうことを「好きな人」とすることができたら確かに幸せなのかもしれないなと、加波に唇を奪われながら、私はぼんやりと考えていた。


 *


 時折お喋りをして、それからキスをするだけの関係性。

 加波とそういう仲になってから、流れていくように一ヶ月の時が過ぎ去った。


 *


「ねえねえ、真紀まきちゃん」


 夜、自分の部屋で勉強をしていた私は、そうやって声を掛けられる。


 扉の近くに、お母さんが立っている。緩くウェーブのかかった茶髪、確かな赤さに染まった唇、胸元の空いた華やかなワンピース。私は彼女の姿を見るのをやめて、ノートと視線を合わせながら口を開く。


「何?」

「今週の日曜日って空いてる?」

「何で」

「あのね、会ってほしい人がいるの! すっごくいい人で、真紀ちゃんもきっと気に入ってくれると思うんだ。どうかな?」


 ……吐き気がした。


 私はノートと参考書を雑に閉じて、立ち上がった。お母さんを見据えた。

 もう四十歳を超えるというのに、彼女は派手なままだ。


 いつになったら貴女は、自分が未だに愚かな蝶々であることを、恥じてくれるのだろう?


「それって新しいカレシ?」

「うん、そうだよ! もしかしたら、いつか真紀ちゃんのお父さんになるかもしれな……」

「ふざけないで」


 私はお母さんを睨みつけた。彼女はぼんやりとした眼差しで、私のことを見つめている。


「私にとってのお父さんは、ほんとうのお父さんだけよ。まがい物のお父さんなんて、必要ない」


 それだけ伝えて、私はお母さんの脇をすり抜けて扉を開ける。


 これが初めてではなかった。もう限界だ。私は何度貴女の恋人に会えばいい。結局誰とも長く付き合えない癖に。どうしてそうまでも、愚者ぐしゃでいられるの。


 悔しくて、悲しくて、やるせなくて、私は家を飛び出した。


 *


 気付けば私は、ポケットに入れっ放しにしていた携帯で、加波に電話を掛けていた。

 どうしたの、と聞かれたから、会いたい、とだけ伝えた。


 こんな夜にかよ、面倒くさいんだけど、と加波は言った。でも私が嗚咽おえつを漏らしていることに気付くと、加波は場所を聞いてくれた。伝えると、電話は切れた。


 私は公園のベンチで泣いていた。これから暑くなる季節でもやっぱり夜は肌寒くて、流れる涙だけがあたたかいような気がした。満月が綺麗だった、彼の瞳みたいに丸かった。


「言っとくけどさ、僕、お前と同じ町に住んでないからね?」


 声がした。滲んだ視界と夜の暗さでぼんやりとしていたけれど、そこにいるのは間違いなく加波だった。加波千尋、だった。


「加波」

「何だよ」

「辛い」

「そりゃあそうだろうね。嬉し泣きじゃないことくらいわかりますよ」


 加波はそう言いながら、私の隣に座った。そのことに安心している自分が、いた。


「……お母さんは、愚かなの」

「へえ、そうなんだ」

「お父さんと離婚してから、ずっと恋愛してるの。ヘンなの。私のこと、見てくれない」


「……ああ、だから駒橋ちゃんは、恋愛が嫌いで、好きなんだ」

「好きじゃない」

「僕にはそうは見えないけどね?」


 加波はいつものように笑って、それから大きな瞳の上に月明かりを乗せた。


「あのね、恋愛は人を愚かにするんだよ」


 加波はくすくすと、わらう。


「例えば僕の兄さんはね、弟の僕から見てもすっごいいい奴なの。でも昔、付き合った女に沢山暴力を振るわれて、心をやっちゃったんだ。その女を愛することが、悲劇だって気付かずに。ほら、愚かでしょ? あ、今はそこそこ元気だから安心してね」


 何も言わないでいる私に向けて、加波は話を続ける。


「……それもあって、僕の恋愛は復讐。愚かにされるんじゃなくて、愚かにしてやるのが、僕の報復」


 加波は淡く目を細めながら、私に顔を近付けた。


「多分そういう僕も、愚かだよ。……人に期待しすぎない方がいい。恋愛が絡むと皆、屑になってしまうんだから」


 その言葉が、彼なりの励ましなのだと気付いたときには、もう駄目だった。

 私はただ、加波の唇を奪った。

 初めて彼と、舌を絡める。


 加波の唾液は少しだけ甘くて、優しかった。

 その液体が、自分の心に雫を落としたように思った。何かが育ってしまう? ずっと羨ましかったはずなのに、今ではその可能性が恐ろしかった。


 だって、お母さんと同類になってしまう。

 だって、加波は愛することを憎んでいる。

 その先に、幸福などない。だから私は、私の中に芽生えそうになっているそれを、殺さなければいけなかった。


 ああ、でも、今だけは。

 甘くて優しいその蜜に浸る、愚かな蝶々でいることを、


 ――どうか、許してほしかった。

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