弁当屋で俺と働く天然娘を濡れ衣からかばったら、人生が一発逆転した話。

ただ巻き芳賀

短編 弁当屋で俺と働く天然娘を濡れ衣からかばったら、人生が一発逆転した話。

「私~、先輩のことが大好きです〜」


 いやいやいや、ちょっと待て。

 これは一体どういう状況なんだ!

 目の前には瞳を潤ませて、甘い声で衝撃の告白をしてくる同じバイトの篠宮さん。


 さっき彼女はバイトを辞めると言って、弁当屋から飛び出した。

 俺は篠宮さんを追いかけて、歩道を少し走ったところで追いついたんだ。

 それで、走る彼女を止めようと肩に手をかけたのだけど……。


 振り向いた彼女から愛の告白を受けたのだ。


「あ、私ったら~、勢いでつい言っちゃいましたぁ」


 頬を赤らめて手で顔を覆っている。


 恥ずかしそうにする彼女の笑顔は、夕日が当たっていつも以上に可愛らしく見えた。

 去年大学を卒業した俺より1歳年上のハズなのに、まるで高校生みたいに無邪気で天使のような微笑みだ。

 

 こうしてみると篠宮さんはやっぱり可愛いな。

 これで天然娘じゃなければ完璧なんだけど。


「さっきは~、仕事でかばってくれてありがとう。とっても嬉しかったですよぉ。でも~、どうして私を追いかけてくれたんですかぁ?」

「え、あ、いや、せっかく一緒にバイトしてたのに、こんな別れ方じゃあんまりだと思って」


「ほんと~? そう思ってくれて嬉しいなぁ。でも私~、さっきバイト辞めちゃいましたよぉ。だからもう会えなくなっちゃいますねぇ。先輩のこと好きになったのになぁ……。寂しいなぁ」


 想いをストレートにぶつけてくる彼女にたじろぎながらも、俺も気持ちに応えなくてはと覚悟を決める。


「お、俺も一緒に働いてて、し、篠宮さんのこと素敵だなぁって思ってて。それであなたのことを――」

「ねぇねぇ。私~、優しくしてくれたお礼がしたいです〜。お昼ご馳走しますから~、明日ウチに来ていただけませんかぁ?」


 い、家!?


「え、い……いきなり家じゃご両親に迷惑だし……」

「ウチは~、両親が海外に住んでて家にいないんですよぉ。だから~、……平気なんです〜」


 ま、待て待て待て待て!

 ちょっと待て!

 こ、これは伝説の……両親がいない家へご招待という天国パターン!!??

 キ、キ、キタコレ……。


◇◇◇


「彼女が新しく働いてもらう篠宮さんだ」

「し、篠宮るるか・・・です~。どゅうぞよろしくお願いします〜」


 店長に紹介されて甘ったるい声で名乗った彼女。

 眼鏡の篠宮さんは、いきなり噛んで照れ笑いをしながら、みんなの顔色をうかがった。

 俺は可愛い眼鏡女子が入ったなと内心喜びながら見ていたが、一緒に働く女性たちは鋭い目線で彼女がどんな人間か観察している。


 歳は24で俺より1個上らしいが、この世間知らずそうな雰囲気は俺よりずっと年下に見える。

 綺麗系というより可愛い系、かなりの童顔で高校生と言っても通りそうなくらいだ。


「先輩っ。よろしくお願いしますね~」

「あ、はい。こちらこそ」


 俺のところへ来ると、丁寧に頭を下げて挨拶した。

 眼鏡っ娘を特別好きではないが、可愛い女性だなと思った。

 ……ところがだ。


「え? ええっーー!!??」


 彼女は顔を上げると、なぜか俺を見て凄く驚いた。

 口元に両手を当てて、目を大きく見開いている。


「あの~。先輩って、何か特別なことをしてたりします~?」

「特別?」


「何かの選手とか~、武術の達人とか~、SNSでフォロワーたくさんの有名人とか~」

「いや、ただの就職浪人で……」


「あ、白色だからだぁ……」

「??」


 意味の分からない質問を受けた。


 俺が特別に見えたのか?

 それとも、からかわれた?

 うーん、たぶんそれはないだろう。

 彼女は人をからかうタイプに見えないし、ちょっと変わってるがたぶん会話の一環かな?


 でも、こんなふわふわした感じの女性が、このギスギスした女性ばかりの弁当屋でやっていけるのか?


 他人のことながら心配したが、今の俺も精神的に参っているので、とても女性に惹かれたりしない。

 そもそも、完全女性優位のこのバイト先では目立たないよう空気に徹しているので、何かあってもどうせ力になれないなと無駄な心配をやめた。


 去年大学を卒業した俺は、この1年を就職浪人として過ごしたが、それでも就職先は決まらなかった。

 やはりFランク大学卒業というのはかなりのネックで、書類選考で落とされる日々。

 稀に大卒募集のある中堅企業でなんとか二次面接まで進んでも、毎回、配属先は営業だよと言われて逃げ帰った。


 俺の実家は、以前、弁当屋を個人経営していた。

 両親とも毎日店に出ていたので、幼少のころからいつも家にひとりだった。

 夜遅くまで家に親がいないので、家から出ないし友達も呼ばない、そんな生活をしていた。

 それもあって、人づきあいが苦手になっていったんだと思う。


 俺が高校生のときに父が倒れた。

 家業の弁当屋は人手不足で、母だけではとても回らない。

 俺は母を手伝うために、高校が終わると勉強もせずになるべく店の厨房に入った。


 生活は楽ではなかったが、両親が溜めてくれた学費があり、私立大へ通わせてもらった。

 実家の弁当屋は賃貸店舗だったこともあり、俺の大学進学とともに廃業した。


 大学生になりひとり暮らしを始めた俺は、厨房の経験があったので、接客のない弁当屋の厨房スタッフに申し込んだ。 

 この店とは大学1年夏からの付き合い。

 もう4年を超えた。


 俺は早く会社に就職して、田舎でパートをして暮らす母を支えてなくてはいけない。

 就職浪人なんて……してる場合じゃないんだ。



 バイトから帰った俺は、ひとり暮らしの部屋に明かりをつける。

 ふと、今日店に入った篠宮さんの声を思い出す。


「先~輩っ。今日は、お疲れさまでした~」

「え? あ、うん……」


 彼女にちゃんと挨拶を返していないと気づいた。


 悪気はなかったが、あれは感じが悪かった。

 彼女は今日が初日で、頑張って挨拶しただろうに。

 悪いことをした。

 気分がふさいで、周りへ配慮が欠けていたみたいだ。

 もう、嫌われたかな?


 同時に、昨日受けた屈辱を思い出した。

 昨夜、一緒に卒業した同じゼミの連中で飲み会をしたが、行って後悔したのだ。


 あいつらは、俺が大人しいのをいいことに好き放題言いやがった。


「いいよな~、お前は社会人の苦労を知らなくて。会社勤めは大変なんだぞぉ」

「こいつに、俺らの大変さは分かんないって」

「お前は社会人にもならず、気楽なもんだよ」


 去年企業に就職した奴らからは、嬉しそうに1年目の苦労を聞かされた挙句、さんざん馬鹿にされた。

 たまらず、同じ就職浪人をした奴らの席へ行く。


「圧迫面接でキツイ質問きてよ、カッコよくスパッと返してやったわけだ」

「ちゃんと努力すればお前も結果出るから、せいぜい頑張りたまえ」


 同じ苦労をしたはずの奴らからは、就職内定の話を自慢された挙句、上から目線でアドバイスされた。

 みんなが俺を笑っているように見えた。

 いや、実際に笑っていたと思う。


 だが、嫌な思いだけでなく有益な情報もあった。

 こいつらとの付き合いを避けてて知らなかったが、ほとんどがこの地域の中小企業へ就職していたのだ。


 この地域発祥の巨大流通企業『ラクショウ・ホールディングス』、奴らはその子会社や下請け企業へ就職していた。

 親会社『ラクショウ・ホールディングス』へ就職など、俺らFラン大卒では逆立ちしても無理だろう。

 それでも、そのグループ企業へ就職できれば将来安泰である。


 だが、その数社で俺はもう採用試験に落ちていた。

 自分が情けなくてつらくなり、気分が悪くなったと言って飲み会の途中で逃げ帰った。


 あいつらを見返したい!

 声も出ないほど、悔しがらせてやりたい!


 強い対抗心が湧いた。

 だが就職できたとしても、よくて奴らと似たような中小企業、しかも数年遅れた入社だ。

 もう見返すことすら不可能な状況に、自分自身がトコトン嫌になった。


 

 俺は今日も食費を稼ぐべく、バイト先の弁当屋へ出勤した。

 時給は決して良くないが、閉店のときに賄いとして作り置きの揚げ物とご飯を大量にもらえる。

 かなり茶色い晩飯だが、揚げ物好きな俺はこれが目当てでこのバイトを続けていたりする。


 いつものように企業ロゴ入りのエプロンをつける。


 この地域は日本を代表する流通系大企業『ラクショウ・ホールディングス』のおひざ元で、この弁当屋もその系列会社。

 ココで働く同僚女性たちもみんな、旦那や親が系列会社か下請け会社に勤めている。


 バックヤードにいる店長に挨拶してから厨房に入ると、見慣れない女性がいた。


 あ、先日加わった篠宮さんじゃないか。

 眼鏡をかけてないから、一瞬誰か分からなかった。


 初日に眼鏡についた油汚れを気にしていたので、眼鏡の汚れが気になるならコンタクトにしたらと余計なことを言ったのだ。

 でも結果オーライか。

 彼女は眼鏡を外した方が断然可愛いと思う。


「お疲れさまです。篠宮さんでしたよね?」

「はい、篠宮です~。今日はよろしくお願いしますねぇ」


 甘ったるい声でのんびりしゃべる。

 まるで声優みたいだ。

 昨日、帰りの挨拶へ返事をしなかったのに、俺への態度は丁寧で優しい。

 ふさぎこんだ気持ちが少しだけ軽くなった。


 彼女は笑顔でこちらを見つめてくる。

 きつい性格の同僚女性から虐げられてるせいか、改善しない毎日のせいか、彼女が輝いて見えた。


「篠宮さんは調理が担当なんですか? てっきり欠員が出たレジの接客かと……」

「あのですねぇ。お恥ずかしい話ですけどぉ……」


 何か言おうとして彼女がためらっていると、レジの方から女子高生のバイトが声をかけてきた。


「その人さぁ、いい年してお釣りの計算間違えんのよ。3時間で1000円近くもよ!? 信じられる? さすがにレジ誤差が多過ぎだって、店長に厨房へ回されたんだよ」

「そ、そう……」


「ほらもう客来るよ? あんたも夜のピーク用にさっさと揚げ物を先作りしなよ! この前みたいに唐揚げ切らして、客を大勢待たしたらキレるかんね!? あ、いらっしゃいませー」


 ここは近くに大学があるうえ、駅前の店という大変恵まれた立地。

 大学生はもちろん、帰宅する一人暮らしのサラリーマンやOLが多く立ち寄るので非常に客が多い。

 ピーク時はレジや袋詰めを専任でする担当がいるのだ。

 夕方から夜にかけての4時間バイトは、女子高生に都合がいいらしい。


 このレジの子もなあ、普通の女子高生ならば気になってたかもだけどなあ。

 同性にキツクて、男性にはもっとキツイ。

 一番残念なのは、男性アイドルオタでバイト代を全部遠征に費やしてて、その辺の男をゴミ同然に扱うことだ。

 そりゃアイドル追っかけてりゃ、その辺の男は同じ人間に見えないだろうよ。

 でも彼女がドルオタで、買い物した客を陰でディスってるなんて誰も知らんから、彼女とレジで会話したくて通ってる客もいる。

 さすが店長、適材適所をよく分かってるよ。


 俺は素直に揚げ物を先作りしようと、食材の入った冷凍庫を開けたところで厨房の女性から声をかけられた。


「私はその子の面倒を見る気ないから。あなたが見てあげなさいね」


 こっちを見もしないで幕の内の容器に惣菜を詰めながら言ったのは、パートで働く30代の茶髪女性。

 旦那がフルタイムで働くのを嫌がるからここでパートしているらしく、与えられた仕事だけやって時間ちょうどですぐ帰る。

 家を買うために金を貯めてるそうで、金にならないことは何ひとつ協力してくれない。


 いや確かにさ、同僚バイトの教育で手当てなんてくれないよ。

 でも、店長だって仕事を教えてあげてねって言ってたでしょ。

 それに一緒に働くんだから、何をやるかくらい教えてあげてもいいんじゃない?

 俺のときも大分突き放されたけど、もう少しマシだった。

 篠宮さんは同性からすでに、かなり距離を取られているようだ。


 もうひとり、篠宮さんより一週間早く入店してきた黒縁眼鏡の女性がいる。

 この女性は仕事ができるせいか一緒に働いてて楽なこともあり、同僚女性たちがすんなりと受け入れたようだ。


 黒く長い髪を黒いゴムで後ろに束ねていて、昭和のオヤジみたいな黒縁の眼鏡をかけている。

 弁当屋なのでみんなと同じで化粧っ気はなく、大きめのマスクで顔の3分の2を覆っている。

 背は高いようだけどぶかぶかのエプロンを着けていて、いつも凄い猫背なので見た感じちょっと怖い。

 そして無駄なおしゃべりをしないので、どんな性格かさっぱり分からない。


 まあ、黒縁眼鏡の女性は仕事ができるから放っておいても平気だろう。

 それよりも、レジから俺と同じ調理へ配置換えになった篠宮さんだ。


「あ、あのう。私、頑張りますんで~、いろいろ教えてくださいねぇ、先輩!」

「ま、任せてください」


 か、可愛いな……。

 鬱屈した毎日の俺にはまぶしいほどだ。


 こういうテンポの遅い娘が苦手な奴もいるだろうけど、俺は平気、イヤむしろ好みだ。

 割と気長な性格の俺はこの口調も気にならない。

 逆に童顔の彼女からこの口調で話しかけられると、かなり男心をくすぐられる。


 それに、入店初日の眼鏡姿も可愛かったけど、眼鏡を外した今の方が断然に可愛い!


 まるで漫画に出て来るお嬢様みたいだ。

 まあ、お嬢様がこんな弁当屋で、バイトなんてする訳ないんだけど。


 それにしても、この感じだとやはり同僚の女性にはウケが悪いだろうな。

 黒縁眼鏡の女性みたいに仕事がバリバリできるなら、一緒に働いてて楽だから受け入れてもらえるんだろうけど、3時間で1000円もレジ誤差出すんじゃ厳しいか。


 人間、苦手なことくらいあるだろう。

 だけど俺と一緒に調理をやるなら、揚げ物や焼き肉、生姜焼きくらいは作れるようにしてあげよう。

 そう思ったのだけど……。


 これが思った以上のドジっ娘だった。


「ああ~。揚げ物失敗しちゃいましたぁ」

「あ、揚げ物はタイマーを正確に入力しようね……」


 調理効率を上げるため、食品工場で油に入れる直前まで調理された食材が店舗に届けられる。

 俺らはそれをフライヤーに必要な数入れるだけだ。

 気をつけるのは温度で入れる場所が違うのと、食材ごとに違う揚げ時間だけ。

 揚げ時間なんか食材ごとに決まった時間を確認して、タイマーをセットするだけなんだ。

 つまり揚げ物でミスる要素なんてほぼない。


 なのに、篠宮さんは揚げ物を失敗するのだ。


 タイマーの数字を間違えるのって、一体どう指導したら直せるんだろう。

 自分にミスが多いのを自覚しているのか、小さな手帳を持参してきてメモを取っているので、性格が真面目なのは分かる。

 会話も普通に通じるし、記憶力が低い訳じゃなさそうなんだけど……。


 タイマーをセットするたびに、目を細めて背伸びする姿に疑問を感じていた。



 いつもより忙しい一日がようやく終わり、やっと閉店時間になってくれた。


「じゃ、お先に帰ります」

 30代の茶髪女性は、家で旦那が待っているのか大急ぎで帰って行った。


「うーん、やっぱ私はいつも通りポテサラもらってくんで」

 ドルオタ女子高生は、ダイエットしているのかサラダで済ます気らしい。

 でも、でんぷんは避けた方がいいぞ。


「私たちも帰りましょうかぁ」

「そ、そうだね」


 後片づけをする店長と黒縁眼鏡の女性に挨拶してから、篠宮さんと店を出た。

 就職が決まらないつらい状況だけど、バイト終わりに彼女と帰れるなんて幸せ過ぎる。


「今日は厨房が大変でしたねぇ」


 篠宮さんが頬を少し赤くしながら、俺の苦労をねぎらってくれる。

 微笑む彼女は薄ピンク色のセーターにロングスカート、上から真っ白のロングコートを着ている。

 私服の篠宮さんも大変可愛らしかった。


 も、もしかして彼女は俺のことを気に入ってくれている?


 俺は彼女の反応に淡い期待を持ちながらも、勘違いだと困るので平静を装うべく努力する。


「確かに異常だった。焼肉ばかり30食は出たからね。最後は明日の分の食材まで切れたし」

「なんで~、今日はあんなに焼肉ばかり注文が入ったんですかねぇ」


「もしかしたらネットの巨大掲示板で俺らの弁当屋がターゲットにされて、焼肉祭りが開催されたのかもしれないな」

「巨大掲示板?? 焼肉祭りってなんですかぁ?」


 彼女は何のことかさっぱりのようで、口に人差し指を当てて首を横に傾けた。


 うおー!!

 何だ、この可愛らしい生き物は!

 漫画やアニメ以外で、本当にこんな娘がいるなんて信じられん!


 俺が篠宮さんの反応に身悶えしてると急に質問された。


「先輩。あのぅ、聞いてもいいですかぁ?」

「え、何?」


「先輩って彼女いるんですかぁ?」

「いやいないけど」


 俺が答えると、唐突な彼女の質問はそれで終わった。


 え、今の何?

 俺に彼女がいるかが、気になってるってことだよな? 

 まさか、篠宮さんは俺に好意がある!? 

 それとも、ただ話題として振っただけ??

 うーん。

 もし踏み込んだ会話をして、俺の勘違いだと彼女と働きにくくなるし……。


 俺はよく考えて、その先へ踏み込むのを自制した。


「ここで平気です~。お疲れさまでしたぁ」

「あ、そう。お疲れさま。気をつけて帰って」


 大きな道路まで出ると、彼女は俺に別れを告げて手を振った。


 ここで別れるの?

 駅からもバス停からも遠いのに?

 あ、家が近いのかも。

 彼女はこの辺に住んでるのかもしれない。


 俺は篠宮さんに手を振ると、鼻歌を口ずさみながら自分の家へ向かって歩きだした。

 なんだか、気持ちが前向きになってると感じる。

 最近バイトが楽しいからかも知れない。

 彼女の存在が、いつのまにか俺の中で大きくなっているのを感じた。



「ごめんなさい~。重くて無理です〜」

「そ、そっか……。片手でフライパンを持てないんだ……」


 篠宮さんは驚くほど非力だった。

 非力過ぎて具材の入った鍋を片手で持てないので、中華鍋を使う焼き肉なんてとても無理。

 それどころかフライパンで生姜焼きすらできない。

 まるで、物を持たずに生きてきたようだ。

 どうしよう。

 片手で鍋が振れないんじゃ、揚げ物しかできない。

 その揚げ物だって、2回に1回はタイマーをかけ間違える。

 これじゃ、さすがに俺がシフトに入れないときの代わりはできそうにない。


 もう2週間にもなるのに正直これは厳しい。

 俺の女性の好みには、どストライクなので負担ならいくらでも代わってあげたいけど、俺の代わりにシフトに入るのはとても無理だ。


 そんな俺たちを、同僚の女性たちがずっと冷ややかな目で見ていた。

 苦労しているのが俺だからか誰も何も言わなかったが、可愛い娘に甘い俺にも厳しい視線が注がれているのを感じる。


 彼女には調理が難しいと感じたのか、店長がとうとう配置換えをすると言い出してしまった。

 もう少し何とかしたかったが……。


「ごめんね、篠宮さん。俺がもっと上手く教えられたら……」

「できない私が悪いんです〜。だから~、先輩がそんなこと言わないでくださいよぉ」


 俺たちはお互いを慰め合った。


「バッカじゃないの?」


 レジからドルオタ女子高生の吐き捨てる声が聞こえて顔を上げると、近くで聞いていた30代の茶髪女性が目を細めて、あからさまにバカにした表情をしていた。


 俺が可愛い彼女のサポートを続けたかった。

 ここ最近、彼女と働けるだけで元気になれたが、残念ながらそれは終わってしまったようだ。


 そんな訳で彼女は、弁当を詰め込む係に回った。

 そこがダメなら弁当屋に君の居場所はない。

 頑張れ、篠宮さん!

 諦めるな!

 でも、弁当の種類で詰め込む具材や数も違うから、調理より覚えることが多くて正直厳しいだろうな。


「私はね、誰よりも厳しいわよ。覚悟しなさい!」


 詰め込みをするカウンターの前で腰に両手を当てて声を荒げたのは、ひと癖もふた癖もある50代のおばちゃん。

 要領がよく頼りにはなるが、主張が強くて譲らないので敵に回すと脅威でこの職場にいられなくなるのだ。

 彼女と反りが合わなくて辞めた人が何人もいるくらいで、機嫌を損ねるとほかの従業員を巻き込んで店舗運営に支障が出る。

 だから店長ですら恐れて神経を使う相手である。


 だがしかし、逆に彼女に気に入られれば、この職場に居られるということでもある。

 男性アイドルオタの女子高生も30代の茶髪女性も、このおばちゃんには気を遣っているのが分かる。


 そしてこのおばちゃんの困った部分は、自己中なところだ。

 偉そうに人の仕事に口出ししたり、つまみ食いしたりは普通にやるし、シフト決めも他の従業員の希望なんて無視して自分を最優先させる。

 イメージは我がまま勝手なガキ大将、いやズルくてお節介な近所のおばちゃんって感じか。

 とにかく注意が必要な相手だ。


「返事なさい! 聞いてるの!?」

「は、はいっ、どゅうぞよろしくお願いします〜」


 また噛んでる。

 マイペースな篠宮さんでもさすがに圧を感じたのか、緊張の色を隠せないようだ。

 その様子を見たおばちゃんは、おどおどする彼女に鼻を鳴らして小馬鹿にしたが、マウントを取れたからか意外に機嫌は良さそうだった。


「教えを乞うんだから私のことは先生って呼びな! ほら、そこの壁にメニューの写真と注釈があるでしょ! 入れるおかずの種類と数が書いてあるからその通りにすんのよ!」

「あ~、これですねぇ。先生、分かりましたぁ」


 まあ初日だし、ハッキリ言って彼女は当然役に立ってなかった。

 レジや調理ができないのに、いきなり詰め込みをテキパキできる訳がない。

 それでも自分のことを先生呼びさせたおばちゃんは、完璧にマウントを取ることに成功し、しかも上位者として尊重されてるのが心地よいのか大変満足そうだ。



 翌日も同じ状況でおばちゃんが得意げに指示指図を続けて、篠宮さんがそれに従順に従っていた。

 これなら篠宮さんも弁当屋を続けられそうだな。

 

 そんな風に思ってた時期が俺にもありました……。


「あんたねぇ、いい加減に覚えなさいよ。唐揚げ弁当は唐揚げ4個、ミックスフライ弁当の唐揚げは2個。なんで毎回入れる個数が多いのよ! たまに唐揚げの数が合ってると思ったらエビフライ余分に入れてるし」

「あ、そうですよねぇ。一応メモしてるんですけど~、何となく少ないと可哀そうかなぁと……」


「多めに入ってりゃ客は喜ぶかもしんないけど、次に買うときにいつも通りの量だと、損した気分になるでしょ! いつも同じ量にすることも大切なんだよ?」

「はい~、先生すみませんっ」


 相変わらず間違いが酷そうだな。

 いや、間違いというよりワザと多く入れてる節がある。

 大らかでサービス精神が旺盛のようだけど、それを弁当屋の具材でやられちゃ店長もコストがかさんで困るだろ。

 幸いおばちゃんが気づいて直すから、ことなきを得ている。

 でもたまに、おばちゃんのミスまで彼女のせいにされているような……。


 俺は詰め込み作業を後ろから見ながら、ぺこぺことおばちゃんに頭を下げる篠宮さんを心配していた。


「あの」

「ひあっ」


 急に声をかけられて、変な声を上げてしまった。

 横を見ると、レジにいたはずの黒縁眼鏡の女性が隣にいた。

 彼女が話しかけてきたようだ。

 黒縁眼鏡の女性は、俺の態度を気に留めた様子もなく、片手を口に当ててささやく。


「あの、今日私とふたりで帰って欲しいのですが」

「え? あ、えと、はい……」


 普段は篠宮さんと帰ることが多いが、別に彼女と帰る約束をしている訳じゃない。

 何か相談があるようなので、黒縁眼鏡の女性に了承を告げた。



 閉店処理を終えて、みんなで帰りじたくをする。


 30代の茶髪女性はさっさと帰って、もうとっくに残っていない。

 男性アイドルオタの女子高生は、推しのコンサートだそうで今日はいない。


「私はとんかつと唐揚げを全部もらうわ! これで今日の晩御飯も完璧!」


 おばちゃんは家の晩御飯にと、先作りで余った美味しいおかずをごっそり持って帰った。

 しかし、もう午後10時を過ぎてる。

 家族の晩御飯には遅くないか?


「じゃあ、俺たちも行きましょうか」

「ええ、分かりました」


 今日は、黒縁眼鏡の女性と帰る約束をしている。

 彼女と店を出ようとすると、篠宮さんが寄ってきた。


「あ、先輩っ! 私も一緒に帰ります~」

「ごめん。ちょっと彼女と話があるんだ。また明日ね、篠宮さん」


 感じが悪くならないように笑顔で伝えると、少し驚いた篠宮さんは、俺の隣にいる黒縁眼鏡の女性を見つめていた。


 まあ篠宮さんは少し驚いてたけど、怒ってる訳じゃなさそうだし平気だろう。

 それよりも隣にいる、この黒縁眼鏡の女性だ。

 彼女は一体、俺に何の話があるんだ?


 一緒に歩く黒縁眼鏡の女性を見る。

 彼女は仕事場と同じで大きなマスクをしたままだが、黒の革ジャンにジーパンという予想外の私服。

 いつもの凄い猫背のまま、俺の家とは違う方向へ歩きだした。


「お嬢……篠宮さんは素直な女性です」

「ええ、そうですね」


 なんだろう。

 篠宮さんの話なのかな?


「あの方は本当に純粋なんです」

「確かに純粋ですね」


「でもそれには原因があります。ある能力を得た影響で、人を疑うことができないのです」

「能力?」


「篠宮家の血筋の能力です。そして、その能力を使ってついに見つけたそうです。あなたのことを」

「あの、ちょっと何を言ってるのか……」


 この人、大丈夫か?

 急に訳の分からない話を始めたぞ。

 なんなんだ、篠宮さんの能力って。


「あの方は私がお守りしてきました」

「守る?」


「同行できる場所では、常に私がお守りしてきました。それが私の仕事でしたから」

「私の仕事って……。いや仲間だし、バイト中なら俺だって彼女を助けるよ」


 俺の返事を聞いた黒縁眼鏡の女性は、急に猫背をやめて姿勢をただした。

 背すじを真っすぐにした彼女は、少し背が高くて革ジャンにジーパン姿がよく似合っている。

 今までの印象とはガラリと変わって凄く格好いい。

 っていうか、あの猫背って急にやめられるの?


「今、あの方はあなただけを見ています。あなたが運命の人である、彼女はそうおっしゃっていました。だからあなたにお願いしたいのです。あの方をお守りすることを」

「運命の人? 俺が?」


 有料駐車場まで来ると、彼女は脇に止めてあったバイクからヘルメットを外す。


 え!?

 こんなデカいバイクに乗って来てるの?

 これ、たぶん750CCはあるだろ!


「あの方は能力を得た代わりに、人を疑うことができません。騙されたり利用されたり、人の悪意に対抗できないのです」

「それはさっきも聞きましたけど、一体どういう能力なんですか?」


「あの方は人の持つ潜在能力を、体にまとうオーラとして見れるそうです」

「オーラ……?」


 ん?

 なんだ?

 スピリチュアルな話か?


「潜在能力の高さはオーラの大きさで、潜在能力の性質は色で分かるそうです」

「……オーラですか?」


 俺があからさまに疑って見せると、黒縁眼鏡の女性はコホンと咳払いした。


「篠宮家は代々、この力で大きくなったそうです」

「篠宮さんの家って大きいんですか?」


「ええ。とっても」


 黒縁眼鏡の女性はそう言ってヘルメットを被ると、バイクにまたがった。


「彼女はあなたを見つけたのです。あなたはあの方にとって運命の人。だからこのお話をしました。ここから先は、どうか直接、本人に聞いてください」


 黒縁眼鏡の女性は、バイクのエンジンをかけた。

 ドルンドルンとエンジン音がリズムを奏でる。

 彼女はヘルメット越しに俺を見ると、普段ではあり得ない大声を出す。


「お嬢様は……いえ、義妹いもうとはあなただけを見ています! どうか! あの子を守ってやってください!」

「職場で彼女が困ってたら、当然守りますよ!」


 俺の返事を聞いた黒縁眼鏡の女性は、片手を上げると轟音とともに走り去っていった。


 なんだ、篠宮さんの能力って。

 潜在能力のオーラが見えるとか言ってたけど。

 篠宮家の血筋がどうとか。

 それに篠宮さんが探してたのは俺だとか……。

 だいたい黒縁眼鏡の女性と篠宮さんって、どんな関係なんだ?

 最後は義妹いもうとって言ってたような……。

 篠宮さんは黒縁眼鏡の女性にとって、お嬢様で義妹なのか??


 黒縁眼鏡の女性から言われたことは、分からないことだらけだった。

 でも、篠宮さんを守って欲しい、それが俺に言いたいことなのは分かった。

 そして俺が篠宮さんを守ると返したとき、黒縁眼鏡の女性は少し嬉しそうだった。



「先輩~! 昨日はヒドイじゃないですかぁ!」

「え、何が?」


 翌日、エプロンをつけて厨房に入ると、篠宮さんが不満を言いながら寄ってくる。


「私も一緒に帰りたかったのに~」

「ああ、彼女と話があったんだ」


 腰に手を当てた彼女が頬を膨らませる。


「私がいたら~、何か不都合があったんですかぁ?」

「ちょっと話をしてただけで……」


 助けを求めて、横目で黒縁眼鏡の女性を見る。

 彼女は絶対聞こえてるハズなのに、まったく聞こえないフリをしていた。


 篠宮さん、怒ってるな。

 やっぱり感じ悪かったか……。

 でも、昨日の相談内容は篠宮さんに関するもの。

 ふたりがどんな関係かは知らないが、本人を目の前にして、人を疑えない性格だとか、どっちが守るだとか言えないだろう。


 黒縁眼鏡の女性はというと、いつものように凄い猫背で、大袋に入った漬物をタッパーへ詰め替えている。

 昨日、颯爽とバイクで走り去っていった彼女とは、印象がまったく違う。

 一体、どっちが本物の彼女なのか。



「あのさ、最近詰め込みの仕事はどうなの?」

「やっぱりー、失敗が多いので大変です〜」


 今日のバイトが終わって「一緒に帰ろう」と篠宮さんを誘うと、まぶしいほどの笑顔で「やったぁ~!」と喜んでくれた。

 可愛い彼女が俺にとても好意的で、なんともいえない幸せを感じる。

 就職浪人が2年目へ突入間近で現状は何ひとつ変わらないが、魅力的な篠宮さんから優しくされるのは今の俺にとって救いだ。

 ちなみに、気遣って黒縁眼鏡の女性にも声をかけたが、冷たく断られた。


 俺は店を出て篠宮さんと歩きながら、気になってたことをたずねる。


「今日さ、おばちゃんのミスまで、篠宮さんのミスにされてなかった?」


 後ろから見ていて気づいたのだが、確かおばちゃんが詰め込んだ弁当でクレームが入ったんだ。

 唐揚げ増しの注文で、増量分の唐揚げを入れ忘れたみたいなのに、それを大声で篠宮さんのせいにしてたんだよな。


「気づきましたぁ?」

「なんだ。ちゃんと分かってたんだ」


「記憶力は自信がありますからぁ」

「なんで言わなかったの? ミスしたのは自分じゃないって」


 聞かれた彼女はバツが悪そうに黙った。

 少し強めに口を閉じたせいか、上唇が少し前に出てアヒル口になった。


「あ、いや、言いたくても言えないよな。おばちゃんを刺激しても、いいことないし」


 俺は現場の処世術として不名誉を受け入れたのかと思ったが、彼女は違うと首を横に振った。


「ミスした本人が一番悲しいのに~、あえて指摘しなくてもいいかなぁってぇ」

「まあ、篠宮さんがいいならいいけど」


 彼女は立ち止まるとうつむく。


「あのですねぇ」

「うん?」


「あのぅ」

「うん」


「私~、人を疑うことができないんです」

「そう、なんだ」


「いい子ぶってるとかじゃないです~」

「平気。分かるよ」


 篠宮さんは立ち止まったまま、胸に手を当てて話し始めた。

 昨日、黒縁眼鏡の女性から聞いた話は、どうやら本当のようだ。


「人の言葉を何でもかんでも鵜呑みにしちゃって~」

「うん」


「言葉の裏で実は拒否してるとかぁ、そういう建前みたいなのが分からないんです~」

「そっか」


「多分それが原因で~、学生の頃はぁ、ずっと孤立しちゃってたんです~」


 思ってたよりハードな内容で驚く。

 話の続きを待つが、彼女は口を開かない。

 何かを打ち明けたいようだ。

 俺は慎重に言葉を選んで、篠宮さんの気持ちに寄り添う。


「……つらい思いをしたんだね」

「やっぱりひとりは寂しかったです~」


「嫌なことはされた?」

「私にはその認識はないんですけど~、どうもそうらしいです~」


 篠宮さんはそこまで話すと顔をあげた。

 話の内容のわりに、彼女の表情は明るい。


「でもぉ、今は先輩がいますからぁ」

「ああ。俺がいるよ! 篠宮さんの味方だ!」


 俺の言葉を聞いた彼女は、嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑んだ。

 頬を赤くした篠宮さんは、前方へ駆け出す。

 そして、少し前でこちらへ振り向いた。


「先輩がいてくれて嬉しいです~。今の私~、大丈夫ですよぉ」


 彼女は顔の横で手を振りながら「バイバイ」と言うと、歩道から大通りの車道へ近寄った。

 篠宮さんの前には、脇に寄せて止められた黒塗りの車がある。


 そして、信じられないものを見た。


 運転席から出て来た男性が彼女に近寄ると、丁寧に後部座席のドアを開けたのだ。

 彼女は「ありがとっ」と男性に言って、慣れた様子で黒のセダンに乗り込む。

 すぐに後部座席の窓が開いて、篠宮さんが俺に手を振ると、一目で高級と分かる車は静かに発進してすぐに遠ざかって行った。


 迎えの車がいるじゃないか……。

 運転してた人がお父さんなのか?

 でも自分の子供が車に乗るのに、わざわざ後席のドアまで行って開けてあげたりするかな?

 そのくらい大切にされてる箱入り娘なのか?

 

 車に乗り込む仕草から、彼女の育ちの良さとゆとりが感じられた。

 黒縁眼鏡の女性が言っていた「能力を得たせいで、人を疑うことができない」という話はピンとこないが、人を責めるより思いやる、彼女の優しい性格にはとても好感を抱いた。



 翌日から、篠宮さんに対する女性たちの接し方が変化した。

 距離をとってよそよそしかったみんなが、急に慣れ慣れしくなり、親し気に彼女へ話しかけるようになったのだ。

 最初は、ようやく職場に溶け込めるようになったと喜んで見ていたのだが……。


「ちょっと篠宮さんクレームよ! さっきの注文で明太子のせるの忘れたでしょ。しっかりしなさい」

「え? あ~、はい、気をつけます〜」


 また、おばちゃんが人のせいにしてる。

 それさっき自分で詰めてたやつじゃんか。


「篠宮さん、レジ誤差出てるじゃない。もう」

「レ、レジ誤差ですかぁ? 私ですかね……、はい、気をつけます〜」


 今度はドルオタ女子高生に注意されている。

 確かにさっきは客が多くて一時的に袋詰めを手伝ってたけど、彼女はレジに触ってないだろ。


 急に篠宮さんと距離を詰めたと思ったら、こういうことか!

 こいつら自分がミスすると彼女の人の好さを利用して、失敗を全部彼女になすりつけてやがる。

 篠宮さんが来る前に、おばちゃんを囲んでひそひそやってると思ったら結託しやがった。


 俺は軽蔑の目でおばちゃんとドルオタ女子高生を見たが、ふたりに睨み返されたので慌てて目を逸らす。


 く、くそ、あいつら舐めやがって!


 でも彼女らキツイんだよ。

 一言でも仕事で何か指摘すれば、何倍にも口撃されて完全にやり込められる。

 それでいつも俺が大人しくなるからって、今度は篠宮さんへの悪行を黙認させようと圧力をかけてきやがった。


 今度は同じ厨房で幕の内に惣菜を詰めていた、30代の茶髪女性が声を上げた。


「幕の内に詰める惣菜が足らなくなったわ。篠宮さんがちゃんと配分して、別売りのパックに詰めないからよ」

「幕の内の惣菜って別売りのパックにも詰めるんですかぁ?」


 さすがの彼女も、やったことのない作業はミスを受け入れずに質問した。

 30代の茶髪女性が少し慌てる。


「と、とにかく気をつけなさい。分かった?」

「は、はい~、気をつけます……」


 これは酷い。

 いや、自分のミスを他人になすりつける、おばちゃんやドルオタ女子高生はもちろん酷い。

 だが、この30代の茶髪女性は、彼女らに輪をかけて酷い。


 篠宮さんがやったこともない作業なのに、その作業でやらかした自分のミスを彼女になすりつけやがった。

 無理を通せば道理が引っ込むとはよく言ったもんだ。

 

 そして事情を知らない店長は、古参の彼女らの言うことを聞いて顔をしかめていた。

 完全に篠宮さんのミスだと鵜呑みにしている。


 黒縁眼鏡の女性だけは我関せずと、空気のように過ごしていた。


 俺は他人のことなのになぜか悔しくて歯ぎしりしながらも、篠宮さん本人が大人しく受け入れているので黙って見ていた。



 翌日になってもミスのなすりつけは続いた。

 ベテランの彼女たちだってそう毎日毎日ミスばかりしないのだが、3人いれば誰かが1日1回くらいはミスをして、それを篠宮さんになすりつけていた。


 彼女の表情も入店当初に比べて暗くなっていた。

 いくら相手のことを思って、指摘をせずにミスのなすりつけを受け入れていても、こうもいいようにされて悪意で返されれば悲しくもなるだろう。


 彼女自身がミスをしている可能性もあるのだが、篠宮さんのことを少し理解出来た今は、ほとんどが彼女のミスではないと分かるようになった。

 なぜなら……。


 篠宮さんは、本当は仕事ができるから。

 それが最終的に至った俺の結論。


 彼女は当初ミスが多かった。

 なのに、なぜ仕事ができると言えるのか?


 それは記憶力の良さと理解力の高さ、そして作業の早さが際立っているから。

 弁当の詰め込みを見ていれば分かる。

 入った注文はすべて1回で記憶するし、あれだけ種類の多い詰め込み表は暗記しているのか見もしない。


 最初の頃に唐揚げを多く入れてたのだって、喜んだ客が次に頼んで、規定量にガッカリするとさとされてからすぐに止めた。

 それ以降俺の見る限り、盛りつけの数や種類で間違えたことはない。


 ご飯だって、ほぼ一発で規定量を盛りつける。


 そして何より早い。

 あの大ベテランのおばちゃんをも上回るスピードだ。


 ではなぜ、揚げ物調理でタイマーのセットを誤るのか。

 なぜ、レジで誤差があんなに多く出るのか。


 篠宮さんは目がもの凄く悪いのだ。


 初日に眼鏡を掛けていたのはド近眼だから。

 次に会ったとき眼鏡を外していたので、コンタクトにしたと思っていたが違うだろう。

 彼女はたぶん裸眼だ。


 壁のタイマーをセットするときに目を細めるのは、目が悪いから。

 数字とボタンの位置を覚えていても、タイマーが古くてボタンの反応が悪いので、入力されないときがある。

 目が悪くて入力されてないことに気づかないから、揚げ物の調理を失敗するのだ。

 

 レジ誤差が多いのは、目が悪くて小銭を間違うからだろう。

 釣銭の支払いでレジから小銭を出すときは、入れている位置で判別できるが、客から受け取る代金が小銭ばかりだと、色が似た別の貨幣と間違うのだ。

 小銭を釣銭トレイに乗せて、目の前に持ち上げてじっくり見れば分かるだろうが、凄く時間がかかる。

 レジが遅いと弁当を買う客や総菜だけ買う客が並んですぐに列が出来てしまうので、そんな時間はとてもかけていられない。


 篠宮さんは、実は仕事ができる。


 なのに誰もそれに気づいていない、それが俺は悔しくて仕方なかった。

 それを誰かに伝えたくて、気づいたら黒縁眼鏡の女性に近づいて話しかけていた。


「あの、篠宮さんって、実は仕事ができるって知ってました?」

「知ってますよ」


 すると黒縁眼鏡の女性は、さも当然のように答えてからつけ加えた。


「コンタクトは、目に入れるのが怖くて断念したそうです」


 何でもお見通しのようで無茶苦茶驚いた。

 彼女はいつ篠宮さんと話をしたのだろう。


 だが他の女性たちは、最初の篠宮さんの印象が強いようで、彼女を恰好のスケープゴートに出来ると認識してしまったようだ。


 今日もコロッケのソースが入ってないとクレームが入り、ドルオタ女子高生が惣菜販売コーナーを整理していた彼女にミスをなすりつけていた。

 篠宮さんは今日、レジカウンターに入っていないのにだ。


 その日の夜、俺はイライラして寝つけなかった。

 目を閉じると、悲しそうな篠宮さんの顔が浮かぶからだ。


 別に先輩だからって、店長を差し置いて俺が状況を改善しなきゃならん訳でもない。

 ましてや女同士のゴタゴタだ。

 男の俺が口を挟んでもロクなことにならない。

 いや、本来なら篠宮さんが同僚たちへの気遣いを止めて濡れ衣を指摘すべきで、その方が結果的に同僚の彼女たちや店のためになるハズだ。

 でも、篠宮さん自身がミスをなすりつけられても、声を上げずに黙っている。

 ならば仕方がないじゃないか。

 俺のせいじゃない、そう自分に言い聞かせたがどうにもイライラが収まらない。


 俺は込み上げる怒りの感情がどこから来るのか分からず、結局朝まで寝つけなかった。



 今日のシフトは午後なので、昼過ぎに起きて寝不足のまま弁当屋のバイトに向かった。

 きっと目の下が黒くて酷い顔に違いないが、厨房が担当の俺は客に見られる訳じゃないし、同僚たちさえ気遣えば問題ないはずだ。


 俺はエプロンをつけて厨房に立つと、いつものように夜のピークに向けた揚げ物の先作りを始めた。


 篠宮さんはもうすっかり仕事に慣れたようで、弁当の詰め込みをテキパキとこなしている。

 最近ではおばちゃんが教えられる仕事はなくなったのか、偉そうに篠宮さんに講釈垂れるのを見ることも減った。

 なので注文が途絶えると、おばちゃんが嬉し気に昨日見たテレビの話を始めて、それを篠宮さんがニコニコと聞いている。


 だけど今日の篠宮さんは、心なしか元気がなさそうに見えた。

 おばちゃんがトイレに行った隙に話しかけてみる。


「どうしたの? 元気ないね」

「はい~。ちょっと悩んでましてぇ」


「良かったら聞かせて」

「……。大丈夫です〜」


 言いたくないならしょうがないか。

 少しは頼ってもらえる関係になれたと思ってたが、言えることと言えないことがあるだろうし。

 しつこく聞くのも失礼かとすぐ引き下がると、彼女は俺の目を見て悲しそうな顔をした。

 やっぱり聞いて欲しいのかな?


「話せば楽になることもあるよ」

「……。私、自分が嫌なんです〜。人の気持ちが理解できないから対応を間違えてぇ、仲良くなりたいのに逆に関係が悪くなるんです〜」


 見え隠れした表情より、ずっと悩みは深いようだ。

 やはりミスを擦りつけられていることだろうか。

 俺が何て声をかけていいか分からなくて沈黙したところで、おばちゃんがトイレから戻ってきて話は終わった。


 おばちゃんは戻って早々、篠宮さんに文句をつける。


「あんた! トイレの使い方ちゃんとしなさいよ。汚いじゃない」

「私~、今日はまだぁ……」

「何だって? 私はトイレを綺麗に使いなさいって言ってるの! 今日がどうとか聞きたくないわ! 早く掃除して来なさい!」

「はい~、分かりましたぁ……」


 おい!

 いくら職場で先輩後輩があるにしても、同じバイトだろうが。

 なんで今トイレに入ってた奴がやらずに、偉そうに同僚へトイレ掃除を指示指図してんだよ。

 だいたい、今日の掃除当番はおばちゃんだろう?


 それでも篠宮さんが健気にトイレ掃除をして戻って来る。

 それを待ってましたとばかりに迎えたのは、30代の茶髪女性だった。


「ねぇ篠宮さん。私、明日からの金土はシフトの都合が悪くなったの。旦那の出張について行って、週末に現地を旅行しようと思って。ほらそれなら旦那の旅費が浮かせられるでしょ。だからシフト代わって!」

「えぇ!? でも~、それだと私が12連勤になっちゃいます~」

「はぁ!? あんたねぇ、こういうときは持ちつ持たれつでしょ? 何? それとも同僚のことは助けてくれないの!?」

「え~、う~、……分かりましたぁ」


 無理やりシフト変更を押しつけられた篠宮さんは、涙目になった。

 さすがに12連勤は大変だろう。

 彼女もあんな黒塗りの車で迎えに来てもらってるんだ。

 生活のために1円でも多く欲しい訳じゃないと思う。


 冠婚葬祭とか仕方ない事情ならともかく、旦那の出張に合わせて旅行に行くなんて、完全に自己都合の遊びじゃないか。

 前もって頼むならまだしも、どうしてそんな急な頼みに合わせてやらにゃならんのか。

 篠宮さんはかなり悲しそうな顔をしたが、最後は渋々うなずいた。

 見てるこっちがつらくなってくる。

 お前らもういい加減にしろ。


「店長~。ねぇ、聞いてくださいよ。今日のレジ誤差も篠宮さんなんですよ」


 レジの近くで、店長がドルオタ女子高生に至近距離から上目遣いで迫られていた。

 店長はデレデレしながら篠宮さんを非難する。


「そうかぁ、彼女にも困ったなぁ」


 厨房でそれを聞いていた篠宮さんは胸に手を当ててうつむくと、とうとう瞳から涙を零した。


 おい!

 お前は陰で、店長を能無しのゴミと罵ってたんじゃないかよ!

 都合のいいときだけ甘い声出しやがって!

 店長も店長だ。

 お前の目は節穴か!

 篠宮さんは今日、レジに入ってないだろうが!

 いーやこいつは分かってて気づかないフリしてやがるな?

 篠宮さんがみんなのヘイトを集めることで、職場が上手く回るとでも思ってやがるんじゃねぇか!?


 俺は彼女の涙を目の当たりにして、自分が何にイライラしているのかようやく気づいた。


 見て見ぬふりをする、卑怯な自分自身に腹が立ってたんだ。


 職場の雰囲気や環境に逆らうこと、女性ばかりの同僚に嫌われること、居心地のいい楽な場所を失うこと、俺はただ、それが嫌だっただけだ。

 それが嫌だから、仲間がつらい思いをしているのに、見て見ぬフリをするという卑怯な振る舞いをした。

 そして今、そんな卑怯な自分自身に対して、我慢が限界を超えたと分かったのだ。




 やめたやめた、もうやめた。

 もうどうでも良くなった。

 就職浪人が2年目に突入しそうだから、就職活動がし易いこのバイトをしばらく続けるつもりだったが、もう辞めるわ。

 こんな馬鹿な職場は辞めてやる。

 もう知らん。




 スイッチが入った俺は、厨房の奥からスタスタと歩き、みんなのそばに近寄った。


「おばちゃん! 今日のトイレ掃除は自分の番だろ。人に押しつけないで自分でやれ!」

「な!?」


「人には予定があるんだ。自分の遊びのために、シフト変更の無理強いをするんじゃねぇ!」

「は!?」


「レジ誤差は、今日レジを触った人間でしか起こり得ない。可能性ゼロパーの人に、自分の能力不足で生じた問題を押しつけんな!」

「ちょ!?」


「店長!」

「な、何!?」


「みんなが元気よく働ける職場にするのが店長の役割だろう? 誰かの犠牲で成り立つ職場は、いびつで不幸せな職場だ。犠牲となる不幸な人がいて、それで責任者として仕事しているつもりなの!?」

「う……」


 最後は店中に聞こえるように大声を出す。


「こんな職場だから新しい人が長続きしないんだ。俺は人の気持ちを大切にしない職場で、これ以上長く働きたいとは思わない!」


 ブチ切れて言いたい放題ぶちまけたところで、篠宮さんの声が聞こえた。


「先輩! もう、いいです〜。私が辞めますからぁ。私がいなくなれば元通りですからぁ。お世話になりましたぁ」


 言うなり、彼女は店を飛び出していった。


 俺は一瞬だけ出遅れたが、すぐに彼女を追いかけて店を飛び出した。

 傷ついた彼女に、今まで見て見ぬフリをしていたことを謝らねば。


 俺は歩道を少し走ったところで彼女に追いつき、走る彼女を止めようと肩に手をかけたのだけど……。


 振り向いた彼女は涙で瞳を潤ませていた。

 俺の目をじっと見つめた後、衝撃の言葉を言い放ったのだ。


「私~、先輩のことが大好きです〜」


 え? いやいやいや、ちょっと待て。

 これは一体どういう状況なんだ!

 振り向いた彼女から、甘い声で愛の告白を受けてしまった。


「あ、私ったら~、勢いでつい言っちゃったぁ」


 頬を赤らめて手で顔を覆っている。


 恥ずかしそうにする彼女の笑顔は、夕日が当たっていつも以上に可愛らしく見えた。

 去年大学を卒業した俺より1歳年上なのに、まるで高校生みたいに無邪気で天使のような微笑みだ。

 

 こうしてみるとやっぱり可愛いな。

 これで天然じゃなければ完璧なんだけど。


「さっきわぁ、仕事でかばってくれてありがとうございます〜。とっても嬉しかったですよぉ。でも~、どうして私を追いかけてくれたんですかぁ?」

「え、あ、いや、せっかく一緒にバイトしてたのに、こんな別れ方じゃあんまりだと思って」


「ほんと~? そう思ってくれて嬉しいなぁ。でも私~、さっきバイト辞めるって言っちゃいましたよぉ。だからもう会えなくなっちゃいますねぇ。先輩のこと好きになったのになぁ……。寂しいなぁ」


 気持ちを正直にぶつけてくる彼女にたじろぎながらも、俺も気持ちに応えなくてはと覚悟を決める。


「お、俺も一緒に働いてて、し、篠宮さんのこと素敵だなぁって思ってて。そ、それで貴女のことを――」

「ねぇねぇ。私~、優しくしてくれたお礼がしたいです〜。お昼ご馳走しますから~、明日ウチに来ていただけたら嬉しいなぁ」


 い、家!?


「え、い……いきなり家じゃご両親に迷惑だし……」

「ウチは~、両親が海外に住んでて家にいないんですよぉ。だから~、……平気なんです〜」


 ま、待て待て待て待て!

 ちょっと待て!

 こ、これは伝説の……両親がいない家へご招待という天国パターン!!??

 キ、キ、キタコレ……。


 篠宮さんはひとり舞い上がる俺を放置して携帯で迎えを呼ぶと、あの黒い高級車に乗って帰っていった。


 俺も馬鹿馬鹿しくなって、もうバイトに戻るのを止めた。

 いやそれは強がりで、店の女性たちを怒らしたから、もう帰っても居場所がないとも言う。

 まあ店長もいるし、仕事は何とかなるだろ。

 俺なんて、あるはずの労働保険どころか有休すらもらえてないんだ。

 ちょっと無責任だが、今回は問題を放置した店長の責任が大きいし、勘弁してもらおう。

 バイト先の私物は、明日彼女の家で昼食をご馳走になった帰りに引き取ることにして、今日はさっさと家に帰った。


 それよりも篠宮さんだ。

 両親は海外だって言ってたよな

 つまり、あの男性は運転手なんだ。

 俺なんて運転手つきの車は、タクシーに数回乗っただけなのに。

 

 そんな彼女の自宅に招待された。


 一体どんな家に住んでいるんだろう?

 かなりの金持ちなんじゃないか?

 いや、でも弁当屋でバイトしてるしなぁ?


 いろんな疑問が浮かんでは消え、気になって目が冴えたせいで、昨日に引き続きすぐ寝付けなかった。



 翌日、あの黒塗りの車が迎えに来てくれて、アパートの前から乗り込んだ。


 失敗した。

 別に家の前じゃなくても、駐車場のあるファミレスとかでよかった。

 考えが足らなかったせいで、大学生活を過ごしたボロアパートから高級車に乗り込むことになってしまった。


 たぶんお金持ちなんだろうとは予測できたので、いつものジーパンとトレーナーじゃなく、ちゃんとしたジャケットとスラックスを引っ張り出したんだけど……。


 車が到着したのは、沢山の木が植えられた公園のようなところ。

 長大な塀で囲まれた正面に入り口があり、看板が立ててあった。


『ここから私有地 当家に御用の方以外 立入禁止』


 俺、ここ知ってる……。

 住宅街の一角に、塀で囲まれて木が植えられた、公園のように広大な場所がある。

 前に友達とここを通ったとき、中の土地全部が誰かの家の庭だと言われて、そんなバカな話があるかと笑い飛ばしたんだ。


 俺は今、黒塗りの車に乗ったまま、その公園のような場所に入り込んでいる。


 ま、待て待て……。

 篠宮さんの家に向かってるんだよな?

 ここが誰かの家の庭だというのが本当ならば……。


 混乱する俺を乗せた車は、広すぎる敷地をしばらく奥に進んでから止まった。

 運転手がドアを開けてくれたので、緊張しながら車を降りる。


 目の前には巨大な日本家屋が建っていた。

 家の前で笑顔の篠宮さんが出迎えてくれる。

 

 ヤバイ、これはヤバイ……。

 俺が想像していたのは、駅前の一等地にある豪邸だった。

 大きな車庫に高級車が2、3台とまっているのを想像してた。

 だが俺の予想は完全に間違っていた。


 家の周りは整然と植えられた木々に囲まれ、周囲にほかの住宅は見えない。

 とても静かで、都心に近い住宅街なのに、ここだけが別空間のようだった。

 

「や、やあ……」


 俺は顔を引きつらせながら、右手を軽く挙げて挨拶した。


「先輩~、ようこそいらっしゃいませぇ。さあどうぞ上がって上がって〜」


 水色のワンピースを着た彼女は、サイドの髪が綺麗に結われて後ろでとめられ、可愛く化粧をしていた。

 バイトでは化粧NGで眉毛を描いた程度だったが、それでも相当可愛かった。

 だが、今の彼女は大きい瞳がより大きく、小さな唇は艶やかで本当に綺麗だ。

 まるでどこかのご令嬢みたいだと思ったが、彼女の後ろには巨大な日本家屋が見えていて、この人は本物のご令嬢なんだと認識した。


 バイト先の態度と変わらない篠宮さんに少しだけ安心したが、それ以外があまりに非日常で馴染みがなく、なんともふわふわした気持ちになった。


 それから家の中へ案内されたが、あまりに広すぎて何が何やらで……。

 ただ彼女について行くので精一杯だった。


 着物の女性を数人見かけたが、忙しいらしく会釈をした後にすぐ視界から外れた。


「ご両親じゃないよね?」

「え~? あぁ、違います〜。彼女たちはぁ、この家で働いてくれてるんですよぉ」


 やはり使用人なのか。

 運転手を含めて一体何人雇っているんだか……。


「ここです〜。お食事しながらお話しましょう~」


 案内されたのは廊下で連結された離れのような場所で、今までと違ってここだけ洋間になっていた。


 着席してすぐ料理が運ばれてきた。

 たぶん洋食のコース料理なんだが、緊張して味がよく分からなかった。


 一緒に食事している間、篠宮さんは本当に楽しそうだった。


「昨日は~、助けていただいて嬉しかったんです〜。ありがとうございましたぁ」

「あ、いや、あれは俺のためでもあったんだ。だからそんな気にしないで欲しいな……」


「私、悲しくて悲しくてぇ。相手を思いやってるつもりなのに、なんでか上手くいかなくてぇ」

「罪を許されて、それで感謝して行動をあらためる。世の中にはそれが出来ず、逆手に取る人もいるからね」


「そうなんですねぇ。昨日あれから~、じっくり考えたんです〜。ときには指摘するのも大切なんですねぇ。それが相手のためになるんだなって、学びましたぁ」


 篠宮さんはうんうんと、何かを噛みしめるようにうなずいていた。

 俺はずっと気になってたことを聞いてみる。


「こんなとこに住んでるお嬢様なのに、何で弁当屋でバイトしたの?」

「おじい様がね~、私は世間知らずだから人に雇われて勉強しなさいってぇ」


 なるほどね、社会勉強か。

 お嬢様らしい理由だな。

 でもちゃんと働くなら、雇う側にとって理由は別に何でもいいもんな。


 篠宮さんとの会話を交えた楽しい食事が終わり、紅茶を運んできた使用人が彼女に耳打ちする。

 何かを聞かされた彼女の顔が赤い。

 使用人が出て行くと、篠宮さんが椅子に座ったままで、急にモジモジしだした。


「あの~、あのねっ、あのっ……」

「ん? どうしたの?」


「わ、私~、先輩のこと好きって言いましたよねぇ」

「あ、ああ、昨日言われた……」


 やべえ。

 ちゃんと自分の気持ちを伝えてなかった。


「先輩の気持ちも教えて欲しいです~」

「お、俺も篠宮さんのこと、好きです!」


「嬉しい! それって~、ちゃんとお付き合いするってことでいいんですよねぇ?」

「も、もちろん! よろしくね」


 おいおいおいおい。

 こんな金持ちのお嬢様と付き合うことになっちまったよ。

 でもお互いが好き同士だし、お嬢様の方から俺みたいな一般人でもいいって言ってんだから、何も問題ないよな?


「やったぁ。これで、先輩と恋人同士ですねぇ」

「そうだね。これからよろしく」


「私~、先輩に伝えたい秘密があるんです~」

「秘密?」


 もしや、オーラのことか?

 篠宮家の血筋がどうとかいう……。


「信じられないかもですけどぉ、私は、その人が持つ潜在能力が見えるんです~」

「潜在能力……オーラのこと?」


「あ、義姉あねから聞いたんですねぇ。そうなんです~。初めて会ったときに先輩のオーラを見てぇ、私~、ビックリしちゃってぇ」

「俺のオーラも見えるんだ! ねぇ、どんな感じに見えるの?」


 俺を見て説明する彼女が、なぜか緊張して生唾を飲み込むのが分かった。

 つられて俺も生唾を飲み込む。


「先輩から出るオーラの量ですけど~、今まで見たことがないほどなんです~」

「ど、どのくらい?」


「少ない人で体を膜みたいに覆うくらいかなぁ。どんなに多い人でも、体の20センチ外まで覆うくらいです~」

「お、俺は??」


 篠宮さんは座ったまま、食事をしたこの小さな洋間を見渡した。


「先輩のオーラは、この洋間を全部覆いつくしてるんですよぉ。私~、こんな凄い人初めてです~」

「マ、マジ!? ……あ、あれ? えっと俺さ、大学もしょぼいし、就職浪人中だし、何も結果が出てないんだけど……」


「うふふ。たぶんそれってぇ、先輩のオーラが白色だからですよぉ」

「白色??」


「このままだと色なし状態なんです~。能力の性質がない状態でぇ、巨大な潜在能力があっても発揮できてないんです~」

「それじゃあ、力の持ち腐れじゃないか……」


 俺がガッカリすると、彼女は顔の前で人差し指を振った。


「いーえ、大丈夫ですよぉ。私なら一時的にですけどぉ、白をほかの色にできるんです~。白はすべての色を含みますからねぇ」

「篠宮さんが白をほかの色に? それって、俺の潜在能力を引き出せるってことか⁉」


「一時的に、ですけどねぇ」

「ほ、本当なら嬉しい……」


 何の取柄もなく、平平凡凡で就職も決まらない俺に、そんな潜在能力が眠ってるなんて!


「潜在能力が見えるだけじゃなくてぇ、それを引き出せるのが私の秘密なんです~。これって気持ち悪いですよねぇ」

「いや、全然!! むしろそれって体験できるの?」


 浮き足立った俺を見て、篠宮さんは笑顔を見せた。

 彼女は席を立つと、俺の近くまで来てなぜか手を握ったのだ。

 そのままゆっくり俺を立たせる。

 彼女の手はすべすべして柔らかくて、握られるだけで緊張した。


「触れる必要があるので、このまま手を握っててくださいねぇ。それじゃあ、今は何時ですかぁ?」

「え? 時間? 13時2分25秒かな。あれ? 時計も見ないで、なぜこんなに細かく……」


「外から何か聞こえますかぁ?」

「外? 車の走る音がうるさいかな。あと、子供と女性がしゃべる声が……。待てよ、何でこんな広い敷地の外の音が……」


「じゃあ、見ててくださいねぇ? はいっ! 今、私が真上へ投げ上げて掴んだティースプーン、なんて書いてありましたぁ?」

「ルフトスリクだな。食器ブランドかな? いやいや、見える訳ないだろ、あんな一瞬でスプーンのロゴなんて! あ、いや、見えたのか、俺!」


「今のは~、先輩が持つ身体的な潜在能力を、一時的に開放しました~」

「マ、マジか……」


「超体内時計、超聴力、超動体視力、どれも人として限界レベルの能力です~。でもこれ~、先輩に秘められた能力のごく一部なんですよぉ?」

「これでごく一部か……」


「信じてくれましたぁ?」

「う、うん。信じた……」


 これが俺の潜在能力なのか⁉

 でも、感じるこの万能感は疑いようがない!

 今なら、どんなことでもできる気がする!

 彼女に手を握られた瞬間、俺のすべてが変わった!

 たぶん、篠宮さんの言うことは……本当だ!!


 彼女は手を握ったまま、俺の目を見つめてくる。

 篠宮さんの綺麗な瞳は、大きな黒目がより大きくなり、潤んでキラキラと光った。


「私にとってぇ、先輩は大切な人です~。彼氏にするならぁ、先輩以外にいない。そう思ったからぁ、篠宮家が受け継ぐ能力の秘密を打ち明けましたぁ。先輩は私を大切にしてくれますかぁ?」


 可愛くて俺の心を癒してくれる篠宮さん。

 人のことを思いやる優しい人。

 俺はもうずいぶん前から、君に心惹かれてるんだ。

 しかも君は今、俺の潜在能力を引き出してくれた。

 無能だと思っていた自分でも、やればできるかもしれないと、頑張れるかもしれないと思わせてくれた。

 折れかけた心を奮い立たせてくれた。

 篠宮るるかさん。

 あなたのお陰で、もう一度立ち上がれそうだ。

 俺の恋人はあなたしか考えられない!


「俺はあなたを大切にする。君と一緒にいたい!」

「ホント? 嬉しいっ。じゃあ、こっちに来て欲しいんです~」


 彼女はそう言って俺の手を引っ張ると、母屋おもやの奥に連れて行こうとする。


 え、どこに行くの?

 さっき使用人が、何か準備できたって言ったみたいだけど……。

 ま、まさか布団!?

 ちょっと、い、いきなりすぎでは!?

 まだ心の準備が……。


 篠宮さんは戸惑う俺のことなんか気にせず、そのまま母屋おもやの奥へ引っ張って行く。

 廊下を進んで部屋の前で止まった彼女は「るるかですぅ」と言って障子を開けた。


「君かね。るるか・・・が連れてきた職場の先輩というのは」

「こっちに座ってください~」


 想像した布団のある部屋とは全然違う広い座敷で、奥には白髪の老人が座布団に座ってこちらを見ている。


 こ、このいかにもな老人はど、どなたですか。


 俺は恐る恐る部屋に入ると、指示された老人の前の座布団に座った。

 篠宮さんは老人の横の座布団に座る。


 老人の後ろには床の間があって、高そうな掛け軸と壺が置かれていた。


 部屋の横、廊下側にはスーツ姿の綺麗な女性が一人座っている。

 姿勢が良くて黒く長い髪、いかにも秘書といった風貌だ。


「この人は私のおじい様です~」

「この度は孫が世話になったようだ。ありがとう」


「い、いえ」


 篠宮さんのお祖父じいさんは白い顎ひげを触りながら、正面に座る俺を品定めする。


「……凄いな、お主! ……これはたまげた」

「ねぇ? 先輩は凄い人でしょう?」


 お祖父さんは、篠宮さんが俺を初めて見たとき以上に驚いた様子を見せた。

 たぶん彼女と一緒で、このお祖父さんもオーラが見えるんだろう。


「さて、君が将来、るるか・・・と一緒になるに相応しい男かどうかだ。素質は申し分ないが……」


 あの、お祖父さん?

 一体何言ってるの?


 俺がきょとんとしていると、篠宮さんが横に座るお祖父さんに向かって口を開く。


「おじい様ぁ! 先輩がみんなから私を守ってくれた人なのですよぉ」

「ふむ。普通なら職場の人間を敵に回すのは避けるが……」


 お祖父さんはそう言うと、横に控えて座る秘書の女性へ顔を向けた。


「お主から見て職場の様子はどうだったか?」

「はい、完全に女性優位の職場で、管理者たる店長も大変に頼りのない人物でした」


 確かに店長は頼りないが、なんでこの人は俺が働く弁当屋の様子を知ってるんだ?


 お祖父さんがうなずいてから、俺の方を見る。


「つまり、お主は自分の居場所がなくなるのを承知で、るるか・・・のために同僚と戦った。そういうことかな?」


 そう言われればその通りだが……。


 でも何だろう、違和感がある。

 今のはちょっと聞くという軽い感じじゃない。

 言葉に重みがあった。


 何か別の所に質問の真意があるようだ。

 なぜだか、今この老人の問いにどう答えるかが、俺の一生を左右する気がする。

 多分この老人が、今いる家屋敷やそれを囲む広大な敷地の持ち主なんだろう。

 つまりタダ者じゃない訳だ。

 就職すら上手くいかない俺なんかが敵う相手じゃないんだ。


 ……ならば本心を言おう。

 体裁のいい言葉を繕っても、どうせ見透かされるだろうから。


 俺は首を横に振った。


「篠宮さんをかばうことになったのは結果です。俺は自分自身を変えたかっただけです」

「……どういうことかな?」


「確かに彼女は同僚の女性たちから、ミスをなすりつけられて酷い目にあってました。でも、俺は最初にそれが起こったとき、気づいても何もしなかった。さっきおっしゃったように、職場の人間を敵に回せば居場所がなくなります。だから仲間が酷い目にあっているのに、見て見ぬフリをしたんです」


 俺が本心をお祖父さんへ打ち明けると、篠宮さんが畳に手を突いて身を乗り出す。


「でも~、先輩はあの日、私に声をかけて気遣ってくれましたよぉ」


「篠宮さんごめんね。俺がもっと早くみんなに注意していれば、あなたが涙を流すこともなかった。もっと早く大切なことに気づいていれば、篠宮さんは辞めないで済んだかもしれない」

「もう、いいですよぉ」


 俺はお祖父さんへ向き直ると言葉を続ける。


「大切なことを見失わない。俺が今回学んだことです。でなければ大事なときに判断を誤る。今回は居心地のいい職場よりも、仲間の篠宮さんを真っ先に大切にすべきでした。少し判断が遅れましたが、俺は篠宮さんのお陰で変われました」

「そうか……」


 篠宮さんのお祖父さんは俺の目を見たまま、少し考えていた。

 それから横を向いて、秘書の女性に質問する。


「どう思う?」

「いい大学を出ても、資格があっても、スポーツができても、人間関係に向き合って実際に行動へ移せる人材は稀かと。職場であれば、なおのこと難しいのではないでしょうか」


「そうか。ならば決まりだな」

「はい。それにお嬢様のことを、実は仕事ができる、と他人に自慢する方なら、私も味方したいです」


 え? お祖父さん、何が決まりなの?

 秘書の人はなんで「篠宮さんが実は仕事ができる」って、俺が自慢したこと知ってるの?

 それを自慢した相手って、あの黒髪に黒縁眼鏡の女性だったはず……。


「あ、あっーー!!」


 思わず声を出してしまい、秘書の人から静かにするようにと人差し指を俺の口に当てられてしまった。


「あぁ、私の先輩に触らないでくださいよぉ!」

「ご、ごめんなさい! お嬢様」


「分かった分かった、ちょっと静かにせい。のうお主、るるか・・・とは真剣に交際するのだな?」

「は、はいっ」


「ならば結婚までに、るるか・・・に相応しい男になってもらわねばならぬ」

「け、結婚!?」


「真剣に交際するなら結婚するんだろう? それで勤め先は決まっておるのか?」

「もちろん交際は真剣にしますよ。就職先ですか? いえ……その……まだ決まってないです……」


「そうかそうか、なら都合が良い。儂らの会社に入れ。るるか・・・の旦那になるんだ、先々、会社の経営を手伝ってもらう必要がある。拒否は許さんぞ」

「え、あ、就職ですか!? そんないきなり許さんて……いや有難いですけど何て会社ですか?」


 まさかとは思うけど暴力団じゃないよな?

 反社会的勢力だったら走って逃げよう。


「ラクショウ・ホールディングスだ」

「ええ!? ラクショウグループですか!? 凄い! どの系列です? 飲食? それともスーパー? もしやネット通販? まさかプロ野球?」


「お主詳しいな。まあ、うちの系列はこの辺の土地に集中しているからな。就職活動をしていれば詳しくはなるか。でも系列ではなく本体だ」

「本体?? 本体ってまさか……ラクショウ・ホールディングスですか!?」


「だからそう言っただろう」

「巨大流通企業の本体会社だなんて……。……あの、経営を手伝うっていうのは……?」


「経営への参画は先々だ。まずは幹部候補として4月から頑張ってもらうぞ」

「……は、はい」


「まあ、それだけ規格外の潜在能力があるんだ。お主が能力を開放すれば、ほかの幹部候補では相手にならんだろうがな」

「が、頑張ります」


 ほかの幹部候補って、超一流大学の卒業者ばかりだろ?

 そんな奴らに交じって出世競争して、俺なんかが、本当に勝てるんだろうか。

 ……いや、篠宮さんに潜在能力を開放してもらえば、なんとかなる気がする。

 あの万能感は半端じゃなかった!

 しかも俺の白いオーラは、どんな性質にも変わるらしい。

 それって、あらゆる分野の素質を持ってるってことじゃないか⁉

 なら、どんな相手と勝負しても負ける気がしない!


「君、彼の採用手続きを始めてくれ。一族と同じ幹部候補扱いだぞ」

「はい、副社長。承知しました」


 俺には全く実感がなかった。


 さっき篠宮さんに告白して、彼女と付き合うことになって気分は高揚していた。

 でもその後でお祖父さんから、彼女と付き合うなら結婚前提だと言われて、ことの重大さに驚いた。

 まあ彼女はいい娘だし、可愛いし、このキャラなのにしっかりしている。

 篠宮さんが奥さんなら、むしろ最高に嬉しいくらいだ。

 だけど結婚と付随ふずいして、半ば強制的に一部上場の巨大流通企業に就職が決まってしまった。

 しかも幹部候補扱いで、先々経営に参画するだって!?


 何だか自分が自分じゃない様でふわふわする。

 途中から頭がボーとして夢心地で、みんなの話が頭に入らずぼんやり聞いた。


「先輩、先輩!」

「え、ああ、何だい?」


「私~、お店のロッカーに私物を入れたままなんです~。一緒に取りに行ってくれませんかぁ?」

「あ、俺もそうだよ。なら俺が取ってこようか?」


 彼女がまたあの店に行くのは可哀そうなので俺が行くと言うと、秘書の女性が首を横に振った。


「あの後、私がお嬢様の私物を引き取ろうとしたのですが、本人でなければダメと言われました。委任状を用意する必要があると思います」


「行きますよ~。私も大人ですからぁ。先輩っ、今から一緒に行きましょう」

「そうだな。この勢いで済ませてしまおう」

「私も退職を告げていません。責任を果たすため、ご一緒させてください」


 結局、篠宮さんと秘書の女性と俺の3人で弁当屋へ行くことになった。



 弁当屋の前に黒塗りのセダンで乗りつける。

 篠宮さんはこれまで、目立たないように離れたところで車を乗り降りしていたらしいが、もう辞めるんだから関係ない。


「お疲れさま」


 レジにいた男性アイドルオタの女子高生に声をかけて中に入っていく。


「あんたたち!? す、凄い車で来たわね。それよりも、あれから大変だったんだからね! 急に3人も帰っちゃうし! あ、あんた誰? ちょっと、部外者は厨房に入らないで!」


 文句を言われたが無視する。


 入るなと言われたのは秘書の女性だ。

 少し身長が高くて細身で姿勢がいいので、黒のスーツがよく似合う。

 整った目鼻立ちに派手ではないがシンプルなポイントメイク、もの凄い美人だ。

 あの、猫背でマスクで黒縁眼鏡の女性と同一人物だなんて、風貌が変わり過ぎて分かる訳がない。


 厨房に入るとおばちゃんが凄い形相で睨んできた。


「よくも昨日は大騒ぎして帰ったわね。罰としてふたりは、みんなの分も休憩なしで働きなさいっ!」

「ごめんおばちゃん、俺もう辞めるから。今までありがとな」

「今まで~、ありがとうございましたぁ」

「お世話になりました」


「はあ? 辞めるって!? 篠宮さんも? 冗談言ってないで早く着替えといで! で? あんたは誰なの? 本社事務所の人?」


 おばちゃんが何か言ってたが、気にせず3人でバックヤードに行ってロッカーから荷物を出すと、店長に退職を告げる。

 店長が秘書の女性をすがるような目で見ている。


 何?

 どうしたの?


「まままま、まさか創業家のお嬢様とは……。これからは業務姿勢を改めますので、どうか、どうかご容赦を!」

「処分はあると思いますが、私が決めることではありませんので」


 秘書の女性がそれだけ告げると、店長はがっくりとひざをついた。


 なるほどね。

 事前に身分を打ち明けて荷物を取りに行くと連絡してたのか。

 残念だったね店長、問題を放置した結果だよ。

 さあ帰るか。

 ここにも世話になったな。


 店長との会話が聞こえたのか、厨房に戻ると30代の茶髪女性が俺らを見て青い顔をしていた。


「し、知らなかったのよ。篠宮さんがあのラクショウ・ホールディングスを創業した篠宮家のお嬢さんだなんて! ね、ねぇ、ごめんなさい。許して欲しいの」


 店中に聞こえる声で篠宮さんへ懇願している。

 彼女が困った顔をしたので、代わりに俺が口を挟んだ。


「別にバイトには関係ないんじゃないの?」

「旦那が系列会社なのよ! やっと新築を本契約したばかりなのに、地方に飛ばされたら困るから!」


 さっき秘書の女性が言ったように、この3人にはどうこうする権限もその気もない。

 何かするとしたらあのお祖父さん、いや副社長だけどたぶん何もしないだろ。

 でもこいつらは少し反省すべきだから、言わないでおこう。


 そろそろ帰ろうとしたところで、おばちゃんが小走りで寄ってきた。


「ちょっと篠宮さん! それ本当なの!?」

「はい~」

「ま、お嬢様にしては仕事できたわよ。よそでも頑張りなさいね」

「頑張ります~」


 このおばちゃん、今まで悪気がなかったんだ……。

 それっておばちゃんも実は天然だったってことになるよね。

 無意識であの行動は、ある意味罪深いな。


 そのまま厨房を出てレジ前に移動すると、男性アイドルオタの女子高生が虚空を見つめてぶつぶつ言っている。


「私バカだ。仲良くしとけばよかった。あの大手レーベルってラクショウの系列なのよ! 頼めばいい席のチケットが手に入ったのに!」


 こいつは人を利用することしか考えてないな。

 最悪過ぎる。

 カチンときたのは俺だけじゃないようで、秘書の女性が急に篠宮さんへ話しかけた。


「お嬢様。来月は系列レーベルから、業界向けの立食パーティに招待されています。所属する男性アイドルたちから挨拶を受けますので、パーティドレスを新調しましょう。仲の良い・・・・お友達をひとり、御呼びくださいね」

「ぐっ、ぎぎぎぎ……」


 ドルオタ女子高生が顔を歪め、歯ぎしりする音が聞こえた。

 彼女もさすがに、自分が仲の良いお友達ではないのを自覚してるようで立候補こそしない。

 だがそれでも、夢のような場所に自らが立つ希望を捨てきれないのか、羨望と懇願が入り混じった複雑な目で篠宮さんを見ていた。

 

 秘書の女性はそんなドルオタ女子高生の視線を知ってか知らずか、店舗を出ずに歩みを止めると篠宮さんが問いに答えるのを待った。


「パーティに誘うのって~、男性でもいいですかぁ? 先輩と一緒がいいなぁ」

「もちろんです。将来経営に参画されるのですし、よい経験になると思います」

「お、俺? 正直男性アイドルなんてどうでもいいんだけどなぁ。でもまあ、興味はないけど経験として参加するよ……」


 俺があまり気乗りしない表情で答えると、羨ましすぎて歯ぎしりの止まらないドルオタ女子高生が、顔を真っ赤にしたままプルプルと震えていた。


 店を出て正面の車に乗り込む前に、振り返って弁当屋の看板を見る。


 この店には4年間、本当にお世話になった。

 大学を卒業しても就職が決まらず、就職浪人のままとうとう2月を迎えて、一時は就職浪人2年目を覚悟した。

 だが、篠宮さんに出会って彼女をかばったことから、奇跡にも流通系の大企業に就職が決まったのだ。

 それも先々の幹部候補として。


 感慨にふけっていると電話が鳴った。


 電話の相手は大学で同じゼミだった、リーダー格の奴だ。

 腹黒くて調子がよい野郎で、卒業の年にあっさりラクショウグループの中堅企業へ就職した。

 いつも俺にマウントをとってバカにしてくる。


『ああ、オレオレ。飲み会、早く帰った理由が気になってさ。もしや、就職できなくて逆恨みした?』

「別に。それで要件は?」


『怒ってないなら、また飲み会やるから来ないか? 今度は少人数で飲もうぜ。優良企業へ入社するコツを先輩としてレクチャーしてやるよ』

「へえ、いいね」


『だろ? あと、みんな彼女を連れてくるぞ。当然俺もだ。お前には特別に、彼女の作り方も教えてやるよ。嬉しいだろ?』

「ああ、興味あるな」


 店が決まったら連絡くれと言って電話を切った。


 完全に俺をバカにして楽しむ気だ。

 いつもならムカつく場面だが、全然気にならない。

 いや、むしろ飲み会が楽しみなんだが!

 これが心の余裕というヤツか。

 もし篠宮さんが飲み会に参加してくれるなら、面白いことになるぞ。


「先~輩っ!」


 急に篠宮さんが、俺の右腕を抱え込むようにしがみついてきた。

 俺の右腕は、彼女の両腕と胸でなんとも幸せな拘束をされる。

 大胆な行動をしながらも、恥ずかしそうに上目遣いで微笑む篠宮さんと目が合った。

 幸せな瞬間を噛みしめて感動で震える。


 俺は今まで人づき合いが苦手で、就職活動でも営業なんか無理だと逃げてきた。

 でも幹部候補になって先々巨大企業の経営に関わるなら、逆に営業よりも過酷な人間関係が待っているだろう。

 でも俺は、自分に訪れた奇跡のような幸運を逃がしたくはない。


「先輩っ、キスして欲しいです〜」


 彼女は俺の腕を離すと、人の目など気にせずに顔を上へ向けて目をつむった。


 可愛くて魅力的な篠宮さん。

 君のためならば、俺はどんな困難にだって立ち向かうから。


「絶対にあなたを幸せにする!」


 そして、彼女の力で潜在能力を開放してもらい、立ちはだかる壁をすべてぶち壊してやる!


 俺は彼女の肩を抱いてキスをした。

 新しい人生へ、大好きな人と立ち向かうと覚悟を決めた瞬間だった。


 了

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弁当屋で俺と働く天然娘を濡れ衣からかばったら、人生が一発逆転した話。 ただ巻き芳賀 @2067610

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